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異世界クラスのアサシン・クリード~ただし、引退しました~  作者: 瑠璃色唐辛子
異世界クラス、遠征編
137/179

130時間目 「緊急科目~望まぬ変化~」 ※流血・暴力・グロ表現注意

2017年1月7日初投稿。


続編を投稿させていただきます。


130話目です。

10が13で、130話です。

皆様のご愛顧、真にありがとうございます。


※タイトル通り、流血・暴力・グロ表現があります。

 苦手な方は申し訳ありません、ご注意くださいませ。

***



 砦の縁を覗き込んでいた、ほぼ全員が目の当たりにした変異。

 そして、その元凶。


 それは、銀次だった。

 銀次だった筈なのだ。

 しかし、それは彼等が知る、銀次の姿とは全く異なっていた。


 銀色の髪に、銀の瞳。

 しかし、その瞳には仄暗い影が落ち、意思が感じられない。

 ましてや、右腕を失くしたその姿を見れば、無事とは到底言えないだろう。


 爛々と輝く圧倒的なオーラは、数十メートルを離れた彼等からも、異常だとはっきり認識出来た。


 異常は、それだけに留まらない。


 月明かりを反射するかのような、肌に浮き上がった鱗。

 透明でありながらも、折り畳まれた雄大な翼。

 そして、人間には有り得ない長大な尾を、腰から伸ばしくねらせた姿。


 人間と龍を掛け合わせたような異質は、まるで合成魔獣(キメラ)だ。


 白銀に輝く、圧倒的なオーラ。

 威圧感、膨大な魔力。

 そして、覇気。


 見る者全てが恐怖を覚えるような、殺意を前面に押し出した、それでいて荘厳なる化身の姿。


 自身達の教師、友人、あるいは恋人の変わり果てた姿。

 誰もが絶句する他出来なかった。


 そんな中で、


『………サテ、始メヨウカ』


 ぼそりと呟かれた声は、銀次のもの(・・・・・)では無かった(・・・・・・)

 だが、その言葉は紛れも無く、彼の唇から発せられている。


 望月を過ぎた月の下に、顕現した銀次の姿をした全く別のもの(・・)

 眼を覚ましたのは、果たして何者なのだろうか。


 言葉を失った生徒達が、その場で微動だに出来ない中。


「そんな…ことが、」

「し、しっかり…ッ」


 今の銀次と同じ髪の色をしたラピス。

 彼女が、ふらりとその場に崩れ落ちた。


 咄嗟に支えたゲイルもまた、跪いて体を震わせる。


 脳裏に過った、最悪の予感。

 それは、ラピスもゲイルも、ましてやローガンにとっても共通のものだった。


 ラピスが崩れ落ちたのも、分からなくはない。

 ローガンとて、踏ん張っていなければ今にも脚から崩れてしまいそうだった。


「………やはり、あれが、『昇華』…ッ!」


 ラピスを支えた格好のまま、歯噛みするゲイル。


 一度は目の当たりにした事のある銀次の異変。

 あの時、怖気だったのは純粋な未知なる強者への恐怖故だった。


 今は、違う。


 彼、銀次の2度目の『昇華』。

 それによる影響を危惧した故の、恐怖だった。


 あの時、予期せず『昇華』した時には、彼は左眼に変異が出てしまっていた。

 傍目から見ても、異常だと言える変異だった。


 次は無い。

 銀次もゲイルも、あるいは相談役となったラピス達とて、共通の認識だった。


 今こうして2度目の『昇華』を来した彼に、どのような変化が訪れるのかは、全く予測が出来ない。


 更に言えば状況は最悪だ。

 あの時は、まだ銀次の意思はあった。


 だが、今こうして見ている彼には、意思どころか彼らしい意識すらも見えない。

 まるで、銀次の姿をしただけの化け物が、目の前にいる様に思えた。

 実際には、そうなのかもしれない。


 ゲイルは、怖気と共に、体が芯から凍えるような震えを覚え、ラピスを支えながらもガタガタと怯える事しか出来なかった。


「………何、あれ」

「あれが………銀次先生なのか?」


 一言、二言、ようやっと喋る事が出来た生徒達もいた。

 それでも、その疑問に答えられる人間はいない。


 生徒達の誰もが絶句する中で、間宮だけが怯える事も震える事も無く銀次の姿を見ていた。

 見ているだけとはいえ、その眼は観察をしている。


 威圧感は元より、銀次とは明らかに違った声音。

 溢れ出した膨大な魔力は、オーラとなって彼を包み込んでいる。


 それでも、間宮にとっては、怯える理由はどこにもない。

 本能的に感じた危険は、脳裏の外へ。

 彼は、銀次のその一挙一動すらも見落とさぬように、一心に凝視をしていた。



***



 生徒達同様に、絶句した頬に傷のある男。

 日本刀『紅時雨』一本を支えに、砦の壁に取りついたままの彼。


 そんな彼を睥睨した、その銀次の姿をした者の瞳には、意思が感じられない。

 その代わりに、野生動物特有の衝動だけがあった。


 殺戮衝動。

 本能的な、敵対の意思。


 背筋を這い上った何か。

 無論、それは頬に傷のある男の背筋だったが、次いで滑り落ちた冷や汗に目を瞠った。


 理解してしまった。

 容易く、自身の命を奪える存在を、目の前にした、と。


 本能が、警鐘を鳴らしている事を、頬に傷のある男は、この時はっきりと自覚した。

 見上げた彼が、思わず内心で臍を噛む。

 内心だけでは無く、唇すらも噛み締めた。


 丁度、その時であった。


『やぁやぁ、勝手に我等があるじの体を拝借するとは、良い度胸だ』

気持ちは分からん(・・・・・・・・)でも無いが(・・・・・)、ちと干渉が早すぎるんじゃないのか?』


 一時は、消えたと思っていた、アグラヴェインとサラマンドラ。

 彼等が、侍るかのように、銀次の姿をした何者かの背後へと浮かび上がる。


 どちらも、怒りが先行しているようだ。

 銀次の姿をした何者かの体から立ち昇る銀色の覇気をものともせずに、睥睨する視線を厳しいものとしていた。


 だが、銀次の姿をした何者かは、振り返りもせず。

 代わりにさも鬱屈そうに、口元を歪めただけ。

 まるで、叱責を受けて不貞腐れる子どものような表情だった。

 頬に傷のある男は、確かにその表情を見た。


『ソウ言ウナ。

 ソモ、オ主等ヌシラガ、シカトアルジヲ守リ切レバ、ワレ出テ来ル(・・・・)理由モ無カッタ(・・・・・・・)


 それだけ言って、銀次の姿をした何者かは溜息を一つ。

 鼻白んだのは、双方同時だった。


『しゃしゃり出て来ておいて、言ってくれる』

『早々なご挨拶だな』


 だが、怒りを露にしておきながら、彼等は肩を竦め、あるいは首を左右に振っただけ。

 この銀次の中にいる何者かの言う言葉も、最もな事だと思い出したが故だった。


 怒りは一旦、置いておく事にしたのか。

 アグラヴェインもサラマンドラも、それ以上は何も言わずに臨戦態勢を取った。


『苦情は追々としよう』

『まずは、あの質の悪い不届き者をどうにかしてからだ』


 それは勿論、銀次の姿をした何者かにでは無く、歯噛みをしたままでありながらも、気丈に彼等を見上げる頬に傷のある男。


 銀次の姿をした何者かも、同じだったらしい。

 不貞腐れたような表情は成りを潜め、代わりに覗いたのは純粋なる殺意。


 思わず、頬に傷のある男が、肩を跳ね上げた。


『………ヨクモ、ヤッテクレタモノヨ』


 にぃ、と微笑みを浮かべたそれ(・・)

 銀次の元々の笑顔が閻魔だった事を覗いても尚凶悪なその微笑み。

 ぞっ、と背筋を粟立たせたのは、頬に傷のある男だけでは無かっただろう。


 止まっていたかのような、その時間が動き出した。


 宙に浮いていたそれ(・・)が、透明でありながらも雄大な翼を広げる。

 カラカラと、翼とは思えない音がした。

 それが鱗がかち合うさざ鳴りとは、誰も気づく事は無いままで、


『マズハ、失クシタ腕ノ、オ返シトシヨウカ?』


 言葉を発したそれが、今しがた広げた翼を羽ばたかせた。

 その途端、銀次の周りの風が渦巻いた。


 風では無い。

 彼の周りを覆っていたオーラのような白銀の魔力だった。


 気付いたのは、誰が早かったか。

 しかし、その次の行動を予測できた者は、誰もいなかった。


 キュン、と風を切るような音が聞こえた。

 ただ、それだけだった。


 その音がしたと同時に、眼を瞠った頬に傷のある男は日本刀から落ち(・・)、空中に身を躍らせていた。

 その一瞬のうちに引き抜いた、紅時雨と共に。


 白銀に輝く翼が、針のように突き立っていた。


 一瞬の事である。

 男が今しがたいた場所が、まるで針山のようになっていた。


 空気を叩いた音は、文字通り音速によって齎された風切り音。

 今の一瞬の判断で、男は串刺しどころかハリネズミにされかけてしまったと言う事である。


 寸でのところで、空中に飛び出した頬に傷のある男。

 鎖分銅を投げ、同じように砦へと取りついたは良いが、流石に足場を作るまでの余裕は無い。

 そのまま、横這いとなって砦の壁数メートルを走る様に、バルコニーへと降り立った。


 その姿を見ながらも、銀次の姿をした何者かは表情を変えない。

 むしろ、その眼が獲物を追い詰めようと嗜虐心を剥き出しにした捕食動物のようにも見えた。


 何度目かの背筋を這い上る悪寒に、頬に傷のある男が思わず身震い。


 一方、銀次の姿をした何者かは、視線を切り落とされた右腕へと落としていた。


『………不便ナ』


 忌々し気に、更に視線を向けるのは左腕。

 それ(・・)が中にいながらも、左腕が動く気配は見られない。


 どちらも、機能と器官を失くした腕。

 不便というよりも、不憫であると思ったのは、まだそれが普通の感性を持っていた所為だっただろうか。


 背後に侍っていたままのアグラヴェインが、甲冑の奥でくぐもった唸り声を上げた。


『そう言ってやるな。

 コイツとて、腕を切り落とされた事は、相当なショックだったようだからな、』


 目線は、遥か下。

 男が銀次の腕を放り投げた、海面へと注がれている。


 そこには、大量の魔物が集まっていた。

 血が滴り、ひしゃげ折られた腕は、おそらく骨も残さずに捕食された事だろう。

 回収は、不可能だ。


『仕方ナイカ』


 銀次の姿をした何者かは、そう呟いたと同時に肘から下を失くした右腕を掲げた。

 血が未だに止まらず、赤と鉄錆の臭いに塗れたそこ。


 だが、その手の先から、浮かび上がった魔法陣。

 それは、断面から先に現れたと同時に、回転をしながら先へと延びていく。


 瞬間、そこから現れたのは傷1つない、真白な腕。

 今は鱗すらも浮き上がった腕が、肘から先へと現れていく。


 眼を疑うような光景に、頬に傷のある男どころか、砦からその様子を見ていた生徒達すらも絶句する。

 何度目かの、静寂が場を支配する。


 銀次の姿をした何者かは、それを当たり前のように見下ろすだけだった。


 手首が甲が、掌が指がと白魚の様な肌が、そうして爪の先まで魔法陣に覆われながらも現れた。

 生えたとしか形容出来ないその光景。


 魔法陣が消え、その手を見下ろした銀次の姿をした何者かが稼働を確認した矢先。

 その手には、白銀の槍が握られていた。


 ゲイルの持っている槍とよく似た、それでいて圧倒的に装飾や荘厳さの違う槍が顕現した。


 軽い動作でその槍の柄を握った銀次の姿をした何者かは、くるりとその手の中で槍を遊ばせる。

 それと同時に、物理的な衝撃を伴った暴風が吹き荒んだ。


 誰も知る事は無いだろう。

 今、彼が振るっている槍が、かつて女神ソフィアが振るっていた槍だとは。

 それを然も簡単に顕現し、扱ったこの銀次の姿をした何者かが、果たして何者かと言うのも。


 2度目の静寂の終わりは、唐突だった。


『サテ、続キヲ始メヨウカ』


 そう、一言だけ呟いた、銀次の姿をした何者か。

 雄大な翼を今度は畳むと同時に、その身を屈ませるようにして小さくしたと同時に、またしても空気を叩く風切り音が響いた。


 今度は、はっきりと、生徒達の耳にも届いた。


ーーーーーギィンッ!!


 ほぼ同時に、金属音も。


 気付けば、銀次は遥か下にいた頬に傷のある男の懐へと潜り込んでいる。

 かち合った『紅時雨』と、『白銀の槍』。


 頬に傷のある男が、弾かれた。

 だが、握っていた鎖分銅のおかげか、これまた振り子のように壁に沿って駆ける。


 だが、先ほどとは明らかに違うのは、その表情。

 余裕は見受けられず、そもその表情は苦虫でも嚙み潰したかのような表情と化している。


「クソ…ッ、なんつう馬鹿力だ!」

『ソウ言ウ、貴殿コソ、ヨクモ刀モ腕モ折レナカッタモノヨ』


 かち合った勢いに負け、男が吹き飛ばされた。

 成す術も無く振り子のように空へと放られ、また戻って来る軌道がしっかりと見て取れる。

 それを、面白そうに眺めていた銀次の姿をした何者か。


 だが、それもそこまでだった。


『………言ッタロウ?

 腕ノオ返シデアル、ト』


 底冷えのするような、低音の声。

 聞いていた誰もが、身震いをするような声音だった。


 かつて、誰も聞いたことの無いその声は、紛れも無く銀次の唇からのものだった。

 まだ、生徒達はそれを信じられないでいた。


 しかし、それは頬に傷のある男も同じこと。

 信じられないと目を瞠った瞬間、更に男を襲ったのは突然の浮遊感だった。


 見れば、鎖が途切れていた。

 違う。

 引き千切られていた。


 銀次の姿をした何者かの、振るった翼。

 そこから飛来した白銀の針のような刃が、鎖を砕いたのだ。


 振り子の原理で、戻る途中だった彼の体が、重力に引かれて降下していく。

 下は海。

 運良く防波堤から、その先のテラスに降りられたとしても、多少の怪我は覚悟しなければならない。

 それだけの高さにいたのだから、当たり前の事。


「………畜生…ッ」


 思わず吐いた悪態。

 しかし、


『ソゥラ、シッカリト刮目シテオカネバ、スグニアノ世ヲ見ル事ニナルゾ?』

「………ッ!!」


 その直後、男の背後(・・)から、聞こえた声。

 いつの間に回ったのか、それはいた。


 雄大な翼を羽ばたかせた、人と龍を掛け合わせた歪な姿をしたそれが、男の背中に回り込んでうっそりと微笑んでいた。

 ぞくりと、再三の怖気。

 男は、我武者羅、とまではいかずとも、微かな希望と経験から日本刀を背中へと回した。

 とてつもない衝撃が背中を撃った。

 それと共に、男は夜空を見上げている。


 ほぅ、と一瞬だけ滞空。

 男の意識が途切れた瞬間があったが、その時にはまた更に真下にそれが迫っているのを肌で感じた。


 圧倒的な覇気が、真下に飛び込んで来る。

 一瞬だけ途切れた意識と思考を、それこそ本能に任せて奮い立たせる。


 今目の前にしているのは、化け物だ。

 自分すらも軽く殺し、凌駕しうる本物の化け物だ。


 理解したとしてももう遅いが、それでも男は抗おうとその身を捩った。

 空中にありながらも、その体をたがめ、必要な筋肉だけを動かし、最小限の動きで反転する。


『………ホゥ、ナカナカ見所ノアル男ダッタヨウダ』

「チッ、誉め言葉も、いちいち癪に障る…ッ!」


 反転した直後、通過するかのように下から槍を突き上げて来たそれ。

 男は反転した体のままで、紅時雨を振るった。


 2度目ともなった金属音が、まるで悲鳴のようだった。


 突き立てられた槍の軌道を、男が捻った脇へと逸らす。

 紅時雨がその刃先を弾いた事で、可能になる荒業。

 だが、それ以上が出来ない。


 受け流したとも同義な状況で、切り返す事は出来ない。

 今しがたの紅時雨の悲鳴のような金属音が、それを物語っている。


 当たり前のことだ。

 それは、頬に傷のある男も、よく分かっている(・・・・・・・・)

 紅時雨は、いくら銀次の愛刀とは言え、現代の代物である。


 対して、銀次の姿をした何者かが振るう槍は、見目からしてこの世界原産の代物であり、神級の遺物だと予測出来る。

 武器にもまた、精霊が宿る世界。

 それぞれ宿る精霊や、その位が変われば、その性質、ましてや強度や精度も変わって来る。


 言っては難だが、片や鈍ら。

 そして、相手は『精霊剣スピリチュアル・レガシー』にも負けずとも劣らぬ業物。


 紅時雨が悲鳴のような金属音を鳴らしたのも、当然の事であり自明の理。


 想定していた事ではある。

 正直、銀次が扱う武器ならば、それなりに(・・・・・)研究して来た(・・・・・・)

 その中に、精霊の力で顕現させる、日本刀や大刀がある事も事前情報として知っていた。


 だからこそ、紅時雨を奪った後に、仲間の魔術師に頼って『防護強化タフネス』は掛けてあった。

 それも、万全を期して最高3重掛けである。

 だからこそ、アグラヴェインの力で顕現させた銀次の日本刀とも、鍔迫り合いが出来たと言う経緯もある。

 そうでなければ、今頃紅時雨は刃毀れどころか折れていた可能性もあったのだ。


 だが、ここまで万全を期していながらも、流石にこれは想定していなかった。

 まさか、『精霊剣スピリチュアル・レガシー』クラスの武器とかち合う事等、万に一つも考えていなかったのだ。


 おかげで、今さっきの紅時雨の悲鳴がある。

 ついでに、手に伝わった振動と違和感に、手首の骨が逝ったか罅が入った事が分かる。


 刀での攻防は、命取り。

 男にとっても、手元にある紅時雨にとっても。


 だが、それを嘲笑うようにして、銀次の姿をした何者かは嗤っている。

 逸らした軌道をそのままに、空中で翼を広げたのを、頬に傷のある男は横目であろうとも確かに見た。


 風切り音が響く。

 瞬間、男は体に入っていた力を抜いた。

 それと同時に、頭を下に向けて真っ直ぐに降下。


 コートの裾や爪先、ましてやブーツを切り裂く感触が伝わった。

 それでも、回避する事は出来た。

 致命的な傷を負わせられてはいない。


 更に、空中で反転する。

 これまた、男の抵抗を面白そうに眺めていた銀次が、翼を畳んだ瞬間であった。


 突っ込んで来る。

 そう分かっていながら、男はそれ以上を構える事が出来ないままだ。


 紅時雨は、耐え切れない。

 かと言って、素手でやり合うには、余りにもリスクが高い。

 ましてや、空中である。

 文字通りの頼みの綱であった鎖分銅は、半ばから切れて手にあるのみ。


 そこまで考えてから、ふと男は眼を瞠る。

 瞬間、男の目の前には、女染みた端正な顔が迫っていた。


『………ワレヲ御ソウト考エルカ、若造?』

「見た目はテメェの方が、十分若造だろうがよ」


 皮肉を返して、男が振るう腕。

 紅時雨を持った右では無く、切れた鎖を握っていた左腕。


 狙いは、銀次では無い。


 槍はまたしても突き立てられようと、銀次の後背で引き絞られている。

 その槍目掛けて、男は鎖を振るった。


『………ム?』

「良いようにやってくれんのも、ここまでだ!」


 槍に絡みついた鎖に、銀次が一瞬だけ怪訝そうな表情を見せた。

 しかし、引き絞られた槍はそのまま解き放たれる。


 男は、その槍の軌道だけをしっかりと見ていた。

 腰を捻る様に、最小限の動きで避けた。


「…ッシャア!!」


 それと同時に、今度は右腕の紅時雨を振るったのである。

 銀次の姿をした何者かの表情が、ここに来て初めて崩れた。


 目を瞠り、一瞬にしてその姿が消える。

 翼を推進力に上空へと逃れた。


 だが、槍には男が振るった鎖が絡みついたままだ。

 男も一緒になって、上空へと引っ張り上げられる。


 がくり、と肩肘に掛かった重力は、相当の物だった。

 悲鳴を飲み込んだは良いが、思わず歯噛みした奥歯がぎしりと軋む。


『………コノ為カ、』

「へっ、空が飛べる相手には、昔遭遇した事があってねぇ…!」


 そう言って、ニヤリと男が嗤う。

 今の銀次に負けずとも劣らない、凶悪な笑みだった。


 それを見て、ふ、と銀次の姿をした何者かは微笑んだ。


『………コノ体ノアルジヨリモ、ヨッポド肝ガ据ワッテイルヨウダ』


 自棄に嬉しそうな表情。

 気負いは、皆目見当たらない。


 若造扱いは久々ながら、こうも格下に見られたのは初めてだ。と、頬に傷のある男は少々眉根を寄せた。


 だが、その表情は次の瞬間には、消える。

 それも、お互いに。


「うらぁあああ!」


 男が、右腕を振り抜いた。

 紅時雨では無く、拳を叩き付けようとしたのである。


『ホォ、ナントモ………度シ難イ行動ヲ取ル者ヨ』


 銀次の姿をした何者かは、首を傾けるだけで避けた。

 しかし、男はそのままの態勢で鎖を引く。

 銀次の姿をした何者かの腕は微動だにしなかったものの、男はその膂力によって態勢を整えると同時に回し蹴り。

 これまた、男は身を屈めるようにして避けた。


 その時、銀次の姿をした何者かが気付いた、その腕と足の防具。

 籠手ガントレット具足ブーツ双方に感じた魔力反応は、確かに彼が見知った物とそっくりだったのだ。

 それが、何か(・・)を判断した瞬間、


『人間如キガ、ソレ(・・)ヲ纏ウカ!』

「………ッ、おっと、気付いたか」


 銀次の姿をした何者かの意思の感じられなかった瞳が、殺意に濁った。

 溢れ出した覇気に、怒気が混じる。


 そんな銀次の姿をした何者かからの突然の怒気に、微かに動揺した男。

 ただ、口調だけは飄々と、受け流したかのように振舞う。


 そんな彼に向けて、右腕の槍を振るった銀次。

 キュン、とまたしても風切り音が響くそれを、男は籠手ガントレットで防御した。


 それでも、とてつもない衝撃が腕に掛かった。

 ついでとばかりに、その籠手と槍の間には、白銀の光と共に魔法陣が一瞬だけ浮かび上がる。


 男が攻勢に出たのは、この籠手ガントレット具足ブーツの存在を思い出したからである。

 『精霊剣スピリチュアル・レガシー』という業物を前にして、紅時雨以外で対抗出来る力。

 それが、籠手ガントレット具足ブーツ


 正確には、籠手ガントレット具足ブーツに組み込まれた精霊と、魔法陣の効果。

 どちらも、『聖』属性を持った、それでいて上位の精霊が宿る遺物。

 『防御強化ガードニング』と『防護強化タフネス』、『防魔』までもが組み込まれたそれはつまり、今銀次の姿をした何者かが持っている槍と、同等程度ではあろう代物だった。


 偶然の産物で(・・・・・)手に入れた物だったが、こうして役に立つ時があった。

 そう考えると、捨てた物でも無いと考えていた男。


 その男の内心が、表情に現れていたのか否か。

 更に、銀次の姿をした何者かが発するプレッシャーが強くなった。

 表情も、険しくなっている。


『貴様ノ様ナ、ナラズ者ガ、何故ソレヲ持ッテイル!?』

「ならず者なんて、誉め言葉だね!

 戦利品を使って、何が悪い!」


 鎖で繋がれた、数メートルの距離。

 男が、振り抜いた拳が、銀次の頬を掠めた。

 淡く輝く銀の髪が数本舞い散ったと同時に、眼を細めた銀次の姿をした何者かがその腕を掴もうと手を動かす。

 しかし、その手は動かない。

 銀次の左腕は、麻痺していて動かなかった。

 眼を瞠った、彼。

 しまった、と思ったが、もう遅い。


「貰ったぁ!」


 その一瞬の隙に、男が紅時雨を突き込んだ。


 翼を閃かせ防御に回った銀次の姿をした何者か。

 突き立てられた紅時雨とぶつかり合った翼の間で火花を散らせたが、


「足下がお留守なんだよ!!」

『………ッ!』


 男は、紅時雨さえも囮にし、翼の向こう側へと蹴りを放った。

 具足ブーツが迫り、銀次の姿をした何者かが思わず息を呑みつつも、躱そうと身を捩る。


 その矢先に、男があらん限りの力を持って鎖を引いた。

 先程は微動だにしなかった腕が、咄嗟の事で膂力に負ける。


 無理矢理の反転に、無防備になった懐。

 そこへ、鎖を引いた膂力を持って懐に潜り込んだ男が拳を振り抜いた。


「せぇえええッ!!」

『ガフ…ッ!?』


 肋骨の軋む、あるいは折れる音を聞いた。

 頬に傷のある男も、ましてや拳を受けた当事者である銀次の姿をした何者かも。


 腎臓の上。

 少しでも殴打をされれば激痛を伴うそこへの攻撃に、思わず身を屈めた銀次。


 目の前には、先ほどとは逆に頬に傷のある男の、男然りとした野卑ながらも雄々しい顔が迫っていた。


 いつの間にか、男のフードが剥がれ、宵闇に黒髪を遊ばせている。

 そうして改めて見た端正な顔に、走った刀傷すらも鮮明に浮かぶ月下で、


「オレが用があんのは、テメェじゃなくてその中身なんだよ!」


 またしても突き立てられた紅時雨。

 今度は、回避どころか翼での防御も間に合わず、左肩へと突き立った刀。


 突き抜けた背中の肩口から鮮血が飛ぶ。

 筋組織を傷付けたそれに、思わず銀次の目が見開かれる。


「落ちろ!」


 そのまま、男が刀を引き抜いたと同時に、返す刀で鎖を切断。

 更には、銀次の腹を蹴り飛ばす。


 その膂力すらもまた、銀次の体にダメージを与えるには十分過ぎる。

 またしても、骨の軋む音を聞いたのはどちらが早かったか。


 だが、それも一瞬の事だ。

 男の言葉通りに、落下する銀次の体。


 彼を蹴り飛ばした男の方は、空中で優雅に宙返りを決めながら、蹴りによる膂力を用いて砦のバルコニーへと着地をした。

 人間業とは思えないそれに、またしても一部始終を見ていた生徒達が絶句する。


 一方落下した銀次の体は、そのまま海に叩き付けられるかのように思われた。

 しかし、間一髪。

 彼の真下に現れた闇。


 円を描く泉のようなその闇の中へと飲み込まれた彼は、直後同じように上空に現れた闇から落ちるようにして真上に戻っていた。


 それを受け止めたのは、アグラヴェイン。

 先程、彼の真下にあったのも、アグラヴェインの『闇』だった。

 特性として、彼には『闇』を通じたゲートを使える。

 前にヴァルトとハルを飲み込んだのも、その特性を使っての事だったが、今回は銀次の体だけを守る為に敢えて使った。

 あのまま海面に叩き付けられていれば、いくら出鱈目な造りとなっている銀次の体とて無事では済まない。


『助ケヲ求メタ覚エハ無イゾ』


 そう考えての事だったのだが、受け止められた銀次の姿をした何者かは面白くなさそうに唇を尖らせていた。


 受け止めたアグラヴェインは、大仰に天を仰いだ。


『ギンジの体を守っただけであって、貴様を助けた訳では無いわ』

『………ソレモ必要ハ無カッタ』

『怒りに引きずられて、周りすらも見えなんだか?

 あるじの体に新たな傷を増やしておいて、よくもそんなことが言えたものよ』

『ソレハ、ワレトテ反省ハシテイル』


 まるで、物分かりの悪い子どもと、言い聞かせる母親の会話。

 幸か不幸か、風にかき消されて生徒達どころか頬に傷のある男にも聞こえてはいなかった。

 (※聴力の発達している間宮や紀乃にはちゃっかり聞こえていた事は余談とする)


 アグラヴェインの腕から降りた銀次。

 口元から滲んだ血を拭い、その手をチラと見た銀次の姿をした何者かの目には、既に凪の様な冷たさしか浮かんでいなかった。


 痛みも感じたのは、最初だけ。

 既に治癒を開始している(・・・・・・・・・)ようで、肩の傷は瞬く間に塞がった。

 この分だと、軽快に折られた肋骨等も、そう時間も掛からずに治癒は終えるだろう。


 だが、鱗が浮いた顔色は、明らかに悪くなっている。

 体内で内臓が傷付き、出血した。

 更には、肩に負った傷からの出血も影響しているだろう。


 元々、銀次の体は戦闘に堪えうるほど、万全では無かった。

 それが、立て続けの怪我による出血の所為で、表面化しようとしている。


 現に、体の鈍さを自覚し始めた銀次の姿をした何者かが、眉根を寄せていた。


 音は聞こえずとも、その表情を見る事は出来た頬に傷のある男。

 落ちたフードはそのままに、長く伸びた右側の前髪と後ろ髪を、強風に煽られつつ静かに銀次達の動向を伺っている。


『………遊び過ぎたか』

『ナンノ。

 遊ビノツモリハ、毛頭無カッタ』

『しかし、相手は健在。

 お主は、勝手に怒りを巻き散らしただけでは無いか』


 アグラヴェインの声に、叱責が混じる。


 彼の目からしてみても、明らかな変化があった。

 言わずもがな、あの男が鎖で槍を封じ、肉弾戦へと切り替えた瞬間の事だ。


 弾けるような怒気が、発せられた。

 それと同時に、銀次の姿を借りたそれの精細な動きが欠かれた。

 おかげで、銀次の体がまた傷付いた。

 何も彼の事を姫のように扱う訳でも無いが、宿主が死なれて困るのはアグラヴェイン達なのだ。


『少々、予想ヨリモアノ男ガ、厄介ナモノデナ』


 だが、それを受け流したのは、銀次の姿を借りた者。

 中身が違う事で表情もまた違い、今の彼には気まずさも無ければ申し訳無さすらも伺えない。


 それに対し、更にアグラヴェインは怒りを募らせた。


『そんなことは、最初から分かってい筈だ。

 ………おヌシが、これ以上主あるじの体を傷付けるようであれば、』

『分カッテオル。

 相モ変ワラズ(・・・・・・)、口煩クテ敵ワヌ精霊オトコヨナ』


 しかし、それも無駄骨だったようだ。

 明らかに小馬鹿にした様子で鼻を鳴らした銀次の姿を借りた何者かは、羽搏かせていた翼を畳むようにして、更には槍を引き気味に構えた。

 順手から逆手に持ち替える。


 その動きを十数メートルは離れていながらも見て取れた頬に傷のある男が、改めて構えた。

 爛々と殺意を滾らせた銀次の姿をした何者かが、動く。


 静寂からの均衡は、破られた。


 翼を畳んだ通り、急降下をするように風を切って飛ぶ銀次。

 相対した頬に傷のある男は、その一挙一動すらも見逃さぬように目を見開いた。


 瞬間、


『シィイッ!』


 銀次が槍を投げた。


 やはりか、と男が籠手ガントレットを構える。

 手を持ち替えた時にまさかとは思っていた。

 だが、こうして投げて来たからには、迎撃の方法は決まっている。


 籠手ガントレットで、恐るべき速度で飛来した槍を弾く。

 それだけでも凄まじい衝撃で、受け流す動作まで付け加えていなければ、逆に弾き飛ばされた可能性もあった。


 現に、頬に傷のある男は、踵が数センチ後退させられたのを確かに感じていた。


 だが、次の瞬間には、目の前にまたしても端正な顔。

 分かっていた。

 しかし、先ほどよりも明らかに速度が上がっている。


 これには流石の男も、選択を余儀なくされた。

 受け流しの態勢のままとはいえ、このまま紅時雨を切り返すか。

 はたまた、回避に専念するべきか。


 迷ったが、判断は早かった。

 先程畳んでいた翼が、一斉に広げられたのを横目に見たからである。


 先程の翼からの光の針が飛んで来る。


 回避に専念した男は、即座にバルコニーの手摺から、飛び降りていた。

 階下のバルコニーへと飛び降りたと同時に、真上を振り仰ぐ。


 次いで、轟音が響いた。


 右手を振り抜いた銀次が、翼を使ってバルコニーごと壁を粉砕していた。

 どうやら、あの翼は針を飛ばす以外にも攻撃手段を持っているらしい。


 先程、紅時雨での突きが火花を散らして弾かれた事を思い出し、鋼鉄にも似た強度がある事を再確認する。

 そこで、チラと銀次が視線を向けた。

 その眼を受けた瞬間に、ぞくりと粟立った背筋。


 いつの間にか、その眼からは赤い涙が滴っている。

 何故、泣いているのか。

 何故、赤い涙なのか、と考えてみても理由は皆目見当も付かない。


 異常だ。

 再確認したそれに、一瞬停滞した思考。


 気付けば、銀次との距離が詰められていた。


『時間ガ無イヨウダ。

 く、死ンデ貰オウ』

「そんな理由で殺されて堪るか、ってんだぁ!」


 男が紅時雨を振り抜いた。

 踏み込みは浅かったが、上半身の捻りと共に腕力に物を言わせて最高速度を叩き出す。

 この世界で目覚めてから(・・・・・・)も、修練は欠かしていなかった。

 目的の為には、欠かして等いられなかった。

 その修練の賜物である、腰と腕の振りだけでありながら、音速を超えた横薙ぎ。


「………ッ!?」

『時間ガ無イト言ッタダロウ』


 男が次に銀次を見た時、煩わし気な表情だった。

 刀は、その顔の横で止まっている。


 あろうことか、右腕一本で、男の渾身の横薙ぎを受け止めた銀次の姿をした何者か。

 先程再生したばかりの右腕には、爛々と光る何かがあった。

 鱗の様なそれは、月明かりを反射している。

 まるで、刀身の様な煌めきを持ったその腕は、これまた異常としか言えない。


 だが、これで分かった。

 この銀次の姿をした何者かが、どういった存在であるかを。


「テメェが、まさか………ッ」

『ホゥ、人間風情ガ気付イタカ』


 ひく、と引き攣った息が、不覚にも男の喉奥から漏れた。

 目を細めた銀次の姿をしたそれは、また面白そうに男を見ているだけだった。


 だが、もう眼から零れる血の涙は、無視出来ない量となっている。

 左眼を覆っていた包帯すらも、真っ赤に濡れて重たそうになっていた。


 しかし、その観察が出来たのもそれまで。


『ダガ、気付イタトコロデ、モウ遅イ』


 銀次の唇が動く。

 その細められた眼が、更に殺気を強めた。


 刹那、


「ぐぅ…ッ!?」


 弾かれた。

 意図も簡単に、男はバルコニーから外へと投げ出される。


 攻撃はそれだけに留まらない。

 次の瞬間には、がくりと大きな振動と共に急停止した。


 見れば、男の脚を掴んでいる銀次がいた。


『ガァアアアアアアッ!』

「ぐお…ッ!?」


 雄叫びを一つ。

 そうして、銀次は男を砦の壁へと投げ付けた。


 石造りの壁に、叩き付けられる。

 壁を突き破る事は無くとも、石に叩き付けられた体は痛みに各所から悲鳴を上げる。

 歯噛みをした。

 その頬に、血が垂れた。


 だが、その痛みに呻いている暇は無い。

 チカッと、横目に見えた光。

 嫌な予感と本能的な危険察知によって、男はその場から上へと逃れていた。


 途端、降り注いだ光の針。

 またしても翼から放たれたそれが、砦の壁へと次々と突き立つ。


 真上のバルコニーの欄干に手を掛けて、宙にぶら下がる。

 難を逃れたが、まだ男を狙う銀次の姿をした何者かは、視線をこちらに向けていた。


「………全く、出鱈目な事までしやがって、」


 舌打ちを零して、助走を付けてバルコニーへと飛んだ。

 欄干へと着地したは良いが、ぞくりと背筋を這い上った何かに慌ててその場から飛び退いた。


 直後、そのバルコニーが倒壊した。

 一瞬何が起こったのかは分からなかったが、これまた横目に見た先では銀次がいつの間にか回収していた銀の槍が握られている。

 振り抜かれただけでバルコニーが倒壊したのかと、これまた背筋に悪寒が走る。


 背中に反射するような羽ばたきの音。

 まるで梟に狙われた鼠の気分だ、と男は独りごちた。


 だが、その瞬間、またしても体が急停止。

 キュン、と空気を叩く音と共に、バルコニーへと飛び移ろうとしていた男の目の前には銀次がいた。


 その右腕が振り抜かれる。

 容赦も無い。

 籠手ガントレットで防御した。

 しかし、吹き飛ばされて、これまたバルコニーへと不時着した。


 先程壊れたものとは別のバルコニーへと、欄干を破壊しながら落ちる。

 根本まで罅が走ったそこは、崩れ落ちる様にして傾き始めていた。


 意識が飛びかけた。

 背中を打ったことで息が詰まる。


 酩酊するような意識の端で、銀色の髪が目の前に翻ったのが見えた。


「………づぅうッ!?」


 がつり、と音が聞こえた時。


 男は、自分がどうなったのかは、はっきりと分からなかった。

 ただ、遅れてやってきた頭部からの痛みに、槍で叩き伏せられたのだと理解出来た。


 意識が朦朧とする。


 だが、銀次の姿をした何者かは躊躇も無かった。


 崩れ落ちるバルコニーと共に、階下へと落下しそうな男の体。

 そんな力の抜けた男の髪を掴んで押し留めると、銀次はあろうことかまたしても振り回した。


 再三、叩き付けられた壁。

 痛む背に、無理矢理肺から押し出される空気。

 呼吸が上手くできなくなった事に気付いても、時既に遅し。


 がくり、と首が落ちそうになる。

 脳が揺れて、わんわんと耳鳴りすらもしていた。


 更に掴まれた頭。

 目の前には、銀次の男にしては遅すぎる厭いのある掌があった。


 だが、その白魚の様な手には、鱗が浮かび、微かに瞼の裏で煌めいている。

 爪も伸びていて、人とは思えない手だ。

 まるで、本物の龍が人間を模したような手だった。


 鷲掴みにされた頭。

 爪が突き立った箇所に、血が滲む。


 ギリギリと込められた力に、押し潰されると感じた。

 物理的にも、精神的に潰される。


 明らかな劣勢だった。

 感じ取っていたのは最初からだった。

 だが、まさかこうまで格が違うとは思ってもおらず。


 ーーーーーいつか相手にした空を飛ぶ相手は、まだ優しい方だったか。


 と、今更ながらに、考える。

 この銀次の姿を借りた何者かの存在を、甘く見過ぎていた事を悟った。


 死ぬ。


 一瞬にして浮かんだ諦念。

 思考が、冷え込んでいく。


 吐く息が冷たい。

 息を吐けているのかすらも、曖昧な中、


『………コノ体ノアルジニ、何ノ怨恨ガアルノカハ知ラヌ。

 ダガ、コレ以上ノ狼藉デ、大事ナ器(・・・・)ヲ壊サレテモ困ルノデナ………』


 耳朶を打った銀次の姿をした何者かの、声。

 死刑を告げる閻魔の声にも似たそれ。


 男は、悟った。

 この銀次の中にいる何者かは、躊躇なく自身を殺すであろうことを。

 躊躇なく、虫けらのように殺せる存在である事を。


 悟ったとしても、遅いとしか言いようが無かった。


 しかし、


「………そんなに、その中身(・・・・)が、………大事って事かよ…ッ」

イナ

 大事ナノハ、ウツワデアッテ、精神デハ無イ』

「………同じことだろうが…ッ!」


 男の矜持。

 最期にして、口を開いた男が口元を歪ませる。


「………その、人殺しで、屑の、『予言の騎士(クソガキ)』に、

 ………手を貸している時点で、………テメェ等もまとめて、屑だ…ッ!」

『………。』


 男が、吐き捨てた言葉。


 銀次の手が、止まった。

 その眼が、少しだけ見開かれている。


 それは、風に乗って、生徒達の耳にも届いた。

 固唾を呑んで見守っていた生徒達の体が、震える。


 『人殺し』


 そう聞いて、何も思うところが無い訳では無い。

 だが、納得している部分は多い。


 同じように、聞いていたアグラヴェインやサラマンドラすらも、その身を強張らせた。

 分かっている。

 契約をし、その身に住まわってからは、アグラヴェインはほとんどの記憶を共有している。

 サラマンドラは、未だに開かれた心の分だけであっても、その言葉の意味は良く理解出来ていた。


 だが、男が何を知っていると言うのか。

 彼の存在は、この世界に来てからは潔白である。

 過去がどうであれ、この世界で起こした諸々の事件や関わった出来事の中、人の生き死にが関係した事は無い。


 ………否。

 1つだけあった。


 銀次達とは、別の召喚者達の殲滅。

 その時初めて、彼はその手を血に染めた。


 人殺し、と言う言葉に、否定は出来ない。


 だが、


『………ナ、ナンダ?』

「………ッ?」


 銀次の姿をした何者かが、挙動を止めたのは別の理由があった。

 男の言葉に動揺した訳では無い。

 ましてや、話半分を聞き流していたような状態だった。


 だと言うのに、その手は動かない。

 銀次の姿をした何者かの意思とは関係なく、その体の一切の制御が効かなくなっていた。


 驚きに、銀次の目が見開かれる。

 その銀色の眼の奥に、唐突に青みが差した。


 瞬間、


『………辞め、ろ』

「………ッ!」


 銀次の唇から、勝手に紡ぎ出された声。

 それは、今まで流暢に銀次の姿で物を離していた、何者かの声では無い。


 元の主である、銀次の声。


 男が、掌に覆われた視界の中で、目を瞠る。

 それと同時に、銀次の姿をした何者かが、戦慄したかのような表情を見せた。


 瞼から零れ落ちる、血の涙の量が更に増えた。

 既にそれは、血塊だ。

 今までは涙に交じっていたそれが、血だけとなって流れ落ちている。


『………マサカ、突破(・・)シタ…!?

 我ガ、強固ニ封ジ込メタ、精神ノ檻ヲモ、破ッタト言ウノカ…!?』


 そう言って、男の頭から手を離した銀次。

 いや、違う。

 引き剥がされるかのように、勝手に手を動かされた。


 本来の精神が、鬱の主導権を取り返しつつある。

 銀次が、目覚めようとしている。

 

 その直後の事だった。

 銀の眼に、明らかな意思が宿る。

 右目だけだったが、確かにその眼には理性が宿った。


『………オレ、ノ体、だ。返して、クレ』


 言葉と共に、その表情が消えた。

 戦慄は、無表情へ。


 そうして、ふらりと傾いだ体が、バルコニーの外へと倒れていく。


 咄嗟に、男が手を伸ばした。

 何故かは、分からない。

 男にとっても、また銀次にとっても、意味の無い行為だった。


 本当に、咄嗟だったようだ。

 男の眼が、三度見開かれた。


 しかし、思った以上に重い体は、銀次の腕どころか服の裾を掴むことも無く、宙を切った。


 バルコニーの外へと、彼の体が消えるその刹那、


『………イヤハヤ、見事。

 思ッタ以上ニ、コノ体ノアルジモ、捨テタモノデハ無カッタカ』


 そう呟いた、何者かの声を残して。


 砦の外へと落ちていくその体。


 悲鳴が木霊した。

 幾つもの声が重なったそれは、一部始終を見届けようとしていた生徒達の悲鳴だった。



***



 お恥ずかしい話。

 今の現状を、しっかりと把握するには、自分の脳みそは許容量が足りないらしい。


 眼が冷めれば、白としか形容の出来ない世界にいた。

 寝ているのか、座っているのか、立っているのかも分からない。


 なんだか、意識だけで見ている気がする。

 体が見当たらない。

 本当に、お恥ずかしい話だ。


 何が起こったのかは、当事者であっても分からなかった。


『(ここは、どこだろう?)』


 そう考えて、簡単な事だと妙に納得した自分がいた。


 天国と呼ばれる場所。

 もしくは、今から地獄への迎えがやって来る、中継場のような場所か。

 ドラマや映画で、こうしたシーンは何度も見た。

 ここ等で、過去恩を受けた誰かの姿や、神様らしいと言える姿で現れた神様のような存在が、道案内でもしてくれるのだろう。


 なんて、フィクションでしかないだろう事を、意味も無く考える。


 死んだ、と自覚している。

 意識が途切れる寸前、死んだ方がマシと思ってしまったのも要因の一つか。


 簡単に、諦めてしまった。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 でも、あればかりは、仕方がない。

 オレは、あの男には勝てない。

 現状では、どう足掻いたところで、オレが勝てる見込みが無い。


 だって、そんなの当たり前だろう。


 あんな狂った野郎、相手にする方が骨だ。

 ましてや、アイツは過去、オレの撃ったライフルを1キロ弱は離れた場所から察知して切り捨てたなんて、人間離れした芸当までしてくれた相手だ。

 クレイジーだね、まさに。


 そんなクレイジーな野郎が、どうしてオレに固執するのか。

 分からない。

 心当たりは無い。

 過去の因果だと言われたとしても、オレはこの世界で怨恨を受ける立場になった覚えは無い。


 この世界で殺しをしたのは、召喚者達の一件があったあの夜だけ。

 あの頬に傷のある男も関わっていた筈だったが、それだけの理由であそこまで固執されるとは思ってもみなかった。


 ………全てを奪ったと言われたが、それを言っているのか?


 家族だった?

 仲間意識があった?

 ならば、何故あんな風に、捨て駒にするような真似を?


 武器やその取り扱い、簡単な狩猟や罠の設置方法を教えただけの関係で、それが全て。

 短慮すぎるか。


 訳が分からん。


 そもそも、この状況が訳分からん。


 オレ、やっぱり死んだんじゃないのか?

 生きてる?

 それにしては、体の感覚が希薄過ぎる。


 死んだ。

 そう確信出来る。


 涙が零れる器官が無いと言うのに、泣きそうになった。

 嗚咽が漏れそうになるのを堪えようとして、堪える筈の喉も無い事を悟って、更に泣けてくる。


 そんな中で、


『………クスクス』

『(…笑い声?)』


 白い空間の中、聞こえたのは笑い声。

 トーンは高め。

 女か、もしくは子どもの笑い声だった。


 白い世界に、そんな笑い声だけが反響する。


 聞こえ始めると、その笑い声はしっかりと聞き取れるボリュームとなった。

 意識が向いた所為だろうか。


 反響していた声の向きが、一方に集中し始めた。


 そして、それは唐突だった。


『おにいさん、あせってる?』

『(うお…ッ!?)』


 すぐ耳元で聞こえたとも思えた声に、思わず吃驚。

 見渡そうとしたが、そもそも体が無い状態では無理だった。


 だが、それよりも先に、目の前にうっすらと浮かび上がる輪郭があった。


『こっちこっち。

 だいじょうぶだよ、かくれんぼうなんてしないから、』

『(………子ども?)』


 輪郭は、間違いなく子どもだった。

 そうして一通りを見れば、性別は男の子である事もかろうじて分かる。


 笑い声も、その輪郭から聞こえていた。

 分かったところで意味が無いとは思いつつも、問いかける。


『(君は?)』

『ぼくは、『----』。

 っていっても、たぶん、わからないとおもうけどね』


 いや、そもそも、名前のところだけが聞き取れなかった。

 まるで、ノイズが走ったような感覚だったのだ。


 この感覚には、覚えがある。

 散々苦労したアグラヴェインとの対話の時にも、こうしてノイズが走って会話が途切れ途切れだった。


『そっか、おにいさんには、まだきこえないのか』

『(………なんか、ゴメン)』


 薄っすらとした輪郭の少年。

 その声音に、落胆したかのような感情が滲み、意味も無く謝りたくなってしまう。


『ううん、しかたないよ。

 ぼくもここには、せいしんだけだから、きっとちからがよわいんだとおもう』

『(精神、だけ?)』

『ゆめわたり、ってしってる?

 ぼくは、いま、おにいさんと、ゆめのなかであってるだけなんだよ?』


 ………いやいや、おいおい。

 それ、だけ(・・)って言えないから。

 『夢渡り』って確か、神職とかシャーマンとかが持ってる能力だよな。

 しかも、かなりの高度技術とか聞いている。

 きっと、こっちの世界であっても、かなり稀少な能力だと思うし。


 驚きの事実に、固まってしまう。

 ただ、それにすら少年は、面白そうに笑い声を上げていた。


『でも、それいがいは、なんのやくにもたたない。

 ゆめわたりのときは、ぼくはべつのじんかくになるし、からだをもっているだれかはまたべつにいるし、』

『(………よく分からないけど、まぁ凄い能力だと思うけど?)』

『クスクス。

 おにいさんだって、こうしてゆめわたりをしているじてんで、すごいことだってじかくしたら?』


 少年の声に、今度はやや少ないとはいえ羨望のようなものが混じる。

 声だけと言うのに、感情表現が豊かな子だ。


 そんな少年の言葉の中に、ちょっと気になる事がふと出来た。


『(………どうして、オレまで?)』


 夢渡り、と言う能力は、何かのドラマか小説を読んだので知ってはいる。

 だが、オレまで同じようにしている?

 そんな能力を生まれ持った覚えは、この歳になっても一向に無かった筈なんだが。


『ああ、きづいてないんだね、おにいさん』

『(気付くも何も………、オレは)』

『『よげんのきし』なんでしょ?

 えらばれたってことは、それそうおうのちからもあるってことだよ』


 そう言って、またクスクスと笑う少年。

 舌っ足らずながらも、言葉の意味は伝わった。


 オレの今の能力が、『予言の騎士』として選ばれた事に関連している。

 それ相応の能力ちからも、ましてやそれを行使出来るだけの器を持っていることで、選ばれたのだと。

 ………なんだか、改めて言われると照れる。

 『予言の騎士』としての職務は、最初は嫌々でしかなかったし。


 その所為で、面倒ごとに巻き込まれたりはしているから、イーブンだけども。


『そうだろうね。

 ぼくのげんじつのじんかくもだけど、おにいさんもかなりかこくなかんきょうみたいだし、』

『(そういうのも、分かるのか?)』

『ゆめわたりは、ゆめのなかをわたるだけ。

 でも、ぼくは、このせかいにくるまえから、おにいさんのことはずっとみてきたからしってるもの』


 ………ずっと、見て来た?

 いやいや、ちょい待って。


 それって、この少年も、現代からの召喚者って事になるけど。


『しょうかんとは、またちがうの。

 ぼくは、『--』だからね』

『(ゴメン、また、そこだけ聞こえない)』

『あ、きっと、これもまだぼくのちからが、たりないせいだとおもう』


 召喚とは違うとは、では一体なんだろうか。

 とはいえ、現代から来たと言うのは、否定されなかった。


 またごちゃごちゃと、意味が分からなくなってきたけども。

 でも、なんとなく思う。

 この子、思った以上に、悪い存在ではないと思う。


 オレは今、驚く程の無警戒。

 こうして、謎かけのように、意味が分からないことを言われても、すんなりと受け入れているのが良い証拠だ。


 もしかしたら、守護霊か何か?


『クスクス、おもしろいかいとうだけど、ちょっとちがうかな?』


 ………違ったらしい。

 ちょっと恥ずかしい。

 穴があったら、入りたい。


『でも、おにいさんのこと、ずっとみてきた。

 たいへんだったのもしってるし、かなしくてつらくて、いたいおもいをしてきたのもみてきたよ』

『(………それも、夢渡りって能力ちから?)』

『うん。

 ゆめさえつながれば、きおくだってみられる。

 いいおもいはしないだろうけど、おにいさんのかこもずっとみてきた』


 少年はそれだけ言ってから、ふと『ゴメンナサイ』と謝った。


 何故、謝罪をするのか。

 勝手に記憶を見た事?

 そんなの、こっちが謝りたい。

 オレの過去を見るのは、ゲイルだって発狂しかけていた。

 気に掛けてくれていたようだし、あんな凄惨で情けないものを、この両手の指で足りるかどうかの歳の少年に見せてしまった。

 それこそ、申し訳ない。


『おにいさんは、やさしいね。

 でも、ちょっとちがう。

 ぼくのちからが、もっとつよければ、ゆめわたりだけじゃなくて、よちもできたのに、』


 ああ、予知夢とか言う能力か。

 確かに、そんな能力があったなら、オレも未来が知られたかもしれない。

 あんな惨めで、情けない選択もしなかった。


 けど、そんなの無い物強請りだ。

 責めるべきは選択を誤った自分と、オレをこんな目に合わせた奴等だ。


 この少年に、そこまで負わせるものではない。


『………ほんとうに、やさしいんだね、おにいさん』

『(否定はしないよ。

 でもまぁ、負い目を感じると言うなら、この状況を説明してくれると助かる)』


 きっと、顔があれば苦笑していただろう。

 こういう話は、さっさと切り替えて、負担を軽くしてやった方が良い。


 長年の経験で分かっている事。

 とはいっても、生徒達と関わり始めてから学んだことではあるけども。


『ここ、さっきも言ったように、ゆめのなか。

 でも、おにいさんは、むりやりおしこめられているみたいだから、かってにおじゃましたんだ』

『………押し込められている?』


 少年の言葉に、ふと疑問。


 押し込められているのは、どういうことか。

 ましてや、誰が、何の為に?


 答えは、鈴の転がるような声で返って来た。

 だが、


『『ーー』ってしってる?

 『ーーー』のきょじょうにいる、『せきばん』のまもりてなんだけど、』

『(ゴメン、また聞き取れない箇所があった)』


 やはり、大事な部分には、ノイズが走る。

 意図的なのか、それとも無意識のうちにオレが、拒否反応でも起こしているのかは不明だ。


『ゴメン。

 やっぱり、ぼくのちからぶそくみたい』

『(気にしないでくれ。

 そもそも、オレが自分で考えるべきことを放棄してしまっているだけだから、)』


 本当に、自分の歳の半分にも満たない子どもに、教えて君と言うのもどうなんだ。

 まぁ、訳が分からない状況だったから、仕方ないとはいえ。

 ここまで教えてもらったのだから、感謝はしないと。


『あ、でも、これなら、わかるかも。

 おにいさん、これからあうよていの、まぞくがいるでしょ?』

『(あ、ああ)』

『そのまぞくが、たいせつにまもっている、せいれいさんにきけばわかる』


 あ、と思った時には、繋がった。


 今から会う予定のある種族なんて、1つだ。

 『天龍族』。

 目下、オレの天敵となってしまった種族と、数日後には邂逅予定である。


 そこまで分かれば、話が早い。

 この白い空間。

 もしかしたら、精神世界と似通っているかもしれない。


 そして、今までにもオレはこの感覚を体験した事があるかもしれない。

 魔力の暴走の時。

 そして、以前の『昇華』の前兆があった、ヴァルト達からの誘拐監禁事件の時。


 だとすれば、


『(オレは、まだ死んでいない………?)』


 そう考えた途端、奥底から振い上がるような感情が湧き出て来た。

 歓喜。

 まだ、死んでいない。


 オレは、また意識を失って、暴走なり『昇華』なりしている。

 なら、まだ諦めるのには、早すぎる。


『うん、しんでないよ、おにいさん。

 だから、がんばって。

 もうあきらめちゃ、だめだからね』


 帰らなければ。

 そう思った途端に、少年の輪郭が薄れていく。


 掛けられた言葉の数々に、激励が混じる。

 こんな少年にまで、オレはなんとも情けない姿を晒しているなんて、本当に情けない。


 ありがとう。

 強く強く、内心で感謝を述べる。


『こちらこそ、ありがとう』


 もう既に、薄っすらと霞む程度の輪郭となった少年の声。


 いつか、お礼はする。

 夢の中などではなく、現実で。


 そう考えた矢先、


『えっ?』

『(何を驚く事がある?

 さっき、夢と現実では人格が違うとは言っていたが、肉体は存在しているんだろう?)』

『う、うん、確かにそうだけど………』

『(こうも言っていた。

 『自分の肉体も、過酷な環境にある』って)』


 なら、オレが助けて貰ったように、オレも助けてやりたい。

 勿論、名前が分からなければ、話にならない。

 だが、夢渡りが出来ると言うなら、いつか必ず、その名前や住居を突き止める事は出来る筈だ。

 ………確か、使い続けると強くなるとか、そんな能力だったかと思ったけども。


『………探してくれるんだ』

『(当たり前だ。

 だから、今回限りと言わず、出来れば何度か、夢を渡ってくれると助かるんだが、)』

『やってみるよ。

 そのためには、おにいさんもたくさんねてくれなきゃいけないけど、』

『(………痛いところを突かれたが、また配慮はするよ)』


 万年睡眠不足を、この少年にまで指摘されるとはビックリだ。

 ともあれ、言質は取った。

 口約束であれ、この少年は信頼出来ると、オレの無駄に働く勘が告げている。


 だったら、問題ない。


『いつか、名前を教えてくれ。

 後、遅くなったが、オレは銀次だ』

『(うん)』


 頷くように動いた少年の輪郭。

 それが、立ち消えてから、再びその世界は白い世界へと戻った。


 しかし、その世界にも、幾つもの変化がある。

 視線を下へと向ける。


 そこには、一糸纏わぬ自分の体があった。

 欠損してもいない右腕もある。

 視界は、クリアだ。

 少しばかり体が重いと感じはするが、徐々に感覚が戻って来ている。


 そうして、呼吸を整える。

 瞼を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは、惨状。

 男を圧倒したオレの姿をした何かと、今まさにトドメを刺されようとしている男が見える。

 このままだと、結局訳が分からないままになってしまう。


 そんなのは、冗談じゃない。

 コイツは、何が何でも生きて捕縛する。

 そうして、何故狂気とも呼べる怨恨をオレに向けているのか、きっちりと吐かせてやらなければ気が済まない。


 集中する。

 精神を。

 意識を、現実あちらにシフトする。


 何か、膜の様なものがあるが、緩んでいる(・・・・・)

 正直、どうしてそんなことまで分かるのかは不明だが、それでも今は好都合。


『《辞めろ》』


 念じる。

 強く、強く、自身の体を取り戻す為に、意識を研ぎ澄ませていく。


 膜を抜けた。

 希薄だった右腕の感覚が、鮮明になった。

 生暖かい。

 男の頭を掴んでいるからか当然だろう。


 ここまで、ぼこぼこにしてくれたのは有難いと言うべきか。

 漁夫の利を得るようで、申し訳ない。


 だが、これはオレの問題だ。

 誰かに解決して貰って、ましてや有耶無耶にして良い問題では無い。


『《オレの体だ。返してくれ!》』


 更に、意識を研ぎ澄ました。

 白い世界が、霧散していく。


 頬に受ける風の感触がした。

 鉛でも詰まっているのかと思える程、ずしりと重い体。

 節々に走る痛みに、眉を顰める。

 何故か眼が痛くて堪らなかったが、眼を閉じて意識を集中した。


 音が、声が、現実が戻って来た。


 白い世界から、抜け出す寸前。


『ぼくの『ーーーーー』を、ころさないで』


 呟かれた言葉は、聞き取れなかった。

 だが、なんとなく、悲壮が篭った、それでいて縋るような言葉だったことは覚えている。


 そうして眼を開けた時、オレはまたしても月を眺めていた。



***



 風が轟々と鳴る。

 落下しているのか、見上げていた十六夜月が遠ざかる。


『主…ッ!』

『間に合え…ッ!』


 アグラヴェインとサラマンドラの声も、どこか遠い。


 だが、状況は理解出来た。


 意識が飛んだ。

 体を、誰かに乗っ取られていたのは、間違いないだろう。


 その制御を取り戻したと同時に、おそらくバルコニー辺りから落ちた。

 そう考えた時に、ぞっとした。


 おいおい、これは不味い。


 このままだと、海中への落下コースだ。


 視線を下へ。

 海面が見える。

 視線を上へ。

 追い縋るアグラヴェインとサラマンドラの姿が見える。


 だが、間に合いそうにない。

 彼等よりも、海面の方が近い。

 彼等が追い付くよりも先に、海面に叩き付けられるだろう。


 果たして、この出鱈目な造りをしているとはいえ、満身創痍の体がどこまで保つか。


 悲鳴が木霊した。

 生徒達の悲鳴だ。

 ラピスや、ローガンの声も混じっている。


 クソッたれ、眼が覚めてすぐが、これとはなんとも情けない。

 死んじゃうかも。


 ただ、諦めるつもりは毛頭無い。

 空中で体を丸める。

 頭を守る様にして、猫のように海面へのダイブを覚悟した。


 しかし、その直後。


「あら、タイミングはぴったりだったみたいね」


 ふと、耳朶を打った声に、思わず眼を見開いた。

 聞いたことのある声。


 目線を真下に向けると、そこには海面から顔を出したビルベルがいて、オレに真っ直ぐに手を伸ばしていた。

 危ない、と言おうとした瞬間。


「『泡の守り(バブル・ガードニング)』」


 ぼよん、と音がした。

 頭から突っ込んだのは、まるでシャボン玉。


 その後、シャボン玉の中を滑る様にして尻もちを付いたと思った時に、その泡の底が海面にささやかな音を立てて着水した。

 無事だ。

 怪我一つない。


 驚きで眼を見開いたまま、見下ろしたビルベル。

 彼女は、にっこりと笑って「遅くなってゴメンなさい?」と口を動かしていた。


 再三の窮地に、まさかの真打。

 ホッと息を吐いたオレの現金な事だが、それよりも彼女はどうして海の中にいるのだろう。


 先程、一緒に転移魔法陣で、砦に来たのは確認していたのに。


「こっちに来た途端、精神感応テレパスが飛んできたの。

 だから、貴方達とは一緒に行かずに、海に回り込んでいたのだけれど、」


 相変わらずの遠回しな言い方ではあるが、理解は出来た。

 精神感応テレパスとは誰のものかは不明ながらも、彼女は彼女なりの理由があって海上に待機していた。

 そして、丁度オレがそこに降って来たので、助けてくれたという次第。

 グッドタイミングどころか、神がかり的な豪運だと思うんだが。


 まぁ、助けられた手前、文句は言えない。

 元より、文句を言うつもりは無かったし。


「助かったよ、ありがとう」

「うふふ、これでも海上なら最強の種族なんだから、もっと褒めてくれて良いのよ?」


 なんて嬉しそうに微笑んだ、彼女。

 思わず、苦笑を零した。


 すると、


「ほぉ、これが例の『予言の騎士』様であられるか」


 ビルベルの背後。

 唐突に、海上から頭を出したのは、白髪混じりの青い髪をした壮年の男性。

 これまた、異世界マジックで壮年でありながらも端正な顔立ちをしている。


 ただし、突然の登場に驚いたオレは、硬直する他無い。


「ああ、トリトン。

 貴方が到着したという事は、皆も来ていると言うことで間違いは無いかしら?」

「勿論だとも、ビルベル」


 平然と対応したビルベルは、まるで彼が来るのが分かっていた様子だった。

 合点がいく。

 もしかして、飛んできた精神感応テレパスの相手って、彼?


 小首を傾げたオレに、ビルベルが微笑む。

 トリトンと呼ばれた壮年の男性は、そんなオレの表情をして「予想よりもはるかに幼いな」と呟いていたが。


「気付いたと思うけど、その通り」


 そう言って、改めて微笑んだ彼女が手を指し示した先。

 そこには、続々と海面へと顔を覗かせる、男女の集団があった。


 ………おいおい、まさか。


「援軍よ!

 我らが選りすぐりの、人魚の精鋭達なんだから!」

「………嘘だろ、そんな…ッ」


 オレの予想は、当たっていたようだ。

 海上にいると言う時点、ついでに誰もかれもが整った容姿をしている事から、人魚である事も言われなくても分かった。

 中には、耳の形が尖っていたり、エラのようになっている者達もいた。


 そして、その中には、見覚えのある人魚達も。


「ギンジ様!遅れました!」

「皆に、頼んで来て貰ったのです!」

「受けた恩は必ず返すのが、人魚の流儀だ!」


 アリアナの他に、助け出されたと言う人魚の面々。

 自己紹介はされていない為、誰が誰だかは分からない。

 だが、確かに遠目ではあったが、見覚えのある人魚達がいた。


 彼女達も大変だったのに。

 無理を押してでも、ここに来てくれたのか。

 更に言えば、援軍を伴って。


 有り難い。

 オレには、勿体ない幸運である。

 ついでに、眼福でもある。

 ………どの子も皆、モデルがどうのってレベルじゃない程の美人揃いなんだもの。


 ごほんっ!

 脳内脱線したけど、それはさて置いて。


「オレが巻き込んでしまったようなものだったのに、本当にありがとう」

「いいえ、貴方が悪い訳じゃない。

 それは、皆も分かっているし、貴方も同じ被害者よ」


 泡越しに、ビルベルが手を差し出した。

 オレは、その手に右手を重ねた。


 暖かいと感じたのは、一瞬の事であったが、確かに伝わった。

 そして、彼女の気持ちも。


「一緒に戦いましょう?

 私達の受けた屈辱を、倍にして返してやりたくて集った同志達と共に、」

「………ああ!」


 不覚にも滲んだ涙は、頷いて頭を垂れて隠す。

 泣き顔なんて、見せられるか。


 情けなさに歯を食い縛り、ついで右腕で拭った。

 いつの間にか再生しているとしか言いようの無い右腕は裸だったが、気にしない。


 ………けど、なんか固い?


「おわぁ!」

「きゃっ、何!?」


 目線を向けて、これまた吃驚。

 腕に鱗が浮いている。

 通りで固いと思った訳だが、またしても『昇華』の影響とやらだろうか。


「だ、大丈夫?」

「い、いや、うん、だ、大丈夫だけど、そ、その、」


 体が無意識のうちに震える。

 トラウマ発動である。

 蛇が駄目な人間の肌に鱗が生えるとか、ぶっちゃけ拷問以外の何物でもないでしょうが。


『震えている場合か、馬鹿者!』

『無事なのはなによりだが、そんな暇は無いぞ、主?』


 そんな中で、振って来たアグラヴェインにサラマンドラ。

 そういや、追いかけてくれてたっけね、忘れてた。


「………2人とも、この状態に説明は出来る?」

『以前の何者かからの、『干渉』と同じだとしか言えない』

『オレも、流石に説明は出来ないな。

 先ほどまで、お前の体に別の誰かが入っていたとしか分からなかったし、』


 やっぱり、『昇華』の前兆か何かだった訳だ。

 ついでに、今回はその『昇華』に至る為の過程で『干渉』して来た何者かに、乗っ取られていたとも。


 って事は、だ。


「………頭、白い?」

『白というよりは、銀だが』

「長くなってる?」

『かなりな』

「………目の色は?」

『それは、元に戻っておる』

「なんか、スー●ーサ●ヤ人的な、オーラ纏ってる?」

『●ーパー●イヤ人とは何か分からぬが、それも薄らいでおる』


 アグラヴェインとの掛け合いで、前と同じ状態になっている事は分かった。

 髪が急激に伸びたり、眼の色が変異していたり、眼に見える形で覇気がオーラのように纏わりついていたり、と言った具合。

 腕に鱗が生えている時点で、予想も付くけども。


『ただし、背中を見ると驚くと思うぞ?』

「えっ、背中?」


 更に混ざったサラマンドラの言葉に、慌てて背中を見た。


「げっ!」


 振り返り見た先には、翼があった。

 透明だが、確かに形状は翼だ。

 ついでに、これまた透明ながらも覇気のようなオーラが、まるで羽衣か何かのように纏わりついている。


 意識を持って肩甲骨を動かすと、翼も動いた。

 おわ、動いた!


『自分で動かしておいて、何を驚いておる?』

「い、いや、だって、動くと思ってなくて、」

『先ほどまでは、それで散々砦を壊して回っていた筈だが、』

「ええっ、嘘!

 あの砦の状況、オレの所為!?」


 吃驚仰天で、既に頭が飽和状態だ。

 これまた慌てて仰ぎ見た砦は、確かに以前見た時よりも破壊の痕跡が多い。


 バルコニーが3つか4つ程無くなっている上に、壁にも凹んだり穴が開いていたりだ。

 ………ゲイルに頼んで、修繕費多めに支給して貰わなきゃ。


「………えっと、何がなんだか分からないけど、」

「あ、ゴメン…。

 って、オレもあんまり、よく分かっていないんだけど、」

「貴方、もしかして、『天龍族』の血が混じっているの?」

「ま、混じっているというか、なんというか………」


 これ、言っちゃって良いのか?

 いや、まぁ、ここまで『昇華』している姿を見られているから、もう隠しようは無いと思うんだが。

 ………とはいえ、これだけの劇的ビフォーアフター見て、良くビルベル達もオレだと分かったな。


 へらり、と誤魔化すように笑ったら、むすっとされた。

 ご丁寧に、頬っぺたを膨らませる可愛いオプション付き。

 ついでに、指パッチンをされた。

 それと同時に、今までオレを包み込んでいた泡がパチンと弾ける。


 うわわわわ、落ちる!


 あわや、びしょ濡れ。

 ただ、海面に落ちそうになった体は、サラマンドラが抱えてくれた。

 おかげさまで、これ以上は体が冷える事は無さそうだ。


「もうっ、疑り深いのね!

 命の恩人の秘密を言い触らすような真似、する訳無いでしょ?」

「そ、それもそうかもしれないけど、」


 なんか忌避感があったんだよね。

 言いたくなかったの。

 オレも、まだ認めたくない事実だったのかもしれない。


「予期せず、血を浴びちゃって、」

「『天龍族』の血を浴びた!?

 ………良く死ななかったわね」

「ええっ!?そんな死ぬようなもんだったの!?」

「知らなかったの!?」


 更に吃驚。

 そして、同じようにビルベルが驚いている。


 ………ビルベルどころか、他の人魚さん達も驚いてるけども。

 そんな驚いている内の1人、トリトンが訝し気な視線を向けて来た。


「『天龍族』を討伐したのか?」

「いや、予期せず、というか、ほとんど瀕死の相手にトドメを刺したってだけで、」

「………ふむ。

 だが、適合したのは事実であり、それだけの魔力を内包出来る器があってこそ、」


 そういや、そうみたい。

 なんか、あの飲み逃げ女(アンナ)も言っていたけど、適合した証が今の状態らしい。


 ………ただ、普通は死ぬとか。

 おいおい、なにそれ。

 出来れば知りたくなかった裏事情。

 だから、『異端の堕龍』とかも、オレとアンナ以外に居ないのか、と変な納得をしてしまったが。


 そんな矢先、


『だから、そんなのんびりしている暇は無いだろう?』

「あ痛たたたた!

 ちょ、ちょっと待って、耳は駄目!」


 オレを抱き留めていたサラマンドラに、耳を引っ張られた。

 熱くは無いけど、ぐいーっと引っ張られた耳は痛い。

 物理的に鍛えられない急所でもあるから、首に続いて耳も駄目だってば!


 まぁ、のんびりしていたオレも悪いけど。


 気を取り直して、もう一度砦を仰ぎ見る。


 崩れかけたバルコニー。

 そこから、頬に傷のある男が、オレを見下ろしているのが確かに見えた。


 『昇華』の影響か。

 またしても強化されたらしい視力が、明らかな男の満身創痍っぷりすらも映している。

 ………視力、5.0越えてそうで怖い。


 とはいえ、その強化された今の視力も、好都合。


 睨み上げた更に上。

 砦の崩れ落ちた屋上と、元は展望テラスだっただろう壁の向こうから、オレを見下ろしている生徒達の姿が見える。

 座り込んでいる様子のラピスや、呆然としているローガンも見えた。

 シャルに支えられたこれまた満身創痍の間宮の姿も見て取れたが、


「落とし前、付けてやらなきゃな…」


 皆、少なからず傷を負っている。

 色濃く残った疲労や緊張、そして衣服に残った血の痕でそんなもの今更だ。


 にこり、と微笑んだ。

 散々言われているNGにならないよう、入念に表情筋を解した。


 ハッとしたラピスやローガン、数名の生徒達の表情が見えた。

 見えていない生徒もいるだろうが、これで少しは安心してくれると良い。


 後は、オレがやる。

 迷惑を掛けた。

 心配を掛けた。

 一時は、全滅の憂き目を見た生徒達は、身も心も疲れ切っているだろう。


 後は、オレが請け負うべき仕事だ。

 正直、体が重いのは変えようの無い事実だとしても、それでも。


 視線を下ろし、自分の腕を見下ろす。

 腕はある。

 切り落とされてからの記憶が無いから、いつ、どのようにして戻ったのかは定かでは無い。

 だが、確かにオレの腕だ。

 感触がかよっていて、意のままに動く。

 鱗が生えていようが、その事実だけで良い。


 まだ、介護は必要なさそうだ。


 溜息にも似た息を吐き、振り返る。

 ビルベルは、オレを真っ直ぐに見返していた。


「…頼めるか?」

「ええ、勿論」


 言葉は、それだけで十分。


 オレの言葉を受けたビルベルが、すぐさま動いた。


「全員、詠唱!

 この辺り一帯を氷漬けにして、足場を作るわ!」

『おうっ!』


 トリトンを始めとした、人魚の戦士達が呼応する。

 詠唱は短く、早い。


 第一陣が発現を終えると、即座に海面が砦に向けて氷始めた。

 続いて第二陣が発現を終えれば、波で隆起していた氷の表面がまばらではあるが、平坦となった。

 更に続いた第三陣の発現により、ところどころに氷柱が立った。


 即席とはいえ、氷の戦闘領域フィールドが出来た。

 これで、海面に落ちる心配は無い。


 サラマンドラに下ろして貰い、氷へと足を付ける。

 ひんやりとした冷気が這うが、神経が昂っている今はそれほど気にならない。

 グリップが気になるが、そこはアグラヴェインの能力でどうにでもなる。


 だとすれば、後は墜とすのみだ。


 再び、睥睨した頬に傷のある男。

 バルコニーに座り込んだままだが、その眼にははっきりと戦意が宿っている。


 満身創痍はお互い様。

 ついでに言うなら、どうやら右腕が動かないようだ。

 利き手が潰れている。

 頭からも血が垂れ、衣服にも血が滲んでいる。


 今なら、イーブンの戦いぐらいは出来そうだ。


「………すぅ、」


 息を吸い込んだ。

 なんだか、今ならジャッキー直伝の、『咆哮ハウリング』でも使えそうだ。

 ………直伝も何も、見た事があるだけだけど。


 ただ、理論は分かっている。

 魔力を、乗せるだけ。

 それだけなら、今のオレでも十分出来る。


『ぶっ殺してやるから、首洗って待ってやがれぇ!』


 出た。

 本当に、出た。

 『咆哮ハウリング』には違うが、似たようなものは出た。


 声量以上の音がしたもの、今。


 大気が震えた。

 降り立った氷の戦闘領域フィールドが、ビシビシと軋んだ。


 男がその場で、眼を瞠って驚くのも見えた。

 ついでに、更に上のラピス達や生徒達が、その場で怯え竦んだのも見えた。

 ………悪いことをしたとは思うが、謝罪は後だ。


「アグラヴェイン、脚!」

『威勢だけの半人前め…』


 皮肉を言われたが、今は無視。


 言った通り、脚にグリップを期待したスパイクを発現して貰い、氷上を駆けた。

 重かった体が、少しだけ軽いと感じたのは気の所為か。


 そのまま、近くにあった氷柱を、走ったままで上る。

 正直、落ちたら格好悪いが、今は出来ると確信していた。


 十数メートルはあるであろう、傾斜はあるがほぼ直角の氷柱を上る。

 スパイクの効きは抜群で、滑る事も無かった。


 氷柱の先が見えたと同時。

 背中の翼へも意識を集中させる。


 出来ないかもしれない。

 だが、出来ると確信する。

 今まで飛べていたのだろうから、オレだって出来ない訳では無いだろう。


 あのバルコニーへと飛ぶ程の跳躍力は無い。

 だが、この翼の推進力を加算出来れば、やってやれない事は無い。


 これまた『昇華』の影響か、息を呑む複数の声を聞こえながらも、氷柱から跳躍した。

 翼が躍動する。

 悔しいが、上手く動かせている自信は無い。

 だが、オレの体に生えている物を余すことなく使って、何が悪い。


 更に言えば、体が軽いと感じたのは気の所為では無かった。

 いつか、シャルから受けた『風』の身体強化の魔術の様な感覚もあった。


 これが、二度目の『昇華』の影響と言うなら、結果オーライ。

 褒められた事では無いと分かっているが、はっきり言ってしまえば有り難い。

 また一歩人外に近付いたと自覚し、内心で自嘲を零した。


 だが、おかげでバルコニーには易々と届いた。


 目の前に男が、紅時雨を構えた。

 脚が震えている。

 それはオレも一緒。

 ただ、怯えの様な震えでは無く、物理的なものだろう。

 おそらく、背中や頭を強打した際に、背骨か頸椎を損傷したか。


 満身創痍もここまで来ると哀れではあるが、これまた好都合。

 利き手も無い今なら、対等だ。


「せぇえええええッ!!」

「ハァアアッ!」


 数えて通算3ラウンド目となった、男との戦闘が始まった。


 交える刃。

 オレの振るった黒刃と、男の振るった紅時雨の白刃が高らかな金属音を鳴らした。


 まるで、ゴング。


 そうして、訪れた再戦に、次は無いと悟っている。

 お互いに、余力が少ない。


 これで、終わりにしなければ、負ける。

 それは、向こうも同じ。


 負けられない理由がある。

 そんなもの、今までずっと背負ってきたから知っている。


 鍔迫り合いとなったお互いの足下(バルコニー)が崩れ落ちるのを感じるが、そのままお互いに脚を踏ん張って堪えた。


「これで、最後だ!」

「抜かせ、『予言の騎士(クソガキ)』!

 やれるものなら、やってみろ!」


 弾かれる。

 しかし、後退することは無い。


 スパイクは健在。

 瓦礫混じりのバルコニーに、しっかりと噛みついている。


 男が眼を瞠った。

 その隙を狙い、切り返した刀の峰を振り抜いた。


「が…ッ!」


 ごき、と右腕に伝わる異音。

 肋骨をへし折れた。

 ………思うが、怪力も強化されているようだ。


 再三の好都合に、笑みを浮かべる。

 ついでに、今まで一合として当てられなかった剣閃が、初めて通ったことに歓喜すらも湧き上がる。


 イケる。

 このまま押し切れる。


 いや、押し切らなきゃダメなんだ。

 オレが、ここでコイツを始末しなきゃ、ならないんだ!


「うらぁあああ!」

「チィッ!」


 更に追撃とばかりに振った刀は、防御された。

 だが、男はバルコニーから墜とす事が出来た。


 氷柱へと降り立った男が、その場で蹲る。

 遂に倒壊したバルコニーから飛び立ったと同時に、オレも対面となる氷柱へと降り立った。


 がつり、と噛み合ったスパイクが、氷柱に罅を入れた。

 ………ウェイトまで上がっているとは思いたくないが、膂力の所為だと思いたい。


 向かい合った男の眼が、殺意を持ってオレを見ていた。

 オレも、それに対して殺意を返す。

 自然と眼が変異していくのを感じるが、『昇華』を見られた段階では隠す必要性は皆無だろう。


 リークされる前に、始末すれば良い。

 裏社会の基本だ。

 口封じは、どのみちその為にある、常套手段なのだから。


 今回ばかりは、生徒達の目の前だろうが殺しは厭わない。

 その決意を表すかのように、殺意と共に覇気や怒気すらも隠すことなく、男へとぶつけた。


「へっ、一丁前に、化け物の自覚はあるって事か」

「………なりたくてなった訳じゃないが、今は好都合だと思ってるよ」


 だって、アンタを殺せるんだから。

 言葉は無くとも、意思と行動で示す。


 刀を上段に構え、真半身となる様に軸足を引く。


 師匠から受け継いだ名も無き流派。

 その中でも、日本刀による振り下ろし、『竜牙』の構え。


 男はそれに対し、立ち上がりながらも刀を一振り、下段の構えを取った。

 真向から、受け止めるつもりだ。


 空気が、ピリリと引き攣った。

 シンと静まり返ったその場には沈黙が降りた。

 波の音すらも遠くなる。


 動いたのは、男が早い。

 刀をその場で振っただけ。

 ただそれだけだ。


 しかし、目の前の空間が歪んで見える。


 驚かなかったと言えば嘘になる。

 だが、予想はしていた。

 正直、あの男なら扱えそうだとは思っていたが、本当に『剣気』を放てるとは思っても見なかったが。


 こちらも返す。

 『剣気』までは教わる前に師匠が他界したが、それでも見様見真似で習得した。


 これだけは、オレもルリに負けないと自負している。

 それ以外が負けているとは、考えない。


 『竜牙』の構えを、『剣気』を乗せて振り下ろす。

 膂力や怪力の分、半拍以上が遅れていても、互いの放った中間で起きた衝撃派。


 轟、と吹き荒ぶ突風。

 沈黙は破られた。



***

第3ラウンドまでもつれこんで、結局丸々1話分を消費しました。

まぁ、元々ターニングポイントの話だったので、がっつり書く気満々だったので、長丁場も想定内です。

ただ、飽きて来た皆様には、申し訳ありません。

遠征編は、まだ後2~3話は続くかと思われます。


前回は間宮くんがただ格好いいだけの回となりましたが、今回からはしっかり銀次が格好いい回になりますのでご容赦を。


誤字脱字乱文等失礼いたします。


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