確認(1)
青年が目を覚ますとベッドの上にいた。
見知らぬ場所で目が覚めたのはこれで二度目だ。慣れた感じで周囲を観察し、状況を確認する。
個室のようだ。壁はレンガでできていて、木でできた扉と窓が対面して一つずつ。タンスのような大きな家具はないが、小物入れや小さな机、イスなどがある。床は板張りで、その上に敷物が敷いてあった。
(病院のベッドって訳じゃなさそうだ……。うっ、頭がガンガンする)
頭痛の原因を探り、すぐに昨日さんざんお酒を飲まされたことを思い出す。
(日をまたいだ上に、こんなリアルな夢はないよなぁ。夢って線は、ほぼないな……)
ここが現実だと仮定して考えてみる。
(死ぬと同時にこっちの世界に転移してきたのか?)
ふと、昨日ナトが言っていたことを思い出した。
(十代後半に見えるって言ってたな。鏡……はあるのか?)
寝ぼけと頭痛がいくらかましになった青年は、ベッドから立ち上がった。
肌が空気に触れることで、自分が何も着ていないことに気づく。
(いよいよ裸族になりつつあるな……)
イスの上に服が置いてあるのを見つけると、服を着て扉の前まで移動する。
扉を少しずつ開けながら外の様子を窺う。
(なんだか、いい匂いがする)
匂いにつられるように、板張りの廊下を歩いていく。
開けた場所に出ると匂いが一層強くなる。台所のようだ。そこでは一人の女性が作業をしていた。こちらに気づいていないようなので、声をかける。
「おはようございます」
少し驚いたのか女性は体をビクッとさせたあと、こちらに顔を向けて挨拶を返してきた。
「あら、おはよう。目が覚めた? 昨日は相当飲まされたようだけど大丈夫?」
青年はこの女性を知っていた。ロビーの奥さんである。ロビーは妻帯者だったのだ。
奥さんを紹介された時、青年は(これでライバルが一人減ったな)と安堵したのを覚えている。ちなみに、奥さんにも猫耳としっぽがある。
「はい、なんとか……。あの、すみません。鏡ってありますか?」
「へぇ、そういうお年頃?」
奥さんはニヤニヤしながらそう言った。
(思春期の三十五歳がいてたまるか!)
「いや、記憶をなくしてからまだ、自分の顔を見ていないので」
「入り口の横にかけてあるわよ。鏡を見終わったらご飯食べてね、片づかないから」
了解の返事をしてから、青年は鏡のある入り口へと向かう。昨日のパーティの前に、服を着るために家へ入ったことがあったので場所はわかっていた。
(入り口にあったのか。昨日は気づかなかったな)
入り口に着くと、壁にかけてある鏡が目に入った。写りは前の世界の鏡には到底及ばないが、それでも自分の姿を確認するには十分だ。
恐る恐る鏡を覗いてみる。
(……だれだよ⁉)
鏡に映った顔は際立った特徴はないが、青年の感性からするとかなりの美青年に見えた。
死ぬ前の体と一致しているのは、髪の色と目の色が黒いということくらいだ。ナトが言ったように十代後半くらいの印象を受ける。
(こっちの世界で肉体を得たのか。……それともだれかに乗り移ったのか?)
見知らぬだれかに思いを馳せる。
(だとしたら悪いことをしたな……)
感傷に浸っていた青年に、歓喜がふつふつと湧き上がってきた。
(なってしまったものは仕方がない。見知らぬ青年よ。あとは俺に任せろ! 俺がお前の代わりにお前の分まで、ナトちゃんと幸せになってやるからな!)
気分が高揚した青年はスキップしたくなるのを抑えつつ、台所に向かう。
台所に戻ると、青年に気づいた奥さんが話しかけてきた。
「どうだった?」
(何が?)と思ったが、すぐに鏡のことだと気づき、喜びを隠すようにこう言った。
「思ったより普通でした」
「まあ、そうよね。うちのロビーもそうだけど、男は顔だけじゃないから」
(ロビーってそんなに顔悪くないだろ)
違和感のある返しだったが、藪蛇になりそうなので青年は聞き流すことにした。
朝食のパンとスープを用意してもらった青年は、テーブルにつくとスープを木のスプーンですくって口に運ぶ。
(うまいな。昨日の料理もそうだけど、味がしっかりしてる。調味料が充実してるのか?)
昨日の「狩りは休みで午後から話し合い」というロビーの話を思い出しながら、午前中の予定を決めた青年は、奥さんに問いかけた。
「あの、ロビー……さんは今どこにいるんですか?」
「たぶん村の集会所にいると思うけど?」
(集会所? 村の広場の横にあったでかい建物か)
「ちょっと外出……村の外に出たいんですけど、ロビーさんに確認した方がいいですかね?」
「そうね。何かあったらいけないし、ロビーに声かけてくれる? ……集会所の場所は知ってるかしら?」
広場の横であることを確認し、残りのパンとスープをかきこんで、奥さんにお礼の言葉を述べ台所をあとにする。
ロビー宅の入り口の扉を開け外に出ると、陽の光を浴びた。
(太陽……じゃないよな?)
集会所までの道を歩いていると、村人に声をかけられる。大体は挨拶だが、「今日は脱がねえのか?」のような声も何回かあった。
(ロビーめ!)
集会所の近くまで行くと、集会所の入り口が開いているのが見えた。入り口から覗くと、ロビーが他の村人と話をしている。
入り口から少し入ると、青年に気づいたのか、ロビーが話しかけてきた。
「お、名無し。どうした?」
青年は村の外に出かけたい旨を伝える。
「いいけど、あんまり村から離れるなよ。森には熊の他に狼とかいるから」
集会所を出て、村の入り口に向かう。村の入り口は二ヵ所あるが、森に近い方の入り口だ。
木でできた簡易的な門をくぐると、青年は森の入り口まで歩を進めた。
「さて」
青年には確認したいことがあった。
夢と思ってしまった、熊と最初に遭遇した時の体験についてだ。
(なぜ痛みを感じなかったのか……)
考えながら歩いていた青年は、既に森の中に入っていた。周りは木で囲まれている。
一本の木に近づくと、右手の拳を軽く幹に押し当てる。
「うん」
服の右袖を腕まくりしたあと、拳を胸のあたりまで引いて一呼吸置き、少しだけ力を入れて幹に向かって拳を突き出した。
ゴリっという何かを削るような音が響く。青年の拳の半分は木の幹に食い込んでいる。
「やっぱり痛くないな。これくらいやれば普通痛いだろ」
拳を引き抜くと、また胸のあたりまで引き、今度は全力で幹に殴りかかる。「ッ」という言葉にならない声が自然に漏れた。
ドンッという大砲のような音が鳴ったが、森はすぐに静寂に包まれる。
木を見ると青年が拳を放った部分に、ドリルで開けたような穴が貫通していた。拳はその穴の中に食い込んでいる。
「うわ。穴は開いたけど、折れないんだな。漫画とかだと折れるイメージだけど。ていうか、ぬ、抜けね」
青年は焦ったが、少し力を入れると拳はすぐに抜けた。
常人離れした結果を見ても青年があまり驚かないのは、思っていたよりも結果が地味だったからだ。
「ふう。やっぱり痛みを感じないな。痛覚が狂ってるのか?」
そう思い、自分の頬をつねってみたが痛くない。少しずつ挟む力を強くしていく。
「……いててててて」
(何だか痛覚が鈍くなってるみたいだな。あそこの感覚は鈍くなってないといいんだけど……)
一通り実験を終えた青年だが、満足感は得られていなかった。
(やっぱり漫画みたいに木を折りたいよな。……ん? 手刀ってできないか?)
思いついた青年は穴の開いた木の前で、右の手のひらを指の先までまっすぐ伸ばし、居合抜きのイメージで左下から斜めに幹を切りつけた。
手は確実に幹を切り、幹の右側に移動しているが、幹が動く気配はない。と青年が思ったころにはズズズズという音を出しながら、斜めにずれていく木の幹が目に入る。
大きな音を立て、木の幹は地面に倒れ落ちた。
「おお~」
青年が初めて感嘆の声を上げた。
気分が良くなった青年は、初めてプラスチックの刀を買ってもらった少年のように、あたりにある木に片っ端から切りかかった。手刀で。
倒れた木が大きな音を立て地面を揺らすが、青年は蚊ほども気にすることなく切りまくる。
周りに立つ木がほとんどなくなり、青年の目の前が開けてくると、青年の背丈より少し低い、丸みを帯びた大きな石があるのに気づいた。
「これは砕きたいでしょ」
他人が聞いてもすぐに理解できないであろう言葉を発した青年は、少しだけ力を入れて石を殴りつけ、痛みがないことを確認する。石には拳の跡ができた。
「これは木と違って、シャレにならないからな」
青年は腰を深く落とし、拳を今度は腰のあたりまで引き、大きな石に向かって拳を打ちつけた。気分は正拳突きだ。
拳が石に接触した瞬間から形容しがたい大きな鈍い音が鳴り響いた。拳、いや右腕はどうなったかというと、肘の手前まで石に食い込んでいる。
「なんで砕けないんだよ‼」
引き抜こうと腕を引くが抜けない。腕が食い込んでいる石を持ち上げると、丸みのある石が腕の先にくっついているように見える。
「ドラ〇もんの手かよ!」
石を足で固定し、なんとか腕を引き抜いた。
「焦った……。漫画みたいにはいかないもんだな」
フッーと息を吐きだすと、近くにある手ごろな切り株に腰を下ろす。
常人離れした身体能力を持つことを確認した青年の表情に、喜びの色は浮かんでいなかった。