青年のとある一日
朝、青年は大体同じ時間に目覚める。以前は目覚ましを使わないと起きられなかったのに、やろうと思えばできるものだ。いつも早めに床に就くおかげだろうか。
だが、気持ちの良い朝を迎えたにもかかわらず、青年は物足りなさを感じていた。
(そうだ。今度、わざと寝坊して起こしてもらおう)
一日の始まりに花を添える方法を青年は思いつく。平日だと多分に迷惑がかかるので、休日に実行しようと青年は決意する。
ベッドから起き上がり、服を着替え、朝食が用意されているであろう厨房へ向かう。厨房のある一階に降りると、いい匂いが漂ってきた。
青年が厨房に入ると、作業をしている猫耳の少女が目に映る。髪の色は濃い紫色で、猫耳は白色。腰のあたりから白いしっぽが垂れており、ゆらゆらと動いていた。
青年はしっぽについて、少女に尋ねたことがある。少女曰く、ある程度は自分の意思で動かせるが、自由自在にとはいかないらしい。また自分の意思に反し、感情の起伏に呼応して勝手に動いてしまうのだとか。その時に(やっぱり、しっぽは性感帯なのか?)という疑問も湧いたが、青年は聞くまでに至っていない。もちろん少女のしっぽに触ったこともない。
そんなことを思い出しながら、青年は後ろ姿の少女に向かって挨拶をした。
「おはよう」
「……あ、おはようございます」
少女は振り返って挨拶を返す。
青年は少女に好意を寄せている。少女の心中はわからないが、悪くない感触だと青年は思っている。でなければ、青年と一緒に住もうとは考えないだろう。しかも、この家に住んでいるのは青年と少女の二人きりだ。
「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」
「ありがとうございます」
青年は少女の作った朝食を食べ終わると、いつも通りねぎらいの言葉をかけた。
朝食の片づけが終わると、それぞれが準備をして二人は一緒に家を出る。途中で青年は職場へ、少女は学校へ別れて向かう。
先に家に帰ってくるのは少女だ。帰るとすぐに夕食の準備を始める。
少女はもともと料理を作るのが好きだったうえ、青年においしいと食べてもらえることで作り甲斐もでき、楽しんで料理を作っていた。
一方の青年はというと、料理は作らないが手伝いはしていたし、他の家事、主に掃除を担当していた。一人暮らしの時は気が進まなかった掃除も、好きな女性も使う場所となると、やる気が出るのだ。
青年が家に帰ってくると、夕食の準備を手伝う。仕事で疲れている青年にとって、ここから夕食が終わるまでは、至福でかつ癒される二人きりの時間だ。
「う~ん、今日は何の話をしようか……」
夕食を食べ始めた青年が、同じく食べ始めた少女に向けて口を開いた。
青年は一度だけ、少女に学校生活のことを聞いたことがある。だが、少女は嫌そうな態度をとり、あまり話そうとはしなかった。わざわざ蛇が出そうな藪をつつく必要はない。それ以来、学校生活について聞くことはなかった。
そんなこともあり、夕食時に話題を提供するのは主に青年の役目となっている。
青年は過去の記憶がない代わりに、前世の記憶を持っていた。前世の記憶にある世界は、今いる世界とは大きく違う。少女もそのことを知っており、青年の前世の話を聞くのが好きだった。
世界が違えば、聞くことのほとんどが新鮮だ。それは、今いる世界のことを、青年が少女に聞く際にも当てはまる。それぞれの世界に関する知識がお互い違うから、話題が多すぎて何を話すか迷うことはあっても、話題が尽きることはなかった。
「そうだ、前に蒸気機関車の話をしたよね。今日はその機関車よりも後にできた鉄道の話」
青年は話をしながら、少女の顔を見つめている。最初のころは恥ずかしくて少女の顔を直視することができなかったが、最近になってやっと顔を見ながら話ができるようになってきた。
「まず、俺が前世で子供のころ住んでたところに走ってた汽車。ディーゼルエンジンって言って、油で走る鉄道ね。こんな感じで走る」
そう言うと、青年は口でエンジンを真似た音を出しながら、空いている左手を左から右にゆっくり動かし、汽車の速度を表現した。
「遅いですね。馬車よりも遅いですか?」
「いや、さすがに馬車よりは速いよ。加速が遅いんだ。で、次が電気で走る電車」
ウィイイイインとモーター音を口で真似、さっきよりも速い速度で左手を動かす。
「音が全然違いますね」
「エンジンじゃなくてモーターだからね。次が新幹線。これも電気で走るんだけどめちゃくちゃ速い。こんくらい」
ブウウウウウンという音を口から出し、左手を左から右に一気に動かした。
「うわ、速い!」
「うん、前に一緒に移動した距離だったら、一日で着くと思うよ」
「すごい……」
少女は素直に感心しているようだ。
「最後がリニアモーターカー。これも電気で動くけど、なんと宙に浮いて走るんだ」
「魔法ですか⁉」
少女がテーブルの上に身を乗り出して聞いてきた。
「いやいや、魔法じゃなくて磁力だよ。リニアはまだ開通してなかったから、俺は乗ったことないけどね」
青年は苦笑しながら、速さを口と左手で表現する。
(リニアにはもう乗れないんだよな。乗ってみたかったな……)
「――さんの速さはどれくらいなんですか?」
感傷に浸っていた青年に、少女が問いかけた。
「ん、俺?……そうだね、俺はこれくらい」
青年はヂュンという音を発し、指を二本立てた左手を素早く動かした。その表現は今までのどの速度よりも速い。
「ふふっ、さすがですね」と少女は笑う。
「ごめん、言い過ぎた。これくらい」
青年はもう一度やり直すが、表現はさっきと同じだ。
「あはは、さっきと一緒ですよ」
少女はたわいないことでよく笑ってくれた。笑ってもらえると嬉しいものだ。
青年はこんな毎日がずっと続いてほしいと思っていた。関係の進展を望んではいるが、今の生活や、少女とのつかず離れずの関係を青年は気に入っている。それに、少女とは一線を越えてはいけないと、ある人物から釘をさされていた。それを律儀に守っている青年は、硬派だと自負している。
釘をさされているのは、少女が学校を卒業するまでだ。それまでは、今の関係を続けて地盤を固めればよい。そう、しばらくこの関係が変わることはない、と青年は思っていた。
だがこの日から数日後、青年と少女の関係に変化が生じることになる。それは、少女に異変が起きたことが発端だった。