兄(2)
オクスは立ち上がり、ベッドに腰掛けているナトに近づく。ナトの横まで来ると、おもむろに右手を前にかざした。驚いたナトの体がビクッと反応する。
それを見たオクスは躊躇したが、ここまでやって止める方がむしろ怪しい。思い切ってナトの頭にゆっくり手を置いた。
ナトのサラサラの髪が手に心地良い。手を前後に動かすと猫耳に当たって、すべすべした感触もある。
オクスはナトの頭をゆっくりと撫でながら、さっきの続きを話し始めた。
「俺が前にいた世界はさ、地球っていう丸い星だったわけよ。周りには空気がない宇宙があって、地球の他にも数多の星が点在してた。この世界もきっとそう。夜、空を見ると星が光ってるでしょ。もしかしたら、あの中に俺がいた地球もあるかもね」
オクスはナトの頭を撫で続けている。ナトの表情はわからないが、猫耳がいつもより横に寝ているような気がする。
「それに宇宙って、ものすごく広くて、俺たちが生きている間に端から端まで移動するのは無理だろうね。そもそも端がないかもしれないし、それを確認できないくらい広い。それに比べたら地球もこの世界も目に見えないくらいに小さい。さらにそこに住む俺たちとなると、もうほんとにちっぽけな存在なわけだ」
オクスが話のまとめに入る。
「そんな小さな存在が持つ悩みなんて、宇宙からしたら取るに足らないものだろうね。……あ、だからって悩むのが無駄っていうわけじゃないよ。悩むことで成長する部分もあるだろうし、何かが変わるかもしれない。けど無駄に悩みすぎたらもったいないよ。宇宙が過ごしてきた時間からすると、すごく短い人間の人生なんだから、できるだけ楽しく生きた方がいいんじゃないかな。俺はそう思うよ……」
オクスは手を尽くした。これでナトの心が動かなかったらどうしようもない。心地良い感触を撫でる手に得ながら、オクスは最悪な展開を想像していた。
「あの……」
久しぶりに口を開いたナトが、顔をこちらに向け上目遣いでこう聞いてきた。
「オクスさんのこと……、お兄様……と呼んでもいいですか?」
オクスは声にならない声を上げた。撫でる手が一瞬止まったが、動揺を隠すように撫で続ける。ナトが顔の向きを変えたため、撫でる位置は変わっていた。
オクスの脳内コンピュータが最善の選択を導き出そうと、熱を発しながら高速で情報を処理する。オクスが目指すのはナトと恋人関係になることだ。決して兄妹になりたいわけではない。しかしオクスは機械ではなく、妹が欲しいと思っていた人間だ。兄と呼ばれる誘惑に勝てそうにない。そこでオクスは、どちらに転んでも自分に利すると思える条件を考えた。
「……ええと……、条件があるんだけど……。お兄様じゃなくてお兄ちゃん……と呼んでくれたら……。あ、あと、俺はナトって呼び捨てにするよ? それでならいいけど……」
お兄様と呼ばれてもオクスはピンとこなかったし、どちらかといえばナトには兄と呼ぶのを諦めてほしかった。しかし、こういう場面は得てして望まぬ結果になるものだ。
「わかりました、お兄ちゃん!」
「うっ‼」
いや、別の方向性でオクスの望む結果になった。ハートを射抜かれるという表現があるが、そんなやさしいものではない。心臓をハンマーで思い切り殴られたような衝撃を受け、オクスは思わず声を出してしまう。ナトの頭を撫でていた手も、引っ込めてしまった。
「どうしたんですか?」
「い、いや、なんでもないよ。そ、そう、俺はナトの兄になったんだから、遠慮せずに何でも言ってくれよ。ナトが苦しんでると俺も苦しいんだ。だから、またお出かけでもして、ストレスを発散させようぜ!……あ、ストレスっていうのはうっぷんのことね」
「ありがとうございます」
「うん。それに敬語じゃなくて、もっとフランクに話してくれていいよ。まあ、いきなりは難しいかもしれないけど」
「はい」
話はまとまり、ナトも少し元気になったようだ。頭の整理をする時間も必要だろうと、オクスはナトの部屋を出ることにした。というのは口実で、オクスの方が頭を整理する時間を必要としていた。
「そうそう、寝るのもストレスの発散にいいはずだよ。寝る時は何も考えないようにね。寝れなくなっちゃうから。ということで俺は部屋に戻るよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「うっ、う、おう」
オクスは逃げるように速足で部屋の扉に向かう。扉の前まで来ると、ナトの方に振り返り。右手を上げてこう言った。
「じゃあおやすみ。ナト」
「おやすみなさい。お兄ちゃん」
オクスはナトの部屋の扉を閉めると、ものすごい勢いで自分の部屋に戻る。部屋に入ると、自分のベッドに頭から突っ込み、顔を枕にうずめて叫んだ。
「うおおおおおおおおおおお、やべえええええええええええ!」
「お兄ちゃん」という言葉の威力は想像以上だった。平静を装ってはいたが、オクスの理性は崩壊寸前にあった。いや、平静を装えていたかも定かではない。きっと表情や外見におかしなところが表れていたに違いないが、部屋が暗く見えにくかったのはオクスにとって幸いだった。
ナトの表情もそうだ。明るくよく見える場所で、はじけるような笑顔のナトに「お兄ちゃん」と呼ばれていたら、オクスはその場で奇声を発しながら踊り狂っていただろう。
オクスは頭の中で、ナトの「お兄ちゃん」という言葉をループさせていた。
(お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……)
(お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……)
「こらっ」
オクスは師匠に頭を木剣で小突かれた。
「いたっ!」
「痛くないだろ。何、呆けてやがる。この前まで悩んでいたのがスッキリ片づいたと思ったら、またこれだからな。まじめにやれ」
次の日になってもオクスの頭から「お兄ちゃん」という言葉が抜けることはなかった。朝に会ったナトがすっかり元気になっていたことには安心したが、今まで「オクスさん」だったのが「お兄ちゃん」だ。オクスは嬉しさのあまり「お兄ちゃん」と呼ばれる度に、その言葉を心に刻み付ける。
また、ナトの言葉遣いは多少フランクになり、オクスはナトとの距離が縮まったことを実感していた。
(師匠の言う通りだな、妹になったナトのために俺はがんばるぞ!)
「うおおおおおおおおお‼」
「まったく……、極端なヤツだな」
あきれた師匠が言った。まったくもって、男というのはちょろいものだ。




