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2時間目 「保健体育~温かい牢屋~」 ※性的、及び流血表現注意

2015年8月26日初投稿。


見切り発車も、2話目に突入しました。

プロットを思いついたの、昨日の筈だったのですが…。


(改稿しました)

***



 異世界トリップという現象について、談義していたのは何日前だっただろうか。


 そもそも、この世界にたどり着いて、どれだけの時間が経ったのか。

 夢なら、もうそろそろ覚めて欲しい。


 そうでなくては、心がへし折れてしまいそうになっていた。



***



 始まりは、いつも通りのHRだったのだ。

 それが、突然の発光現象によって、オレを含めた生徒達が集団昏睡。


 いざ、眼が覚めてみれば、異世界らしき場所に、校舎ごと放り出されていた。


 教師一名、生徒が11名。

 内訳は女子が3人、男子が9名。

 比率が悪い。


 それはともかく、そんなオレ達は、この世界の騎士とやらに襲撃を受け、校舎を追い立てられた。

 その後、紆余曲折を経て、騎士達に拘束、連行され、今に至る。


 ここは、この世界のオレ達が初めて入った国、『ダドルアード王国』。

 そのダドルアード王国の城の地下に設置された、牢屋の中だった。


 騎士達に連行された後は、別の騎士達に引き渡された。

 しかし、その際にも、弁明は何も聞いてもらえず、気付いた時にはこの牢屋の中に放り込まれていた。

 理不尽な事この上ない。

 人権を尊重しろ。

 拒否権と黙秘権を行使する。


 と言っても、今は無茶な話だろうけどな。

 この世界に、法律という二文字があるかどうかすらも怪しいもの。


 閑話休題。


 ひっそりとした牢屋の中。

 どこかからか聞こえる、うめき声や何かの叫び声。

 ついでに、隙間風か何かが吹き抜ける、冷たい空気の中。


 オレ達がまとめて放り込まれた牢屋の中には、女子達の啜り泣く声が響いている。


「…せ、先生…っ」

「う…ぐ…っ、寒い…よ」

「…ひくっ、…なんで…ウチら、こんな格好…っ」


 女子組は鎖で繋がれて、下着を残して服を剥ぎ取られた格好で一か所にまとめられていた。


 今は、オレ達のいた現代と気候が一緒ならば秋だ。

 この時期は、真冬では無いにしても、気温は低い。

 女子には、あまり体を冷して欲しくないものだが、下着姿では寒さを耐えるのも厳しいだろう。

 今は、身を寄せ合って、なんとか寒さを忍んでいるらしい。


 まぁ、オレは見えないので、らしいとしか言えないのだが。


「…おい、浅沼。そっち見るなって、何度言えば分かるんだ?」

「ご、ゴメン永曽根!…その…っ、別に変な意味は…!」

「おっ勃たせながら言う台詞かよ…!」

「…浅沼、こんな時にまでサイテー」

「破廉恥だぞ、浅沼!こんな時まで、頭の中が可笑しいのかよ!」

「五月蝿いよ、徳川」

「…五月蝿いネ、徳川」


 河南と紀乃の台詞には激しく同意。

 牢屋だから反響して、自棄に耳に響く。


 男子組も似たようなものだ。

 むしろ、男子組の方が酷いかもしれない。

 彼等は丸裸で、なおかつ腕を頭上で拘束されて、壁にへばりついているしか出来ないらしいから。


 しかも、徳川に至っては、鎖の量が尋常では無い。

 コイツは、オレと数名だけが知っているのだが、人間の腕力や握力は軽く凌駕する怪力だ。

 牢屋に入ってから二度目の拘束を受けた時、何を勘違いしたのか大暴れ。

 落ち着いたは良いものの、普通の鎖では拘束し切れないと言う事で、なんと大型の魔獣だか魔物だかを拘束する為の特別な素材で作られた鎖で、全身をくまなく鎖で拘束されてしまっている。

 おかげで、身動ぎすらも出来ずに、窮屈そうにしているそうだ。


 ああ、話は逸れた。


 丸裸にされている分、身体的な変化も分かり易いのだろう。

 浅沼は、女子組の裸を見て、少しばかり興奮しているらしい。

 気持ちは分からないでもないし、オレもちょっとだけなら気になってるから人の事は言えないかもしれない。

 だが、クラスメートを変な目で見るな。

 そして、男の生理をそこまで抉ってやるな、男子一同。

 後、徳川は静かにしなさい。


 ただ、このやり取りが数時間置きに行われているせいか、そこまで悲壮感は感じられない。

 オレだけかもしれないけど、ね…。


「…先生、大丈夫?」

「…あー…まだ、平気…」

「…ゴメンなさいっ…、あたし達…何も出来なくて…っ」

「大丈夫だから、泣くんじゃない…。水だって飲めて無いんだから、あんまり泣くと脱水症状を起こすぞ?」


 伊野田がすすり泣きながら、オレへと声をかける。

 一応慰めてやるものの、効果はいまいちだ。


 オレは後ろ背にそれを聞いてるだけ。

 聞いているしか出来ない。


 だって、オレだけ天井から吊るし上げられているのだから。


 鉄か何かで出来た腕の拘束具。

 天井に設置された滑車のようなものから伸びた鎖が、その拘束具と連結されて、爪先が床に付くかどうかのギリギリの状態。

 180センチ越えのの高身長は少しだけ自慢だったが、今はそんな自慢もやせ我慢にしかならないだろう。


 ついでに、生徒達と一緒でオレも服をひん剥かれている。

 女子達と同じで、下着だけは残されているのが唯一の救いだな。

 陰部を露出していないだけ、オレもまだ男子組よりはマシ、と思いたい。

 マシってだけだけど。


 ………しかし、パンツ一丁という間抜けな格好を、この歳になってする事になるとは思わなかった。

 しかも生徒達の前でだ。

 背中がむず痒いというか、なんというか…。

 居た堪れないよう。


 ……まぁ、背中がむず痒いのは、それだけじゃないんだけどね。



***



 そんな居た堪れない内心をひた隠しにしながら、吊るしあげられたままのオレ。

 そんなオレは、とどのつまり、生徒達への見せしめなのだろう。


「(…やり方は、まだ生ぬるい…。だが、一般人にはこの程度だとしても、効果的だろうな…)」


 心の中で、ふと嘆息。 


 オレにとっては、まだこの拷問は生ぬるいと感じる。

 地獄の2年間を体験した事もあるオレからしてもみれば、この状況はあの時よりも、格段にイージーモードだ。

 思い出してしまいそうで、まだまだ余裕があるとは言えないが、それでもまだ耐え切れなくなる程のものでは無い。


 だが、オレにとってはイージーでも、一般人でもある生徒達ならばどうだろう。

 それは勿論、効果的だ。

 今まで普通に学校や寮で顔を突き合わせ、のほほんとした授業風景や日常を過ごしてきた生徒達なのだ。

 そんな生徒達が、拘束された揚句に服をひん剥かれて牢屋へと放り込まれる。

 更に、自身の教師が目の前で吊るし上げられれば、嫌でも心の一本や二本はへし折られる。


 あの騎士達、特にメイソンはそこら辺が良く分かっている。

 拷問の準備も手馴れていた。


 彼が嬉々として、オレ達を牢屋の中に放り込んだ時の事。

 その時の事は、今でも覚えている。

 騎士達に連行された後、別の騎士達に連行されてこの地下の牢屋へと連れて来られた。


 だが、そこで待ち受けていたのもまた、メイソン達だった。

 ジェイコブはいなかった。

 引き渡しに応じた騎士達とのより取りを聞くところによれば、かなり横暴な理由で拷問吏を肩代わりしようとしていたらしい。

 結局、彼が拷問吏になることは免れたので、冷や冷やしていたオレ達にとってはありがたかったものの、代わりに服をひん剥いたり、鎖や拘束具を取り付けたり、吊るし上げていったりと、下準備のほとんどをアイツ等が行っていた。


 正論ばかりで嫌な男だとは思っていた。

 だが、嗜虐的な笑みを顔中に貼り付けて、オレを吊るし上げていったあの男の一言は、


『次はテメェの命乞いを聞かせてくれよ。

 無様に顔面の穴と言う穴から血を垂れ流して泣き叫んでくれ』


 という、なんとも悪趣味極まりないものだった。


 ジェイコブはあまりそう言う嗜好は無さそうだった。

 こんなところでも正反対とは恐れ入るが、女子達を不躾な視線で舐め回すように見ていたことは絶対に忘れない。

 後々、仕返しの機会があるなら、思う存分詰ってやる。

 謝罪をさせてやる。


 いや、もしかしたらその前に死ぬかもしれないけど…。


 まぁ、閑話休題それはともかく


 奴の気持ちも、少しは分かる。

 嗜虐性を公にするのは、人間の性だ。

 それによって優越感を感じる人間は少なからずいるし、そう言った拷問吏の人間達によって凄惨な人生を送った虜囚の話も事欠かない。

 オレも、過去には同じような事をしたこともあるから、気持ちは分かる。


 しかし、その気持ちが分かってしまうオレは、何度も言うが暗殺者。

 元々は、裏社会の人間だ。


 そんなオレに、こんな方法をとっても意味が無い。

 それが、何故分からないのか、オレにとっては不思議でならなかった。


「(あ、そういやそもそも言葉が通じなかったっけ…)」


 ふと、そこで思い出す。


 ああ、そういえば、生徒達は言葉が通じないのだった。

 オレ以外、言葉が通じないのだから、こいつ等だけに話しておいたオレが元軍人(※正確には暗殺者だが)という事も分からないだろう。


 詳しく話した覚えも無かったので、おそらく気付かれていないのだろう。

 ああ、納得。

 だから、まだ生ぬるいのだ。

 生徒達に手を出している訳でもない。

 それも、今回ばかりは好都合と思いたい。


 聞いてくる内容も、今回の突然転移した経緯や、あの校舎の事だけだった。

 真偽を確かめたいのだろう。

 ただ、嘘は言っていない。

 突然の発光現象もそうだし、眼が覚めたら校舎ごとこの世界にいたというのも、ましてやオレ達が、オレを除いて普通の生徒達だということも本当の事だ。

 その証拠が足りないから、こうして自白を狙っている。

 自白も何も、オレは嘘を言うつもりも無いから、意味が無いんだけどね。


 だって、嘘言ってここを切り抜けた後に、それが嘘だとバレた時が怖いから。

 もっと、酷い目にあうかもしれないし、少なくとも信用はされないだろう。

 信用と言うのは、落とすのは一瞬だが、取り戻すには時間も労力も掛かる。

 失うのは、あまり得策とは言えない。

 この訳の分からない異世界に、どれだけいるのかも分からない現状は、とにかく信頼関係は落としたくない。

  

 だからこそ、この吊るし上げや拷問も甘んじて受けている。

 そして、拷問をするならオレだけにしろ、と交渉したのもオレだ。


 生徒達には、まず無理だろう。

 そんな事、最初から分かっている。

 矢表に誰かが立たなきゃいけないなら、それはオレの仕事だ。


 それに、これも一部はパフォーマンスの一環。

 生徒達を大事にしている教師を演じる事で、あわよくば騎士達が同情してくれれば良い。

 ついでに、それが上層部にでも伝われば、早い段階での解放も見えてくる。

 オレの狙いは、そこだ。


 皮算用という事は分かっている。

 可能性は、未だ低いものの、ゼロでは無い。


「(……一番は、ジェイコブが様子を見に来てくれれば良い。

 …もしくは、伊野田や間宮、徳川の身長が小さい連中に対して、同情的な騎士達もいたし、少なくとも人道的な扱いを分かっている騎士達もいるだろう…)」


 とは思いつつも、


「(……食事の配給どころか、水も与えて貰えない時点で人道的も何も無いか…、)」


 はぁ、と溜息。

 ここまで、何日経過したのか、あまり覚えていない。

 オレはこの体勢のせいで、就寝はまず出来ないし、元々夜型の生活を続けていたせいで、体内時計が狂ってしまっていたのか、正確な時間が把握出来ない。

 衣服や武器を取り上げられた時に、時計も取られちゃったし。

 ……まぁ、この世界に来た時に、止まってしまっていたようだから意味は無かっただろうけども。

 GPS搭載の電波時計って、こういう時不便だよな。

 衛星飛んでないと、まったく機能しなくなっちゃうんだもの。

 ……そもそも、衛星も飛んでいない異世界に転移する事を想定していることの方が無理か…。


 再三の溜息。


 そこで、背後の生徒達がまた騒ぎ出す。


「だから、いい加減にしろよ、浅沼ぁ!!」

「ぶひぃッ…!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ、」

『浅沼、サイテー』

「お前が先生の代わりに吊るされりゃ良いんじゃねぇの!?」


 どうやら、浅沼がまたしてもやらかしたらしい。


「やめなさい、お前達。浅沼は、眼を閉じて、数でも数えてろ。

 徳川は言葉に気をつけろ。こんな体勢を好き好んでクラスメートにさせたいと言うなら、オレだってただじゃおかねぇ」

「…うっ、ご、ごめんなさい…ッ」

「…わ、悪かったよ…!」


 声を荒げはしないが、努めて低い声で言い放つ。

 実際、オレもあまり類を見ない程度には、怒りを溜め込んでいる。


 生徒達にではなく、この状況に対してではあるが。


 ただ、こういったやり取りのおかげもあって、まだ精神的には追い詰められていない。

 生徒達には悪いが、まだもう少しぐらい、こういったやり取りをしてオレを和ませてくれると嬉しいもんだ。

 表立っては言えないから、心の中で苦笑する。


 もうちょっと、頑張るから。

 お前達も、もうちょっと我慢して欲しい。



***



 その更に数時間後だろうか。

 とりとめのないことを考えつつ、時折生徒達のやり取りの仲裁をしたり、背中越しに慰めや、声を掛けたりして、なんとか疲弊した意識を保っていた。


 丁度、思考の波の中に、ふわふわと彷徨っている時だった。


 重々しい音。

 その音と共に、牢屋の扉が開かれる。


 ……ああ、もうそんな時間か。


 開かれた扉から聞こえ始めるのは、金属の擦れる音。

 ここ数日で、すっかり耳馴染んでしまった、甲冑の奏でる音だった。


『本当の事を話すつもりになったか?』


 入ってきた、騎士達。

 その最前列に立った、勝ち気そうな女の騎士が口を開く。


 毒々しい程の赤い髪。

 顔立ちは整っていて、とても騎士にも拷問吏にも見えない。

 現代であれば、ハリウッドかどこかで女優やモデルとしてでも大成出来るだろう、見目の麗しい女だった。


 しかし、その実、彼女は先ほど言った通り、騎士であり拷問吏でもある。

 見た目にそぐわない、嗜虐的思考を持った女性。

 それが、彼女だ。


『この牢屋は、さぞ寒かろう?冬が来れば、そのうち足の先から凍りつくぞ?

 そうなる前に、本当の事を話せばここから解放してやっても良いのだが、そろそろ白状する気にはなっただろうか?』


 問いかけに合わせて、赤髪の女騎士はオレの頬に馬鞭を当てて、ひんやりとした痛みを与えてくる。

 こうして、彼女は数時間ごとにやってくる。

 多分、3時間ごとだと思われる。

 ここに閉じ込められてから、何日経ったのかは分からない。

 だが、逆算して考えると、これで彼女が来たのは16回目だから、約2日ってところだろうか?


 ………飽きずによく来るものだ。


 ついでに、余談ではあるものの、いつ寝ているのか気になってしまう。

 昼夜関係なく来ているから、もしかしてと思うが、この拷問だけが仕事だとか言わないよな? 


 閑話休題。


 ここ数日で、お決まりとなった彼女の言葉。

 それに対し、オレが返す言葉もまた、決まっている。

 ここ数日で、お決まりとなってしまった答えだ。


『本当も何も、オレはずっと真実しか話していない…』

『ハッ!まだ、強情を張るか』


 オレの言葉に、彼女は馬鞭を離した。

 鼻で笑って、オレから数歩を離れると、


『やれ!』


 彼女の合図と共に、一緒に入って来た騎士の2人が、それぞれ手に持っているものを振りかぶった。


 それは水だ。

 しかも、侮る無かれ。

 海水である。


 彼女の合図を受けた男達は、オレに両側から海水をぶちまける。

 おかげで、オレの乾き初めた髪とパンツがまたしてもびしょ濡れとなった。

 余波を受けて、後ろの生徒達にまで飛沫が掛かる。

 寝ていたのかどうなのか、浅沼からは驚きの悲鳴が上がっていた。

 ………オレが悪い訳では無いが、なんとなくすまん。


 これが、彼女の拷問方法。


 秋口の冷えた海水を、ぶちまける。


 水攻め、というのも色々ある。

 顔を沈めて呼吸を止めるだけ以外にも、使い様はあるようだ。


 どうやら、この城の近くには海があるらしい。

 でないと、海水なんて早々手に入らないだろう。

 潮の香りが、牢屋の中に充満する。

 牢屋の中で無ければ、そして怪我さえしていなければ。

 少しは、この磯の香りに癒されたかもしれないのに、残念である。


 とまぁ、現実逃避はこのぐらいにしておこう。


「…あぐ…っ」


 オレの唇から、堪え切れなかった呻き声が上がる。

 じんわりと、染み込んでいく海水が、今のオレの体には痛いのだ。


 何故か?

 オレの体の付いた、傷のせいだ。


 傷に塩を塗りたくる。

 今回は、それが文字通りの意味となっている。

 そして、その痛みは想像を絶するものだとだけ、言っておこう。


「せ、ん…せぇ…ッ!ひっく…ぐすっ…!」

「やめてよ、もう!!いつまで、こんなまだるっこしい事してんの!?」

「オレが代わる!だから、もう辞めろ!!」

「先生が死んじゃうだろ!!いい加減にしろよ!」


 見ているだけの生徒達には、相当堪えるようだ。


 何せ、オレの背中一面には、未だに血が滲んだ傷が多数、刻まれている。


 砂利に擦っただけの、掠り傷程度では無い。

 鞭打ちの痕だ。


 これも、この女騎士が、嬉々としてやってくれたものだ。


 メイソンからは拷問を受ける事は無かったが、この女騎士からは初日にたっぷりと鞭打ちを受けた。

 皮膚が裂け、血が滲み、オレの背中一面が真っ赤になるぐらいにはやってくれた。


 吊るし上げられていた段階では、ある程度予想していた。


 拷問と言えば、鞭。

 何故か、そういったイメージが定着しているのは、今も昔も変わらない。

 実際にこうして、受けた側からしてみれば、当り前だろうなぁとしか思って無かったし。


 自分で背中は見れないから、どうなっているか分からない。

 けど、生徒達から見れば、オレの背中は相当凄いことになっているらしい。


 吊るし上げ、鞭で打ち、3時間ごとにこうして海水を浴びせに来る。

 オレも小慣れて来てしまって、腕で耳を覆って海水が入らないようにするぐらいはしている。

 耳に水が入ると、なんかごろごろすんじゃん。


 だが、この拷問方法のおかげで、傷の痛みは消える事は無い。

 むしろ、段階を追うごとに、増している気がするのは気のせいでも何でも無い。


 痛みと同時に、急激に下げられる体温。

 海水が乾くのに合わせて、体の熱を奪っていく。


 おかげで、オレはここ数日、体温を奪われっぱなしだ。

 パンツ一丁の状態でこの仕打ちは、地味に堪える。


 そして、オレの背中だけしか見えない生徒達にも、相当堪えているのだろう。


 女子組は泣き声叫び声を上げ、男子組はただただ怒りを露にしている。

 だが、女子達はあまり泣いてくれるな。

 脱水症状を起こすと、この場合は洒落にならないから。


 と、痛みに耐え抜く為に、生徒達の事を率先して考えているところで、


『強情な男だ。…教え子達を守りたいと思うなら、そろそろ本当の事を話した方がお互いの為になるとは思わんのか?』


 またしても馬鞭が添えられた。

 今度は、頬では無く顎。


 掬いあげられるようにして、上を向かされる。

 目の前には、赤髪の女騎士の、端正な顔立ち。


 今のオレには、食指を一つも動かされないが、いっそ呆れる程の美麗な微笑みがあった。


『…オレは、真実しか…言ってない…っ』


 何度も受ける苦痛。

 痛みに慣れていても、寒さは嫌いだ。

 震えた唇と、カチカチと鳴る歯。


 だが、それでもオレは同じ答えを返す。

 歯を食い縛って、寒さに震えながらも、この2日程度ですっかり定着してしまった答えを返すだけ。


 それをこの女騎士がどう受け止めるのかは、不明だ。


『……強情な男は、あまり好きでは無い』


 そう言って、彼女は、オレの顎に添えていた馬鞭を払った。


 ビシッと鋭い音と共に、オレの胸元に赤い蚯蚓腫れが走る。

 先ほどと同じように歯を食い縛って、痛みに呻く声を抑えた。


 だが、


『…ああ、だが…その顔は、良い』


 そう言って、オレの顔をもう一度馬鞭で持ち上げた。

 オレの顔は今、苦悶に歪んでいることだろう。


 それを、彼女は良いと言う。

 しかも、恍惚とした表情で、頬を赤らめながら。


 更には、


『それに、この逞しい身体もだ。…こんな間柄で無ければ、思う存分に楽しめただろうに…』


 顔だけでは無く、体も含めた褒め言葉。


 逞しいと言われて喜ばない男はいないだろう。

 暗殺者稼業を辞めたとしても、体は一応現役のままだ。

 あの時よりも少し肉が付いた分、余計に身体付きは良くなっている。

 これも、オレにとっては自慢の一つ。


 こんな状況でなければ、今頃生徒達に少しは見直されたかもしれないのに。

 ………いや、それは自意識過剰か。

 自重だ、オレ。


『…苦悶に歪む顔、赤が似合う白い肌、逞しい筋肉の隆起……』


 またしても思考が脱線したオレの前で、彼女もまた思考が脱線しているようだ。

 そんな彼女は拷問吏。

 褒め言葉も、今のオレにとっては生理的な嫌悪しか浮かばない。

 彼女は、どうやら真性のドSに加えて、筋肉フェチのようだ。

 間違っても、放逐しちゃいけない部類の人間だ。

 ちょっと、警邏!何してんだよ!

 ここに変態の女騎士がいるぞー!!


 って、コイツも騎士だったな、そういや。


 恍惚とした表情のまま、オレの身体を余す事無くその目に収めている。

 最終的には、オレの生理的な問題で勃ちあがった股間の膨らみまで凝視している。

 違う意味で、寒気がした。


 そして、数分後。

 オレの体を鑑賞するだけ鑑賞して、女騎士は去って行った。


『次は、更に痛みを追加してやろう。

 ……楽しみにしておけ?』


 等と言う捨て台詞まで吐いて。

 勘弁してくれ、本気で。

 騎士で拷問吏なのは、十中八九彼女のあの危ない嗜好の所為なんだろう。


 ……普通の女性だったら、喜んでお相手出来たのに。



***



 更に、その後、4回。

 4回だ。


 オレが、あの女騎士の相手をすることになった回数は。


 体感としては、そろそろ3日も過ぎようとしているのでは無いだろうか。

 20回目の記念にと、鞭打ちが更に追加された。


 背中一面が、体中に変わっただけ。

 ただ、既にオレの姿は、ぼろ雑巾に近いかもしれない。


 生ぬるいとか、イージーとか言ってたのは前言撤回する。

 もう、頼むから勘弁して欲しい。


 それを、弱みとしてあの騎士達に見せる事はしなかったが。

 ここまで来たなら、意地も見栄も張れる限界まで張ってやらぁ…。


 しかし、そうやって意気込んでいるオレの頭とは裏腹に、体は正直だ。


 彼女達が去って行った途端、どっと疲れが押し寄せてきた。


「はぁ…っ、あ…っぐ」


 脚の力が、抜けたらしい。

 身体が傾ぐ。

 その度に、腕に食い込んだ鎖が擦れて傷を抉る。

 おかげで、少しだけ呻き声が漏れてしまった。


 後ろ背に聞こえる泣き声も、生徒達の気配も消沈しているように思える。


 そりゃそうだ。

 もう、3日が経とうとしている。


 あの女騎士が、約3時間ごとにやってきているのだから、それが20回で約60時間。

 後、12時間で、4日目に突入する。

 そろそろ、体力も消耗が激しくなってきた。

 生徒達もだろうが、生憎とオレもそうだ。

 冷え切った身体が悲鳴をあげ、この体勢の所為で満足に睡眠も取れない。

 睡眠を取らせないのも、一種の拷問方法だったか。

 畜生、眠い。

 その為、精神的にもガタが来ている。


「(…不味い、な…もう、オレの体の限界が近い…)」


 自覚している。

 あの地獄の時と、同じ状況になりつつあると。


「先生…っ」

「大丈夫…まだ、大丈夫だ…」


 伊野田のか細い声。


 それに、まだ、オレは返事を返せる。

 今はまだ、生徒達の存在がオレの精神を繋ぎ止めている。


 しかし、夜になり、彼女達が寝入ってしまうと、どうなるか。


 途端に精神的な部分で心因的外傷トラウマが呼び起こされてしまう。


 暗がりの中、明かりさえ灯されない牢屋の中だ。

 さすがに、オレも消耗するものは消耗する。

 唇を噛み締めて、何度悲鳴を押し殺したか分からない。

 ここ2日は我慢した。

 だが、今日の3日目と4日目が、大丈夫という保証は無い。


 そのうち、オレはまた可笑しくなってしまう。

 本能的な部分が、警鐘を鳴らしている。

 このままでは、俺自身が生徒達を陥れてしまいそうだ。


 そんな事があってはならないと、分かっている。

 分かっているのに、オレの脳裏に過ぎる甘い誘惑の数々。


 生徒達を庇わなければ、この苦痛も終わる。

 生徒達の事を考えずに、ただただ懇願をすればもうこんな思いもしなくて済む。


 投げ出してしまえ。

 放り出してしまえ。


 別に彼等に、自身と言う存在は必要無いのかもしれない。

 だって、オレは仕事をしているだけだ。

 金が欲しくて、この生徒達に授業を行っていただけなのだ。


 そこに、生徒達へとの恩赦は無い。

 生徒達への愛情も無い。


 ただただ、任務を遂行するという目的の為だけに、生徒達といるだけ。


 段々と、息が荒くなっていく。

 その度に、体が強張って、鎖がかち合う音が響いて五月蠅い。


「…ヒッ…う…っぐ…」


 喉に張り付く、苦鳴。

 何度、こうして悲鳴を噛み殺した事か。


 このままだと、いずれオレ自身何をされるか分からない。

 この状況がいつまで続くかも分からない。

 これ以上の責め苦が無いとも限らない。

 堪らなく怖い。


 脳裏に過った、過去。

 荒荒しい、自身の吐息が耳を支配する。


「…ま、また…っ、…また、オレは…っ…あんな事(・・・・)…」


 覚えている。

 未だに、鮮明に捕食()の時を思い出せる。


 口に含まされた何か。

 むせ返るような血潮の香り。


 頭にぶちまけられた何か。

 体中に這い回る、蛇の鱗。


 血管に直接打ち込まれた薬剤。

 冷たい感覚が、肌の下を這う。


「…ぐぅ…っ…が…はっ…!」


 フラッシュバック。


 途端、心臓が破裂しそうな程に痛む。

 更には、胃が収縮されて、口から胃液が溢れ出す。

 胃の中には、もう何も入っていない。


 なのに、何度も餌付く。


 寒さに凍えているのか、吐気に打ち震えているのかすら分からなくなる。


 いっそ、楽にしてくれ。


 唇を噛み締めていた歯を、舌に乗せた。

 楽になれる。


 その一心で。


「銀次!!」

「…っは…っ!」


 その瞬間だった。

 悲鳴のような声と共に、耳に響いた声。


 珍しい。

 エマが、オレの名前を呼ぶなんて。


「しっかりしろよぉ…!あ、あたし達…何も出来なくてもっ!…先生の事助けたいって思ってんの一緒なんだからさぁ!!」


 涙混じりの声。

 エマの叱責の声。


 オレは、今、何をしようとしていたのだろう。

 今、やっと自分がしようとしていた事を自覚した。


 死のうとした。

 生徒達の事も省みず、今自分は死のうとしていた。

 

 エマの声に、正気に戻らなければ、実際に今舌を噛み切っていたかもしれない。


 彼女自身、オレが何をしようとしていたのかは見えなかっただろう。

 しかし、オレの様子が可笑しくなっているのは、荒くなった呼気や、強張った身体によって、察知していた。


 助かった。


 素直に、感謝しておかなくては。


「…あ、りがと、エマ…。まだ、だい、じょうぶ…」

「…礼なんていらないから、見栄張んなよ、馬鹿ぁ…!…もう、嘘でもなんでも良いから、…この状況をなんとかしてよぉ!!」


 ああ、本当に珍しい。

 伊野田でもソフィアでも無く、エマが泣き叫ぶなんて。


 彼女は、妹ながら、ソフィアよりも気丈で尊大に振舞っていた。

 その実、ソフィアを守る為に、自身が編み出した蘇生術だった事も知っている。


 そんな彼女が、家族以外の前で弱味を見せるなんて。

 ましてや、毛嫌いしているオレや男達の前で。


「…見栄だけ、じゃねぇよ…オレは。…知ってんだろ?」

「うっせぇ!ばかぁ!!…格好つけんなよぉ!!」


 がしゃがしゃと鎖を鳴らして暴れるエマ。

 今頃、涙ながらにオレの背中に向けて、叱咤激励してくれているのだろう。


 おかげで、まだ踏ん張れそうだ。

 たとえ、地に脚が付かない、こんな状況だとしても。


 一応、つま先だけは着いているんだけど。


「…名前、もう一回、呼んでくれねぇ?…頑張れそう…」

「馬鹿じゃねぇの!…このっ…馬鹿銀次…っ」

「覚えてたんだな…」

「うっせぇ!馬鹿にすんな、馬鹿銀次!!」


 ああ、元気が出て来た。

 エマも可愛い教え子だ。


 それに、他の生徒達も、それは同じ。


 放り捨てるなんて、今更出来る訳無い。



***



 それから、更に体感で1時間近く経った時だろうか。


 重苦しい扉の音が響く。


 おいおい、また来たのかよ。

 そう思い、視線を上げれば。


『…驚いたな…まだ、意識を保っていたのか…』


 扉を押し開いたのは、赤髪の女騎士ではなかった。


 オレ達を学び舎から焼き出し、容赦なくこの国に連行してくれたメイソンと同じ騎士。


 ジェイコブだった。

 兜を外し、彼は苦々しい顔を隠しもせずに、牢屋の中へと入ってきた。


 彼の背後で、牢屋の扉が閉められた。


 入ってきて早々、オレを見て驚いた顔をしている。

 おそらく、言葉通り。

 オレが未だに、意識を失う事無く立っているのが、不思議だったのだろう。


『…もう、3日は過ぎているぞ?…あれから、何もされていなかった訳ではあるまい?』

『拷問され慣れて来たかな…でも、まぁ…日付は分かった。ありがとうよ…』

『今の状況の貴殿に礼を言われるのは、変な気分だな』


 嫌味のつもりだったが、彼にはそこまで伝わらなかったようだ。

 ああ、どちらかと言えば、オレはアメリカンだから、スパニッシュにはジョークが通じないのか。


 そんなどうでも良い事を、つらつらと考えている時だった。


『…それにしても、真実しか話していないというのも、あながち間違いでは無かったのか』


 ふと、ジェイコブが呟いた言葉。

 オレの耳に届いたと同時に、一気に意識が浮上した。


 これは、チャンスかもしれない。

 いや、まず彼がこの牢屋に来た事自体が、チャンスと言って良い。


 昨日に、そう考えていたのだ。

 彼が来てくれれば、この状況へ少しでも光明が差すかもしれない可能性を。


 目線を上げる。

 藁にもすがるとは、この事かもしれない。


 その視線を受けてか、ジェイコブも表情を引き締めていた。


『信じるに、値するか?』


 疑問形の問いかけ。

 それに、オレはこくりと頷いた。


『貴殿が、生徒達を守る為に、拷問を一身に受けていることは聞いていた』

『…オレは、嘘は言って無い。

 それに、嘘を言ってここから出たところで、それが嘘だとバレた時に、また危険に晒される。

 …そんなの、御免だ』


 本心を、話す。

 そして、彼の眼をまっすぐに見つめる。

 人は、嘘を見極めようとすると、眼を見る。

 その眼の動きによって、嘘かどうかを判断しようとする。


 生憎と、オレはそれを誤魔化す術も持っているが、それでも今回は使わない。

 そんな小細工をしたところで、意味は無い。


 この男を、本心から納得させなければならないから。


 しかし、ここに来て、


『Yes!先公は、嘘なんて言ってねぇ!テメェらが、勝手に勘違いしてるだけだ!!』

『こ、こら、香神!口に気をつけろ』


 突然、香神が反論。

 オレも吃驚するような、流暢な英語を返すようになった。


 コイツも英語は得意だとは思っていたが、ここまで喋れるとは思ってもみなかった。

 ただ、突然叫び出すな。

 二重の意味で驚いたから。


 いや、でも頼むから黙って?

 今、多分千載一遇のチャンスだから、拗らせたくないの!


 ただ、その心配は杞憂だったらしく。


『…慕われてもいるようだ』


 苦笑を零して、ジェイコブは香神を見た。

 そして、徐に生徒達を眺めてから、


『…少し待て。上に掛け合ってみよう』


 そう言って、踵を返そうとしていた。

 ……って、あれ?


『…そんな簡単で良いのかよ?』


 え?マジで?と、思わず拍子抜けしてしまった。

 オレの表情は、きょとんとしていることだろう。


 ジェイコブが、さも当然のように、オレ達の解放を仄めかすものだから、ついつい、用心深く聞いてしまった。


『嘘は吐いていないのだろう?』


 そう言って、振り返ったジェイコブ。


 いけない、こんな所で昔の癖が。

 素直に頷いておけば良いのに。

 案の定、その場でジェイコブが何かを考える素振りを見せた。


 そして、その場でUターン。

 オレに、ゆっくりと近寄ってくる。


 ……やっちまった?


『では、貴殿の生徒達に聞こうか。貴殿は、私たち同様、疑い深いようだからな』


 と、オレが内心どころか、冷や汗を垂れ流している姿をみて、彼はニヒルに微笑んだ。

 どこか渋みのある、良い男の微笑みだった。


 そのままジェイコブは、オレを素通り。

 ゴメンなさい。

 疑り深いのは認めるので、降ろしてください。


『コーガミ、だったか?貴殿が訳してくれ』

『あ?…えっと…イエス?』


 オレを素通りしたジェイコブは、生徒達の前に立つ。

 オレでは見えない位置。


 彼が指名したのは、香神だった。


 突然、ジェイコブの矢面に立つことになった香神の戸惑う声が聞こえる。


 この男、何を聞こうとしているのだろうか。


『君達にとって、ここにいるギンジ・クロガネは教師であり男だろう。それは間違いないね?』

『あ…っと、ちょっと待て…っ』


 えっと、ジェイコブさん?


 ……それ、どういう意味?

 オレが遠まわしに、女みたいな顔している事を揶揄してんの?


 それはさておき。


 どうやら、香神は、ヒアリングが少し苦手なようだ。

 少し通訳と言うか、意味を理解するのに時間を必要としている。


 しかし、咄嗟とはここまで喋れるとなれば、及第点は行くだろう。

 通信簿にそう付けておいてやろう。

 学校が無くなった今、もう意味は無いかもしれないが。


「俺らにとって、黒鋼が先生で男だって事は間違いねぇか、だと」

「なにそれ!?当たり前じゃない!イエスよイエス!」

「イエスです!先生は、あたし達の事、こんなになって守ってくれてるんだから!」

「ひっく…あ、あたしもイエス!…だから、お願い先生を離して…っ!」


 女子組は憤慨混じりに肯定してくれた。


 なんか、こう。


 胸がジーンとするのは、なんでだろう。

 暗殺者稼業で、恐怖と怒り以外は感情を削ぎ落とされていた筈なのに。


 対する男子組。

 女子の威圧に負けてしまったらしいが、


「イエスだ!」

「そうだよ!先生はオレ達の先生だ!!」

「イエスじゃない奴なんて、ここにはいないよ!」

「勿論だ!オフコース!だったっけ?」

「そうダネ…イエス・オフコースだった筈だヨ」

「当り前だ!」

「(こくこくこくこく!!)」


 と、こちらからも満場一致の意見。


 更にジーンとし過ぎて、目に涙の膜が浮かんでしまった。


 唇を噛み締めて、なんとか耐える。

 悲鳴を耐える以外に、唇を噛む事になるとはな。


『全員イエスだ』

『よろしい。次に、彼の言っている事は、本当か?

 信ずるに値するのか、全員の意見を聞かせて欲しい』

『そんなもの聞くまでもねぇだろ?』


 香神が、にやりと笑った気配がする。


「先公は嘘付いてねぇだろ?」

『YES!!』


 全員からの、一斉のYES発言。

 つまり、全員がオレの言葉と行動を、肯定していると言う事。


 若干一名、頷くだけとなっているだろうがそれも仕方ないだろう。

 間宮も、良い子だ。


 踵を返し、オレの横へと戻って来たジェイコブ。

 どこか晴れやかな表情。


 そして、苦笑と共に、


『…愚問だったようだ』


 そう、呟いて。


『貴殿は良い生徒を持った。彼等も、良い教師を持ったようだ…』

『………お、オレもそう思う…』


 おかげで、オレの涙腺が崩壊している。


 泣き叫ぶ以外で、泣くなんて事この数年では有り得なかった事かもしれない。

 5年前以降も、泣いた覚えも無かったしな。


 あ、いや…魘されたのは別で。


『約束どおり、上に掛け合ってこよう。

 正式に解放された暁には、改めて私から謝罪をさせて欲しい』

『…まずは、この格好をどうにかしてくれ。後、生徒達に服を着させてくれ…』

『ああ、急いで戻ってこよう』


 そう言って、ジェイコブが扉の向こうに消えた。

 それを、見送ってから、


「お、オレを泣かすな、テメェら!!」

「嘘!先生が泣いてるーーーっ!!」

「泣かないでかぁ!!」


 オレは、隠しもせずに涙声で、生徒たちへと怒鳴った。

 我ながら、情けないだみ声だったと思う。


 生徒達から帰ってくる声。

 それぞれの反応。

 吃驚したり、疑っていたり、一緒に泣いたり、慰めてくれたり、褒めてくれたり、馬鹿にしたり。

 でも、その中に、一度もオレを責めたり、詰ったりする声は無かった。


 それが、余計にオレの涙線を崩壊させる。

 ダムのように、眼から零れ落ちる涙を、しばらく止める事が出来なかった。


 今ので泣かなかった奴、前に出て来い。

 足だけしか使えなくても、沈めてやる。


 いや、感動したのは、当人だけなのかもしれないけどさ。



***



 その後、数十分は、泣き続けていただろうか。

 オレもそうだけど、女子組も。

 喉もからからで、乾いてしまっていると思っていたが、まだまだ水分は余っていたようでなによりだ。


 3日ぶりに、彼等の顔に笑顔が戻った。

 オレの泣き顔で、というのは気に食わない。

 しかし、生徒達が笑ってくれていた。

 エマや間宮、永曽根まで笑っている。


 おかげで、オレの涙腺は元に戻った。

 だが、口元だけは戻ってくれず、ジェイコブが戻って来るまでの間、オレ達は何が楽しいのかわからずに笑い続けていた。


 この異世界に、突然転移してしまってから3日。

 オレが拷問を受けた期間も3日分だった。


 だが、それに堪え切ったのは、どうやら無駄では無かったらしい。

 それに見合った結果は、用意されていた。

 オレは、彼等からの本当の意味での、信頼を勝ち取る事が出来たようである。



***



 そしてその後、牢屋から解放されたと同時に、オレの意識は暗転した。

 考えても見て欲しいもんだ。


 オレ、3日間も飲まず食わずに、眠る事すら出来ないままで耐え続けたのだから。


 こんな苦行、今どきのお寺の坊さんでもやらないんじゃない?



***



***



「なぁ、お前…この後、どうするつもりだ?」

「…何がだよ?」


 静かな病室の中に、ぽつりと落とされた声。


 オレの同僚兼友人のアズマが呟いた一言。

 オレは、ベッドに半身を起こして、雑誌を眺めていた。


 約2年前に、半死半生の状況で、助け出されたオレ。

 助け出された時、オレの意識は無かったが、死にかけといえる状況でもまだ、生きていた。

 それだけでも、僥倖。


 助け出してくれた同僚の一人で、歳も近い少年。

 そんな彼の、一言目は酷かったと、それだけだった。


『…もう二度と、あんなものを見るのはゴメンだ』


 泣きそうな顔で、オレを見ていた。

 腫れぼったくなった目が、余計にそう思わせた。

 アズマから聞いた話じゃ、そいつがオレを助け出した時に、号泣していたと聞いていた。

 子どものころ以来、泣くような奴じゃ無かった筈なのに。


 彼が見つけた時、オレは既に人間とは呼べなかったらしい。

 家畜同然の、扱いだったと。

 しかも、体中がまるで爆弾のような有様だったようだ。

 それも、文字通りの意味で。


 体に生体実験を施され、ほとんどの部位が機能不全を起こしていた。

 蛇毒は勿論、ありとあらゆる細菌を使われた各部位。

 そのうち、左腕は壊死寸前。

 手足を達磨にされなかったのは幸いだったが、この状況も同じようなものだ。


 死ななかったのが幸運なのか、生きているのが不運なのか分からなかった。


『うわぁ、ご愁傷様』


 それが、アズマからのオレに対する一言。


 オレの目覚めに、運良くなのか運悪くなのか立ち会ったアズマ。

 そんな彼のこの一言に、オレは色々と察する事は出来た。


『アンタ、今後は仕事なんて無理よ。

 死んだ方がマシって状況だろうし、あたしが殺してやっても構わないけど?』


 と、これは、オレを担当した同僚兼医者に言われた一言。

 自覚はしているものの、そんな殺人宣告をしなくても良いと思う。


 曰く、オレが同僚の少年を泣かせたから、というたったそれだけの理由だったらしいが。


 そんな彼女に、オレは今でも物申してやりたい。

 テメェ、医者だろうが。

 点滴の準備しながら言うんじゃねぇよ。

 安心も出来なかったじゃねぇかよ、この野郎。


 なんていう、紆余曲折もありながら。


 なんとか、命だけを繋がれた状態。

 組織の首脳陣が経営している病院の片隅で、立派な個室を貸し与えられ、生死の境をさまよいつつも、それでも体は回復した。


 しかし、左腕だけでは諦める他無かった。

 どんなにリハビリをしても、薬物の治療を施したとしても、左腕の麻痺がどうしても抜けなかった所為だ。


 まぁ、達磨にされていないだけ、まだマシ。

 それが、オレたちの共通の認識。 


 以来、片手での生活を余儀なくされた傍ら、リハビリに励んでいる。

 死んだとされていたオレは、もうリハビリをしたところで戻るところなんて無いけれど。

 せめてもの慈悲としてか、施設側で怪我の治療だけは施してくれた。

 無償だったのも、ありがたい。


 仲間に頼るのは情けないと言っておきながら、施設側の手は少しでも借りられて良かった。


 そして、冒頭の会話に戻る。


「死んだ事になってんだ。いざ普通に社会に解け込めるか?」

「やってみないことにはどうにもならんさ。

 …最悪、記憶喪失を装って、別の戸籍でも取っちまうか」

「…お前、意外と凄い事考え付くんだな。そこは、我等が「会長」に頼むとか無いのかよ」


 あれ?知らないのか。

 記憶喪失の人間って、現代社会では徘徊老人みてぇな扱いになるから、一時的に保護してもらえるんだよ。

 その後は、家族が見付かれば返還、見付からなければ生活保護を受けた上で新しい戸籍と名前、住所なんかも用意してもらえる。

 元々、オレは戸籍登録も無いらしいし、警察にDNAとかも登録されてない。

 行く場所が無いなら、最悪そう言った手もありだ。


 アズマの言う、「会長」に頼むというのは、それこそ戸籍を非合法に作ってもらう方法だろう。

 違法だろうがなんだろうが、戸籍も免許も取り放題なのがオレ達闇稼業の売りだ。

 いや、そんなの売りにしている訳では無いが。

 短期を臨むなら、それが一番手っ取り早い。


 しかし、それだと結局、施設内での移動というだけになる。

 仲間の世話になるつもりは無いときっぱり言い切った手前、それは流石に情けないし、これ以上は施設側に頼める事は無い。

 それで、結局消されましたってのも怖いからね。


「…オレのところ、来いよ」

「お前、こないだ結婚したばっかりだろ?」

「…あれから、2年経ってる」

「……そういや、そうだったな」


 オレ、アルツハイマーだったかしら?


 こないだ、と言っても2年前だった。


 そうそう。

 アズマは、実は所帯持ち。

 確か、仕事で知り合った、同じ稼業の女性と結婚したらしい。

 そんな彼を、新婚さんとからかっていたのが、もう2年前だとは考えたくも無かったが。


 それでも、やはり所帯持ち。

 仲間と言うよりは、友人と言い切れる相手ではあるが、流石に家庭のある人間に世話になるのは、気が引ける。

 勿論、最初からオレの中に、彼を頼ろうとする考えは除外されていた。


「…それで良いから、来いよ。…お前、地味に子ども好きだったろ?」

「好きでも嫌いでも無いけど?…ってか、子ども産まれてたんなら、ますます…」

「違ぇよ。嫁が、だよ…」

「…何?どういう……」


 嫁が、子ども?

 って、知りあった女性の年齢って、確か彼よりも年上だった覚えがあったのだが?


 オレは、この時、何一つ考えていなかった。

 考えていないからこそ、アズマの苦々しげな顔に気付けなかった。


「…そのまんまの意味。…何するか、分からねぇから、…お前に頼みてぇって、思ったんだよ…」

「……子守りしろって?」

「まぁ、そんな感じ、か…」

「却下。間違いでも起こったらどうすんだ?」

「…テメェが間違いを起こせる訳ねぇだろ?ハゲ」

「ハゲって言うな」


 断じて禿げてはいない。

 ただ、丸刈りにされているだけだ。


 という、ここ数日でお約束となったやり取りをしているうちに、彼は口を閉ざした。

 オレも、同じようにして、口を閉ざし、結局同じ話を蒸し返す事は無かった。


 そして、この話はそのまま流れた。

 オレが、そのまま流してしまったとも言う。


 間違いばかりのオレは、この時も間違えた。


 どうせ、暇を持て余していたのだ。

 女性一人の子守(というのもどうか、不明だったが)ぐらい、引き受けておけば良かったのに。


 その後、アズマは海外任務に出た。

 そして、二度と帰って来る事は無かった。


 何故か?

 海外任務の先で、CIAに引き抜かれたからだ。

 どうも、以前から引き抜きを受けていたようだ。

 その為、海外に向かう目的が、任務以外にもあったらしい。


 連絡が入った時には、後の祭り。


「…そういうこと、だったか…」


 一言で言おう。

 オレは、それを引き止める事すら出来なかった。


 そして、彼がオレ達を裏切って出て行った本当の意味を知った。


 彼の自宅の中には、女性が2人。

 一人は妙齢の、もう一人は年嵩の女性だった。


 2人は既に死んでいた。

 殺された訳でも、自殺した訳でも無く。


 ただ、死んでいた。


 どちらも、やせ細ったガリガリの姿。

 部屋に蔓延した煙草と麻薬の混ざり合った、きな臭い香り。


 どうやら、彼も彼の家族もとっくの昔に壊れていたらしい。



***



 静かな部屋の中、その音が聞こえた。


 喉が鳴った。


 唾を飲み込んだ、とかじゃない。

 まるで、泣いた時のように、喉に張り付いた音。


「先生…?」


 見下ろした先生。


 誰もいない部屋に、あたしと先生だけ。

 でも、先生はまるで死んだように眠っている。


 無理も無いと、思ってる。

 あんな拷問を受けた後に、普通にしていられる人なんていない。


 二日前。

 やっと、あたし達は解放された。


 ジェイコブ、って騎士が来て、先生やあたし達の無罪を掛け合ってくれたって。

 断片的に、香神から聞いた。

 アイツ、ちょっとは英語できるみたいだけど、先生ほどじゃないから詳しく分からなかった。


 その後、解放されたあたし達の前で、先生は倒れた。


 ゆっくりな呼吸なのに、身体は冷え切ってて。

 低体温症かもしれないって、伊野田が言ってた。


 小動物が起こしやすい、衰弱の一歩手前。

 伊野田は、昔猫を飼っていたことがあったらしい。

 その猫は、そのまま亡くなってしまったという。

 

 あたしは、それを聞いて無様に泣き叫んでいた。

 先生がこの部屋に運ばれて、「魔法」みたいなのを掛けられている最中にも取り乱した。


 今は、なんとか先生も落ち着いた。

 あたしも、なんとなく落ち着いた。

 何でなのかは分からない。


 考えてみる。

 なんで、あたしは彼の事で、あそこまで取り乱したのか。


元々、顔立ちが良い先生。

 眉根を寄せた、女っぽいとは思うけど凛々しい顔。

 いつも、授業中には引き寄せられるように見てしまって、あたしは睨み付ける事で誤魔化すしかなかった。


 けど、いつも見ていた。


 先生の表情、好き。


 いつもいつも、無表情。

 だけど、時々見せてくれる優しい目とか、小さく笑った口元とか。


 逞しくて頼もしい、大きな背中とか。


「(まるで、…恋をしているみたい、)」


 そう思った。

 瞬間、理解した。



***



 思えば、ずっと前から、この人が好きだったんだと思う。

 そう考えると、しっくり来た。


 この人、先生なのに、先生じゃなかったから。

 男としてしか見えなかったから。


 熱血漢の先生なんて、漫画の中だけ。

 誰だって見捨てないで、クラス全員を励ましてくれる先生なんてフィクションだ。


 そう思っていた。


 実際には、その通り。

 どの先公も、皆冷たい目をして、冷たい事ばかり。

 助けてもくれない。

 言葉もかけてくれない。

 自分達に被害が及ぶのを嫌って、見ないフリばかりしている。

 

 上辺だけの言葉だけ。

 いざ、何か面倒が起こったらすぐに、あたし達を見捨てる教師達。


 そんなもの、最初からいらない。


 学校以外にも問題が起きて、学校にすら行かなくなったあたし達。

 それでも、体裁が悪いからと、父や本国の母はあたし達を学校に行かせようとした。

 苦肉の策が、夜間学校の特別クラスだった。

 父さんの知り合いが、この特別学校を立ち上げた組合の人だったらしい。


 今は、別にそんな事どうでも良いけど。


 あたし達には、問題が付きまとう。

 ハーフだからとか、色々。


 あたしは、ビッチだと思われてる。

 だから、服装は地味なお下げ髪と、眼鏡

 制服だってきっちり着て、スカートだって折って無い。


 ソフィアは、ビッチのような格好をしている。

 派手な髪型にしているのは勿論、化粧も濃い。

 制服なんて着崩し過ぎて、原型が無くなってたりする。


 いつの間にか、お互いを守るようにして逆の格好をするようになったあたし達。

 お互いがお互いの甦生術。


 クラスに転入した当初は、何もかも信用していなかった。

 教師だって、生徒達だって、どの学校でも一緒。

 あたし達の髪だけ見て、身体目当てに近寄ってくるんだって。


 なのに、銀次(・・)は違った。


 このクラスの生徒達も、正直彼に会って、変わったと思っている。


 最初は、いざこざばかりの教室だった。

 一日に一回、必ず誰かが暴れてた。


 でも、先生は喧嘩慣れしてて、すぐに大人しくされてた。


 あたし達だって同じ。

 銀次は、あたし達の事も同じと見ていた。

 事実、あたし達も同じだった。


 同じ生徒(・・・・)として、平等に(・・・)見てくれていた。


 それが、いつの間にか、あたし達を引きつけてた。

 銀次を警戒しなくなった。

 それだけじゃなくて、先生の事を尊敬するようにはなった。


 そんな時に、今回の事が起きた。

 校舎ごと、異世界とかいう馬鹿みたいな世界に飛ばされて。


 浅沼の変な知識を無理矢理聞かされて、それでもそれが現実になるかもしれないって聞かされて、正直気持ち悪かった。

 怖かったんじゃない。

 気持ち悪かった。


 あたし達人間以外に、何が怖いのか。

 人間以外に、人間を害するものがいるのか。

 気持ち悪かった。


 でも、外敵というのは間違いなかった。

 騎士みたいな格好した奴等に、学校を燃やされてあたし達も捕まって。

 下着だけの格好で牢屋に繋がれて、3日もご飯を食べさせてもらえなくて。


 銀次なんて、拷問までされていた。


 なのに、彼はあたし達を見捨てようとしていなかった。


 夜中に、何度も呻いていたのも知ってた。

 あたし達と違って眠れていないのも、知ってた。

 体も気持ちも限界だって知ってた。


 なのに、銀次は絶対に逃げようとしてなかった。

 嘘だって吐こうとしなかった。


 それが、堪らなく嬉しくて、そして堪らなく悲しかった。


 あたし達がいなければ、彼だって意固地にならなくて済むのに。

 守らなくて済むのに。


 あたしは、彼を心配するか、元気付けるしかなかった。

 無力感しか感じない。


 しかも、あたしは不器用過ぎた。


「しっかりしろよぉ…!あ、あたし達…何も出来なくてもっ!…先生の事助けたいって思ってんの一緒なんだからさぁ!!」


 涙混じりの声。

 叱責の声。


 そんな言葉しか発せ無い、あたしの喉が憎い。


 銀次の様子が可笑しくなっていたのは、分かってた。

 背中しか見えなくても、分かった。

 自棄になったりしないだろうか。

 舌を噛もうとしちゃうんじゃないのか。

 時間が経つごとに、怖くなった。


 泣きごとも、だんだん言えなくなって来た。


 なのに、あたしは、彼を攻め立てるぐらいの事しか言えなかった。


 元気付ける事なんて、出来やしない。

 それでも、銀次を繋ぎ止める事が出来るなら、と。

 馬鹿な事をさせないで済むなら、と。


 そう思って叫んだだけだったのに、


「…あ、りがと、エマ…まだ、だい、じょうぶ…」


 銀次から返って来た言葉は、感謝だった。


 礼なんていらない。

 見栄も張らなくて良い。


 嘘を付いても良い

 あたし達を見捨てても良い。


 だから、もう苦しまないで欲しい。

 なのに、


「…名前、もう一回、呼んでくれねぇ?…頑張れそう…」


 そう言って、見えない唇が笑っているように思えた。


 銀次は、それでもあたし達を見捨てようとしなかった。



***



「(もう…駄目。…コイツ、格好良すぎる…っ)」


 もう、限界だった。


 思い出して、頬が赤くなる。

 頭を抱えて、無償に泣きだしたくなる。

 床を転げ回りたい。

 転げ回っても良いだろうか。


 牢屋の中での事を思い出す。

 いらん事まで思い出すけど、頭を振って追い出す。

 銀次のお尻が、良い形をしていたなんて事も追い出した。


 あたし、この人の事が本気で好きだって、自覚した。


 こんな良い男、どこにもいないって分かった。

 今まで付き合った永曽根や榊原よりも、良い男だって理解した。


 でも、あたしいつも素直じゃないから。

 姉さんにいつも先を越されていたから。


 だから、銀次の事、絶対振り向かせようと思ってる。

 振り向かせて、あたし一人を見てもらおうと決めていた。


 そんな銀次とあたしが、この部屋の中には2人きり。

 どこか、変な気分で、どこか嬉しかった。


 それなのに、彼は目覚めなかった。


 それどころか、


「…ひっ…っく…マ……行くなっ…」


 「…マ」という、頭語の分からない名前を呼びながら、銀次は喉を震わせている。


 あたしの名前は、エマ。

 ふと、嬉しくなった。


 それが、もし自分の名前なら。

 彼の夢の中にまで、一緒にいられるなら。


 行くな。なんて、言われて嬉しく無い訳が無いじゃんか。


 なのに、銀次は可哀想なぐらい魘されていた。

 喉どころか、身体ごと震えていた。


 あたし、この人に何が出来るんだろう。


 好きだなんだと言っておいて。

 何が出来るのか、分からないまま。


 彼が倒れた時だって、あたしは無様に泣き叫んでいるだけ。

 姉のソフィアにまで、叩かれて。

 それでも、彼が落ち着くまであたしは落ち着く事も出来なかった。


 情けない。


 そんなあたしが、彼に何を出来る?


 暖かそうな布団に包まれながらも、震えている彼。

 低体温の症状で、悪寒を感じて全身を震わせていたあの時と同じ。


 伊野田が言っていた。

 とにかく暖めろと。


 他にも誰かが言ってた気がする。

 何か、別の方法を。


「あッ!…雪山に遭難した時の方法…っ」


 潔く思い出した方法。

 思い出した。


 榊原が言っていた筈だ。

 雪山に遭難した時に、低体温症に陥った場合。


 あたしは、それ以上は何も考える事無く、制服に手を掛けていた。

 折角返してもらえて、3日ぶりに来た制服。


 あたしは、意を決して、それを床に放り捨てていた。



***



 あれ?


 なんか、柔らかい。


 後、暖かい。


 唐突に自覚したのは、その二つ。


 意識が浮上しかけて、滞空する。

 身体が鉛のように重いのだ。


 だって、考えても見ろ。

 オレ、3日も飲まず食わずで、寝る事も出来ない格好のまま、引退した筈の暗殺稼業ばりの拷問を受けていた訳よ。

 しかも、パンツ一丁の格好で鞭打ちに水攻め。


 風邪を引かないのが、可笑しい。


 助けられたことまでは覚えている。

 そして、生徒達と一緒に、3日ぶりのお天道様を見たのも覚えている。


 しかし、ここまでだ。


 案の定、オレの意識はそこで堕ちた。

 生徒達の前で、ぶっ倒れているのは何回目だろうか。


 情けないことこの上ない。


 しかし、察して貰いたいものでもある。


 字面だけで見れば、たった数千字かも知れない。

 だが、3日。

 3日だ。


 24時間が3回で72時間だ。

 その間に、オレが好きな惰眠を貪る時間がどれだけあっただろう。


 健康的以上に健康的に眠っていたオレの平均睡眠時間は10時間だ。 

 72時間のうち30時間の睡眠時間を、全て無駄にしたという事だ。

 昼寝をする事も出来たかもしれない。

 夜間学校という事で少し怠けすぎていた気がしないでもないが。


 くどいようだがもう一度、考えてもみて欲しい。

 今までのオレの生活サイクルは、週休二日制の夜型生活。


 夜8時から夜中まで勉学を進めて、午前3時には生徒達を寮に見送っている簡単なお仕事だ。

 そうして、生徒達を見送った3時から爆睡して昼の13時起床。

 夜間学校の組合会長(ちなみに現在のオレの上司)へのメールでの報告と、夜間学校の授業の準備。

 オレだって生徒達と同じで、勉強ぐらいしているさ。

 そして、8時までの残りの時間は、トレーニングや趣味の時間、もしくは昼寝だ。


 そんなオレの有意義な生活習慣を、この3日で大いに崩されてしまった。


 崩された挙句に責め苦を受けた。


 鞭打ちに水攻め、傷口に死を塗った来る拷問だ。

 生ぬるいとかイージーモードだとか、思っていたあの時の自分を本当に憎らしく思ってしまう。

 それだけ、ハードな3日間を過ごした。

 泣き叫んで、命を懇願していたかもしれない。

 己が助かりたい一心で、生徒達すらも犠牲にしていたかもしれない。

 正直、後一日長引いていれば、オレも危なかった。


 そうならなかったのは、生徒達のおかげだ。

 特に、エマと香神のおかげ。


 エマの叱責の泣き声がなければ、オレは心が圧し折られていた。

 今頃は、生徒達の事すら構わずに、舌を噛み切って死んでいたかもしれない。

 そうなれば、きっと生徒達とて無事には済まなかっただろう。

 そして、香神がたとえアメリカンでも英語を話せて、オレ以外の人間の通訳として全員に無罪放免を促してくれなかったら、そもそも解放もされなかった。

 たった3日の短期間で、あれだけネイティブになれるとは驚いたが、それも彼の異能がなせる技。


 持つべきものは、良い生徒だ。

 おかげで、オレは5年ぶりに泣きに泣いた。

 そして、大いに笑わせてもらった。


 久しぶりに、感じた責め苦や、それと同等の心労は裏社会のそれだった。


 だが、生徒達のおかげで、今はその裏社会の人間では無いという自覚を持てた。

 普通の人間として、笑えた気がする。


 閑話休題それはともかく

 話が逸れた。


 今のこの状況は、一体どういうことなのか。


「…エマ?…それとも、ソフィア…か?」


 先程、目が覚めた時、自覚した二つの動詞。


 柔らかい。

 暖かい。


 そりゃ、柔らかいし、暖かい筈だ。


 オレは最高級のベッドと毛布に包まれている。

 更には、最高級の女性にも包まれている。


 こんな極上の身体と、金色の髪の女性。

 そして、オレを抱き締めるという行動において、出来るのは2人しかいない。


 出席番号5番の杉坂・エマ・カルロシュア。

 もしくは、出席番号6番の杉坂・ソフィア・カルロシュア。


 特別クラスでも、特に色物である双子の金髪美人姉妹だ。


 だが、生憎とオレは彼女達を衣服以外で判断出来るほど目は肥えていない。

 それほど、彼女達はそっくりの双子の姉妹だからだ。

 平穏な学校生活を送っていた時には、時たま悪戯と称して入れ替わったりもしていたが、なんとなくでその違いが分かったりした。

 だが、流石に下着姿で無防備に寝顔を晒している二人を見分けるのは、いくらオレでも至難の業だ。


 今の自分の簡潔な状況。

 彼女達、双子姉妹のどちらかに、抱き締められて眠っていると言う事。


 目の前には、女性特有の豊満な胸。

 それも、下着一枚。


 杉坂姉妹は姉妹揃って、胸がでかかった。

 男として、こんな目の前で見せ付けられたら納得もするわ。

 目算でもEかFぐらいはあるだろう。

 今度、聞いてみたい気もするが、セクハラと断じられてしまうのは困るのでやめておこうと思う。


 ただ、この状況は逆セクハラとは言わないのだろうか?


 目の前に寄せられた見事な谷間。

 その谷間に、鼻先3センチの位置に寝ているオレ。

 ちょっと動いたら押し付けられると思うし、埋まる事も出来ると思う。


 何、この美味しい状況。


「ん…ぅ」


 未だにソフィアかエマか分からない彼女は、オレを抱き枕のようにして眠っていた。

 上目遣いに、彼女の顔を盗み見る。


 日系三世だけあって、外人然りの整った顔立ち。

 肌も色白で、彫りも深い。

 オレ、彼女達が生徒じゃなかったら、うっかり仕事も忘れてナンパでもしていたかもしれない。

 いや、ナンパはした事無かった筈だけど。


「んー…ぅ、うん…くすぐっ…たぃ…」


 オレの息が、くすぐったかったらしい。

 そこまで、鼻息を荒くしていた覚えはなかったのだが。


 身じろぐようにして、オレに胸を押し付けてきたエマ。

 再度、言おう。


 何この美味しい状況。


 エマのブラがずれて、乳首が若干見えている。

 予想よりも綺麗な色をしているものだ。


 いや、予想ってなんだよ、オレ。


「(…なかなかに、嬉しいドッキリだ…しかし、)」


 問題は、彼女はオレの生徒と言う事。

 そもそも、どうしてこの体勢になっているか、という事。


 気恥ずかしいが、このままでは始まらないだろう。


「…おーい…起きてくれ…オレ、苦しいんだけど…」

「んぅ…なに、ぎんじぃ……おっぱい、くすぐったい…」


 ………コイツ、エマで間違いないな。

 何故なら、二人はそれぞれ、オレを呼ぶ名前が違うから。


 オレの事を、銀次コードネームで呼び捨てしたの、あのクラスでもコイツが初めてだったからな。

 ちなみに、あの牢屋が初めてだったという事も余談として話しておく。


 そして、ヤバイ。


 今のは結構な破壊力だった。

 一言で言うなら、クリティカルヒット。

 主に、オレの股間に。


 こんな状況で名前を呼ぶな。

 たとえコードネームだったとしても、名前を呼ばれるというのはなかなかにクルものがある。

 そして、こんな格好でオレの布団にいるな。

 こんな状況だからこそ、オレの下半身も随分と過剰に反応してくれるから。


 ぶっちゃけ、食っちまうぞ?

 なんて、思って見ても実行には移せない。

 ヘタレなのでは無い。

 仕事の関係上、生徒とそう言った仲になりたくないだけだ。


 ただ、今のは凄かった。

 オレの股間に痛烈なダメージだ。

 若かったんだなぁ、オレ。

 今のだけで、まさかおっ●つなんて。


 おかげで、彼女が起きるまで。


 オレは、目の前の芳しい香りを放つ肢体に誘惑を受けつつ、悶々と過ごす他なかった。


 そりゃ、エマがどんなに口が悪くてもモテる筈だよ。

 こんな身体で迫られたら、返事はYESしか持ち合わせていられない。


 いや、オレは敢えてNOを突き付けるけどね!


 だが、切実に言おう。


 ヘルプミー!

 誰か、助けて!

 オレを助けて!!


 この状況だと、誰が入ってきたとしても、オレが変態認定まっしぐらだしねっ!!



***

誤字脱字乱文等失礼致します。

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