小さな花と青い夢
濡れた髪をタオルでかき上げながらユイは脱衣場をでた。
窓の外では、下校中降り出した雨が相変わらず庭の草木に降り注いでいる。
いそいで帰宅しその勢いのままシャワーを浴びたユイの身体はくたくたに疲れていた。ソファーに倒れ込むと合皮がほてった身体を程よく冷ます。
ほっと一息ついたところで、ユイはテーブルの上に見慣れないものが置いてあることに気づいた。白磁の平皿に乱雑に、しかし優雅に重なっている青白い四角のかたまり。
たしか帰宅したときにはなかったはずだ。
ユイは山のひとかけらを手に取ってみた。二本の指でつまむと指の腹が簡単にしずんで、鼻を近づけると優しい花の香りがする。
雲をぎゅっと圧縮したようなそれは知っているお菓子に似ていた。
「これ、マシュマロ?」
誰に言うでもなくそうつぶやくと、
「そう、スミレのマシュマロだって」
と、返す声があった。
予想外に返事に、ユイは驚いて身を起こす。
「めずらしいよね」
そう言いながらカウンターからひょっこり顔を出したのは、すでに社会に出ている姉だ。そういえば今日は早く帰るって言ってたっけ、とユイは思い出して胸をなでおろす。
「先に食べてていいよ」
持ち主の許可が出たため、ユイは改めて手元に目をおろした。
側面には紫の小さな花弁が一枚のっている。食用に加工された本物の花だろう。柔らかな青色の生地は不自然ではあったが、味の予想がつかない見た目に好奇心が勝る。そうっと口に運び舌と嗅覚に意識を集中させた。
バニラとスミレの香りがふわりと鼻を抜け、そしてしっかりとした甘みが舌に広がる。花のさくりとした静かな食感が一瞬、口のなかに響いた気がした。しかしあっという間に小さくちぎれた雲の破片とともに喉を通り抜けてしまう。
小腹が空いていたユイはそれだけで満たされた気持ちになった。
「雨、まだ冷たかったでしょ。ちゃんと温まった?」
妹を気づかいながら姉がキッチンからでてきた。手に持つトレーにのったポットからは細く湯気が昇っている。
ユイはマシュマロにもう一度手を伸ばしながら答えた。
「そこまでではなかったかな。シャワーで充分。それでどうしたの、これ」
姉が菓子を買うことはめったにない。多分会社の人から貰ったとかそんなところだろうとユイは勝手に予想しながら二つ目を口にする。
姉の答えは驚くほど簡潔だった。
「ん? アイツから」
アイツ、という言葉からユイはすぐに察した。味わうことも忘れまだ大きなかたまりをゴクンと飲み込む。食べる前に聞けばよかったと少しだけ後悔した。
「来たんだ、シュンくん。いつ?」
「さっき」
「気づかなかった」
「シャワー出しっぱなしだったもんね」
姉はポットの紅茶を二つのカップに注ぎ、片方をユイの前に差し出した。白磁に青い花が描かれた上品な器から、湯気と共にはなやかな香りがユイの鼻腔をくすぐる。
姉に礼を言ってカップを手に取ると、湯冷めした指先がじんわり温まっていった。
「お茶飲んでいけばって誘ったんだけど、断られちゃった。いまさら遠慮しなくてもいいのにね?」
姉は同意を求めるように笑う。
なるほど、だからか。
来客用のカップが出された理由に納得しながらユイは口をつけた。潤った喉で姉に不同意を表明する。
「そういうわけにもいかないんでしょ」
姉は意外そうに目を丸くしたあと、少し寂しそうに「そうね」と返してユイの斜め向かいに座った。
マシュマロをひとつつまむと縦に割るようにかじり、もぐもぐと口を動かすとおいしそうに顔をほころばせる。
美味しいものを食べてこぼれる姉の笑顔は、ユイが物心ついた頃から変わらない。
「姉ちゃん、小さいころからマシュマロ好きだよね」
ユイがそう懐かしむと姉はきょとんとした顔で、
「え? いや、普通だけど」
と返した。
自分の認識と違うことに驚きながらユイは反論する。
「でも駄菓子屋さんで毎回買ってたじゃん」
「あー、そうだっけ? よく覚えてるね」
姉に言われて自分でも疑問に思う。
たしかに。なんで私はマシュマロが好きだと思っていたんだろう。
姉が菓子を買っていた印象があるのは、ユイが後ろをくっついてまわっていた頃だ。
小さい時はあの人と姉との三人でしょっちゅう遊んでたな、とユイは思い出す。
ふたりとも優しく、ユイにとっては 兄が増えたようでとても楽しかった日々。よく三人で近所の駄菓子屋さんでお菓子を買って、公園の遊具の上で食べていた。
そのとき、姉は必ずといってもいいほどマシュマロを手にとっていた。
疑問に思ったユイは姉にたずねたことがある。
「おねえちゃん、そんなにマシュマロ好き?」
その質問に姉は目を輝かせながら答えた。
「大好きだよー。あまいしふわふわだし、いっぱいはいってるし」
姉がマシュマロの袋を開けたことで甘い香りがほのかに広がった。隣に座るユイはその香りをもう何度も嗅いでいたが不思議と嫌にはならなかった。
「それだけじゃないけどねー」
意味深な台詞を言いながら姉はユイにマシュマロを手渡す。両手で受け取りながらユイはたずねた。
「えー、なにー?」
「おしえない、ひみつー」
姉は意地の悪い笑顔でそう返すとおいしそうに菓子を食べ始めた。
両手いっぱいに渡されたマシュマロを半分もらってもらおうと、ユイは隣に座る彼を振り返る。姉と仲のいいこの人ならたぶん答えがわかるだろう。
「シュンくんならわかる?」
しかし、返事はなかった。そしてユイもあらためて問い直そうとはしなかった。
何とも言いがたい、優しくも熱い眼差しを姉に向けるあの人の顔。
それは今まで見たことがない感情のもので、ユイはそれを表す言葉を幼い頭の中で必死に探した。
その駄菓子屋もしばらく前に閉店してしまい、次第に三人で遊ぶことも少なくなった。以来、姉が菓子の類を買って食べている姿を見た記憶はない。きっと自分が言ったことなど覚えていないだろう。
だけどあの人もきっと、姉の言葉を覚えていたからマシュマロを選んだのだ。
周りが覚えていて言った本人が忘れている。それを思うとあの人が不憫で、ユイは紅茶を冷ますふりをしながらため息をついた。
「え、なにその呆れた感じ」
鈍感な姉もさすがに妹の態度の変化には気が付いたようだった。
自分の見たものは伏せてユイは記憶をかいつまんで語る。それを聞いた姉は終始ぽかんとした顔で、聞き終えたあと「全然覚えてない」と言った。
やっぱり。
姉が再びマシュマロをつまんで口に運ぶ。そこで初めて合点がいったように「あ」と目を見開き
「だからあいつ、プレゼントには必ずマシュマロ入れてくれてたのかぁ」
と、すっきりした表情で言うのだった。
気づくの、遅っ。
毎年プレゼントで送られていながら今までなんの疑問も抱かなかったのか、ユイは頭を抱える。姉は三つめを頬張っていた。
ユイはあの人が不憫を通り越して気の毒に思えてきた。
「ねえ」
「ん?」
「なんであの人じゃダメだったの?」
絞まる喉を開いて姉に問う。今更な質問だと重々わかっていたが、長年の疑問をたずねずにはいられなかった。
ユイが知る限り、姉とあの人の関係は良好で、進路が別れても交流は続いていた。だからこれからも続いていくのだと勝手に、根拠もなく信じていた。
姉は無感情に返す。
「ダメじゃなかったよ」
「じゃあなんで」
姉が一瞬切なげな表情を浮かべたのを見て、ユイは口をつぐんだ。姉はいつもの笑顔をつくるとユイに問いかける。
「ユイはさ、一番好きな人と二番目に好きな人、どっちと一緒にいた方が幸せになれると思う?」
突然なんだ、と思いつつユイは姉の質問に答えた。
「そりゃ一番好きな人でしょ」
「そっか、あんたはそうなのね」
「姉ちゃんは違うの?」
姉はカップを持ち、ぬるくなった紅茶をゆっくりと飲みほした。乾いた唇を舌で潤すと静かに
「だって一番は、なにがなんでも守りたいじゃない」
と、作り笑顔で答えたのだった。
「あいつは私の一番だからね。私の一番の親友で、大切な人だから」
姉は玄関の方へ目を向けた。先ほどそこにいた人物に説明するかのように、あるいは言い訳するかのように言葉を続ける。
「その関係を壊したくなかった。あいつが私の一番じゃなくなることも、私があいつの一番じゃなくなってしまうことも怖かった。でも……これじゃ、どっちがよかったのかわからないな」
それが姉の答えだった。
姉は鈍感なわけではなく、ただ大切なものを守りたかっただけなのだ。
ひどい質問をしたと、ユイの心に罪悪感が募る。
そんなユイの顔を見た姉は、わざと茶化すように言った。
「あんたは一番好きな人と一緒になりなよー。まず相手が見つかるかどうかわからないけど」
「うるさいな、見つけるよ」
それ以降お互い口を開くことはなく、雨の音だけが室内に響いていた。マシュマロもそれ以上減らずテーブルの上に置かれたまま時間がすぎていく。
ユイが二杯目の紅茶を飲み終えたとき、大きく開いた口から眠気がかたまりとなって飛び出した。抗えぬ睡魔にたまらず机にソファーに横になる。
「風邪ひくよー」
姉の注意にも生返事で、ユイの意識はまどろみの中に溶けていった。
水の流れる音でユイは目を覚ました。重たい頭を起こしあたりを見ると部屋が薄暗いことに気づく。窓の外に目をやると雨は上がり日が暮れはじめていた。
視線を正面に戻す。テーブルの上には何もない。
「マシュマロは……?」
なぜ開口一番にそれをたずねたのか、ユイ自身もわからなかった。
姉がキッチンから顔を出し「マシュマロ?」と聞き返す。
「まだのこってたじゃん」
姉は不思議そうな顔で「なに寝ぼけてんの。ないよ」と言った。
ユイは開き切らない瞼を手でこする。たしかに食べたはずなのに。
思い出せるのはマシュマロ特有の柔らかい食感だけで、口の中には痕跡も甘みも感じない。
目覚めたばかりで夢と現実を混同しているのかもしれない。
「お腹空いてるならもうちょっと待ってて。お父さんとお母さん、もうすぐ帰ってくるって連絡あったから」
姉はキッチンとリビングを何度か往復し、そのたびにテーブルのうえにサラダやら鍋やらおいていく。いつもの夕食より品数が多く少し豪華だ。
家族そろっての食事は、今夜以降少なくなるだろう。
明日、姉はこの家を出る。
付き合っている彼氏と同棲するのだと一か月前告げられた。
一緒に住むのはあの人じゃない。
「ねぇ、本当はさ……」
あの人のこと好きだったんでしょ? と、と問おうとしてユイは言葉を飲み込んだ。言ったところでまた姉を悲しませるだけだ。
急に口を閉ざしたユイに姉は「なに?」と続きを促す。
「やっぱりなんでもない」
「え、気になるじゃん」
なかったことにしようとしたら、姉が食い下がってきた。こう言われたら姉は意地でも聞き出そうとしてくる。
ユイは慌てて別の言葉を探した。
「本当は、姉ちゃんに出ていってほしくないんだよね」
姉は妹の言葉に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
らしくないことを言った。
込み上げる恥ずかしさを隠すためユイは姉から顔を背ける。
姉は妹の告白に照れながら笑った。
「たまには帰ってくるから」
そういって肩におかれた姉の手からは、かすかに花の香りがした。