兄(3)
「ああ、むかつく、むかつく、むかつく、むかつく、むかつく、むかつく!」
天井に美しい装飾が施され、大理石のようなきれいな石が床に見事な模様を作っている廊下を、独り言を響かせながら一人の少女が歩いていた。
「なんであの子の方が評価されるのよ! なにがナトさんのレポートは良くまとまっていて、わかりやすいものでした。皆さんも参考にしてください。よ!」
独り言を喋っているのは以前、オクスとナトが市場で会った細目の少女だ。彼女の名前はナッサーミアン。魔法学校の生徒でナトと同じクラス、他の生徒からはミアンという愛称で呼ばれていた。
「きっとなにか卑怯な手を使ったんだわ。そうでなければ、あんな仕事でレポートが書けるわけないじゃない」
彼女は教室移動の際、忘れ物をして取りに戻っていた。普段は周りに取り巻きがいてこんな悪態はつけないが、一人きりなのをいいことに独り言で憂さ晴らしをしていた。そんな彼女の前に、いら立ちの対象である少女が歩いているのが視界に入った。
「あ~らナト、相変わらずチンタラして。さっきは良かったわね。レポートを褒められて。どうせ汚い手を使ったんでしょうけど」
いきなり話しかけてきた少女に(またか)と思いながら、無視すると余計にひどくなることを知っているナトは返事をする。
「オクスさんが手伝ってくれたから」
「またその使用人? なんで使用人にさん付けするのよ。怪しいわね」
普段から吊り上がっている目の角度が増して、怖い顔になっていたミアンの顔が、パッと明るくなった。
「そうだわ、ナト。あなた、その使用人を連れて今日の夜、私の屋敷に来なさい。主人にさん付けで呼ばせるような使用人は、私が教育してあげるわ」
ナトとオクスの関係に見当をつけたミアンは、新たなナトへの嫌がらせを思いつく。その光景を思い浮かべる顔には邪悪な笑みがこぼれていた。
ナトは自分だけに対する嫌がらせなら甘んじて受け入れるだろう。だが、他人にも害が及ぶとなると話は別だ。ミアンの命令に、ナトは返事をすることができなかった。
「いいわね? 来なかったらただじゃ置かないから」
そう言い残して、ミアンは先に行ってしまった。
そんなことを言われなくても、行かないとどうなるのか、今までの経験から容易に想像が付く。ナトの心は真っ暗な水底に沈んでしまった。オクスに迷惑をかけるのか、行かずによりひどい仕打ちを受けるのか、選ばないといけない。そのあとの授業には、あまり身が入らなかった。
ナトは家に帰ると、いつも通り夕食を作り始める。その手つきはいつもに比べて勢いがない。進まないながらも食事を作っていると、オクスが帰ってきた。
「ただいまぁ」
「おかえりなさい」
ナトはいつも通りに返事をする。だが、頭の中はオクスに言うのかどうか、どのタイミングで言い出すのか、でいっぱいだった。
なんとか食事を作り、オクスと一緒に夕食をとり始めると、オクスが聞いてきた。
「何かあったの?」
オクスは鋭い。いや、自分がわかりやすいだけなのか。自分に何かあると、大体すぐに気づいてくれる。
「あの、お兄ちゃん……」
オクスをお兄ちゃんと呼ぶようになった時に、オクスは言ってくれた。「何でも言ってくれ」と。
「今日なんだけど……、この後……。……ううん、やっぱり何でもない」
言わないということは、オクスを裏切ることだとわかっている。だが、ナトにはどうしても言えなかった。オクスに迷惑をかけたくないのもそうだが、オクスをミアンに会わせたくないという思いが強かった。
「この後? 別に予定はないから相談に乗るし、宿題があるんだったら手伝うよ?」
「ありがとう、お兄ちゃん。大丈夫。必要になったら言うから」
ナトはオクスのやさしさが嬉しかったし、そのやさしさに応えられないことが苦しかった。
夕食の片づけを終え準備をすると、ナトはミアンの屋敷に向かった。ローブを着て、手には杖だ。
王都は治安が良いといっても、夜は酔っ払いがいたり、ごくたまにだが貧民街の人間が歩いていたりする。いざという時に魔法を使うためというのもあるが、ローブも杖も両親に買ってもらったものだ。様々な思い出が詰まっていて、ナトは主にお守り代わりとしてその二つを着用していた。
そう時間もかからず、ミアンの屋敷に着いた。目の前の屋敷はナトの屋敷よりも数倍大きい。ミアンの一族は王都でも名の知れた名家だった。
大きな扉の前まで来ると、大きなノッカーで扉を叩く。
「はい、どちらさまでしょうか?」
扉が少し開き、隙間から使用人らしき男性が聞いてきた。
「ナトと申します。ナッサーミアンさんに会いに来ました」
「はい、少々お待ちください」
少し待つと、静かだった扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。扉が開き、おなじみの嫌な顔が出てきた。
「遅かったじゃない。待ちくたびれたわよ」
そう言うとミアンはナトやその周りを見回す。
「あら、使用人がいないじゃない」
問いかけともとれるミアンの言葉に、ナトは何も返さなかった。
「ふ~ん、あんたがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるけど。ついてきなさい」
ミアンは屋敷から出て路地の方に向かった。後ろにはマッゾーとかいう、屈強な熊の亜人を引き連れている。ナトもそれに続く。
三人は人気がなく、真っ暗な路地裏にやってきた。
「このあたりはね、滅多に人が来ないの。だから、いくら泣き叫んでも大丈夫よ」
ミアンの言葉で、ナトは不吉な未来を予感した。
「やりなさい、マッゾー」
「わりぃな嬢ちゃん。お嬢様の命令は絶対なんだ」
「……そうそう、魔法でマッゾーを攻撃しようとしても無駄よ。私が防御魔法かけてるから」
マッゾーは、退路である歩いてきた道をふさぎ、袋小路の方へナトを追いやる。
「好みじゃないが、若い女を好きにできるのはたまんねぇな」
ナトはマッゾーを見据えながら後ずさる。目には涙が浮かび、体は小刻みに震えている。いつもはピンと立っている猫耳も垂れてしまっていた。
これほどの仕打ちを受けるのは初めてだ。ナトはオクスに言わなかったことを後悔する。こんなことをされるような行いをしてきたつもりはない。あまりの理不尽さに、ナトの悲しみに拍車がかかる。
(お兄ちゃん、助けて)
ナトは心の中で、来るはずのない助けを呼ぶのだった。




