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異世界クラスのアサシン・クリード~ただし、引退しました~  作者: 瑠璃色唐辛子
異世界クラス、遠征編
131/179

124時間目 「緊急科目~消えた担当教師~」 ※流血・暴力・グロ表現注意

2016年12月13日初投稿。


続編を投稿させていただきます。

相変わらずパソコン様の機嫌が悪くて、ネット環境が最悪です。

更新が滞ってしまいそうではありますが、なんとかプロット作成を進めつつも更新していきます。


124話目です。

※タイトル通り、流血・暴力・グロ表現がありますので、苦手な方はご注意くださいませ。

***



 荒れ狂う大きな波が押し寄せる。

 海流は渦を巻き、ありとあらゆるものを、海中へと引きずり込んでいった。

 岸壁に叩き付けられた荒波が、地響きのような轟音を立てている。


 大海原を前にすれば、どれだけの価値あるものと言えども、等しく飲み込まれるだけだ。

 それは、どんなに至高の財宝も。

 どんなに頑丈な船も。

 そして、どんなに尊い人間も。

 須く同じこと。


 全てを平等に無に帰すものが大海原であり、また母なる海の所以だった。


 嵐の中、放り投げ出されたのか。

 海中の渦に呑まれながらも、ゆっくりと沈んでいく人影があった。


 短い黒髪が、渦を巻いた海中の流れに揺らめく。

 陶器の如く色を失った白い肌が、不気味に浮かび上がる。

 長身痩躯の、着崩した礼服姿。

 女にも見えれば、男にも見える顔立ち。

 胸が薄い事から、かろうじて男だと分かった。


 その人間の体中から、血が流れ出ているかのようにも見える。

 腹に計3か所の刺し傷と、胸に1か所の切り傷があるだけだと言うのに、流れ出た血が体に纏わりつくように海中を漂っている。

 

 出血の為か、溺れたが為か。

 その人間に死が訪れるのも、時間の問題だろう。


 だが、その血の臭いを嗅ぎつけて、数多の影が海中を忍び寄っていた。

 海面は嵐で、海中すらもその余波で濁っている。

 しかし、海中に潜む魔物達にとっては、血肉を貪れる絶好の機会。

 巣穴に隠れていた数多の魔物達が、新鮮な血肉を求めて殺到しようとしていた。


 食らい尽くされれば、骨も残らない。

 人間の末路は、海の藻屑と決まったも同義だった。


 しかし、


『ダメよ、それは、わたしの獲物なのだから、』 


 海中に響いた声は、それを止めた。


 海中であったにも関わらず、その声は凛と響いた。

 我先にと人間に群がろうとしていた魔物達が、一斉にその道を開けていく。


『そうそう、良い子達ね。

 わたしの獲物を食い散らかしたら、貴方達が次の餌だったわ』


 そう言って、声の主は開いた道を悠々と泳いだ。


 海流に呑まれぬよう、岩や海藻を手繰りつつ、海底に沈み行く人間の下へと進む。


 淡いグリーンともブルーとも言える、髪を持った美女だった。

 透き通るような白い肌と、桃色の唇。

 胸元に貝殻や布を組み合わせた、ホルダーネックのタンキニ水着のような意匠を身に纏っている。

 しかし、その下半身は魚のような尾ひれが続いていた。

 腕や腰、尾びれには貝殻や真珠や珊瑚等をあしらった装飾も身に付けて。


 人魚と言う、下位の魔族。

 海中を住処に、自由気ままに生きる、太古からの海の守り手。


 だが、首には無骨な鉄製の首輪があり、唯一それだけが不釣り合いだ。


 そんな彼女の手によって、人間が掬いあげられた。

 細身とはいえ、人を抱きかかえるだけの力があるのも、人魚と言う魔族の特徴だった。


『これはまた、派手にやってくれたものだわ』


 血を纏わせた黒髪の青年を見て、人魚は眉を潜める。

 合計4か所にも及ぶ、傷口を見れば、その余命が幾ばくも無い事を容易に想像が出来る。

 急がなければ、と彼女は尾びれを翻した。


 しかし、


『………ニンゲン、エサ………』

『ニンギョ、ナンデ、ココニイル…ッ』

『………ココ、………ワレラガ、………ナワバリ』


 それを黙って、指を咥えて見逃がす事も出来ない者達がいた。

 群がっていた魔物達だ。


 本来、魔物は喋る事はない。

 喋ったとしても、人間にとって意味を成す言葉とはならない。

 だが、魔族の言語を扱っている事から、魔族にだけであれば通用すると言う事実があった。


 彼等の言う通りで、言い分ももっともだ。


 人魚の住処は、海中の奥深く。

 強いて言えば、『暗黒大陸』の中心にある海域にしか生息していない魔族だ。

 それが、何故、このような人間領の海にいるのか。

 ましてや、このような荒れ狂った嵐の海の中を、まるで人間が落ちて来るのを見越していた(・・・・・・)かのように(・・・・・)現れたのか。


 納得は出来ない。

 そして、魔物と魔族の間にある、絶壁のような格の差も理解とて及ばない。

 魔族達は、人魚もろとも貪ってしまおうと、虎視眈々と隙を見計らっていた。


 それを見ても人魚の女性は、口元を緩ませただけだった。


『………わたしに逆らおうなんて、常なら許されない事よ?』


 そう言って、ゆらりと手を揺らした。


 それだけで、魔物達は海流の中で、唐突にバラバラとなってしまう。

 偶然か、それとも………。


『………駄目ね。

 やはり、この首輪があっては(・・・・・・・)、普段の半分も力が出せないわ…』


 バラバラと落ちた血肉に、仲間だった魔物達が群がった。

 餌が目の前にあれば、それが同族だろうがどうでも良い。

 それが、魔物だ。

 そして、今しがた新鮮な血肉を逃したばかりの飢えた魔物達の前に、仲間だったものが消えた悲しみ等存在しない。


 その様子を眺めることなく、今度こそ女性は尾びれを翻した。

 小脇に抱える様にして、黒髪の青年を浚って行く。


『(………ごめんなさいね。

 これも、わたし達の為になることだから、)』


 内心での懺悔を、口には出せないまま。



***



 騒然となっていた。


 部屋の中に飛び散った血痕に、むせ返りそうな程の血臭。

 扉を蹴破った途端に鼻を突いたその臭いに、誰もが呻き声を上げた。


 そして、眼前に広がった光景にも。


 バルコニーに立っている、外套姿の男。

 手には、血塗れの日本刀。


 今しがた目撃することとなった、その男の凶行。


 部屋に飛び込んだ、間宮とゲイル。

 続々と続く、香神を始めとした生徒達。

 彼等は、見てしまった。


 日本刀で腹を貫かれた自分達の教師及び友人が、嵐の中に放り出された瞬間を。


「きゃあああああああ!!」

「ギンジ、ギンジぃーーーーーッ!!」


 隣のバルコニーから目撃してしまった生徒達もいた。

 騒ぎに気付いた時、間宮やゲイル達が扉の前でごった返している事に気付いて、バルコニーから呼びかけていた杉坂姉妹だ。


 それが、仇となった。

 バルコニーに投げ出された人影を見て、背筋を凍らせた。


 力なく伏したその姿は、紛れもなく自分達の教師だった。

 恋愛感情すらも抱いていた、恩師の青年だった。


 意識があるのかどうか。

 それどころか、生死すらも怪しい青年の無抵抗な体を、その外套姿の男は容赦無く引きずり上げ、日本刀で彼の腹を貫いた。

 それにすら反応の無い、教師の姿に引き攣った悲鳴が漏れる。


 そして、そのままあろうことか、バルコニーから荒れ狂う海へと放り出されてしまった。

 彼女達の、本の数メートル先の、目前で。


 力なく弛緩した体が、階下に合った防波堤に激突して、跳ね上がった。

 夥しい程の血潮を巻き散らかして行ったのすらも見えた。

 海に落ちたその瞬間までもを、見てしまった。


 もはや、それだけで、恐慌を来すには十分だ。

 彼女達には、悲鳴を上げるしか出来ない。


「いやぁあああーーーーーッ!!!」


 そしてそれは、向いのバルコニーから見てしまった、ラピスすらも同じこと。


 成す術は無かった。

 咄嗟の事で、助けに飛び出す事も、ましてや魔法を使って救助する事すらも考えられなかった。

 何も出来なかった。

 夫ともなった男が、荒れ狂う海に落ちたと言うのに、何も出来なかった。


 このような天候と、海の様子を見れば生存など考えられない。

 探しに行くことすらも困難だろう。


 悲鳴を上げて、彼女はその場でくずおれた。

 そのまま、バルコニーの欄干に懐き、泣き崩れる事しか出来なかった。


「(………ッ!!)」

「………ほぉ」


 突如、バルコニーに立ったままだった外套の男に向けて、背後から濃密な殺気が叩き込まれた。

 それに気付いた男が、振り返る。


 その懐には、既に、血の涙すらも目に溜めた、赤髪の少年が入り込んでいた。

 銀次の愛弟子、間宮だった。


 だが、男はそれに驚く素振りすらも見せずに、唇をまくり上げた。

 否、嗤った。


「(ーーー…ッ!?)」

「間宮…ッ!?」

「………なんだと…!?」


 その瞬間、間宮の体が吹っ飛ばされた。

 蹴られたのだ。

 ただ、一撃蹴られただけだったのだ。


 なのに、彼は回避も受け流しも、ましてや迎撃も間に合わなかった。

 吹っ飛ばされた間宮が、壁に激突した。

 激突するだけでは飽き足らず、木っ端をまき散らしながら壁を突き破った。

 更に悲鳴が連鎖する。


 廊下にまで吹き飛ばされた彼は、石造りの床を転がって血反吐を吐いた。

 抜いていた筈の脇差は、部屋の中に取り残されている。


 何事かと、誰もが意味が分からずに硬直。


 男は、足を跳ね上げたような恰好のままで、静止していた。

 だが、その膂力等、考えなくても分かる。


 『異世界クラス』強化訓練で常に上位をひた走っている間宮が、成す術も無く弾き飛ばされた。


 それだけで、外套姿の男の実力が、彼の師匠である銀次と同等だと言う事だ。


 目の当たりにした全員が、背筋を凍らせた。

 ゲイルですらも、背筋が粟立つ。


 怒りもある。

 憎しみもある。

 目の前で、友人を荒れ狂う海へと放り投げられたのだから。


 だと言うのに、足が縫い付けられたかのように、動かなかった。

 恐怖心が、その足を縫い止めてしまった。


 しかし、その瞬間、


「呆けるな!」


 突如響いた、怒号。

 ゲイルの傍らで聞こえたそれに、びくりと肩が揺れた。


 だが、


「精霊達よ、怨敵とならん須くを貫け。

 『闇の咎槍(ダーク・ランス)』!」


 続いた、詠唱と完結した魔法発現の文言。

 響く、低音の声。


 いつの間にか、呆然と立ちすくむ生徒達を押し退けて、扉の前にはゲイルの兄・ヴィンセントが立っていた。


 ゲイルの傍らをすり抜ける様に、飛来した黒。

 殺到した闇の牙。

 銀次を襲撃した頬に傷のある冒険者が、咄嗟にバルコニーから身を翻した。


 バルコニーの縁へと跳躍すると、そのままの勢いで隣のバルコニーへと飛ぶ。

 そこには、ラピスがいた。

 泣きじゃくり、頽れて憔悴したままの、森子神族エルフの女がいた。


 だが、部屋の中からの面々からは、そんなもの分からない。

 一瞬にして、バルコニーから消えた襲撃者。


「ま、待て…ッ!!」

「誰か、マミヤくんの治療を…ッ!」


 ゲイルがバルコニーへと追い縋る。

 ヴィンセントが指示を下そうとして、振り返る。


 しかし、


「………間宮が、いない…ッ!!」


 ヴィンセントの声に、はたと正気付いた生徒達。

 そんな彼等が振り返った先には、先ほど廊下で転がっていた間宮の姿は見当たらなかった。

 吐き出してであろう夥しい量の血反吐だけが残っているだけだ。


「まさか…ッ!」


 ヴィンセントも同じように、バルコニーへと躍り出る。

 ゲイルが、先ほどバルコニーに突き立った黒闇の槍を避ける様にして、バルコニーを覗き込んでいた。


 その背後へと、赤髪を翻した少年が走っている。


「いけない…ッ、その怪我では…!!」


 ヴィンセントの制止が飛ぶ。

 だが、お構いなしの間宮は、停止するどころか振り返りもしなかった。


 彼は、ゲイルが気付くよりも早く、バルコニーの欄干へと飛び乗り、そのまま襲撃者が飛んだであろう方向へと飛び出した。

 まるで、弾丸のような速さに、ゲイルですらも止める暇が無い。


「………また、迎えに来たぜ?」

「………。」


 一方、隣のバルコニーへと飛び移った、頬に傷のある男は欄干に立ち、ラピスを見下ろしていた。


 一度は面識があると言っても、過言ではない。

 彼女達は、北の森での賊と成り果てた召喚者達の掃討の際に、秘密裏に遭遇し言葉を交わしている。


 その際に、ラピスはこの頬に傷のある冒険者から、求愛を受けた。

 それを撥ね退けて、ラピスは無かったことにした。

 魔水晶と言う証拠だけを残して、彼女達は赤の他人だった筈なのだ。


 なのに、今更このような場所で、最愛の男を奪っておいて、彼は尚ラピスの目の前に立っていた。

 ぎりぎりと、唇を噛み締めたラピスが、視線を上げた。


 涙に濡れ、憎悪に塗れた淡い緑の瞳。

 殺意を爛々と篭らせて、頬に傷のある冒険者を睨み付けていた。

 不躾な訪問者である頬に傷のある冒険者だったが、その瞳を見た瞬間不覚にも綺麗だと、感じ入ってしまった。


 しかし、


「………おっと、無粋な餓鬼だな」


 背後から急襲した、間宮。

 口端を血で染め上げながらも、殺気滾る血走った眼で男に対峙。


 振り抜いた脇差の刀が、男の持っていた日本刀『紅時雨』に受け止められる。


 間宮の目が、一層見開かれた。

 彼にとって、『紅時雨』の持ち主は、敬愛する師である銀次ただ一人。


「(それは、銀次様のものだ…!)」


 憎悪が駆け巡る。

 声なき声で、怒声を張り上げる。


 だが、


「………悪いが(・・・)もうオレのものだ(・・・・・・・・)


 しっかりと唇を読み切った冒険者の男。

 その事実に、先ほどとは別の意味で、間宮の目が見開かれる。


 その一瞬の隙が、仇となる。


「そんなに師匠せんせいが好きなら、後を追え」


 事も無げにそう言って、冒険者の男が刀を振り払った。


 体重の軽い間宮が、ましてや空中で襲撃を試みた彼が、その膂力に耐え切れる訳もない。


 呆気なく振り払われた彼。

 荒波が打ち付ける海面へと真っ逆さまに落ちていく。


 かと思えば、間宮は、空中で静止した。


「………ほぉ、やっぱり魔法ってのは便利だな」


 男が呟いた言葉の通り。


 振り払われた際に掠めた右腕を抑えながら、『風』の魔法を発現したうえで空中に留まっていた。


 だが、浮力はあっても、安定感はない。

 先程から、暴風雨の影響か、ふらふらとしている。


 体に負った傷も、影響は与えているだろう。

 寝る間際には、魔力枯渇寸前まで魔力を使っていた事もある。


 だが、爛々と光る殺意の煮え滾った瞳は、決して闘気を衰えさせてはいなかった。


 隙あらば、喉元を食いちぎらんとする、気概が垣間見える。

 これまた、状況を忘れて、背筋に這い上った愉悦に歪んだ頬に傷のある冒険者。


「(………一丁前に、育ててやがるって事か)」


 そう思ったと同時、


「………殺してやる…!!」


 震えた涙声が、耳朶を打つ。

 瞬間、


「『雷帝の鉄槌ミョルニル・オブ・トール』!!」


 彼の目の前が、発光で埋め尽くされた。

 目の雨に落ちた雷。

 間一髪逃れる様にして、更に隣のバルコニーへと逃れた。


 だが、彼が今までいたバルコニーは、欄干どころ原型も残さずに崩れ落ち、瓦礫を階下や海へと零していた。


 そのバルコニーにいた筈のラピスは、これまた中空にいる。

 間宮と同じく、『風』の魔法を発現して、滑空していた。


「………また、振られちまったかい?」

「世迷い事を!!」


 魔法の攻撃が、更に続く。

 ラピスの手から光弾が弾かれるようにして飛ぶ。


 『雷』か『聖』の属性とはかろうじて分かった。

 魔法の文言を必要としない所為で、彼女の扱う魔法は一瞬見ただけでは判別が付かない。


 バルコニーの欄干へと狂いも無く飛んだそれに、襲撃者の男は刀を構えるだけ。

 だが、それだけで事済む。


 殺到した光弾を、刀で受け流す。

 軌道の逸れたそれが、あらぬ方向へと受け流され、砦の壁や海上へと消えていく。


 轟音が立て続けに響く中、それでも男は平然と刀を構えてそこにいた。

 ぎりり、とラピスが歯噛みする。


 その傍らを飛び込む影。

 これまた、間宮だった。


 男のいるバルコニーへと一直線に向かった彼は、脇差を振りかぶる。


 男も、それに応える様に、刀を横薙ぎに払った。

 ギィン!と甲高い金属音が響く。

 しかし、その瞬間後ろ手に構えていた左手が、冒険者の男の目の前に出た。


「(『氷の柱(アイス・ピラー)』!)」


 完結させて発現を控えさせていた『水』魔法である氷柱。

 地面に根付かせるでも無く、男に目掛けて射出した意味は、押し並べて殺意を前面に表した一撃と言うべきか。


 一瞬、男の眉が、皺を一つ増やした。


 だが、男も馬鹿ではない。

 それを受ける愚を犯す等も、有り得ない。


 バックステップと同時に、跳躍。

 壁に『紅時雨』を突き立てると、その上に危なげも無く着地した。


 目を見開いた間宮。

 有り得ないとばかりに、見上げた先で、冒険者の男がにぃと唇を捲れ上げさせた。


「『土の槍(アース・ランス)』!」


 だが、そんな間宮の背後。

 その時には、更に続けざまに、ラピスが魔法を行使していた。


 冒険者の男が日本刀を突き立てた壁に、『土』魔法で干渉。

 同時に、魔法発現の文言の通り、土槍が幾本も精製され、男を貫かんと迫る。


 しかし、それすらも男は回避した。

 『紅時雨』の柄を起点に、背後へと倒れ込むように一回転。

 振動で引き抜けた『紅時雨』と共に、男は階下へと舞い降りていく。


 1階下のバルコニーに飛び乗った男は、一度だけ振り返った。


「………いつか、また会えるさ。

 その時は、アンタも貰う(・・)


 そう言って、ラピスへと投げキッス。

 ラピスは怖気を走らせ、男の行動に目をひん剥いた。


「待ちやれ、卑怯者!

 『聖なる檻(ホーリー・ゲージ)』!」

「(足止めします!『風の刃(ウインド・カッター)』!)」


 怒りか、焦りか。

 ラピスが魔法を使って、檻を男の足下に発現させ捕らえようとする。

 言葉の通り足止めと追撃の為に飛んだ間宮が、男の周りを風の刃で四方八方を囲む。


 だが、それすらも、


アディオス(・・・・・)


 冒険者の男を止める手段としては、足りなかった。


 跳躍し、四方八方の刃を刀で受け流した男。

 その動きは、まるで舞でも踊るかのようで、全く意に介した様子も、焦燥や混乱すらも感じられない。


 すべての軌道を読まれているかのように、風の刃は一度たりとも男を傷付ける事は無かった。

 そして、その男の姿が、バルコニーを伝って遠ざかっていく。


 間宮が飛ぶ。

 ラピスも同じく、滑空を開始した。


 しかし、すぐにその追撃は、それぞれ次と、その次のバルコニーで止まった。


「こんな時に…ッ!」

「(………魔力が…)」


 魔力枯渇だ。

 まだ、防波堤を設置した時の名残は、まだ残っていた。

 疲労もあるが、ここまでの魔力を使った事は無かった所為か、2人揃ってその場でへたり込んでしまっている。

 息苦しさと眩暈と、吐き気が込み上げて。


 冒険者の男が、魔力枯渇までもを見越していたのであれば、恐ろしい事だ。

 度重なる挑発と、逃れ続ける男への焦燥。

 そして、銀次を害された憤怒と憎悪に染め上げられて、気付かなかった自分達が憎らしい。


 眼下に、男は消えた。

 砦の影に隠れるようにして、まんまと逃げ遂せてしまった。


「ギンジ…ッ、ふぅ…ッ、ううぅう…ーーーーーッ!!」

「(クソ!クソッ!クソッ!!)」


 へたり込んだ場所で、ラピスが咽び泣いた。

 間宮が、バルコニーを叩き付けて、拳に血を滲ませる。


 憔悴した彼等の背中には、バルコニーに出て来た生徒達の声も木霊していた。


『ギンジぃーーーーーッ!!』

『先生ーーーーッ!!』

「いやぁあああ!」

「先生ぇぇえええ!」

「………ッ、ギンジ…!」

「騎士団を集めろ!捜索隊を編成する!」


 叫べども、泣けども、海中に消えた銀次の姿など見える訳が無い。

 ましてや、この荒れ狂った海の前では、生存どころか遺体の確認とて難しいだろう。


 海には、魔物もいる。

 あれだけの血の臭いで、どれだけの魔物が押し寄せる事か。

 判断どころか、予想とて付きそうにない。


 暗い水底は、見通せない。

 希望は、見えない。


 大海原は、彼女達の想いや願いすらも、非情に飲み込むだけであった。



***



 夜の砦内が、慌ただしく動き始めていた。


 ヴィンセントが指揮を取り、砦の内部の巡回や下手人である冒険者の男の追撃に動いている。

 巡回部隊を増やし、砦の中に他に侵入者がいないかを確認する。

 また、浸水被害や、先ほどの戦闘の余波で被害を被った部屋や階下の状況も把握していた。


 ただ、調べてみると、砦の中でも幾つかの異常が見つかった。


 砦の真下にあった水路に、何者かが侵入した形跡があったのだ。

 見張りの兵士は、悉く殺害されていた。


 そして、もう一つ。

 門番達もまた、何者かに昏倒されていた。

 殺害はされていなかったが、門番達はフードを被った何者かが現れて、あっと言う間に昏倒されたとのことだった。


 侵入経路は、この2か所。

 どちらからあの頬に傷のある冒険者が侵入したのかは、定かではない。


 だが、今更、侵入経路の推察等、意味は無かった。


 襲撃によって、『異世界クラス』の担当教師が行方不明どころか、生死も不明となっている。

 憔悴した生徒達は、皆葬列のように寡黙だった。


 中でも、一部始終を目撃してしまった杉坂姉妹や、時同じくして目撃したラピスの心の傷は計り知れない。

 涙が枯れる事は無く、膝を抱えて蹲るだけ。


 今も伊野田やシャル、ローガンやアンジェに慰めを受けてはいるが、立ち直るどころか反応を返す事すらも出来ないままだった。


 一方、それは間宮も同じだった。

 追撃をしたが逃走を許し、魔力枯渇によって取り逃がした。


 悔やんでも悔やみきれない。

 失態に打ち震え、小刻みに震える拳からは血が滴り落ちる。


 せめて治療をと伊野田やゲイルが進み出たものの、返答は無かった。

 口端から滲む血や吐いた血反吐は、明らかに内臓の損傷へと及んでいる証拠だろう。

 なのに、彼は頑として治療を拒んでいた。

 それがまるで、戒めになると言わんばかりに。


 また、この事態を受けて、友人であるゲイルも憔悴している1人だった。

 銀次の窮地に立ち会うのは、これが1度目ではない。

 だが、1度や2度どころか、3度までも許してしまったその窮地に、座礁した彼の傷心もまた、計り知れなかった。

 何が、友人か。

 何が、騎士団長か。

 たった一人の護衛対象すらも守れなかったと、内心でひたすらに自分自身を責め続けていた。


 しかし、そんな中、


「ゲイル。

 ………悪いが、砦を頼む」

「………兄上、」


 そんな打ちひしがれたゲイルの下。

 そこに、神妙な顔をしながら歩み寄ったのは、ヴィンセントだった。

 言葉の端々に、その表情に、決意が滲んでいる。


 何をしようとしているのか、ゲイルはすぐに分かった。


「まさか、この海の状況で探しに行くつもりなのか…!?」

「ああ、そうするしかあるまい。

 幸いにして、その手段を持っているのも、オレだからな」


 ゲイルの驚愕の声と、ヴィンセントの静かな返答。


 反応した生徒達は、少なくなかった。

 顔を上げ、あるいは振り返る。


 数多の視線が、彼等2人の兄弟に降り注ぐ。


「砦の指揮権は、今からお前に全てを移行する。

 オレが戻るまで、もし戻らなければ明日の朝までは、お前に砦を守っていて貰いたい」

「そ、そんな…ッ、探しに行くなら、オレが行く!

 貴方がいなければ、この砦だって、」

「………この荒れ狂った海の中、船を漕ぎ出す技量はあるか?」

「そ、れは、」

「オレにはある。

 だが、お前には無い。

 ………今回は、それが適材適所となっただけの事だ」


 そう言って、ヴィンセントは唇を歪ませた。

 不格好ながら、微笑んでいるようだ。


 その表情を一転、険しくする。

 それと同時に、彼は改めて砦の騎士達に向かい合った。


「これより、砦の全指揮権を、騎士団長であるアビゲイル・ウィンチェスターへと移行する!

 各自、ウィンチェスター卿の指示に従い、砦の安全確保及び巡回を行ってくれ」

『はっ!』


 砦の騎士達には、既に根回しは済んでいたのか。

 表立って反発や、戸惑いの声は聞こえなかった。


 砦の騎士達にとっても、司令官であるヴィンセントがこのような形で不在になると言う事は初めてで、不安に思っているのだろう。

 だが、緊急事態の為と割り切って、苦渋の選択をしたに違いない。


 ゲイルは、唇を噛み締めて、引き受けた。

 振り返ったヴィンセントの視線に、こくりと一つ頷いて。


「大丈夫だ。

 オレ以上に素晴らしい騎士は、お前ぐらいなものなのだから、」

「そんなことはない………オレは、」

「それ以上は、オレを惨めにするだけだ。

 謙遜も、控えめなぐらいが、丁度良いものだからな」


 苦笑を零したヴィンセント。

 ゲイルも、思わず苦笑いをして、目線を逸らした。


「………ッ?」

「………マミヤくん、」


 だが、その視線の先には、うっそりと間宮が立っていた。

 思わず、ウィンチェスター家の長男と三男で揃って、悲鳴を上げかけてしまう。


 ヴィンセントの袖を、間宮が引いた。

 何かの意思表示か、と怪訝そうな顔をしていた矢先、


「………ま、まさか、君も付いていくつもりか?」

「(こくり)」


 付き合いが長い分、彼の言い分を察するのはゲイルの方が早かった。

 その言葉に、ヴィンセントが表情を歪ませた。


「危険だ。

 それに、君は今、怪我をしている」

「(ふるふる)」

「聞き分けろ。

 君にも何かあっては、ギンジにも申し訳が立たないのだぞ、」

「(ふるふる)」


 諭すように、ヴィンセントが制止を掛ける。

 だが、間宮は、尚も食い下がった。

 承諾されなければ、1人でも探しに出ると言う気概も見え隠れしている。


 堂々巡りだ、と思った。

 これには、流石のヴィンセントも助けを求めようと、ゲイルへと視線を向けた矢先、


「………私も、連れて行ってくれぬか?」


 もう1人、間宮の後ろに進み出た人影があった。

 ラピスだ。


 涙で赤らんだ目元のまま、青白い顔をした彼女。

 いつもは聡明で麗しい女性の、疲れ切った表情だった。


 そんな彼女を見て、思わず絶句したのは、彼等だけでは無かっただろう。


「無茶だ、ラピス。

 今のお前では…ッ」

「多少は魔力も回復しておる………問題は無い」

「お母さん…ッ!」


 咄嗟に止めに入ったローガンやシャル。

 だが、ラピスは首を横に振った。


 こちらも、意思が強すぎる。


 間宮同様、ヴィンセントに付いていけないなら、自力で船でもなんでも漕ぎ出してしまいそうだった。


 ヴィンセントが、更に表情を歪ませた。

 しかし、その表情を、見上げていた間宮が、


『………あの方がいなければ、オレ達だってこの世界では生き残れない』

「………ッ!」


 精神感応テレパスを使って、直接脳裏に語り掛けて来た。

 驚きに、目を瞠る。


 そんな間宮の言葉には、悲壮が滲む。

 精神感応テレパスの余波か、感情が荒く剥き出しになっていた。


『生きている確証なんて、どこにもなくても、………それでも、希望は捨てたくない』


 そう言って、今まで頑なに閉じていた唇が震えた。

 拳から、新たな血が滴り落ちる。


『オレの師匠は、あの人だけだ。

 あの人がいなければ、オレ達なんて、この世界では何の価値も見いだせない。

 死んだも同然になってしまう』


 そう言って、ゆっくりとその場に座り込んだ間宮。

 石床を掻いた爪が剥がれて、ずるり、と血の跡が地面に伸びる。


 そのまま、頭を下げた彼。

 土下座。

 それが、間宮の誠意と決意の表現方法だった。


 生徒達が、息を呑む。


 本来する必要も無い、またする事も無いと思っていた土下座をしてまで、彼はヴィンセントに懇願をした。


『オレも連れて行ってください、お願いします。

 あの人を助けられるなら、オレ達は何でもしますから…!!』


 精神感応テレパスで伝わってきた言葉。

 そして、その言葉に秘められている、決意や並々ならぬ感情。


 不覚にも、ヴィンセントの目尻にも涙が滲んだ。


「………わ、私からも頼む…ッ」

「こら、辞めんか、ラピス…!」

「お、お母さん、辞めて…ッ、ダメよ…!」


 同じように土下座をし、懇願しようとしたラピスを、これまたローガンやシャルが制止をする。

 だが、


「オレ達からも頼む!」

「どれだけの人数が行けるんですか!?」

「私達も、出来るなら連れてってください!」


 生徒達が続々と、ヴィンセントに詰め寄った。

 間宮と同じように、土下座をしている生徒もいた。


 誰も彼も、必死だった。


「(………彼だって、慕われているのだな)」


 独りごちたヴィンセントが、今度こそ目頭を押さえる。

 滲んでいた涙が、溢れてしまいそうだった。


 彼等にとっての恩師。

 そして、ヴィンセントにとっても、砦にとっても、恩人である。

 その事実は、変わらない。


「………連れて行くのは、マミヤくんとラピス(・・・)殿だ」

「あ、兄上…ッ!」


 決断を下したヴィンセントは、早かった。

 ゲイルの制止の声を片手で制し、生徒達を見渡した。


「済まないが、これ以上の人数を連れ出せるほどの手段を持っている訳では無い。

 他の生徒達は、砦の騎士達と共に、待機を頼みたい」


 理由を説明し、彼等に新たな仕事を割り振る。

 渋々ではあるが、認めた生徒達が立ち上がった。


 顔を上げた間宮とラピスの目に滲んだ涙が、痛々しい。


 どのみち、この2人を置いてはいけないだろう。

 ヴィンセントが、そう思い、傍らに跪いた。


「まず、君は治療を受けろ。

 その怪我で連れ出せるほど、私も甘くは無い」

「(ッ………!!(こくこく))」


 その言葉に、即座に間宮が動いた。

 伊野田へと駆け寄ると、お願いします。と言わんばかりに頭を下げた。


 先程は、頑として受けなかった癖に、現金なものである。

 付いて行けなかった面々は、呆れ気味だ。


「そして、ラピス殿には、説明をいただきたい」

「………なにを………ッ!?」


 そこで、ここにいた全員が気が付いた。


 いつの間にか、ヴィンセントがラピスの事を、偽名では無く本名で呼んでいた事に。


 いつどこで、何故?

 そう言った面々の表情を見ながらも、ヴィンセントは苦笑を零した。


「………盗み聞きをした時に、聞いてしまっただけだ」


 偶然だと、そう言って。

 実際は、先ほどローガンが呼んでしまっている。

 他にも、時たまゲイルが間違って呼んでしまったりもしていたので、分かってはいた。

 ヴィンセントも馬鹿では無い。

 だが、それ以上は言及しないつもりだったらしい。

 今は。


 だからこそ、共に行く事を承諾した。

 ラピスと共に行動をした時に、その理由を教えてくれと言う意味だろう。


 それが、先ほどの彼の『説明を貰いたい』と言う言葉の意図。

 頭を抱えたゲイルだったが、ラピスは苦笑を零した。


「その程度ならば、安いものじゃ」

「では、準備が出来次第、地下通路へお願いいたします」


 こうして、銀次の捜索に向かう人間は決まった。

 ヴィンセントがどのような方法を用いるのかは、定かではない。


 ただ、それでも生徒達は仕方ない、と納得した。

 正直、この中で一番の武力を保持しているのは、間宮。


 そして、内縁とはいえ、気付いている者達は知っている妻であるラピスが同行する。

 彼女を差し置いて、意地を通そうとする生徒もいなかった。

 それは、口惜しそうにしているローガンも同じ。


 だが、


「………。」


 ただ1人、納得していない表情をした、生徒を除いて。 



***



 捜索隊が出立するのは、用水路からとなった。

 ヴィンセントが、捜索の為の方法を、余り公にしたくなかった事が一番の要因である。


 未だに、侵入の形跡が色濃く残った場所。

 床石には、生々しい血痕や夥しい程の血臭が篭っている。


 その名残にも、臆する事無く、見送りに来たゲイルやローガンと、生徒達が用水路に集まっていた。

 また、砦の騎士達と、護衛として残っていた騎士達も、多くいた。

 誰一人、譲ろうとはしなかった。


 結局、公には出来ないが公然の秘密となりそうな有様である。

 ヴィンセントが仕方なしに、折れた形だ。


 とはいえ、


「どんな方法があると言うのかや?」


 きょろきょろと、周りを見渡したラピスが問う。


 それもその筈。

 用水路には、船らしき建造物は見受けられなかった為だ。

 これには、間宮も流石に胡乱げだった。


 まさか泳ぎで探すとも言わんだろうに。

 そうして、もう一度問いかけようとしたところで、


「おいで、『サーベンティーク』」 


 ヴィンセントが、声を発した。

 手を水平に薙ぎ、魔力を発露。


 瞬間、彼の手元に現れたのは、大量の『水』。

 用水路の苔のこびり付いた石畳に、沁み込むどころかばしゃばしゃと波打ちながらも、大きく、また生き物のように躍動をする。


 驚きの余り、間宮もラピスも1歩後退した。

 ゲイル達も目を瞠っている。


 その中で、ヴィンセントは事も無げに、驚愕に染まった彼等の表情を振り返った。


 今や、その水は色を持ち、形を持ち、水路の中で具現化した。

 雄大な体を水路の中で窮屈そうに縮こまらせながらも、鎌首を擡げた蛇のような精霊。


 ヴィンセントは、その精霊を従えて、


「彼女は、『水』の中位精霊、サーベンティーク。

 今回のオレ達の足になって貰い、ギンジを探す切り札だ」

『………いやはや、このような人間達に囲まれるのは、何千年ぶりだろうか』


 『水』の中位精霊と紹介された彼女は、鎌首を擡げたまま俯いた。

 お辞儀のようにも見える動作だ。


 体長はこの水路を補って余りある。

 絶滅したはずの太古の恐竜、首長竜の一種にも似ているだろうか。


 サーベンティークと言う名の通り、元はサーベント。

 神話に出て来る、蛇や竜をモチーフとした、船すらも丸呑みにしてしまうだろう怪物の名称であった。


 蛇に近い姿形と、鱗に覆われている体表は、仄かに青白く光りを反射している。

 だが、顔つきは思いのほか柔和そうに見え、どちらかと言えば麒麟等の草食動物のような顔立ちをしていた。


『さて、ヴィズ坊や?

 今まで頑なに、妾の存在を知らせようとしなかったお主が、如何様な心境の変化かな?』

「………緊急事態、と言うべきか。

 それにもう隠し事も嘘も、吐き続けるのに飽いただけだ」


 苦笑と共に、振り返ったヴィズ坊やと呼ばれたヴィンセント。

 視線の先には、穏やかに微笑んだゲイルがいた。


 これで、詳細が知れたのだ。

 何故、ヴィンセントが『ボミット病』を発症しながらも、魔法が使えたのか。


 中位以上の精霊ならば、魔力を吸着する因子から魔力を奪うことが出来る。

 意図的か無意識か。

 それは定かではないにしても、この中位精霊がいたからこそ、ヴィンセントは発症をしていても魔法が使え、緩和策も講じる事が出来たと言う事だった。


『なるほどなるほど、』


 今度は首を上下に動かし、頷くような動作を見せた中位精霊。

 見た目に反して、意外にも感情豊かなようだ。


 そして、ヴィンセントへ向ける感情もまた、好意的であることも分かる。


 その場に居合わせた生徒達が、ほっと肩の力を抜いた。


 そこで、改めて視線を向けた先には、ラピスと間宮の姿。

 ヴィンセントも合わせて、この3人は全員が旅装のような外套を纏っている。


 暴風雨対策の、『防水』付与まで施されたものだ。

 ラピスは魔力温存の為、伊野田が付加を行っている。


『妾の仕事は、この者達を運ぶ事のようじゃのう?』

「外は嵐だが、出来そうか?」

『天候など、妾にとっては関係はあるまいよ』


 そう言って、胸を張るように大きく腹を逸らした彼女。 

 なるほど、『水』の中位精霊ともなれば、嵐だろうかなんだろうが、海を進むのは問題が無さそうだ。


 しかし、疑問があった。


「そ、その、サーベンティークと言う精霊殿に運んで貰う事は分かったが………。

 どうやって、移動するのじゃ?」

「彼女の背中に乗せて貰う。

 ………まぁ、多少波や雨は被るが、」

「背中に…?」


 ラピスが不安げな声を漏らした。

 そして、その視線は、サーベンティークの背中へと向けられる。


 鱗の生えた体表は、見るからにぬるぬると滑りそうだ。

 掴まる事が出来るような、突起物も見当たらない。


 嫌な予感がしてしまった。

 まさか、しがみ付いて嵐の中を、進む訳も出来ないだろうに。


 間宮は、平気そうだが、果たしてラピスにそこまでの体力があるだろうか。

 不安になるのも、当然だ。


「………手綱を付けさせて貰うから、そこら辺は安心して欲しいのだが、」

「い、いや、それなら、良いのじゃが…ッ」

『ふぅむ、なるべく揺らさぬように回遊をするようにした方が良さそうだのぅ』


 苦笑を零したヴィンセントと、サーベンティーク。

 何とはなしに、飼い主とペットが似て来ると言うものを目の当たりにした瞬間だと、間宮は他人事のように思っていた。


 閑話休題それはともかく


 心配だったラピスに納得させる為に手綱と、なめし革の大型魔物用の鐙(※砦の物資にあったもの)まで付け、安全の為に命綱も結んだ。

 サーベンティークは大人しく、温和な性格をしているようだ。

 手綱を付けられようが、鐙や命綱を巻き付けられようが、全く意に介した様子は見られなかった。


 出立準備も終わり、ヴィンセントが彼女の首根の後ろへと跨った。

 ラピス達も背中に乗って、同じように鐙に跨る。


 そこで、改めてヴィンセントがゲイル達を振り返った。


「では、任せたぞ」

「兄上、ご武運を」


 ゲイルに声を掛け、返答に対してこくりと頷く。

 フードを被り、踵を返すように手綱を引き、サーベンティークの首を巡らせた。


『お主も、家族と言う者があったではないか』

「………ああ、嬉しい限りに、な」


 サーベンティークの小言に、ヴィンセントが頬を赤らめた。

 幸いにして、水路に響く移動の為の水音でかき消されたそれが、ゲイルの耳に届くことは無かった。


「お主等も、良い子にして待っておれよ!」

「(ぺこり)」

『いってらっしゃい!』

『気を付けて!』

『先生の事、頼んだからね!』


 後ろ背にラピス達も、生徒達へと声を掛けている。

 水路の水音でかき消されないよう、生徒達も負けじと声を張り上げていた。


 だが、その背が水門へと向かい、遠ざかろうとしていた矢先の事。


「待って!!」

「えっ、ちょ…ッ、エマッ!?」


 突然叫び声を上げたのは、少女だった。

 その声に驚いて振り返った生徒達も然ることながら、ラピス達もぎょっとした。


 エマだ。

 隣にいたソフィアが、驚いた声で振り返った。


 しかし、その声と同時、


「うりゃあああああ!!」


 彼女は、飛んだ(・・・)

 女子にあるまじき、気鋭迸る声を上げながら。 


 水路の発着場から、助走を付けて駆け出すと、そのままサーベンティークの背中に向けて跳躍したのである。

 しかも、その手にはいつから持っていたのか、外套まで握られている始末だった。


 生徒達が止める暇も無かった。

 ゲイルですらも、ローガンですらも反応が遅れてしまった。


 跳躍した彼女は、幅跳びの選手の如く水路の4メートル中程まで飛んで、水の中へと落ちた。


「エマーーーーッ!!」

「おいおい!」

「アイツ、何て馬鹿を…!!」


 生徒達が騒然となる。

 しかし、当の本人はお構いなしに、水面へと顔を出した。

 かと思えば、濡れた眼鏡や衣服には一切構う事なく、一心不乱に水を掻いてサーベンティークの背中へと追い縋っている。


『おやおや、………活きの良い』


 くすり、と笑った様子のサーベンティーク。

 そのエマの行動と、声音と。


 彼女の何かしらの琴線に触れたのか、雄大に撓った尻尾を大きく動かして彼女を捕まえた。

 そして、そのまま発着場に戻すでもなく、その背中へとぼとり。


「これ、大馬鹿者!

 危ないでは無いか…!」

「(………凄い行動力ですね)」


 落とされた先の背中に乗っていた2人も、唖然呆然である。

 叱責の声は掛けるものの、怒るまでは及ばなかった。


 ちょっとした仰天行動を取った当の本人であるエマは、水滴のついた眼鏡を取って、へらりと笑っただけ。


「だって、ラピスさんに抜け駆けされる訳にも、行かないじゃん?」

「………ぬ、抜け駆け…ッ?」

「(………ギンジ様も罪な方です)」


 ラピスと銀次の関係を、彼女はまだ知らなかったのか、否か。

 それは、分からない。

 ラピスにも間宮にも、読心術と言う高度な技術は無い。

 ここにいない銀次ぐらいであれば、その表情や目線、感情によって多少なりとも分かったかもしれないまでも、今は詮無き事だ。


 とはいえ、銀次の為に、と行動する彼女は、本気だったようだ。

 手に持っていた外套を広げ、頭から引っ被る。

 間宮の背中に張り付くように座り、当たり前のように手綱をしっかりと握っていた。


 それを見れば、もう彼女も捜索組の一員だ。

 どのみち、サーベンティークが首を巡らせて戻りでもしなければ、彼女を水路の発着場には戻せないだろう。


 ヴィンセントともども、間宮が溜息を吐いた。

 このクラスの女子組には、いつだって驚かされてばかりだ。

 間宮までもが同じことを思っていた。


 ………ラピスは、未だに顔を赤らめて硬直するばかりである。

 少しばかり、思考回路がショートしたらしい。


「エマだって、十分抜け駆けしてんじゃないのよーーーッ!!」


 水門を開く寸前、後ろ背に響いた声。

 それは、エマの姉であるソフィアのものだった。


 ちゃっかり、先ほどのラピス達の問答が聞こえていたらしい。


 エマは振り返りつつも、唇で『早いもん勝ち』と呟いて、投げキッスを一つ。

 完全なる挑発であった。


 取り残されたソフィアやシャルが、怒り心頭だったことは言うまでもない。

 ただ、ゲイルやローガン、生徒達は呆れるばかりだ。


『(知らないって事は、恐ろしい………)』


 言わずもがな、ラピスとローガンとの婚約の件だ。

 男子組は、既に一部を除いて知っている。

 だからこそ、ラピスや、潔く身を引いたローガンの顔を立てたと言うのに、それも無意味だったようだ。


「オレもやれば良かった!」

「………やりそうだったから、抑えといて良かったわ」


 そして、その一部である徳川はと言えば、ぶー垂れていた。

 そんな徳川の行動を予想して、襟首を掴んでいた榊原のちゃっかりしている事。


 ただ、流石にエマの首根っこを掴んでいた人物はいなかった。

 彼女の予想外の行動の結果である。


 次からは、絶対手を握っておこう、と変な場所に意欲を燃やす女子組がいたとかいないとか。

 男子組は、呆れ気味のままだった。


 さて、そんな発着場の、生徒達の内心はともかく。


 こちらは、サーベンティークの背中に乗った、面々。

 水門が開き、なだらかな下り坂となった斜面が目の間に現れる。


 だが、下り坂にも関わらず、その斜面には海水が溢れ、途中から海水へと頭から突っ込んでいく事になりそうだ。


『『水』魔法で膜を張るが、空気まではどうにも出来ん』

「どれだけ掛かりそうだ?」

『なるべく急ぐが、5分ぐらいは掛かろうぞ』


 短くても5分。


 それが、水路に溢れた海中に潜り、外の海面へと出る時間だ。

 そう聞いた面々の表情が強張る。


 だが、やるしかない、と意気込みを露に全員が息を深く吸い込んだ。

 間宮が、多少回復した魔力で、『風』を操作し、周りに酸素を集め始める。


『では、行くぞ』


 サーベンティークの声と共に、下降を開始した。

 だが、その瞬間、


『き、きゃああああああ!!』

「∑・………ッ!?」

「(あ、言うのを忘れていたな)」


 ラピスとエマの悲鳴が水路内に響き渡った。


 これには、発着場でその背中を見送っていた面々が仰天している。


 見送っていた彼等の目には、突然その背中が消えたように見えた事だろう。


 要は、ウォータースライダーのような形になっただけである。

 下降を始めれば、潜っている時間の短縮の為に、急がねばならない。

 ならば、斜面で加速するのは当たり前の事だ。


 ヴィンセントは注意喚起をすっかりと忘れていた。

 先程のエマの仰天行動によって、頭の片隅から吹っ飛ばされてしまっていた所為だ。

 そして、悲鳴を上げた2人に驚いた間宮がこれまた吃驚。

 ただの2次災害だ。


 即席ジェットコースター。

 命綱はあっても、安全ベルトは無い。

 更に言えば、目の間に迫るのは、ダイビングとしか言えない海面のみ。


「こんなの聞いておらんぞ…ッ!」

「ちょぉおおおおお…ッ!!」

『ほほほ、小気味良い悲鳴も何千年ぶりか!』


 とはいえ、自棄に楽し気な彼女は、お構いなしだ。

 水路に溢れた海水へとサーベンティークが潜っていく。


 水音が響いた先で、彼女達の悲鳴は途切れた。

 膜が張られ、声が遮断されただけである。


 こうして、銀次捜索部隊は、砦を出立した。

 前途多難な、嵐の中へと。



***



 ちろちろと、流れる水の音を聞いた。

 ふと、目を覚ます。


 意識が浮かびあがった瞬間、眩暈と猛烈な吐き気を感じた。


 何があったのか、良く思い出せない。


 ………寒い。

 それに、体が重い。


 節々が痛むように感じるのは、何故だ?

 ここはどこだろう?


 目の前には、仄かにオレンジ色に煌めく岩肌らしき場所が見えていた。


 焚火でも炊かれているのか。

 それとも、何かしらの光源があるのか。


 定かではないが、柔らかく穏やかな光に照らされたそこは、確かに岩肌であることは間違いない。

 いつぞや、ローガンに連れ込まれた洞窟でも、こうやって岩肌を眺めて目を覚ましたのを思い出した。


 あの時は、討伐隊に参加して、合成魔獣(キメラ)に連れ去られたのだったか。


 岩肌を、湿り気を帯びていた。

 何故か鼻が詰まっている為、鼻が利かない。

 風邪でも引いたのかは、分からない。


 だが、どこか潮臭い香りがしていた。

 ついでに、肌がべたべたする感触もあるので、もしかしたら海水があるのかもしれない。


 相変わらず、寒い。


 ぼーっと、眺める事数秒。

 はた、と気付いた。


 そもそも、何故洞窟にいるのだろうか。


 目が覚める直前に聞いていた水の流れる音も、まだ聞こえている。

 目の前に溢れている岩肌や、湧き水のような音を聞くに自然の中だ。

 不釣り合いなオレンジの光源だけが、違和感に映る。


 いつの間に、オレはこんなところへ来ているのか。

 そして、何故そんな場所で眠っていたのか。


 記憶を探ろうとして、目を瞑る。

 しかし、頭痛が酷い。


 思い出せそうで、思い出せない。


 何があった?

 何をしていた?

 何で、こんな場所にいる?


 どくどくと心拍が上がるのを感じるが、どこかそれが遠くに感じる。


 耳も詰まっているのか?

 早鐘のような鼓動の音が、何故か籠って聞こえる。


 深呼吸を零した。

 眩暈は、まだ収まらない。

 呼吸音もどこか遠い。


 だが、


「………んぅ…ッ、ぐ…ッ」


 その瞬間に、胸に走った痛み。

 まるで、圧迫されるような痛みだった。


 肋骨か胸骨でも折れている(・・・・・)んじゃないか(・・・・・・)と思えるような痛みだ。


 だが、何故?

 オレは、何故、そんな痛みを………、


「-----ッ!?」


 そこで、やっと記憶が鮮明に思い起こされた。


 視線を上げる。

 そこには、変わらずに洞窟の湿った岩肌が見えていた。


 何故、どうして?と、駆け巡る思考。

 眩暈が強くなった。


 死んだと、思ったのに。


 今まで、どこにいたのか。

 南端の砦だ。

 どうしていたのか。

 嵐が来たから、防波堤の設置を終えて、そのまま寝ようと部屋に戻っていたのだ。


 何故、こんなところにいるのか。

 窓の外に頬に傷のある冒険者が現れた、唐突過ぎる襲撃の所為だ。


 そこで、勢いよく目線を下へと向けた。

 胸には、裂かれた跡がある。

 しかし、傷は無い。

 腹にも刺された箇所が、3か所もあった。

 だが、そのどれもが痛みを発してはいない。


 おそらく、後天的な治癒能力のおかげで、傷が塞がっている。

 だが、この胸の圧迫感は、一体何なのか。


 痛みに、無意識に眉根が寄った。


「………はぁッ…はぁッ…!」


 無様な呼吸が、耳に突く。

 詰まっていたのではなく、未だに夢現なだけだったようだ。


 いや、鼻が詰まっているのは、本当らしい。

 未だに鼻が利かない。

 とはいえ、潮臭いと感じたのは、ここが海水か湧き水のある洞窟だからか。


 眩暈が、頭痛に変わった。

 ここは、どこだ?


 襲撃を受けてから、どうなったのか。

 完全に、その部分だけが記憶に無い。


 確か、海に放り投げられた。

 そこまでは覚えているのだ。

 しかし、物凄い衝撃を2度も受けて、2度目で意識を失ったのを感じた。

 衝撃の所為で、肋骨でも折れたのか。

 痛みの根源は、おそらくその所為だろうと勘付いたが、………。


 怖気が走る。

 体が震え始めた。


 ーーーーー海に投げ出された時の、痛みや冷たさ、虚しさ。

 海中に沈んでいく間際の、あの脱力感。ーーーーー


 最後に聞いたのは、誰の悲鳴だったのか。


 生きているのは嬉しい。

 素直に、生きている事は喜べる。


 だが、この状況は、一体どういうことなのだろうか。


 体を起こそうと、動いた。

 痛みを感じた。

 でも、動けない程ではない。


 そう思った矢先の事。


『ガシャン!』

「………はっ…!?」


 体が、つんのめった。

 正確に言えば、それ以上動けなかった。


 上を起点に引き戻され、背中を壁に打ち付けた。

 胸の圧迫痛が、呼び起こされる。

 打ち付けた背中も、岩肌だったのか擦れた痛みを感じた。


 いや、それよりも、これは何だ?

 なんで、起き上がる事も、ましてや動くことも出来ないのか。


 そう思って、目線を今度は上へと向けた。

 意味が分かった。


 自分の手に巻き付けられた、無骨な鎖。

 何重にも、厳重に巻き付けられて、隙間もあらばこそ。

 肌の色すらも見受けられない。


 そしてオレの腕を拘束するように巻き付けられた鎖の先端は、岩肌に打ち込まれた、鉤爪のような器具で固定されていた。


 ………拘束するような?

 ………拘束しているんじゃないのか?


 その意味を理解出来たとしても、脳が納得をしなかった。


 数秒、頭が働かなくなる。

 真っ白になった思考の中、不規則に体が震えあがっていた。


 拘束されている。

 その事実を受け止めるまで、時間が掛かった。


「………なんで、…ッ、どうして………ッ!!」


 喉が引き攣った。

 肩が、不格好に跳ね上がる。

 それでも、左腕は動いてくれなかったけど。


「いやだ…ッ、なんだよ、これ…ッ!」


 がしゃがしゃと、鎖を引っ張る。

 耳障りな金属音が、岩肌に反響している。

 だが、びくともしない。

 岩に固定された器具が壊れる気配も、鎖が解ける気配もない。


 希望的観測で何度も何度も、がしゃがしゃと引っ張るが、結果は同じ。

 いつもの馬鹿力も、パニックになって使えない。

 力が入らないのだ。


 なんでこんな事になっているのか、分からなかった。

 何で、オレが、拘束されて、洞窟の中にいるのか。


「なんだよ…ッ、なんでだよ…ッ!!

 外れて、外れ………、外れてくれよ…ッ!!」

 

 半ばパニックのままで、がしゃがしゃと鎖と格闘する。


 傍から見れば、滑稽な光景だっただろう。

 それすらも、脳内には無かった。


 頭痛が、眩暈に戻った。

 吐き気が更に強くなる。

 体が震える。

 寒い。

 拘束を解いて、逃げ出す事ぐらいしか頭の中に無かった。

 そうしなければ、可笑しくなってしまいそうだった。


 だが、


「………無駄な事は、辞めた方が良いわよ?」


 その瞬間に、洞窟内に響いた声。

 ハッとして、視線を上げた。


 岩肌が続く洞窟内で、確かに声が聞こえた気がしたのだ。

 拘束をされたまま、声の出所を探す。


 恐怖心も相俟って、挙動不審ともなっていた。


「こっちよ、『予言の騎士』さん」


 2度目の声。

 空耳では無かった。


 内心でほっとしつつも、視線を声のした方向へと移した。


 そこには、


「………えっ………?」

「そんなに、目を見開かないで?

 1つしか無い眼玉が落ちちゃうわよ」


 下半身に尾ひれを持った、架空の生物と言われる存在があった。

 人魚がいたのだ。


 吃驚した。

 マジで、人魚だった。


 ごくり、と喉が鳴ったのが、自分でも分かった。

 これまた、滑稽な事だ。


 人魚は、女性だった。

 淡い緑にも青にも見える髪色に、白肌と装飾の施された意匠。

 腕や腰、尾ひれにまで施された真珠や珊瑚等を使用した絢爛豪華なアクセサリー。


 そして、見事な造形。

 人魚と思い浮かべたら、きっと誰もがスレンダーな美女を思い浮かべる。

 その通りだった。


 絵に描いたような、均整の取れた美しい体と顔、そして尾ひれを持った女性が、そこにいた。


「………人魚を見るのは初めてかしら?」

「えっ………あ、うん」

「あら、可愛い。

 眼が大き目だから、幼く見えるのが特に………」


 くすりと、笑った美女。

 微笑んだ顔すらも、麗しい。


 これまた、ごくりと喉が鳴ったが、いやいやそうじゃない、と意識を切り替えた。

 色香に惑わされている暇は無いのだ。


「えっと………、あな、たは?」


 思った以上に掠れた声が出た。

 少し恥ずかしくて目線を逸らしたものの、


「わたしは、ビルベル。

 貴方は、『予言の騎士』さん?」

「………銀次だ」


 そう言って、何故か自己紹介になったこの流れ。

 次から次へと、意味の分からない状況に、正直脳みそが追い付かなかった。


 名前を聞きたかった訳ではない。

 人魚だとは分かっているが、何故そんな女性が、ここにいるのか聞きたかったのに。


 そう思って、もう一度ビルベルと名乗った人魚へと視線を向ける。


 だが、その首に無骨な首輪があるのに気付いた。

 黒い鉄製のそれは、見覚えがあった。


 『奴隷の首輪』だ。

 いつかは、オレもローガンに、魔力吸収用の魔法具を見間違えられていた事がある。

 そして、裏のルートの知り合いが増えた今となっては、何度もお目見えしている。


「………あ、あなた、奴隷、なのか?」

「言い方を間違えているけど、その通りだから、否定は出来ないわ」


 その質疑のすぐ後に、彼女の視線が険を孕む。

 目の色は緑なのか、とどうでも良い事を思いつつ、彼女の言葉の意味を考えた。


 面倒くさい、言い回しの女性のようだ。

 だが、更に面倒くさい言い回しをするゲイルで慣れている所為か、意味は分かった。


 否定はしない。

 つまりは、奴隷と同じ身分だが、言い方を間違えているから奴隷ではない。


「………じゃあ、あなたも、オレと同じ?」

「正解よ、ギンジ。

 ただ、手を拘束されていない事と、首輪が無い事が、お互いの違いね………」


 苦笑とも言える自嘲気味の笑み。

 ビルベルは、どうやら、拘束を受けてはいるが、首輪のおかげである程度の行動は許されているらしい。


 行動すらも許されていないオレとは違うという事だ。


 しかし、本当にこの状況は、一体どういうことなのか?

 それに、何で生きているのか、疑問だった。


 もう一度、思考の海に呑まれそうになるのを気力で堪え、頭を振った。

 これ以上は、精神衛生上よろしくないから。

 拘束されている事実は、一旦考えないようにしないと発狂してしまいそうだ。


 そう思って、改めてビルベルへと視線を向けた。

 彼女なら、何か情報を持っているかもしれない。

 そんな希望的観測で。


「………ここは?」

「………難しい質問ね。

 『暗黒大陸』の北端の一部としか知らないわ」

「………『暗黒大陸』?

 じゃあ、ここはもう既に、魔族の住んでいる辺境の土地なのか?」

「そうなるかしら?

 まぁ、正確には、海に面した岩場の一角としか言えないけども、」


 そう言って、顎に指を当てて、頭上を仰いだビルベル。

 いちいち、その仕草も絵になるものだ。


 だが、


「わたしがあなたを拾った(・・・)場所から、泳いで(・・・)4時間ぐらいだから、人間の船で言えば2日は掛かる距離ね」

「よ、4時間が、2日ッ!?」

「そりゃ、わたし達は人魚ですもの。

 水さえあれば、いくら下位であっても、中位の魔族ともやり合えるのだから、泳ぎが早いのも当然の事でしょう?」


 そう言って、尾ひれをぱしゃりと振った彼女。

 なるほど、その尾ひれは逞しいように思える。

 比較対象を知らんけども。


 とはいえ、彼女からの情報を総合すると、オレがいるのは『暗黒大陸』。

 そして、南端砦付近の海域から、約2日程度は掛かる場所にいるという事になる。


 なんで、そんな大移動?

 まぁ、十中八九、彼女の言葉通り、拾ってくれたからなのだろうが。


「………でも、なんで?

 オレを拾って、あなたに、何かメリットがあったのか?」

「………。」


 途端に、彼女は黙り込んだ。

 その瞬間、嫌な汗が噴き出してしまう。


 だって、その様子からして、嫌でも分かる。

 鎖でぐるぐる巻きにされて、拘束された腕。

 目の前にいる彼女も、多少は差異があっても同じ。


 そして、怪我の手当てをされている訳でも無し、衣服が乾いている訳でも無い。

 その上で、こうして剥き出しの岩肌に磔にされている。


 拉致監禁。

 脳裏に過る、最悪の展開。


 そうとしか思えず、そう考えると生かされている理由もある程度の予想が付く。

 生かしたまま、何かをさせたいのだ。

 もしくは、生かしたまま、何かをしたい。


 背筋が、粟立った。

 ぞくぞくと這い上った何かに、悪寒が止まらなくなる。


 がたがたと、体が震えた。

 それと同時に、がしゃがしゃと、無意識のうちに鎖を引いていた。


「………だから、辞めた方が良いのよ。

 取れる訳が無いとは思うけど、それを取っちゃったら、もっと酷い目に合うわよ?」

「………い、いやだ…ッ!

 だ、だって、こんなの…ッ、こんな………ッ!!」

「お願いだから、落ち着いて?

 じゃないと、奴等も(・・・)………」


 ビルベルが、もう一度、オレへと制止を掛けた。

 聞こえちゃいなかったが、何かを言っている唇の動きだけが横目に見えた。


 だが、


『ヒュン!』


 唐突に聞こえた風切り音。

 目の前を掠めた何かに、視線が思わず釘付けにされた。


 飛んできたものは、短剣だった。

 続いて、鼻先に感じた痛み。


 ぷしゅっ、と間抜けな音を立てて、目の前で血潮が弾けた。


「………い…ッ」


 鼻先が、横一文字に裂けた。

 かろうじて、悲鳴は上げなかったのは、幸いだろうか。

 正直、これぐらいの痛みぐらいなら、日常茶飯事と言える。


 なのに、痛みよりも恐怖が、喉を張り付けた。

 状況が、そうさせてしまう。


 油の差し忘れたブリキのように、視線がゆっくりと短剣の飛来した方向へと向けられる。


「………煩わしいのです」


 そこには、子どもがいた。


 侮蔑の滲んだ黒にも似た藍色の瞳を、オレに向けた子ども。

 骨格からして、少女だと分かった。

 外套を羽織ってはいるが、発達具合からして、12・3歳ぐらいの年頃だろうか。


 その顔を見た瞬間、何故か見覚えがある(・・・・・・)と感じた。

 意味の分からない状況で、遂に頭が可笑しくなったのか。


 否、


「………テメェ、あの時の…ッ!!」


 思い出した。

 その少女は、確かに見た事がある。


 スコープ越しに(・・・・・・・)、半裸まで見た事ある少女だ。


 ハルやヴァルトを狙った、襲撃者。

 オレが秘密裏に追いかけて、始末をしようとした頬に傷のある冒険者の仲間。


 そう思い至った瞬間、怖気が立った。


 彼女が、ここにいる。

 つまりは、その仲間である頬に傷のある冒険者も当然の事で、


「………起きたかと思えば、やかましい餓鬼だ」


 ねっとりと粘つく声が、耳朶に絡みつくように響いた。


 少女が現れた岩陰から、うっそりとした様子で気だるげに現れた長身。


 近くで見れば、よく分かる。

 均整の取れた骨格に、過剰とも言える程の筋肉質な体つき。

 フードを目深に被っていて、詳細を除けないまでも、端正とも言える顔立ち。

 その頬に耳まで伸びた、刀傷。


 頬に傷のある冒険者が、直接目の前に現れた。


 言われるまでもない。

 そして、この状況に至っていた経緯が、はっきりとした。


 この男に襲撃され、海に落とされたのだ。

 そして、仲間か奴隷であるビルベルに連れ去られた。

 連れ去られた先で、こうして拘束を受けて、今目の前に彼等がいる。

 それが、答えだ。


「あ゛…ッ、ひ…ぃ…ッ」


 喉が貼りついて、声も発せない。

 がくがくと、体が震える。


 こんなの、最悪だ。

 ただでさえ、成す術も無く殺されかけた相手の前に、拘束された状況だ。


 最悪以外の何だと言うのか。


「………情けねぇなぁ、『予言の騎士(クソガキ)』。

 まるで、今にもチビりそうな程、顔が引き攣ってんじゃねぇか………」

「仕事が増えるので、チビらないでください」

「………ちょっと黙ろうな、お前は」


 間抜けな掛け合いが、不釣り合いだ。

 だが、オレにはそんな掛け合いに、和んでいる暇も余裕もない。


 そこで、頬に傷のある男が、目の前に歩いてきた。

 無様に地面を蹴って、岩肌に背中を押し付ける様にして、まだ後退をしようとしても足りない。


 男は、オレの前まで来ると、徐に胸元を開いた。

 手に持っていた、日本刀の鞘で(・・・・・・)


 ………師匠の、形見。


 一瞬だけ、理性が戻って来る。

 だが、その一瞬も、男の前では意味を持たず、


「………塞がってんなぁ………。

 しかも、水に浸かっておいて、すっかり元通りってのも、なんか可笑しくねぇか?」

「手当てをする手間が省けました」

「………いや、これじゃ、痛めつけた意味が無ぇだろうがよ」


 呑気な掛け合いを続けている彼等。

 オレは胸元を開れた状況に、気が気じゃない。


 なんで、男に胸元開かれて、ニヤニヤ笑われなきゃいけないんだ。

 しかも、拘束を受けた状態でなんて、恐怖でしかない。


「いや…ッ、辞めろ…ッ!」

「ああん?」


 張り付いていた喉が、少しだけ自由になった時。


 零れ落ちた言葉は、悲鳴混じりの制止だった。

 頬に傷のある男の目が、妖しく光る。


 その一寸後に、声を発した事を後悔した。


「が…ぶッ!!」

「………ひっ…!?」

「………誰に、命令してんだ?」


 間抜けなオレのくぐもった悲鳴。

 ビルベルの、怯えた悲鳴。


 そして、ねっとりと脳髄に絡みつくような、低く野太い男の声。


 ガツンと、脳天が揺れた。

 顎先が痛む。


 蹴られた。

 正確には、下から上へと顎を蹴り上げられたのだ。


 舌を噛んだのか、口端から血が滲む。

 蹴り上げられた勢いで、脳天を背後の岩肌にもぶつけた。

 切れたのが分かる。

 どろりと、首筋を伝っていく生暖かい液体と痛みに、吐き気が更に込み上げた。


 まるで折檻だ。

 しかし、それは止まらなかった。


 髪を掴まれて、顔を上向かされる。


「………おい、コラ、」


 薄っすらと開いた涙の滲んだ視界の先で、男が膝を持ち上げたのが見えた。


「テメェは、」


 ごッ!!

 骨が砕けるような音と共に、鼻先に膝が叩き付けられた。


 鼻血が吹き出す。

 岩肌に再度ぶつけた後頭部からも。


「誰に向かって、」


 更に男の腕が振るわれ、頬に向けて拳が振り抜かれた。

 凄まじい勢いのそれに、首が曲がりそうになる。

 口の中が切れて、歯の欠片が喉奥に滑り込んできたのを微かに感じた。


「命令をしたんだって、」


 一言一言を区切って、男が更に足を振り上げた。

 今度は、顔では無く、胸に叩き込まれた膝。

 叩き付けられた重た過ぎる衝撃に、肺から息が全て絞り出された。


 激痛が、走る。

 また、肋骨か胸骨が逝った。

 吐き気が強まる。


「聞いてんだよ………ッ!!」


 最後の一言と共に、もう一度、顎先を蹴り上げられた。


 くぐもった悲鳴ももはや上げられないままで、だらりと弛緩した体。

 痛みに、頭が可笑しくなりそうだった。


 だが、その時に、


「………おっと、」


 更に追加された痛みは、些細なものだった。

 頭皮に走ったそれ。


 ぶちぶちと、地毛を引っこ抜かれる音と痛みで、はたと意識が正気付く。

 しかし、それももう遅い。


 ぶらり、と男の手に握られたもの。


「………ああ?」


 腫れているのか、たんこぶのようになった目頭が邪魔で良く見えないながら。


 男が手にしていたのは、オレの黒髪のウィッグだった。


 頭皮に止めていたピンが耐え切れなくなって、ネットごと外れたらしい。

 ネットには、白銀の髪や付いたままのピンが不格好に揺れているのが見えた。


 そして、それを男が間抜けな顔を晒してウィッグを凝視しているのも見えた。

 

「……ぶほっ…!」


 男の背後で、誰かが吹いた。


 オレの位置からでは、確認できない。

 ただ、あの少女ではない事は確かだ。

 噴き出した声は、多少高いとは言え男のものだった。


 その時、男がオレを見下ろした。


 男の視線が、オレの髪に注がれている。

 見られたくないものだったから隠していたが、こうなってしまえばもう隠す事すらも出来ない。

 滑り落ちて来た銀糸が、視界をカーテンのように遮断する。


 ………海水でべたべたと濡れた髪が、あちこちに跳ね回っていない事を祈る他無い。


「………なんだぁ、この色は…!」


 男がやや大袈裟にウィッグを投げ捨てた。

 黒髪の頭部が、岩肌に叩き付けられてぱしゃりと小さな水音を立てた。

 シュールだ。


 それにすらも、男で死角になったもう一人の男が大笑いをしている。

 こんな状況でなければ、オレだって笑い転げてやりたかった。


 しかし、男もまた恥ずかしかったのか。


 ちょっとだけ、鼻先を赤く染めた表情を見て、しまったと思った時にはもう遅い。


「………くふっ…」

「………。」


 笑ってしまった。


 息遣いは、漏れた。

 誤魔化そうにも、この至近距離じゃ無理だろう。


 そして、誤魔化されてくれるような、言葉を発することは許して貰えそうもない。


「………はっ、良い度胸だ」


 にぃと、またしても見えた、毒々しい笑み。

 唇を捲れあがらせるように歪んだ、独特の笑みを浮かべた口元。


 口内から覗いた赤が、舌なめずりをした。


 怖気が走る。

 まるで、捕食者のような獰猛な眼が、射抜いた。


 終わりの見えない、地獄が始まった。



***



 一方、時間は少し遡る。


 銀次の捜索に出た、サーベンティークの背で、海を漂うヴィンセント達。


 頭から即席ウォータースライダーでのダイビングと相成った彼等。

 ただ、海流の流れを掴んでしまえば、サーベンティークは見事な程の速度で海中から海面へと浮かび上がり、実質には5分も掛からずにダイビングを終えた。

 酸欠状態の面々にとっては、体感で更に長かっただろうが。

 ついでに、即席ウォータースライダーの影響で、ガチガチになっていた所為でしばらくは呆然としていたものだ。


 それはともかく。


 豪雨の中では『防水』の外套すらも役に立たず、何度も被った波や飛沫でびしょ濡れだった。


 だが、着実に進んでいる。

 海上を、方向を決めて進み始めたサーベンティークのおかげで、それは明らかだった。


「何を頼りに動いているというのか!」

「ティークの能力で、海中の生き物達の目撃証言を探しているのだ!」


 暴風雨に波の音。

 怒鳴り合わなければ、数センチ先の面々とも会話が難しい。


 しかも、波の影響で、どんなに頑張っても揺れる視界。

 間宮は、早々に酔っぱらって、ダウンしてしまっていた。

 おかげで、鐙に捕まっているので精一杯だ。


「それって、どういう意味!?

 ティークちゃんが、海の生き物と喋れるって事!?」

「(ティークちゃん………?)

 まぁ、そう言う事になるのだろうが、生き物と言うのは、魔物も含まれている!

 今は、その魔物達の証言を頼りに、ギンジを連れ去っただろう人魚が向かった先に進んでいるようだ!!」

「人魚じゃと!?」

「嘘、人魚!?」

「∑………ッ!?」


 三者三様で驚いた様子のラピス達。

 ヴィンセントも念話でティークこと、サーベンティークに聞いた時は驚いたものだ。

 ついでに、エマのサーベンティークへの敬称にも驚いたといのは余談であったが。


 ただし、この場合の驚きは、これまた三者三様で意味が違う。


 ラピスは、何故こんな海域に人魚がいるのかという、疑問を含んだ驚き。

 これは、ヴィンセントも同じだった。


 そして、残りのエマと間宮の驚きは、お伽噺の世界にしか存在しなかった人魚が実在することへの驚きだった。

 今は行方不明の上に、大変な眼に合っている銀次と同じ驚きである。


「砦付近の海域の魔物達は、人魚が連れて行ったと言っていたようだ!

 今は、道中の魔物達や生き物に、その人魚の目撃情報を募っている!」

「この海域に、人魚が出る事はあったのかや!?」

「いや、今までには例も無ければ、噂だって無かった!」


 念話を通じた今現在の進捗情報を伝え、またヴィンセントがサーベンティークとの念話に戻る。

 多少不安ではあっても、彼女達は先導を受けている身だ。

 大きな事を言える立場ではないので、黙りながら銀次の行方を追うしか出来ない。


 間に合って欲しい。

 命がある事を祈り続けている。


 もし、命が無くとも、どうか、その遺体だけでも。

 ラピスもエマも、勿論波酔いに悩まされる間宮も、同じことを考えていた。


 一方、念話を続けていたヴィンセント。


『どうやら、更に南に進んだところにある、洞窟に逃げ込んだようだな』

「南……?これ以上南に進むとなると、『暗黒大陸』じゃないか…ッ!!」

『一応は、『暗黒大陸』の北端となるんだろうが、ちょっと厄介な魔物もいる海域だから、気を付けなければなるまいよ』


 サーベンティークの言葉に、ヴィンセントが眉根を寄せる。


 『暗黒大陸』の海域は、それこそ人間領の海域とは違う。

 魔物の分布やそのレベルが、極端に跳ね上がるのだ。


 餌が少なく、共食いも多いと聞く。

 その為、レベルが高い魔物が生き残り、全体のレベルを底上げしてしまっている。

 しかも、その魔物の数も、尋常ではないと聞いている。


 行った事は無くとも、帰って来た者から聞いた事があった。

 地獄の門、あるいは悪夢の入り口と呼ばれる海域でもある。


 そして、中位の精霊であるサーベンティークであっても、『暗黒大陸』近海の魔物の撃退は難しい。

 いくら彼女が魔物との念話を使えるとしても、話を聞かない魔物が現れれば、戦闘になるだろう。


 出来れば、戦闘を挟まずに捜索したい。

 楽観的な考えと分かっていても、願わくばいられなかった。


 そして、もう一つ、願わくばいられなかった事。


「………彼の生死は、分かるだろうか?」


 人魚に連れ去られ、その海域に足を踏み入れてしまった銀次の事。

 下位の魔族である人魚も、魔物達にとっては立派な餌。

 海の中での移動速度だけで言えば、『天龍族』にも並ぶとはいえ、大群に囲まれようものならば事切れていても可笑しくは無い。


 連れ去ろうとしていた、銀次もろとも。


『魔物達が嗅ぎ付けたのは、どれもこれも死臭では無く、血臭だけだったようだ。

 それに、先ほどから魔物達に話を聞いても、腐った肉を嗅ぎ付ける鮫の魔物(ゾンビシャーク)魚の魔物(ロットフィッシュ)も見掛けやしない』

「………まだ、大丈夫か。

 もしくは、陸で死んだか………」

『どのみち、お主の記憶の通りの怪我をしているなら、時間の問題だろうよ』


 ヴィンセントも然る事ながら、サーベンティークの不穏な一言。

 運悪くなのか、聞こえてしまったラピスが、思わず息を詰めた。


 生死の確認さえままならない、この現状。

 出来る事なら、今すぐ駆け付けたい。

 この場にいる誰もが思う事。


 愛する男の為。

 敬愛する師の為。

 恩威ある弟の友人の為。


 思惑は様々ながらも、4人を乗せた『水』の精霊が荒れ狂った海を進み続ける。

 今まさに、『暗黒大陸』の悪夢の入り口と呼ばれる海域へと、入り込もうとしていた。



***



 痛みの所為で、意識を失えない。

 意識が保てなくなる程の苦痛を味わっている筈なのに、意識が遠退いてくれなかった。


 何時間が経っただろうか。

 それとも、数分も経っていないのか。


 分からない。

 時間の感覚なんて、起きた直後から感じる事等出来ない。


 殴られる。

 蹴られる。

 たまに、道具を使われた。

 腹を裂かれる。

 喉をゆっくりと撫でる様に切られる。

 また殴られて、蹴られる。

 折れた骨を、再生する傍からへし折られた。

 突き立てられた短剣を、そのままに、踏み付けられる事もあった。

 岩を叩き付けられて、足を潰された。


 でも、殺されない。

 死ねない。


 後天的に目覚めた治癒能力の所為で、即死が出来ない。

 おかげで、永遠にも等しい拷問の時間が、終わる事は無かった。


 それに関しては、頬に傷のある男も手を焼いているようなので、良かったのか悪かったのか。

 十中八九、悪かったとしか思えんが。


 しかし、

 

「ったく、なんでまた、こんな奇天烈な体をしてんだか…?」

「………疲れましたか?」

「ああ、師匠センセイを労って、肩でも揉め」

「老化ですかね。

 ………この程度で、疲れるなんて」

「………お前、ちょっと生意気になってきたな」


 途中で、休憩を挟むように、疲れたような声音で離れて行った男。


 弟子らしき少女と戯れる様な掛け合いは、どこかオレと生徒達の関係を思わせるものだ。

 最初に思っていた通り、オレと間宮のような関係だったらしい。


 どうして、あの時仕留められなかったのか。

 欲張らずに、あの餓鬼だけでも殺しておけば良かった。


 ………いや、それもきっと希望的観測だ。

 何があっても、あの男が邪魔してくれただろう。

 そして、あの時と同じ結果が生まれただけだ。


 どのみち、こうなる命運だったのなら、神様はよほどオレを殺したいらしい。


 拘束をされ、だくだくと血を流し、岩肌で力なく凭れるオレ。

 先程から、体が冷たい。


 頭から被っていたらしい湧き水が、体温を奪っていく。

 ちろちろと聞こえていた水音が、それだったのだ。

 元々びしょ濡れだった所為か、気付かなかった。


 出血の為に、内面からも体温が奪われていた。

 先程から、息苦しい。

 眩暈が止まらず、吐き気も収まらない。


 だと言うのに、意識は朦朧とするだけで、消え去ってくれない。


 眠ろうとすると、意識が戻って来る痛みを体が発する。

 腹の奥底から、何かを感じる。


 意識があるうちは、痺れにも似た不快感があるだけだと言うのに、いざ意識が飛びそうになると痛みを感じるのだ。


 なんだよ、それ。

 オレは、眠れないって?


 拷問を受けているのに、更に拷問だ。


 ふざけないでくれ。

 なまじ、自分の体である事自体が、腹立たしい。


 とはいえ、意識を保っていられる。

 これの、なんと僥倖な事だろうか。


 オレには、トラウマがある。

 それは、拘束をされて、拷問を受ける事。


 普通の、トラウマだ。

 まぁ、それは良い。


 問題は、フラッシュバックを起こして、前後不覚になる事。

 ぶっちゃけてしまえば、オレはまともな意識を保ったまま、こうして思考をする事なんて出来なくなる程にはトラウマが深い。

 夜中に跳ね起きて、トイレとお友達になってみたり。

 意識を放棄してシャットダウンの後、魔力の暴走をさせたり。

 誰彼構わずに攻撃を仕掛けてしまうなんて事も、過去に例がある。


 怖いなんてもんじゃない。

 1度はこの世界に来てからの拷問だったが、あの時はまだ鞭打ちと水攻めだけだった。

 そして、生徒達がいたから、まだ頑張れた。


 だが、今の現状は、その心の支えなんて微塵もない。


 砦から、2日は掛かる距離にいる。

 ビルベルの言葉通りであれば、4時間程度で辿り着いたとはいえ、救援はまず望めない。


 生徒達がいる訳でも無く、頑張れる要素は無い。

 トラウマを触発する行動ばかり起こされて、正直気が狂っても可笑しくない頃合いだ。


 なのに、こうして思考が出来る。

 何かが可笑しい。

 いつの間にか、オレのメンタルが豆腐を脱した訳でもあるまいし。


「おい、死んだか…?」

「………。」


 思考の渦の中で、ふと掛けられた男の声。


 先程の粘つくような野太い、頬に傷のある男の声では無かった。


 視線だけを向ける。

 頬に傷のある男とはまた別の、フードを被った男が、ニヤニヤと歪ませた口元で嗤っていた。

 先程、げらげらと大笑いをしていた男だろうか。


「………奴さん、まだ起きてるぞ」

「はっ、頑丈なこった」

「頑丈ってか、次元が違うよなぁ、この体………」


 そう言って、勝手にオレの足を触った男。

 生理的な嫌悪感を覚えた。


 いくら殴られても、傷付けられても、今ならまだ耐え切れそうだ。

 だが、辱められるのは、もう御免だ。


 振り払おうと、足に力を込めた。

 だが、大腿骨が外れていたのか、動かせなかった。


 片側を試してみる。

 動いた。


「おっほ…ッ!」


 蹴り上げる。

 男は、奇怪な声を上げて避けた。


 更に募った、生理的な嫌悪。

 この男は、オレが今まで会ってきた男の中でも、トップクラスの可能性がある。


 しかし、


「ぐぎッ…ぃーーーーーッ」

「まだここまで、元気とはねぇ…」


 その瞬間に突き立った、短剣。

 太腿に刺さったそれは、頬に傷のある男が手慰みに弄っていたらしい短剣だった。


 あの距離から、投げた。

 命中させるなんて、オレ達と同程度の訓練を受けていないとあり得ないだろうに。


「ちょいちょい、掠ったんだけどぉ?」

「テメェが勝手に、オレの獲物にちょっかいを掛けたのが悪ぃ」

「だって、意外と元気そうだったもんだから、ちょっと遊びたくなっちゃった訳よぉ」

「………その口調をどうにかしやがれ。

 むしろ、お前が参加したら、あのクソ餓鬼が使い物にならなくなるから辞めろ」

「えぇえ~~?

 壊さないって、約束するからさぁ~」


 怖気が立つ。

 喋り方もそうだが、立ち居振る舞いもそうだ。


 性別が行方不明になっている事を、理解しているのだろうか。


 まぁ、それは顔の段階で、オレも一緒なのだろうが。

 あの男が参加しないなら、それで良い。


 苦悶しているフリをして、俯いて視界を遮断する。

 あの男に関わりたくない。

 オレの第六感が、ひしひしと警戒音アラームを鳴らしっぱなしだからだ。


 って、そんなことを考えているよりも、オレが考えるべきことがあるだろう。

 意識を無理矢理、痛みやら周りの雑音から引き剥がした。


 なんで、こんな事になっているのか。

 それは、なんとなく理解しているつもりだ。


 襲撃を受けた当初から、男はオレの事を『予言の騎士』と呼んでいた。

 ルビ振って、クソ餓鬼だ。

 ふざけんな。

 オレがクソ餓鬼なら、あっちはどんだけクソ爺だってんだ、畜生め。


 話が脱線した。

 どうやら、かなりの鬱憤が溜まっているようだ。


 とはいえ、男が目的としているのは、オレという人間の排除。

 いや、わざわざ浚う必要は無く、そのまま海中に捨て置けば、奇跡でも起きない限りオレはそのまま死んでいた。


 排除が目的じゃないなら、コイツ等も狙いは何だろう?


 視線だけを動かして、洞窟の中を探る。


 頬に傷のある男は、酒の瓶らしきものをラッパ飲みしていた。

 正直、オレもご相伴に預かりたい。


 頬に傷のある男の弟子らしき少女は、オレを睨み付けて見張りでもしているようだ。

 視線が痛い。

 半裸を見たのを、根に持たれているのだろうか。


 そして、先ほどの性別が行方不明な、ドラァグクイーンのような男。

 まだ、頬に傷のある冒険者に、何かを頼み込んでいるようだ。

 大方、オレの拷問の権利の一時的な譲渡だろうが、頬に傷のある男の言っていた通り、参加されるとオレ終了のお知らせがありそうだ。

 なので、頬に傷のある男には、是非ともそのまま却下を続けて貰いたい。


 更に、視線を巡らせる。

 斜め向かいにいたビルベルは、膝(※尾ひれ?)を抱え、肩を震わせていた。

 寒いのか、それとも恐怖を感じているのか。

 両方かもしれない。

 オレも同じように、寒い。


 そこで、更に視線を巡らせた時、逆に視線を感じた。

 どくり、と心臓が拍動してしまったが、落ち着くように呼吸を繰り返し、そっと白銀の髪の隙間から覗いた先。


 そこには、これまた外套姿で、フードをすっぽりと被った偉丈夫が立っていた。

 鎧か何かを、外套の下に着こんでいるのか。

 見るからに大男で、正直頬に傷のある男よりもでかいかもしれない。


 ガタイや骨格から言って、男だとは分かる。

 だが、目深に被ったフードの所為で、顔までは見通せない。


 いつからいたのか、いつの間にそこにいたのか。

 分からない。


 だが、ただ一つ分かる事は、興味という感情。


 その男もまた、オレへと視線を向けていた。

 フードで隠れていても、しっかりと分かる。

 視線が、交差した。


「なぁなぁ、頼むってぇ…!」

「しつこいな、テメェも……ん?」

「えっ、あ、はッ?」


 異変に気付いた、男達。


 その男が、唐突に動いた。

 不味いと、オレが視線を逸らしても、もう遅い。


「おいおい、いきなり、なんだよ………」


 頬に傷のある男の横を通り過ぎ、弟子の少女が驚いて立ち上がるのにも目もくれず。

 男は、まっすぐに、オレの下へと歩いてきた。


 先程も思ったように、男からは感情が覗いていた。

 興味だ。


 そして、男はオレの顎先に手を添えると、顎クイなんて生易しい、ごきっという音をオレの首から響かせた。

 顎か首が外れるかと思ったんだが。


「………その髪は、いつ頃からだ?」

「………。」

「何故、髪を隠していた?」

「………。」

「後ろめたい事が無ければ、隠す必要も無いだろう?

 何故、お前のようなひ弱な人間風情が、この銀の髪を持っている?

 それを隠すのは、何故だ?」


 唐突にやって来て、唐突に喋ったかと思えば、良く喋る。

 正直、質問の意図も意味不明だ。


 頬に傷のある男だって、髪の色に触れて弄繰り回したのは最初だけだったのに。

 それこそ、ウィッグが外れた時だ。


 なのに、今更、何でこの質問をするのか。


「………答えろ」


 男が、オレの顎を掴みなおし、更に持ち上げる。

 首が閉まっている。


 男の目と、オレの目が再度、交差した。

 男は、白銀とも言える、薄い青の瞳をしていた。


 その瞬間、何故か、胸の内に溢れ出て来た何かに、それこそ意味が分からない。


 なんで、だよ。


 ………懐かしいと思うなんて。


 それこそ有り得ないのに………、


「………その質問に、答えて、何の意味がある…?」

「良いから、答えろ」

「………意味が、分からねぇよ」

「意味など不要。

 立場を弁えて、大人しく口を割れ」


 そう言って、男がオレの頬に指を近づけた。

 ばき、と鳴った指の音が、肌を震わせるようにして、耳へと届く。


 正直、ここまで叩きのめされて、今更だと思う。

 怖いけど、言いたくない。

 言ったら、最後だ。

 それこそ、オレは前後不覚になって、上からも下からもありとあらゆるものを垂れ流しながら、情けなく懇願してしまうだろう。

 殺してくれ、と。


 そんなの、情けない。

 御免だ。

 辱められるのなんて、以ての外。

 体を嬲られたとしても、心までは辱められたくなんか無い。


 だから、決まっている。

 コイツへの答えなんて、決まっているのだ。


「………吐かせてみやがれ、臆病者………」


 男の唇が、への字にへし曲げられた。

 そして、


「ぎぃ…ッ、あがぁあああっぁあぁあああーーーーーーーーーッ!!」


 2度目の地獄が、訪れた。



***

最後まで、入れようか入れまいか迷っていた、拷問描写。

一応はソフトに収めたつもりではありますが、アサシン・ティーチャーが可哀想になっている想像をしつつ、なるべく細かな描写の想像はしないようにお願いいたします。


全面対決勃発。

頬に傷のある冒険者一行の、初邂逅回となります。


今後は、彼等が目下、『異世界クラス』の敵となります。

おそらく、長々と引っ張る事になると思いますので、ご了承の程を。


誤字脱字乱文等失礼致します。

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