もしキャラクターに感情があって、作者が作品に登場する場合、作者は恨まれるのか
もし作者が造り出したキャラクターに感情があって、作者が作品の世界に登場する場合、作者は恨まれるのか。アニメ『SSSS.GRIDMAN』を観て、そんな疑問を抱いた。ここではこのアニメに触れることはしないが、私の主観では近年稀にみる神作品だとお伝えしておこう。
さて、まずは結論から述べさせてもらおう。まず間違いなく恨まれる。感謝されることは少ないのではないか。
私の拙作を例に出させていただこう。まず『少し存在意義に語りたいと思う。』だが、もはや恨まれるのは自明だとすら思える。大災害によって節制を強いられ続け百年。その暮らしが普通になってしまった人々だが、治安は悪いし研究所によって理不尽な扱いを施されることもある。主人公の柊コノハは親を殺され、さらには逃亡生活を強いられており、一章最終話ではあんなこともあった訳で、デトラにしてみても愛する人を死の危険にさらす苦しみは耐え難いものだっただろう。そんな設定を作った私を恨まない、というのはなかなか想像できない。作者としては、愛する人に巡り会えた、ということで感謝されたりしないかな、と思わないでもないが。
続いて、『道化師はいつも笑う 妹はそいつをぶん殴る』だが、こちらは上の作品とは違って節制を強いられている訳ではない。主人公に至っては、世界有数の大企業の娘であり、世界最強の一族でもある訳で、贅沢三昧と言えなくもない生活である。このことを踏まえると、主人公、藤堂花音には恨まれることはなさそうだ。
だがしかし、ここで考慮すべきは、花音が笑っているシーンは案外少ないということだ。彼女はいつも自分の愚兄の言動に胃を痛めており、さらには別の名家の子供たちとの日常的な鍔迫り合いというのもストレスを増大させている。金持ちだから幸せ、という訳でもないらしい。もし私があの世界の中にいれば、まさにタイトル通り殴られる、という訳だ。
ただ、何故か主人公より人気が高いらしい美雨なら、あの素直な心で許してくれる気がする。気がするだけ。
ここで、作者を神に置き換えてみれば、問題を抽象化できる。焦点を作品から離し、現実世界に移すのだ。
元より人間はそれほど強い生き物ではない。何か都合が悪いことが起きれば責任転嫁をしたくなるものだ。ここで多くの場合引き合いに出されるのは神だろう。困ったときの神頼みというが、言いえて妙である。もし実感がわかないなら、あなたの生活を思い返してほしい。鳥の糞が落ちてきたとき。携帯が壊れたとき。財布につけていた缶バッチがなくなった時。恨むべき相手がいなければ標的になるのは神、というのは容易に想像できるだろう。
反対に、よいことが起きたとき。この時は、神のおかげとはならない。多くの場合、人々は自分の努力であったり運であったりに起因するのだと思い、神に感謝することはないだろう。
断っておくが、ここでいう人々は無宗教の日本人を指している。
さて、この現実世界についての議論を作品内の世界に還元してみよう。すると、作品内世界でも話は同じであることが分かる。
作品として語られるのは登場人物たちの暮らしの一部である。しかし、作品の外にも暮らしというものは存在している。とすると、先ほどの現実世界についての議論と同じことが起きることが分かるだろう。
ところが、登場人物たちに感情があると暮らしが生まれ、現実世界と同じことが起こるのなら、我々は彼らキャラクターたちに人権を認めなければならなくなるかもしれない。そして人権を認めた場合、彼らは真に命を持つものたちとして現れる。であるならば、命を生み出す私たち作家の仕事というのは、責任をもって行われる重大な、慎重になされなければならないものなのだろう。あくまで人権を認めれば、の話だが。