55時間目 「課外授業~少女捜索戦線~」
2015年12月10日初投稿。
遅くなりましたが、続編を投稿致します。
思った以上に筆が進みまして、今日が内勤日なので先にアップしてしまおうかと目論みました。
騎士昇格編を終えて、新章へと突入。
55話目です。
これまたシャルがメインのお話となります。
ツンキレではありますが、どうぞ彼女をよろしくお願いいたします。
書いていた話が、いつの間にか変な方向にシフトしている気がしたので、いろいろと修正もしておきました。
ゲイル氏は次男坊では無く、三男坊でした。
失礼致しました。
色々予定が詰まって来ているアサシン・ティーチャーの新しいお仕事は、保父さんですか?そうですか。
***
ダドルアード王国。
立地は、人間領とも呼べる地続きの大陸の最南端。
王権制の国家である。
現国王は、ウィリアムス・ノア・インディンガス。
12年前の戦役の最中、崩御した前国王のダドルアード三世には、子どもも孫も、伴侶すらいなかった。
その異例の国王であったダドルアード三世から、ウィリアムスは国王の座を引き継いだ。
そうして、国名にはダドルアードという名を残し、王家はインディンガスという別の名前を持っている。
この国の歴史は、古い。
なにせ、『聖王教会』の発足と同時に、この国はあるのだから。
過去数百万年の歴史の中で、戦禍に巻き込まれる事も数え切れず。
その度に何度も、名を変えた王国。
そこに、根差した異世界からの召喚者。
特別学校、異世界クラス。
この偶然の産物は、何の因果があったのだろうか。
太古の戦女神を信仰する『聖王教会』。
その太古の戦女神が残したとされる『石版の予言』。
そして、その石版に記された『予言の騎士』。
重なった幾つもの偶然。
そして、既に始まってしまった予言の一部。
二つの太陽が昇り、土地は枯れて行く。
浸食は人間領も魔族領も等しく、飲み込んでいた。
世界の終焉。
確実に迫っている、世界の終わり。
阻止する術は、未だ闇の中。
***
1月末日。
天候は、曇りのち晴れ。
また、今日も晴れそうだ。
騎士昇格試験もなんとか無事に終えた。
その後、生徒たちへの侘びとご褒美を兼ねた食事会。
そして、職員会議パート4でもある飲み会等々を終えて、心地よい二日酔いで始まった翌日の朝。
なかなかに、気分が良い。
「今日は、久しぶりにお休みにします。ただし、各自強化訓練の基礎と、魔法の習練の基礎だけをやっておくように」
相変わらず、朝から美味しい食事がテーブルに並ぶ。
若干痛む頭を抱えつつ、外食とは違う手料理に舌鼓。
その中で、オレは今日の予定を生徒達へと通達した。
「先生は今日、どうするの?」
「オレは、シャルと一緒に買い物」
生徒達は休みとはいえ、オレは今日もお仕事です。
と言ったら、生徒達の一部からブーイング。
休め!!と怒鳴る声が半分と、羨ましさからのブーイングが半分。
いつの間にか、シャルもモテモテになっちゃって。
ってか、休め!って怒鳴り声の中に、なんで本人まで混じってんの?
「あら、デート?先生って、やっぱり幼女趣味…」
「榊原くんは、今日の掃除当番をすべて受け持つように」
「ぎゃああ!ごめんなさい!!」
そろそろ、榊原は口が災いの元だと学習した方が良いと思うぞ。
榊原の悲鳴と共に、掃除のルーチン連中からは歓声が上がる。
あんまり弄ると、食事に響くからやめとけ。
手抜きか少なくなるかのどっちかだ。
オレ?
オレは気にしない。
今日は、昼だけなら外食してくるつもりでいるし。
「べ、別に明日でも明後日でも良いわよ!急ぐことでも無いし!」
「いや、十分急ぐ事だから…。お前のお母さん、通算して1週間も放置って…」
「………。」
忘れちゃいけないよ、シャルちゃんよ。
予定よりも3日もロスする事になっちゃったんだから、予定はこれ以上ずらせないから。
「と言う訳で、昼飯いらないから」
「何が、と言う訳なんだか分らねぇけど、了解した」
「榊原の言う通り、お買い物って事で。…まぁ、オレは荷物持ちだけどな」
ついでに、護衛達にも荷物持ちを頼みたい。
オレは、どう頑張っても片手しか使えないから。
「…お前、あれだけ飲んで、なんでそんなに平然と、」
「…これも修行の賜物さ」
まだまだ精進が足りねぇな、騎士団長様よ。
二日酔いで、青い顔のゲイル。
先ほど起きたばかりで、未だソファーに懐いている。
交代でやって来た部下達が吃驚しているぞ。
まぁ、同じ人間だと思われるのは、良いことだと思うけどな。
ただ、先に顔を洗って来た方が良い。
昨日、オレとジャッキーが共謀して書いた『Do☆Te』で文字が、額に残ったまんまだから。
酒飲んだ妙なテンション、万歳。
***
さて、そんなこんなで買い物へと出かける。
オレと間宮、オリビア、シャル、ゲイル、護衛の騎士数名。
流石にゲイルは、頭が痛いのかふらついている。
だが、その半分の年齢にも満たない間宮はけろっとしている。
まぁ、ジャッキーの地獄の一気飲み3本勝負は受けなかったからな。
そもそも、途中離脱でいなかったし。
「アンタ達、どんだけ飲んだのよ?二日酔いって、相当飲まないとならないんでしょ?」
「あれ?シャルは、お酒飲んだ事無いのか?」
「無いわよ。あたしだってまだ、人間で言えば12・3歳でしかないんだから」
「じゃあ、飲めるようになったら楽しみにしておけ。お兄さんが、連れてってあげましょう」
将来、シャルはとんでも無い美人さんになるだろう。
そんな彼女と顔を突き合わせて飲める未来も、なかなか乙なものだ。
「えっ…そ、それって、良いの!?」
「…なんで、そこまで驚かれた?」
「あ、い、や…ッ…ベ、別に楽しみにしてはいないけど…ッ!!」
あらまぁ、ツンデレ。
声のニュアンスからすると喜んでもらえているようだ。
あ、もしかして、
「これっきりだと思ってた?」
びくりと体を震わせて反応したシャル。
図星だったようで。
「…あ、あたし、ほら…種族が違うし、」
「でも、シャルさえ良ければ、ウチの学校はいつでも大歓迎だよ。生徒達も喜ぶ」
「そ、そう?…で、でも…あたし、母さんに」
「分かってるよ。無理にとは言わないし。でも、たまには顔を出してくれれば良いな」
本音と建前が入り混じった、オレのちょっとずるい台詞。
苦笑が漏れてしまう。
未だ、職業病の口八丁は健在だ。
それに、今後もしシャルの母親の承諾があるなら、ボミット病関連でお世話になるだろう。
シャルは元々、その繋ぎを付けてくれる約束だった。
流れてしまったが、送り届けた後で、次の機会があるかもしれない。
先の事は、どうなるかは分からないものだ。
今回、こうして校舎に留まっているのはイレギュラーにしても、後々買物の時にでも顔を出してくれれば十分。
それに、生徒達が喜ぶのは、本当の話。
オレも地味に、彼女とのやり取りは楽しい。
……別に、幼女趣味じゃないからね?
「約束、だからね」
「勿論だ。いずれ、本当にそうなれば良いね」
「そ、それまで死ぬんじゃないわよ…っ?」
「……肝ニ銘ジマス」
げしょ。
それは、ちょっと約束しかねる。
早々死ぬ気は無いけど、最近死にかけ率が半端無い。
昨日の騎士昇格試験然り、魔力の暴走然り。
………オレの平穏、どこに逃げた?
***
「あ、まずは、あの店よ」
「ああ」
そうこうしているうちに、シャルの最初の目的地に到着。
入ったのは、消耗品等の量販店だった。
この世界にも、コンビニみたいな品揃えの店がいくつかあった。
その中でも、この店『セフィロト』は、商業区でも一位二位を争う量販店。
って、セフィロト?
何か、店の名前に聞き覚えがあると思ったら、
「ここ、お前の姉さんの店か?」
「そ、そのようだ。し、しかも、本店…」
あらまぁ、ご愁傷様。
二日酔いの真っ青な顔が、更に青くなっている。
って、なんでそんな反応?
「いらっしゃいませ、小さなお客様?お久しぶりね」
「その小さなお客様ってやめてくれる?」
「うふふ。もう、癖になっちゃってるの」
「まぁ、良いわ。今回はちょっと遅くなっちゃったの。いつも通り、同じものをお願い出来る?」
「かしこまりまして」
シャルはシャルで、既に店の中。
店員らしき女性と、慣れた受け答えで買い物を済ませている。
ここでは、羊皮紙などを買い揃えるらしい。
お金はシャルに先に渡しておいた。
なので、オレ達は荷物を待っているだけで良いのだが、
「あらっ?」
シャルに応対していた店員が、こちらに目を向けた。
瞬間、ゲイルがオレを隠れ蓑にしようとして、身長で失敗している。
お前…友人を盾にするとは言い度胸だ。
ちょっと、そこに正座しろ。
ついでに、180の人間に190の人間が隠れられると思ってる?
と言うか、その反応。
合点がいった。
十中八九、姉だったんだな。
「あらあらあらあら?そこにいるのは、もしかしてウィンチェスター家の三男坊じゃないかしら?」
「…えっと、知り合いなの?」
「知り合いも何も、あたしの弟よ」
あ、やっぱり。
偶然にも、本店でシャルの応対をしたのは、ゲイルの姉。
うん、確かに似てるよ。
黒髪に、整った顔立ち。
豊満な胸元が魅力的でもある。
おっと、視線が釘付けになる前に逸らしておこう。
童貞は、ゲイルで十分だ。
そんな彼女の名を、ヴィクトリア・ハリス。
元ウィンチェスター姓で、現在は仕事用でファミリーネームをハリスと名乗っている。
愛称はヴィッキーらしい。
そう呼んでと言われたので、そう呼ぶことにする。
商業ギルドでも指折りの商店『セフィロト商会』の女会長。
ここは、その本店との事だ。
ゲイルは母親似と言っていたが、彼女も同様。
若々しく綺麗な女性だ。
腹違いとはいえ、父親の面影もあってか、二人並べば姉弟と言われても納得出来る。
「あら?しかも、そちらの殿方は、」
「お久しぶりです」
「やっぱり、『予言の騎士』様でしたのね!ウチの愚弟が護衛に立っているとはお聞きしておりましたが、」
「いつもお世話になっております」
そして、オレも一度だけなら面識がある。
石鹸の流通の件で、商業ギルドで繋ぎを作った時。
商会の一つとして交渉に来たのも彼女だった。
「こんな偶然もあるものですのね。まさか、小さなお客様と『予言の騎士』様もお知り合いだったなんて、」
「ひょんなことで知り合いましてね」
本当に、偶然って怖いね。
オレの背後で、戦々恐々としているゲイル。
若干、マナーモードになっているのは、何故だろうか?
「ウチの愚弟が、何か失礼な事はしなかったかしら?」
「そんな事無いわ。むしろ、お世話になったぐらい…」
「あらまぁ。仕事にしか能の無い子だけど、お役に立てたなら嬉しいわ」
シャルとの会話も、楽しげだ。
そして、どことなく、風格が漂っている。
ちょっと分かった。
この姉上様には、オレでも逆らえ無さそう。
「や、やめてくれ姉上」
「あらま、本当の事でしょう?34歳にもなって、嫁の一人もいない貴族の坊ちゃん?」
「そ、それは姉上も、」
「あたしは、もう貴族の令嬢では無くってよ」
「…ぐッ!」
耐え兼ねたゲイルが、止めに入るも火に油。
ついでに、ちくちくと皮肉を言われ、挙句に黙らされた。
えげつねぇ。
「…そろそろ準備をしないと、小さなお客様に怒られちゃうわね。ちょっと待ってて頂戴」
「急がなくても良いわ。少し店の中を見せて貰っても?」
「ええ、勿論。何か買いたいものがあれば、言ってくださいな。弟にツケておくからね」
「えっ!?あ、姉上!?」
更にえげつねぇ。
間宮とオリビアなど、怒涛の口舌にきょとんとしてしまっている。
オレも愛想笑いは浮かべているが、内心ではドン引き。
ご愁傷様、ゲイル。
お前の家が改めて凄いことが分かったよ。
若干、煤けた様子のゲイルを慰めておいた。
「あ、これ買ってもいいかしら?この間、食べた料理の隠し味が、これだって榊原から聞いたの」
「ああ、良いよ。お代はオレが出すから、」
「ギンジ、心遣いはありがたいが、それだとまたオレが姉上にネチネチ言われる」
「あ、そう?じゃあ、今度酒でも奢るよ」
「……しばらくは、勘弁してくれ」
慰めた筈だし、フォローもした筈。
なのに、結局ゲイルは目頭を抑えてしまった。
どうやらジャッキーの地獄の一気飲み三本勝負はトラウマになっているらしい。
オレも軽くトラウマだけどさ。
「あらまぁ、泣いているの?昔から耐え症の無い子なんだから」
「……姉上、」
そして、最終的にヴィッキーさんからグサリ。
トドメを刺されたゲイル。
結局オレ達は、彼が火の球と友達になったのを見届ける事となった。
「姉弟も大変ね」
「…オレもそう思った」
シャルと一緒に、溜め息を零す。
杉坂姉妹や常盤兄弟の影響で、兄弟姉妹に憧れた事が無かったわけでは無い。
だが、これはこれで結構キツイだろうな。
無いもの強請りって事で。
「アンタも一人っ子?」
「多分ね」
いや、オレ捨て子だから知らない。
微妙な空気になっちゃうだろうから言わないけど。
しかし、結局微妙な雰囲気にはなってしまった。
ゴメンね、ニュアンスが悪かったね。
そんなこんなで、一軒目終了。
一軒目から凄いインパクトだった。
と思っていたら、
「『予言の騎士』様…」
帰り際、こっそりとヴィッキーに呼び止められた。
「ウチの弟、無理はしてないでしょうか?」
「ああ、ええ。大丈夫ですよ」
オレが無理をさせている事が多いから、なんとも言えないけど。
ゴメンなさい。
いつもお世話になっております。
お姉さんとして、彼女もゲイルの事を気にかけている。
ゲイルを見る目線も、どこか気遣わしげ。
聞いていたよりも、よっぽど良いお姉さんじゃないか。
「顔も青いし、ふらふらしているので、ちょっと心配になって、」
「すみません、それはオレのせいです」
ぎゃああ!
ゴメンなさい、切実に!
二日酔いになるまで飲ませたとか、家族の前でぶっちゃけるってどんな罰ゲーム?
「あら、耐え症の無い。久しぶりに鍛えてあげなくちゃダメかしら?」
「………。ほどほどに」
やめてあげてー。
今現在、鍛えてさせているオレが言うのも難だけど、やめてあげてー。
彼の肝臓が心配になって来た。
やっぱり、しばらくはオレも節制しておこう。
***
そんなこんなで、『セフィロト商店』での買い物は終了。
遠い目をしているゲイルを引き連れ、ヴィッキーさんの店を後にする。
青かった顔が、いっそ蒼白である。
オレ達もだけどね。
パワフルなお姉さんだこと。
話が逸れた。
その後もシャルの買い物は続いている。
量販店の次は、骨董品店。
そこで、シャルは魔法陣用のインクを大量購入。
彼女達が使っている転移魔法陣のインクだそうだ。
彼女達が使う転移魔法陣は使う度に、書きなおさなければいけないらしい。
そして、転移魔法陣事態も特殊なので、こうした骨董品店でオリジナルに取り扱っているインクが大量に必要との事。
……田舎暮らしも大変だわ。
さて、お次は三軒目。
次に回ったのは、呉服店。
彼女の汚れてしまった服の他に、いつも通りなのか布を大量購入。
何に使うのか?と聞いたら、顔を赤くされてしまった。
推して察しよう。
女性特有の月のものだ。
こっちでは紙じゃなくて布らしいからさ。
何が?
ナ○キンだよ。
と、本日二度目の気まずい雰囲気。
耐え兼ねて、店内を物色。
ふと、そこで、
「…あ、これ可愛いな」
「本当!…でも、ちょっと高い」
荷物を待つ間、店内で見つけたワンピース。
薄い緑色をした、ちょっと体にぴったりするようなマキシワンピ。
裾が絞られ、下だけが末広がりになっているので、マーメイドタイプだろう。
付属のコサージュも可愛い。
オレも可愛いと思ったし、シャルも同意見だったようだ。
しかし、表記された値段を見て、途端にしょんぼり。
あらまぁ、可愛い。
無自覚とはいえ、小悪魔なんだから。
「これは、報酬ね」
「えっ?…だ、駄目よ!こんなの、高すぎる…!」
そう言って、ワンピースを籠の中へ。
シャルの反対は無視をしておいた。
しかし、
「お、この色も良いな…」
その下には、同じタイプのワンピースが色違いでもう一着あった。
ついでに、オリビアも呼び寄せる。
「これ、色違いで薄紫のがあるんだが、欲しい?」
「良いんですか!?」
丁度、色違いがあった。
シャルもオリビアも、まだまだ女の子。
というか、二人とも今後どれだけ成長するのか分からないけど…。
まぁ、話は逸れた。
彼女達に色違いでワンピースを購入。
確かに高いとは言え、お世話になった報酬。
学校での教授とはまた別の報酬だ。
「…貰えないわ。だ、だって、あたし、この買い物だって、アンタに、」
「もう買っちゃったもん。…それに、それ以外のお礼がまだだったから」
魔力の暴走の時、彼女は一番大変な役回りだった。
昨日の食事会の席でオリビアからこそっと聞いていたのだ。
生徒達の未熟な精度の魔力を調節しつつ、オリビアへと供給。
その上で、彼女自身も魔力枯渇のギリギリまで頑張って、生徒達を助けてくれた。
本当に迷惑を掛けたものだ。
昨日の食事会程度では、まだまだお礼は足りない。
生徒達には、これからいくらでも返してやれる。
でも、シャルは違う。
しばらくは、会えなくなる。
次の買物の時期は一ヶ月後だと言うし、それまで借りにしておくのもオレが納得いかない。
「次の買物の時、着て来て?…きっと似合うから」
「……あ、」
それに、たまには良いだろう。
彼女もお洒落をしたって。
現代ではたった数分の買い物にすら、化粧をして行く女子もいる。
例が可笑しいかもしれないが、彼女がお洒落をしちゃいけない理由はない。
「あ、りがと…っ」
「どういたしまして」
涙ぐみながら受け取ってくれたシャル。
微笑ましい姿に、オレも自然とほっこりした。
ただし、
「アイツ、先行投資のつもりか?」
「(自覚がない分、厄介だと思います)」
背後の二人。
聞こえないように小声で話しているようだが、こっち読唇術が使える事を忘れないように。
肩越しに唇の動きをしっかり視認。
後で、『OHA☆NASHI』が必要なら、素直にそう言え。
***
さてさて、三軒目も大量だった。
騎士達の腕も、この時点でほとんど埋まってしまっている。
どんだけ買い込むのか。
まぁ、余裕を持って一ヶ月分なら、このぐらいにはなるだろうな。
三軒目を終えて、そして、オレの『OHA☆NASHI』も終わった後だった。
次のお店は、武器屋。
ここでは、矢と砥石を大量購入していた。
シャルの狩猟道具の手入れ品のようだ。
そう言えば、彼女は初対面の時、弓と大型のナイフを持っていた。
矢は消耗品だし、使わなければ鏃だって痛む。
しかし、思わぬ落とし穴。
ここに来て、一気に荷物に重量が出て来た。
流石に、このままで歩きまわるのは、荷物持ちの騎士達にも申し訳ない。
「近くに、騎士団の屯所がある。…そこで、荷車を借りて来よう」
「ああ、そうだな」
「ごめんなさい。いつもは、先に用意しておくんだけど忘れてたわ」
と言う訳で、急遽騎士団の屯所へとお邪魔する。
ゲイルの鶴の一言で、すぐに荷車が貸し出して貰えるだろう。
「おや、お久しぶりでございます!」
「ああ、久しぶりだな。元気だったか?」
「おかげさまで!」
あと、ここには『蒼天騎士団』が詰めていたようだ。
久しぶりに会ったのは、団長のジェイコブ。
傍らには、豚がちょこんと座っている。
何、その癒し要員。
リードを付けて、尻尾が黒こげとなった豚。
見覚えが無いわけでは無い。
『黒こげ豚』だったけ?
何を隠そう、メイソンだ。
女神様の罰で、人間を辞めさせられてしまった彼だ。
随分としおらしくなっちゃって。
ってか、お前が飼ってたのね。
そっちの方が、吃驚。
「ははは。意外と愛嬌がありまして、」
「そのようだ」
苦笑と共に、しおらしくなった豚を眺める。
しかし、その時、
「………ッ!!」
息を呑む音。
気配が尖った。
思わず、オレも背筋を伸ばす。
ゲイルが勢いよく振り返る。
どうやら、反応を見る限りコイツは違うようだ。
間宮が思わず、振り返りざまに脇差に手を掛けた。
コイツも違う、と。
「ど、どうなさいました?」
良く分かっていない様子のオリビア。
きょとんとした眼で、オレを見上げていた。
彼女も違うな。
ジェイコブも驚いた様子で固まっている。
足下の豚は、後ろ足で耳を掻いている。
緊迫感の欠片も無いな。
コイツ等も違うだろう。
ならば、誰だ?
今の尖った気配。
あれは、尋常じゃ、
「あっ、シャルさん!?」
ふとそこで、声を上げたのはオリビア。
そして、彼女の声で呼ばれた名前。
そうだ。
もう一人いたのだ。
「シャル!?」
「シャルくん!?」
振り返り見たオレの目には、シャルの後ろ姿。
猛然と走り出した彼女が、雑踏に消えていく姿だった。
オレとゲイルが同時に叫び、同じように彼女を追いかける。
後ろ背に、騎士達の声が聞こえるが、構っていられない。
しかし、流石は森小神族というべきか。
すばしっこく、雑踏を縫うようにして走って行った彼女。
しかも、元々彼女は、身長が低くて見つけづらい。
「おい、シャル!待て!!」
「どこに行くんだ、シャルくん!」
「シャルさん!待ってください!!」
オレ達の呼びかけに、シャルからの返答はない。
振り返りもしない。
その背は、すぐに見えなくなってしまった。
「おっと…!」
「す、すみません…!」
「こちらこそ、失礼!」
人にぶつかりかけて、咄嗟に停止。
雑踏の中では、流石にオレもお手上げだ。
シャルの消えた方向へと、半ば呆然と視線を向ける。
「いきなり、どうしたんだ?」
「さぁ?」
先ほどの尖った気配は、どうやら彼女のものだったらしい。
唐突過ぎて反応が遅れてしまった。
まさか、彼女が逃げ出すとは。
「…何か言ったのか?」
「いや、何も?」
「というか、お話してませんでしたよね?」
「(……豚を見ていただけでした)」
どうして、いきなり?
逃げ出す要因がどこにあったのだろうか。
まさか、豚に怯えた訳でもあるまいに。
もしそうなら、彼女はまず最初に悲鳴を上げるだろうし。
いや、待て。
「逃げた?…それとも、何かを追いかけたのか?」
逃げたと考えるのは、性急過ぎる。
「彼女が逃げる理由はないだろう?」
「そらそうだ。…だとすれば、何かを追いかけたと考えた方が良さそうだな」
逃げたではなく、追いかけたと考える。
むしろ、その方がしっくり来る。
彼女の知り合いか誰かがいたのか。
もしくは、彼女の眼を引く何かがあったのか。
ここに来て、とんだサプライズ。
メインとなっている買い物を放り出して、本人が行方不明になってしまうとは。
なんにせよ、放っておく訳にはいかない。
「…間宮、匂いで追えるか?」
「(難しいかと…。雑踏の中ですし、飲食店などが近くて、)」
確かに、雑踏の中では難しい。
色々な匂いが混じってしまって、個人を特定出来ない。
しかも、昼時を回ろうとした時間帯。
商業区の一部では、既に飲食を中心とした露店が軒を連ねている。
混ざり合った臭いのせいで、間宮もオレも鼻は利かない。
「地道に探すしかねぇか。悪いが、ゲイル!」
「騎士団を捜索に当たらせる!」
「頼む!」
呼べばすぐに答えてくれたゲイル。
今しがた飛び出した騎士団へと戻って行った。
捜索要員は、多いに越したことは無い。
「オレは東、間宮は西、オリビアは北!集合は1時間後に同じ場所だ!散れ!」
「(こくん)」
「はい!」
そうして、オレ達も駆け出した。
指示通りに、商業区の西と走り出した間宮。
彼もシャル同様雑踏にすぐさま消えた。
オリビアも同じく、北へと走り出した。
女神の力は、外ではあまり使わないように言いつけてあるので、少女然りと言った様子で地面を走って行く。
彼女もまた、すぐに人混みに紛れた。
「…猫を追いかけただけなら、まだ良いが、」
嫌な予感が、脳裏を過る。
先ほどの、尖った気配。
あれは、尋常じゃなかった。
シャルがあそこまで気を尖らせたのは、オレ達との初対面の時以来では無いだろうか。
だとすれば、追いかけた相手は限られてくる。
知り合いだとしても、ただの知り合いでは無いだろう。
負の感情を持つ相手。
すべての話を聞いた訳では無いから、仇と呼べる人間がいたとしても不思議では無い。
そんな人物が、偶然シャルの目の前に?
それは虫が良すぎる。
誘き寄せられた。
そう考えるのが妥当だ。
「(罠でも仕掛けられたら眼も当てられない…。シャルに何かあったら、彼女の母親へのコンタクトもおじゃんじゃねぇか)」
彼女の心配も勿論ある。
だが、オレの懸念はもう一つある。
シャルの母親との邂逅。
出来れば、ボミット病に関して話を伺いたい。
喉から手が出る程。
と言う言い方も大袈裟ながら、遅かれ早かれ相談相手が必要だったのだ。
オレの中途半端な医療知識では、近いうちに限界が見えてくる。
シャルには、その繋ぎをお願いしていた。
そして、今回彼女の買い物で先行投資したのも、その為の布石でもあった。
それが、すべて水の泡。
更に、シャルがまかり間違って、怪我、もしくは死亡した場合、オレが悔やまないでいられる保証はない。
その相手を、膾に刻むのは勿論のこと。
最悪、裏社会に手を出さなければいけなくなる。
かつて、オレがそうしていたように。
「そうならない為にも、探し出さなくちゃな…」
そうならないように。
それが、現実にならない事を祈るばかり。
少しの逡巡の後、オレは眼の前にあった路地裏へと駆け込んだ。
方角は東。
間違っては、いないからな。
細い路地を、障害物を避けて走る。
その傍ら、
「(アグラヴェイン、…頼む)」
呼び掛ける相手。
誰かは、決まっている。
オレの新たな相棒にして、『闇』の精霊。
『断罪の騎士・アグラヴェイン』。
ーーーーー今度は、何を甘えるつもりだ?
うっそりと、闇の中で笑った気配。
それに、苦笑と共に答える。
「(半径一里(約4Km)を闇で探索は可能か?)」
ーーーーー……何をするつもりだ?
胡乱気に聞かれた内容に、かくかくしかじかで簡潔に説明。
以下省略と言うのも付け加える。
ーーーーー簡略過ぎだ。
怒られた。
緊急事態だから、察して欲しい。
だが、
ーーーーー…そのような使い方をしたのは、主が初めてよ。
出来るのかどうか。
それには、肯定が返された。
ならば、使わせて貰う。
シャルを探す為に、出来るだけ時間は掛けたくない。
多少心得があり、魔法の才能があるとは言え、彼女は女の子。
しかも森小神族ともなれば、危険度は臨界突破。
人間社会では、彼女はそこらの宝石よりも価値がある。
それは勿論、オレにとっても同じ。
「来い、アグラヴェイン」
『昨日の今日でとは…。主も反省しないものだな…』
呼び出したアグラヴェイン。
魔力枯渇を覚悟の上だ。
ついでに、コイツからの皮肉も同様。
文句は後で聞こう。
傍らに並走するようにして疾駆する甲冑を纏った馬。
馬上のアグラヴェインは、いない。
並走する馬に飛び乗って、路地裏を疾走する。
障害物など、簡単に蹴散らして。
「……頼むから、何事も無く見つかってくれよ…!」
誰に祈るでも無く。
独り言のように呟いた言葉。
馬の疾走によって、ごうごうと鳴る風にかき消えた。
***
そのダドルアード王国を、眼下に収める丘。
『クォドラ森林』に程近く、後数日も歩けば街道に差し掛かる場所であった。
そこに、二つ分の足音が響く。
埃除けの布で覆われた足下。
視線を上げて行けば、膝下まですっぽりと茶褐色のマントを被っている。
フードで半分程覆い隠した顔。
そのフードから覗いた肌は、灰褐色。
唇は、片方が白く、片方は薄紫色に色づいていた。
そのどちらも、肌がうっすらと汗で湿っている。
「…本当に、ここにいるのか?」
「地図によると、間違いなさそうなのだけど、」
高低のはっきりした声が響く。
片方は男、片方は女。
女の方は、少女と言っても差し障り無いだろう。
地図を片手に開いたのは、少女の方であった。
「…うん、間違いない。ここから、見える森の奥地となってる」
彼女が指を指し示した方角。
そこには、欝蒼と茂った森があった。
『クォドラ森林』。
過去、銀次が遭難したこともある、ダドルアード王国南東の森。
その方向を指し示した少女の口元が引き結ばれた。
「結界が張られているわ。おそらく『迷路』」
「貴奴で間違いなさそうだな、」
口をへの字に曲げた少女とは対照的に、男の方は苦笑を洩らした。
懐かしさにか、それとも…。
「急ごう。…なるべく、彼女の意思は尊重してやりたい」
「そうね。目的が達せられなければ、私達も無駄足になってしまうもの、」
そう言って、止めていた足を踏み出した二人。
足取りは軽い。
しかし、背負う雰囲気はどこか重苦しかった。
1月末日の事。
遡ること、一日。
その日は、ダドルアード王国で、騎士昇格試験が行われていた当日であった。
空は快晴。
街道に辿り着くまで、数日はかかるだろう。
彼女達が、『クォドラ森林』に辿り着くのは、早くても三日後。
彼等は、その後も口数は少なく、黙々と歩き続けていた。
***
『完了したぞ、主』
「(サンキュー、アグラヴェイン)」
脳裏に直接響く声。
リンクした『闇』の精霊の意識を、そのまま自身の脳内へと流し込ませる。
集音まで出来るのか、耳に響く雑踏の音。
高速で駆け回っているように、移り変わる視界。
移動しながら、脳内に流し込まれる映像に集中する。
移動はアグラヴェインの愛馬・スロットに任せっきりだが、今回は仕方無いと割り切ってくれ。
『これも貸しにしておくぞ』
「(はいはい、いくらでも貸しにしておいて良いから、早くシャルを『探索』してくれ)」
『注文の多い…』
辟易とした声が返されたとしても、何のその。
オレは、意識を脳裏に流し込まれる映像へと向け続ける。
「(シャル、どこにいる!?)」
今、オレが何をしているのか。
ぶっちゃけて言えば、監視カメラの簡易版だ。
現代知識と魔法の複合である。
使ったのは、『闇』。
オレの持っている属性である『闇』で、半径4キロを可視域に指定。
協賛は勿論、アグラヴェイン。
毎度のことながら、彼任せである。
と言っても、まだ二回目だけど。
街の中は、乱雑に建物が立ち並び、路地裏も多い。
つまり、その分影になる部分も多いと言う事。
『闇』属性のオレには、好都合。
可視域というのは、文字通りオレの脳内で見える領域の事。
影になる部分をアグラヴェインに『闇』として接続して貰い、直接オレの脳内へと映像を送って貰っている。
建物や露天の影。
雑踏を行きかう人々の影。
路地裏の暗がり。
時には、猫の足裏すらも眺める事になる。
アグラヴェインにも驚かれたが、こんな使い方も出来るものだ。
オレも半信半疑だったけど。
ただし、
「(…急がないと、オレの頭もパンクしそうだ…!)」
脳裏に流し込まれる映像が膨大すぎる。
何台ものカメラ映像を、一秒ごとに代わる代わる見ているような状態。
常人ならオーバーヒートを起こしそうなものだが、
「(…耐えろ!…同時進行はオレの得意分野だろうが…!)」
一つの雑事をしながら、二つ目、三つ目とこなす処理能力。
かつての修行時代に、師匠から叩き込まれた方法だ。
今では、料理をしながら、詩の朗読と、計算問題が出来る。
……そう考えると、あんまり役に立ってないかも。
『無駄な事を考えておる暇があれば、少しは自分で調節せぬか』
「(すみません。努力します)」
アグラヴェインから窘められた。
当たり前だ。
無駄な事を考える事も多い、と。
あ、間宮を発見。
アイツも路地裏が怪しいと踏んで、駆け回っているらしい。
ゲイルも見つけた。
商業区を中心に、騎士団の多人数を利用しての波状ローラー作戦。
オリビアも見つけたな。
彼女は、律儀に名前を呼んで、商業区の中心街でシャルを探している。
って、おいこら通行人A!
オリビアに向かってはぁはぁ言いながら近づこうとしてんじゃねぇ!
『学習能力の無い、』
「(あ、ごめん。…女神様に欲情する不届き者がいたもんで、)」
まぁ、彼女は大丈夫。
なにせ、女神様だから。
と思ったら、どこかで雷の音が鳴った。
こんな快晴に?と思うかもしれないが、十中八九オリビアの魔法だろう。
通行人Aが、人間をログアウトしました。
彼女の罰は、相変わらず怖いです。
ってか、女神の力を使わないって約束どこ行った?
仕方ないから、緊急事態って事で。
閑話休題。
「見つけた…っ!!」
路地裏を駆ける小さな人影。
フードが脱げ掛けるのを、何度も直しながら必死に走っている。
緑掛かった銀色の髪が乱れてしまっている。
折角、伊野田が朝の段階で整えてくれたと言うのに。
さて、彼女は何を追いかけているのか。
目線を上げるような感覚で、彼女の追いかける先を見据える。
「(誰だ…?)」
そこには、何者かの後ろ姿があった。
茶褐色のマントに、フードをすっぽりと被っている。
特徴らしきものは見当たらない。
その後ろ姿は、更に路地裏へと消えていく。
「(…場所は、どこだ?…)」
路地裏の奥へ奥へ。
誘うような人物の背中を追って、シャルも奥へと進む。
完全に誘い込まれているな。
罠としか考えられないと言うのに、何故気付かないのか。
次からは、シャルから眼を離さないでおこう。
それは、今も同じ。
その背中を見失わないように、周囲の情報を闇を使って拾う。
見つけてからはそっち一本に意識を向けられる。
おかげで、脳内オーバーヒートは見送られた。
その分の意識をすべて、周りの情報を拾う事に使えるようになる。
「(あれは、鐘か?…教会の鐘だな。あの位置からすると、東側の商業区の端だ)」
路地裏の境目から見えた教会の鐘。
ついでに、その向きから逆算した方角を頭の中で整理。
距離からして、東側のどこかの路地裏。
オレの方向がビンゴ。
ただ、正確な位置がまだまだ分からない。
他に、何か無いだろうか?
絞り込んで、回り込むことさえ出来れば、
って、あ。
「(…ビンゴ!!)」
チラっと路地裏の境目から見えた、目印。
オレの進行方向にも見えている、城壁の一部。
しかも、櫓が見えたと言う事は、
「このまま、まっすぐ!」
『本に、主は遠慮を知らんな』
ゴメンね。
でも、緊急事態。
これぐらいは許して。
「頭痛ぇ…!」
『…このような使い方をしたからだろうな』
ここで、オレも脳内が限界を訴え、『闇』を使った簡易監視カメラとの接続を切断した。
と同時に、背後に冷たい気配。
おわ、リンクを切ったらアグラヴェインも戻って来た。
背中に甲冑の感触がリアルに伝わってくる。
あ、具現化すると実体があるんだね。
しかし。
しかしながら、だ。
背後には、身の丈2Mを超えるだろう巨体。
渋々手綱を明け渡せば、自然と彼に抱えられる形となる。
彼の前に相乗りしているような状態になって、若干辟易としてしまう。
この年になって、ニケツとは…。
『余計な事を考えている前に、歯を噛み締めておけ』
「えっ…?はっ…!?ぎ、ぎゃああ!!」
しかし、手綱を明け渡した途端、オレの悲鳴が路地裏に虚しく木霊した。
先ほどまで、アグラヴェインの愛馬・スロットは惰性で流していただけだったようだ。
アグラヴェインが手綱を握り、鐙を蹴ったと同時に、グンと体が後ろに引っ張られる。
凄まじいGに、首がむち打ち寸前となった。
慣性の法則とやらは、やはりどの世界でも共通なのか。
しかも、シートベルトは無い。
安全装置無しの、ドリフト体験のようなものだ。
死ぬわ。
「ちょ、ちょちょちょちょっと待て!ちょっと待て、お兄さ~ん!!」
『我は、主の兄では無い』
「そうだけど、そうだけど!ちょっと待てぇえええ!!」
せめて、抱えて!
二ケツは嫌とか我儘ももう言わないから、抱えて!
体感速度は、時速70キロ。
しばらく、乗馬は勘弁願いたい。
『くははっ。貴殿も苦手なものがあったようだなぁ』
「(めっちゃ楽しそう…!)」
何この精霊。
超鬼畜。
***
とうとう、この日がやって来た。
この学校で過ごす最後の一日。
いつも通りの時間に目を覚まし、同じように起きだして来た生徒達と挨拶を交わす。
その間にも背中にせっつく感情。
それは、焦燥だった。
あたしは、明日にはこの学校を出ていかなければならない。
生徒達との他愛ない会話。
朝食の手伝いをしようとして「もう、毎日毎日懲りないね。シャルちゃんはゆっくりしてなさい」とサカキバラに窘められる。
コウガミにも、「先生は先生らしく座ってな。銀次みたく叩き出されたくねぇだろ?」と言われ、大人しくキッチンを後にした。
そこで遭遇する、朝の鍛錬を終えたナガソネ、アサヌマ、トクガワ。
「お、今日も惨敗したか?」と苦笑するナガソネ。
「今日もシャルちゃん、可愛いねぇ」と気持ち悪いアサヌマ。
「汗臭いかもしんねぇから、あんまり寄るなよっ?」と赤面したトクガワ。
熱心なものだ。
更には二階から降りて来たイノタと鉢合わせ。
彼女は、この学校に来た当初からお姉さんぶって世話を焼いてくれる。
いつも通り、髪を梳かされ「さらさらで羨ましいね。銀色の髪って憧れちゃう」と、鏡の向こうで苦笑をこぼされた。
あたしは、彼女の黒髪の方がよっぽど好き。
半ば独占していたような洗面所から出てくると、待っていたのかスギサカ姉妹と出くわす。
苦笑を零したソフィアと、欠伸を洩らしたエマ。
「仲良しだねぇ」「本当、本当。…いっそのこと、姉妹になっちゃえば?」と二人して、あたし達二人の頭を撫でて行く。
こんな姉妹になれるなら、あたしもお願いしたいぐらい。
あと、身体付きも。
二人とも見事な程の豊満な胸と、くびれた腰、すらっと伸びた脚。
正直、子ども体型のあたし達は、羨ましい。
更に時間差で降りてくるトキワ兄弟。
「おはよう。今日も早いね」と、どこかあどけ無く微笑むカナン。
「ヤァヤァ、おはようございマス」と、語尾が上がり気味のキノ。
仲が良い兄弟。
あたしは一人っ子だったから、羨ましい。
二人のような優しいお兄ちゃんが、あたしにもいたら良かった。
ふと視線を上げると、こちらも修練後の間宮と出くわした。
「(ぺこり)」と、言葉は無くとも体で挨拶をくれる間宮。
身長も近くて、それこそ同年代とも言える彼は、あたしから見ても微笑ましいと思う。
ただし、臆面も無くどこでも服を脱いでしまうところは、どうにかして欲しい。
15歳と聞いているのに、鍛えられた筋肉はしなやかに整えられている。
ドキドキしてしまうのは、あたしも女だから。
そして、
「…こらこら、間宮。こんなところで脱がなくても、」
朝一番に聞いた、低音の耳をくすぐる声。
途端に、鼓動が跳ね上がるようにして、どくどくと鳴り響く。
血が巡る。
顔に血が集まって、熱くなっていた。
「ああ、おはよう、シャル」
「お、おはよう…!」
そう言って、あたしの横を通り過ぎたギンジ。
彼も間宮と同じく修練を終えた後なのだろう。
首にはタオル。
動きやすいように、上はシャツ一枚で下にはジャージ。
シャツの下の肌がうっすらと透けるほど、しっとりと汗で湿っている。
間宮とは違う、鍛えられた身体付き。
それが、眼に映ったと同時に、更に赤面してしまう。
はがそうとしてもはがせない視線に、頭の中がパニックになってしまう。
幸い、彼は気付くこと無く通り過ぎた。
けど、あたしにとっては、心臓が爆発するんじゃないと思うぐらいの事件である。
洗面所から出てきたばっかりのエマとソフィアに揃って悲鳴を上げられる。
その気持ちは、あたしも分かる。
隣ではイノタも顔を真っ赤にしていた。
最近、痩せたとは思っていたけど、それでも男性らしい体は健在だ。
眼に毒だ。
素直にそう思った。
そして、途端に冷える背中。
感じたのはやはり、焦燥感。
「(あたし、今日で最後…なんだ)」
寂しさ。
切なさ。
そして、愛しさ。
この校舎に来てからの約1週間。
あたしにとっては、夢のような1週間。
仲良くなった生徒達。
勿論、今まで嫌いだった騎士とも仲良くなった。
皆、差別も偏見もしないで、あたしを対等に見てくれる。
人間と同じように接してくれる。
何よりも、ギンジがいてくれる。
好きになってしまったと自覚してからは、この校舎にいたい気持ちが強くなっていた。
このまま、ずっとここで暮らしたい。
毎日の狩猟の時間を、ここでの勉強に使いたい。
調理や洗濯の時間を、ここでの教鞭を取る時間に使いたい。
病気の母と共に過ごす時間を、ギンジと過ごす時間に使いたい。
そこまで考えて、結局頭が冷えた。
どのみち、あたしは帰らなきゃいけない。
母さんがいる。
病床の母さんは、あたしの眼から見ても長くない。
体力的にも精神的にも。
あの家を飛び出したこと。
酷い事を言って、母さんの手を振り払ったこと。
そして、ギンジに泣きついたこと。
その全部を後悔していた。
だって、こんな生活を知りたくなかった。
同年代では無い。
それでも、年齢の近い者達と共に過ごす空間。
勉学を共に出来る、友人。
寝食を共に出来る、家族のような人達。
寮生活だと、イノタ達が言っていた。
彼女達が元いた世界でも、こうして男女が共同で学校に通い、共同で生活する場所があったのだと。
知らなければ良かった。
そう思う。
この生活を知ってしまって、家には帰りたくなくなってしまったから。
あの森での生活は孤独だ。
母がいるにしても、友人はいない。
好きな人もいない。
大好きなギンジがいない。
一生、あの森の奥地で、檻の中のカナリアのような生活。
考えたくもなかった。
***
その後、朝食の時。
「今日は、久しぶりにお休みにします。ただし、各自強化訓練の基礎と、魔法の習練の基礎だけをやっておくように」
そう言ったギンジに、思わずしょんぼり。
今日は、彼の授業は無いのだ。
あたしは、いつの間にか食事の手を止めていた。
しかし、
「先生は今日、どうするの?」
「オレは、シャルと一緒に買い物」
その次の言葉を聞いて、またしても心臓が跳ね上がる。
ギンジとあたしで、買い物?
二人きりなの?
等々、舞い上がってしまった自分が、情けない。
補充を忘れていた。
1ヶ月分の生活に必要な物品を買いに行くのだ。
思い出して、落胆。
ちらり、と盗み見たギンジ。
「(あ…顔、まだ白いまま…)」
青白いと形容できる顔。
少しこけた頬は、たった数日程度では戻る訳も無い。
一昨日は、魔力の暴走。
昨日は、騎士昇格試験。
しかも、聞くところによると試験以外で問題も発生したらしい。
昨日の今日だ。
出来れば、彼にも休んでほしい。
あわよくば、帰宅を遅らせたいと打算的な事も考えて、
「べ、別に明日でも明後日でも良いわよ!急ぐことでも無いし!」
「いや、十分急ぐ事だから…。お前のお母さん、通算して1週間も放置って…」
「………。」
言ってから、窘められる。
当たり前だ。
忘れてはいけない。
あたしは、帰らなければいけない。
ギンジから、さよならと突き付けられた気分になった。
***
朝食のあと、すぐに出発した。
ギンジと間宮、オリビアと騎士のアビゲイル。
護衛の騎士達も一緒。
ギンジ同様に青い顔をしたアビゲイル。
「君も飲んだ筈じゃなかったか?」と間宮にげっそりとした顔で問いかけた彼。
二日酔いだそうだ。
一体、どれだけ飲んだのか?
けろっとしているギンジとマミヤ。
ついでに、ギンジが若干、顔が青いのもそのせいだと言われて、ついつい大仰に怒鳴ってしまう。
その後、将来の約束をされた事に驚いた。
お酒をギンジと一緒に飲みに行く。
驚いたと同時に、嬉しかった。
考えただけで、どくどくと心臓が跳ねまわっている。
その瞬間、遠い眼をしたギンジ。
なんとなく分かった。
彼は、純粋にあたしだけを見ている訳じゃない事。
すっと、途端に冷えた頭。
彼はあたしの向こうに、誰を見ているのか。
きっと、母さんの事だ。
あたしを通して、ギンジは母さんに繋ぎを作りたがっている。
思えば最初からそうだったでは無いか。
何を、期待しているのか。
背筋が冷える。
「約束、だからね」
「勿論だ。…いずれ、本当にそうなれば良いね」
「そ、それまで死ぬんじゃないわよ…っ?」
「……肝ニ銘ジマス」
ついつい、厭味ったらしい口も利いてしまった
こんなことでは駄目だと分かっているのに。
***
その後は、通常通り買い物に集中する事にした。
でなければ、無駄な事ばかり考えてしまう。
だから、努めて事務的に買い物を行った。
一軒目は、量販店。
ここでは、必要な消耗品をまとめて購入している。
羽ペンやインクに羊皮紙。
母さんが必要としているものは、ほとんどここで揃う。
だが、
「また来てね、小さなお客様?弟のツケでいくらでもサービスしてあげるわ♪」
まさか、アビゲイルのお姉さんが経営している店だとは思ってもみなかった。
それと、それはサービスとは言わないと思う。
アビゲイルへの嫌がらせだわ…。
二軒目は、骨董品店。
ここでは、魔法陣のインクを買う。
この店にしか置いていないオリジナルなのだ。
母さんの転移魔法陣と、とても相性が良い。
それ以外にも、チェックすることがある。
母さんが開発した放出型の魔法具が出回っていないか。
見掛けたら買い占めてくるように言い付けられている。
しかし、ここ数年は表立って取引されていない。
ギンジ達は、どうやって手に入れたのかしら?
三軒目は、呉服屋。
ここでは、もちろん布を大量に買う。
布巾や下着、ついでに月経用の布だ。
忘れると、母さんが大変な思いをしてしまう。
用途を聞かれて、思わず赤面してしまった。
さ、察しなさいよ!
あたしも母さんも女なんだから、男より必要な布の量が違うんだから!
あたしは、まだ月のものは来てないけど…。
気まずい雰囲気となった。
商品の用意と、会計を待っている最中だった。
耐え兼ねて、店内をうろちょろする。
「…あ、これ可愛いな」
「本当!…でも、ちょっと高い」
ギンジが見つけたワンピース。
マーメイドラインの、ちょっと大人びた子ども服。
薄い緑色のそれは、首元にアクセントのコサージュまで付いている。
本能的に、可愛い!と眼を輝かせてしまった。
しかし、残念ながら、その値段を見て吃驚。
今回の購入金額と同じだけの値段をしている。
これ以上、お金を掛けさせるわけにはいかない。
買い物だって、これだけで終わりでは無いのだ。
思わず、しょんぼり。
しかし、それを察知されたのか、
「これは、報酬ね」
「えっ?」
なんでも無いことのように、彼は籠の中へ無造作に放り込んでしまう。
なんて、馬鹿なことをしているの!?
「…だ、駄目よ!こんなの、高すぎる…!」
制止をしようとしても、どこ吹く風。
終いには、オリビアまで呼び寄せて、色違いを買ってしまう。
そんなつもりは、無かった。
彼に、強請るような形になってしまって。
胸の奥が痛む。
あたしは、こうして彼に与えられてばかりだ。
何も、返せていないのに。
優しく微笑んだ彼が、あたしの目線までしゃがみ込む。
「次の買物の時、着て来て?…きっと似合うから」
「……あ、」
それは、次の約束。
なんでもかんでも与えてくれて、それでいて返す機会も持たせてくれている。
優しすぎるのだ、彼は。
胸がまた痛む。
でも、これは悲しいからじゃない。
「あ、りがと…っ」
「どういたしまして」
鼻の奥がツンとして、目頭が熱い。
泣きそうになるのを堪えて、彼に買って貰ったワンピースの袋を、抱き締めた。
ああ、もう。
あたしはきっと、このワンピースを着れなくなっても大事にするだろう。
あたしをここまで、夢中にさせてどうしたいの?
将来、大きくなった時にお嫁さんにしてくれるの?
そうだと言うなら、今から婚約したいぐらい。
口では、言えないけど。
でも、なんだろう?
突然、無表情になったと思ったら、別の所を見て怖い目をしていたわ。
たまに、彼のこうした浮き沈みに戸惑うのよね。
へらへらしていると思ったら、突然鋭い目と顔で冷たい空気を纏うから。
「(…その顔も、…実は好きって…あたし、マゾだったのかしら?)」
***
買い物も後半に差し掛かった頃。
残りは、武器屋と防具屋。
それと、食料品を買う為に、市場に行かなければならない。
武器屋では、スペアの矢と砥石を買った。
狩猟用の矢が乏しかったし、ナイフも研がないとすぐに切れ味が悪くなる。
しかし、その買い物のせいで、荷物が重くなってしまった。
アビゲイルの助言で、近くにあった騎士団の屯所から荷車を借りる事になった。
騎士団は、あんまり好きじゃない。
アビゲイルや、護衛の騎士達は別。
だけど、王国の騎士団は昔から、母さんを苦しめて来た。
だから、嫌い。
あたしは、屯所の外で待つことにした。
中からは、ギンジと再会を喜ぶ声が聞こえた。
相変わらず、彼は顔が広い。
聞けば、魔族にも知り合いがいると言うし、王城に簡単に招かれる。
『予言の騎士』だから、当り前だと思う反面、ちょっと面白くない。
その経緯で、もし女性と知り合ったら?
それも、あたしよりも遙かにお似合いの美人さんだったら?
きっと勝ち目は無い。
アイツは、あたしのことも生徒と同じようにしか思って無い。
イノタ、エマ、ソフィアも同様だ。
オリビアは何か、違うような気がするけど、それでも眼中に無いと言った様子。
いつか、知らない女性を連れて、彼が街を歩いているかもしれない。
それを考えるだけで、頭が沸騰しそうになる。
お腹の奥底で、熱いものが込み上げて来て、ぐるぐると渦巻いているような気分になる。
あたし、いつからこんなに嫉妬深くなっちゃったのかしら?
想像上の未来にまで嫉妬するなんて。
悔しくなって、フードをかぶり直す。
フードの端と端を掴んで、ぎゅっと握った。
唇を噛み締めて、頭の中の妄想を吹き散らす。
そして、大人しく彼を待つ。
早く出てこないと、また足を踏んづけてやる。
そう考えて。
「(…………シャルや?)」
その瞬間だった。
聞き慣れた声が耳を掠めた。
一瞬、信じられなくて眼を瞠った。
すぐにその場で、周りを見渡す。
あたしに呼びかけている人はいない。
それどころか、あたしには見向きもしていなかった。
「(こっちじゃ…)」
更に続けて、掛けられた声。
視線を上げる。
目深に被ったフードのせいで、見えづらい。
「(…こっちじゃよ?)」
声に導かれるままに、視線が徐々に定まって行く。
それに、この声は、耳とは別に聞こえている。
ああ、これは、音として聞こえている声では無い。
本能的に察知した。
これは、脳裏に直接呼び掛けられている。
そして、呼び掛けているのは、
「(…なんで、ここにいるの…!?)」
ここにいない筈の人。
ここに来られる筈の無い人の声。
「(こっちじゃ、シャル)」
促されるまま、視線を上げた先。
たくさんの人が行き交う雑踏の中。
奈落の底のような路地裏の影。
露天の柱に紛れて見え辛い場所。
「(ッ…あれは、森小神族の『守護の外套』…!!)」
赤茶けたフード姿を見つけた。
それは、紛れも無く森小神族だった。
「(やっぱり、母さん!…なんで、こんなところに…!)」
フード越しに眼が合った。
にっこりと笑った口元は、確かに母さんだった。
途端、母さんは踵を返すように、路地裏へと消えてしまった。
「あ…ッ、待って…!!」
我ながら、情けない。
か細い声しか出せず、その背中を見送ってしまう。
背筋が凍り付いた。
どうして、ここにいるのか?
そして、こんなところにいて大丈夫なのか?
母さんは、もう長く無かった。
それを、自分自身でも悟っていた。
なのに、どうして?
気づけば、あたしは走り出していた。
追わなければ。
あたしの脳内には、その言葉しか浮かばなかった。
じゃないと、母さんを見失ってしまう。
遠くに行ってしまう。
それ以上、考えられなかった。
背後で、誰かが叫んでいる。
その声も、遠く聞こえなかった。
母さんを追いかけて、雑踏の中を擦り抜ける。
元々動体視力が優れている森小神族は、これぐらいの人混みなど物ともしない。
すぐに、路地裏へと駆け込むことが出来た。
***
駆け込んだ路地裏。
木箱の隅にいた猫が逃げ出した。
しかし、そこには母さんの姿は無い。
あるのは、闇ばかり。
「どこ!母さん…!?」
奥へと行ったのか?
まだ昼前とはいえ、こんな時間だとしても路地裏は危ない。
そう言って、教えたのは母さんでは無いのか。
なのに、自分からそんな場所に入り込むなんて。
あたしは、そのまま我武者羅に奥へ奥へと走った。
時折、通路の影に母さんの外套が翻る。
その度に、無理やりに方向転換をして、もう来た道すら分からなくなった。
度々足を取られてしまう路地裏の端に積み上げられた木箱や、大型のゴミ。
あたしの無様な息遣いと、乱れた足音が虚しく響く。
どこまで行くの?
これ以上は、自力で戻れなくなってしまう。
「…待って!母さん!母さんったら!!」
「(…こっちじゃ、シャル)」
叫び声を上げても、母さんは止まってくれない。
挙句には、更に奥へ奥へと、呼びたてられる。
駄目だ。
これ以上は、追いかけちゃいけない。
脳内で警鐘が鳴り響いている。
なのに、あたしは止まれない。
足が勝手に動いている。
そのうち、脳内が靄掛かって来て、意識がふんわりと軽くなっていく。
鼻を掠めるのは、甘い香り。
母さんが好んで使っていた石鹸の香りだ。
そして、
「ギンジ…どうしよう…!助けてっ…!母さんが、母さんが…!!」
ギンジが愛用している石鹸の香りでもあった。
彼を思い出した途端、胸が締め付けられるように痛んだ。
ああ、さっき後ろ背に聞いた声。
何故聞こえなかったのだろう。
ちゃんと、耳を傾ければ良かった。
彼に、先に言付けでもすれば良かった。
一緒に来てもらえば良かった。
気付いた時には、もう遅かった。
「(おいで、シャル…)」
いつしか、あたしの足は止まっていた。
意識はあるのに、体は動かない。
これは知っている。
「(…母さんの幻覚魔法…ッ!…今まで、散々…習ってきたのに…!)」
母さんの魔法の効果。
「やぁやぁ、シャル…悪い子じゃ」
目の前には、薄らと背面が透けた外套姿。
フードの間から漏れ出した、あたしと同じ色の緑掛かった銀色の髪。
口元には、薄らと笑みが浮いていた。
しかし、その口元には、不釣り合いな赤い筋。
あたしが叩いた時に切れた唇。
未だに、一週間前の傷があった。
もう、傷も回復しなくなってる。
それなのに、こんな魔法を使っているなんて。
「(やめて…。やめてよ、母さん…このままじゃ、死んじゃう…!)」
涙で視界が歪む。
やっと、自覚した。
その原因は、あたしだ。
母さんに魔法を使わせたのは、あたし。
こんなところに、来させてしまったのもあたしだ。
「(ごめんなさい…!もう、二度と家出はしない…!だからもう、やめて…!)」
……あたしは、どうしようも無い馬鹿だ。
こんなことになって、初めて気付く。
母さんが、こんな無理をしてしまうなんて思ってもみなかった。
「…駄目じゃ、シャル。許さぬよ?…これは、お仕置きじゃからな…」
そう言って、母さんはあたしに手を伸ばす。
その手もうっすら透けている。
これも、魔法だ。
意識だけを体から引き離して、遠距離での行動を可能にする魔法。
魔力次第で、実体も持たせることも出来る。
母さんだけのオリジナル。
伸びた手が、一気に色彩を持った。
実体を帯びたのだ。
それと同時に、片手で口を塞がれる。
母さんの整えられた爪が、頬を掠めた。
じんじんとした痛み。
きっと、傷になった。
でも、母さんはもっと痛いはず。
「ひっ…うぐっ!?」
「…シャル?1週間も家を離れて、人間の領域で何をしておったのじゃ?」
笑っているけど、フードから覗く眼は笑っていない。
まるで、ギンジのようだ。
眼が笑っていない時の方が多い。
彼は、口元だけ柔和にして、その実無表情だった。
「おや、随分と青二才の事を気にかけておるのぉ…」
内心を読まれている。
ああ、これも魔法の影響だ。
幻覚魔法の中にいるあたしは、脳内が母さんに筒抜けになっている。
「…これまた女のような顔をして、意外と男前じゃのう。…良かろう?少し、遊んでやる」
「(遊ぶ…?…やめて、母さん!…一体、何をするつもり…!?)」
口角を三日月のように吊り上げた母。
涙で歪んだ、その表情。
制止の声も、届かない。
「(…もう、やめてよ…母さん…死んじゃう、よ…)」
意識が、まるで眠りに落ちるように薄れて行く。
「母の最期の戯れじゃ…、大人しく見ておるが良い…」
母さんの声も、遠くに聞こえる。
上手く聞き取れない。
その中で、母さんの声と、
「シャル!!」
何故か聞こえた蹄の音と、馬の嘶き。
それに紛れて、ギンジの声を聞いた気がした。
助けてと願った人の、猛々しい声。
涙が零れてしまう。
もう、彼の前で泣きたくなかったのに。
だけど、もう遅かった。
その時には、意識が闇の中に沈むように落ちて行った。
***
新章に突入しても変わり映えのしない面子でお送りします。
ゲイル氏は安定です。
生徒達よりも出番があるんじゃないか?
生徒達もこれから、出番があるのでご安心くださいませ。
間宮は、生徒と言うよりも弟子だからかな?
そして、前書きのフラグ回収について。
保父さん違った。
ただの天然のたらしだった。
しかも、幼女だけでなく女神も追加。
いつか、彼の周りにはハーレムが築かれる………かもしれない。
誤字脱字乱文等失礼致します。




