アイリッシュコーヒーはいかがですか?…
「"そこの角"を右な?」
「えっ、そこってどこです?」
「そこだよ、そこの喫茶店の角」
「もっとはっきり解りやすく案内できないのかなぁ…」
雷門通りは観光地と言う事もあり、とても人通りが多かったです。そんな中に、頭にネコを載せてその猫に話しかける女というのは、とてもシュールでしょう?ネコもネコで、女の言葉に反応して尻尾を振ったり前足で通りを指したり。
今も当時の私も、窓ガラスに反射して見える自分の姿はとてもおかしく見えましたから…
「えっ…こんな路地ですか?第一、こういう所のお店って客引きなんてしないでしょ。今更ですけど、身の危険を感じますよ!」
「アホか!それなりに人通りあるだろ?それに、こうでもしなけりゃ常連ばかりで新規が来ないの!飲食店として終わるの!あと、何するにしても、頭の上で出来る事なんて限られてるだろ?ええっと…漏らすとか?」
「私、犬派だから容赦はしないですよ?」
「わっ、忘れるなよ。動物愛護法って法律があるんだからな?俺は愛くるしい…何でもないや」
大刀洗さんの"あそこの角"だ"そっちを右"という曖昧すぎる道案内を前に、私は細い路地の前まで着きました。
ですがその路地は老舗、悪く言えば古ぼけた店が多く、雑居ビル等も見てしまうと怪しさが込み上げてる様な通りなのです。
当時の私も、ホイホイ喋るネコなんて異常以外の何ものでもない危険な何かへと付いて来た事に後悔してき始めました。それは、べらんめえ口調の大刀洗があれこれ言ってきても何故だが消えないのでした。
何か大刀洗さんの知り合いみたいな黒ネコが前を通ったり…
「なんか…不吉…喉と言うか、胸につかえる感じ…」
「スカタン!人生、生きてりゃ黒ネコの1匹や2匹、目の前くらい通る。それで縁起悪いなんて言ってら、家から出るなって話だろ?あの黒猫ちゃん達が何やったってんだよ?そんなら、バイク乗り回す方が、よっぽどおっかないわ!」
「そんな事言うならね、頭の上で騒ぎ続ける化け猫の方がよっぽど不吉だよ!」
「言ったな小娘!ネコナメんなよ!」
ネコに対してコメント出来るくらいには、路地は新宿歌舞伎町等のいわるゆ"怖い路地"と比べても幾分かマシでした。
でもね?私だって本物の危ない人達を相手した事なんてありませんから…所詮は子供同士の喧嘩に、ライダー同士のシグナルグランプリ程度です。いきなり厳つい黒スーツの男とか出て来たら、当然ながら勝てる訳ありません。
そこにきて喋るネコですから、啖呵を切っても内心はかなり恐怖というか…安っぽいB級ホラーを見ている気分でした。
「あんたどこの"なめ猫"だよ…それを言うなら、ライダー…ナメん…ジャズが聞こえる?」
「へ〜。お嬢ちゃん、耳いいんだな。まぁ、これがウチの売りの1つの"今日、店に立ってるメインバーテンダーが音楽で解る"だよ」
「Half Nelsonかな?多分そうですよね?」
「曲まで判るのかよ…俺は知らんがジャズなら、今日のメインは"ヒロ"の奴だな。まぁ…もう一人がカウンターにまともに立つのも珍しいか…」
そんな私が大刀洗さんの"小娘"に少し怒りを感じて怒りの言葉を述べようとした時、その路地の奥から不思議と音楽が聞こえてくる気がしたのです。
部屋に沢山あるCDやカセットテープ、レコードのコレクションの中でもジャズはあまり聞かないからよく聞くものは直ぐに判かりました。イントロだけで気付いた私に驚く大刀洗さんの気持ちも解らなくは無いですが、判るものは判るんですよね。
「チャーリー・パーカーのですかね?家のカセット…レコードかな?でよく聞くんですよ。少なくともCDじゃなかった様な気がする」
「あぁそうなの?まぁ俺には解らんが。それで、行く気にはなったかい?」
「そう…デスね…」
余裕もなく荒れ果てていた心に久しぶりの音楽が響くと、私は少しだけ心が舞い上がりました。それ故に、大刀洗さんのさり気ない客引きを前に若干イントネーションをおかしくしながらも止まっていた足を前に踏み出したのです。
そんな私に、頭の上でほくそ笑んでいる大刀洗さんは何だかとにかくムカつくというか…何というか…
「別に、ただ酒飲めるから付いて来ただけですよ!」
「タダとは言ってねぇよ!」
思わず反抗的に言った言葉へ大刀洗さんが律儀に言い返すと、私は歩を早めて音の聞こえる方へ歩いて行きました。
よく分からない店の看板や提灯、店先の明かりが足元を照らす中、ジャズを辿る私はシャッターの閉じた店の隣に小さな扉の前にたどり着きました。
「バー、おう…まが…とき?」
「ばー:Oumagatoki!"おうまがとき"だぞ?英語弱いのか?」
「ローマ字表記は英語って言いませんよ。それに"おおまがとき"って?黄昏の事ですよね?」
「よく知ってるな。最近の奴は字を知らんからな…感心、感心って、いきなりしゃがむな。前傾も一言言ってからしてくれ」
扉に掛けられたネームプレートや脇に置かれたライト付きの黒板看板に書かれた文字を読み上げた私は、最初英語以外の言葉とも思いました。
ですが、頭の上で指摘する大刀洗さんにほんの少しのムッとしながらも、その不可思議なバーの名前の方が気になり黒板看板を覗き込むようにしゃがみました。
「"本日のバーテンダー、ヒロ。バーテンからのおすすめ[寒い冬にアイリッシュコーヒーはいかがですか?]"か…」
「アイツめ…こりゃ"おすすめ"ってより自分の好みだろ」
「"ヒロさん"の好みって事ですか?」
「仕入れのヤツが"良いコーヒー豆手に入れた"って聞いたんだ。今週で3回目の"おすすめ"だよ」
今は"アイリッシュコーヒー"をカフェで出す品と思いますが、当時の私はそもそもアイリッシュコーヒーを知らなかったのです。
ですが、コーヒーのカクテルで"アイリッシュ"なんて名前の響きに、私の心は完全に惹かれていました。
いえ、きっと当時の私は、喋るネコに連れられて異世界の如き路地裏に飛び込み、ジャズの流れるバーまで案内されるという不思議な状態に惹かれたのでしょう。何せ、少し前まで"世界に嫌気をさして自殺しよう"なんて考えていたのですから。
「ヌコさん」
「大刀洗だ!」
「大刀洗さん、立ちますよ」
「入店するの?」
「しますとも。貴方はともかく、良い雰囲気じゃないですか?」
「ほ〜、俺を"化け猫"呼ばわりにここら辺を"良い雰囲気"か…お嬢ちゃん、ホント根性据わってるよ」
名前を訂正する大刀洗さんに一言言いながら、私は鉄製らしい扉のノブに手を掛けました。頭上で大刀洗さんが笑いながらも感想を述べ、私はそれを無視すると扉を開け放ちました。
今でも鮮明に思い出せますとも。ここで引返せば面倒にはならなかったけど、でも開けて良かったと。
まぁ、少なくとも…
「いらっ…あっ、大刀洗さん。また強引にお客さん引っ張って来たの?」
手狭で少し薄暗い店内。高そうな一枚板のカウンターには8脚の席。反対側には長方形の小さな席に4脚の椅子。まばらに座る数人の客は様々なグラスで各々の酒を飲んでいる。客こそ殆どいないが、見た目は普通のショットバー。
ですが、私はこの時ほど心の底から恐怖した事はありません。
「いらっしゃい。ばー:Oumagatokiへようこそ」
カウンターの中に立ちザ・ボタニストのボトルを棚に戻しながら挨拶するバーテンダーの姿は、長身痩躯で…それで…
「がっ…骸…骨!」
柔らかい口調の、表情の解らぬ骸骨でした。