大切な本(2)
登るよりも少し速く山を降ったオクスは、村に帰ってきた。慣れた足で、居候させてもらっているロビーの家に直行する。家に入ると、日中あまり家にいない人物の声が聞こえてきた。ロビーである。オクスは珍しいなと思いつつ、帰路の途中で生じた疑問を投げかけるべく、ロビーのいる台所に向かった。
「ロビーさん!」
ロビーには呼び捨てで良いと言われたが、さん付けで呼んでいる。前世からオクスが呼び捨てを好きでなかったこともあるが、敬語を使っているナトの手前だからというのが大きい。心の中では呼び捨てにすることもあるが……。
「なんだオクス、もう帰ってきたのか。やっぱり諦めたのか?」
登山のことを言っていると理解したオクスは「そうなんだよ。ところでさ」と強引に話題を変え、疑問を投げかけた。
「世界地図ってある?」
「せかいちず~? 地図のことか? この辺の地図なら村長が持っていると思うが」
「世界全体の地図だよ」
「そんなの聞いたことないな。う~ん……、あ、ナトちゃんなら知ってるんじゃないか?」
思いがけない名前が出て、オクスは少し驚いた。
「どうせ宿屋にいるだろうし、聞いてみたらどうだ?」
「そうするよ、ありがとう」
素晴らしい提案をしてくれたロビーにお礼を言って、ロビー宅をあとにする。
ナトは卒業試験の期間中、村の宿屋に滞在していた。
休みの日にナトに会うのは初めてだ。オクスはワクワクしながら宿屋に向かう。
ナトが滞在しているこの村の宿屋は、ロールプレイングゲームによく出てくる酒場兼宿屋だ。ロビーもたまにここで飲んでいる。オクスも誘われて一度だけ興味本位で付いていったが、愚痴や説教をさんざん聞かされたことにうんざりして、それ以降は誘いを断っていた。
宿屋に入ると、昼間にもかかわらず、酒場に幾人かの客がいる。
カウンターに近づくと、店主が声をかけてきた。
「おや、君はたしかロビーのとこの。何か用かい?」
「ナトちゃんに話があってきたんですけど、入ってもいいですか?」
「いいよ。部屋は一番奥だよ」
店主はそう言いながら、親指で部屋がある方を差した。「どうも」と言ってオクスはナトの部屋に向かう。
部屋の前に立つと、オクスは大きく深呼吸をした。そして、扉をノックする。
「はい、どちらさまですか?」
ナトのかわいらしい声が扉越しに聞こえてきた。
「オクスだけど、ちょっと聞きたいことがあって来たんだ。話がしたいんだけど」
「はい……あ、少し待ってください」
パタパタと部屋の中を動き回っているような音が聞こえる。
(何か見られちゃまずいもんでもあるんだろうか?)
オクスがそんなことを考えていると、部屋の扉が開いた。
「お待たせしました。どうぞ」
ナトはそう言いながら、手のひらを部屋の奥にあるイスの方へ向けている。イスに座れということだろう。
オクスは促されるままイスに座った。座る時、イスの横にある机に栞を挟んだ本が置いてあるのが横目に見えた。
イスは一つしかないので、ナトはベッドに腰掛ける。
オクスがナトの方を見ると、部屋に入る時にちらっと目に入ってはいたが、いつもと違う姿に驚いた。
普段ローブを着ているナトが、この日は模様の付いた白い長袖シャツの上に、袖がなく腰に紐がついたロングスカートのワンピースを身に纏っている。村の女性が普段着用しているような民族衣装だ。
また、フードをかぶっていないので、セミロングの髪があらわになっている。髪色は濃い紫のはずだが、部屋の暗さのためか漆黒に思える。黒い髪と白い猫耳が見事なコントラストを作っていた。
いつもと違うナトの格好に、オクスは新しい魅力を感じていた。素敵な光景に出会えた理由を知るため、オクスはナトに話しかける。
「今日はローブを着てないんだね」
「はい。ローブは洗濯したので」
「そうなんだ」
(狩りの時、いつも着てるもんな)
納得のいく理由を得たオクスは、さっき横目で見た本を思い出しながら話題を変える。
「休日は本を読んで過ごしてるの?」
「はい。学校の卒業試験はこの村の仕事の他にも、筆記試験や実技試験があるので勉強しているんです」
(あちゃ~、勉強の邪魔しちゃったか)
できれば長居しようと思っていたオクスは、用事を済ませてさっさと帰ることにした。
「ごめんね。勉強の邪魔しちゃって」
ナトが「いえ」といいながら首を横に振る。
「それで聞きたいことなんだけど、世界地図って知ってる?」
「セカイチズですか? 世界の地図ということでしょうか?」
「そう。ロビーさんに聞いても、知らないって言うから」
「ごめんなさい。私も知らないです。この国周辺の地図なら、王都に売っていると思いますが」
「そっか」
ナトに会えて満足していたオクスは、世界地図がないと聞いてもさほど落胆しなかった。
ナトが話を続ける。
「世界の東側は未開の地で、立ち入った人間は少ないと学校で学びました。北東にはドラゴンの生息地がありますし、南東にある大陸とこの国は国交がありません。ですので、世界地図を作るのは現実的ではないと思います」
「おお~、なんだかすごい世界なんだね」
(未開の地か~、行ってみたいな。ドラゴンはさすがに危ないか?)
「はい。……あの、どうして世界地図が必要なんですか?」
「いやぁ、世界中を旅するのもいいなと思って」
「未開の地には恐ろしい怪物達がいますし、ドラゴンも同じようなものです。危ないですよ!」
「そ、そうだよね」
(世界地図はないみたいだし、未開の地やドラゴンの情報が少なすぎるもんな)
「旅をされるつもりだったのですか? この村にずっといるのではなくて」
「うん。今日山を登って来たんだけど、景色がきれいでさ。他にも見てみたいと思ったんだ」
(ナトちゃんもきれいだけど)
「そうなんですか……」
「ナトちゃんにも見せたかったな」
ナトは悲しそうな顔をして、黙ってしまった。そうなった理由がわからず、どうして良いかもわからないオクスは、退散することにした。
「うし! 世界地図がないのもわかったし、勉強の邪魔になっちゃいけないから帰るね」
「ごめんなさい……」
「えっ? いやいや、謝ることなんてないよ? ありがとね」
イスから立ち上がり、扉に向かうオクスの目に留まったものがあった。壁とベッドの間にあるスペースに置かれた旅行カバンと、その横に積まれた本だ。
「ねぇ、これ全部魔法の本なの?」
「いえ魔法だけじゃなくて、歴史書や数学の教科書もあります。それと、一冊だけ学校の本ではないものが」
「何の本なの?」
「小さいころに買ってもらった、この国の建国にまつわる物語です。大好きでずっと大切にしてて、この仕事にも持ってきたんです。読まれますか?」
「いや、そんな大事なものを借りれないよ。……というか、そもそも文字が読めないと思うんだけど」
「翻訳魔法があるので大丈夫です。記憶も戻るかもしれないし、オクスさんに是非、読んでほしいんです!」
「う、うん。じゃあ貸してくれる?」
ナトの謎の圧力に屈したオクスは、ナトが大切にしている本を借りることになった。
「では、翻訳魔法をかけますね。<永続化><文書翻訳>。対象、オクスさん」
オクスが感じたのは、以前魔法をかけられた時と同じ感覚だ。だが、目にしている光景が、以前魔法をかけられた時と違う。
「杖やローブがなくても、魔法は使えるの?」
「はい、翻訳魔法程度の簡単なものでしたら、杖なしでも使えます」
(簡単なんだ。俺にも使えたりして)
ナトは積まれた本から一冊を取り出し、オクスに差し出す。
「これがその本です。試しに読んでみてください」
本の外見には年季が入っている。だが、ボロボロな印象を受けないのは、ナトが大切にしているからだろう。オクスは腫れものをさわるように本の冒頭のページを開き、読んでみる。
「おお、読める読める」
文字が日本語に見えるわけでなく、そのままなのだが、なぜか意味が理解できるのだ。
「じゃあ、大事に読ませてもらうね」
「はい」
ナトが笑顔で返事をする。本を借りる予定はなかったが、ナトの機嫌が良くなったようなので、オクスは良しとした。
「あとさ、気になったんだけど。俺にも魔法って使えるかな?」
「……どうでしょう。筋力が強い人は、魔法が使えない人が多いです。魔法の適性を調べる高等魔法を使えばわかるのですが、残念ながら私には使えなくて……」
ナトの機嫌が怪しくなったことを感じて、オクスは逃げるように言った。
「ああ、大丈夫! 大丈夫! じゃ帰るよ、また明日ね」
「はい、また明日」
別れの挨拶をして、オクスはナトの部屋をあとにした。
ロビーの家に帰るまでの間、オクスはこんなことを考えていた。
(世界を巡るにしても、ナトちゃんは連れていけないよなぁ。あっちを立てれば、こっちが立たずか……)