ぬくもり
『ぬくもり』
高校3年生の春、担任から渡された進路希望調査の「希望職種・大学」の欄に、なんの迷いもなく貰った直後に書きなぐった。
僕の夢は、7年前から決まっている。7年前のあの日から、ずっとずっと僕の好きな人のために。
あれは、僕が小学4年生になったばかりの4月下旬。僕の住むマンションの隣に、小学1年生になったばかりだという女の子が、お母さんと二人で引っ越してきた。名前は、坂口ななちゃん。自分の事を〝なっちゃん″と呼ぶから、僕もそう呼ぶことにした。僕はあまり背が高くなくて、いつも背の順番で一番前の方なのに、なっちゃんはそんな僕よりもずっと背が小さくて、長い髪をいつも高い位置にポニーテールをしているのが印象的だった。
僕もお父さんが海外で仕事をしているため、お母さんと二人暮らしだったこともあり、お母さん同士もすぐ仲良くなり、僕もなっちゃんとすぐ仲良くなった。
「なっちゃんね、健一君のこと〝けんちゃん″って呼ぶね」
僕の名前、健一と言いにくいと言ったなっちゃんは、僕のお母さんが僕を呼ぶのと同じく〝けんちゃん″と呼ぶことにしたらしい。お母さんに言われてもなんてことなかったのに、なっちゃんに呼ばれて、少し照れくさくなった。
「ねぇ、なっちゃん。お友達出来た?」
4月の中途半端な時期に転校という形で引っ越してきたなっちゃんは、学校に通い始めてから一ヶ月近く経つが、あまり周りと馴染めないでいた。家が隣ということもあり、登下校は僕が一緒に連れて行ってあげるのだが、休み時間まではさすがに気が回らない。
「うん、今日ね、同じクラスの子が一緒に遊ぼうって言ってくれたの!」
なっちゃんが本当に嬉しそうに話すものだから、僕まで嬉しくなり一緒になって笑いあった。やっぱり、なっちゃんは笑顔が似合うな、と心の中で思っていた。
そんななっちゃんは、よく怪我をしていた。膝や肘、腕にいつも絆創膏を貼っており、額に大きな絆創膏を貼っている時もあった。なっちゃん本人に聞くと、
「遊んでいたら、転んじゃった」
と言うけれど、その時いつも、なっちゃんは悲しそうな顔をするから、僕はずっと心の中でモヤモヤする気持ちを抱えていた。
「ねぇ、お母さん。また、なっちゃん怪我していたんだ」
自分の気持ちを抑えられず、ある日の夜お母さんに相談してみた。前々からなっちゃんが怪我していることは話していたため、お母さんも少し考え込むように顎に手を当てている。
「最近、本当に多いわね。何かあったのか、ちょっと聞いてくるわ」
お母さんは座っていたソファから立ち上がり、そのまま玄関の方に歩いて行った。本当は僕も一緒に行きたかったけど、お母さんを信じて待っていることにした。
それから15分程して、お母さんが帰ってきた。部屋を出て行った時より、少し表情が暗いことは、僕にでもわかった。
「お母さん?」
玄関で靴を履いたまま、お母さんは俯いているから、思い切って話かけると、お母さんは僕の声が聞こえたのか顔を上げ、靴を脱いで僕が座っていたソファの隣に腰を下ろした。
「なっちゃんのお母さんね、最近なっちゃんの前髪が長くなってきたから、前が少し見えにくいのかも、って言っていたわ」
お母さんはそう言いながら、僕の頭を優しく撫でてくれたけど、その手が少し震えていることがわかった。けれど、何故震えているのか、その時の僕には分からなかった。
「そっか…」
何かを考えているお母さんを見て、僕はそう答えるしかなかった。
その一週間後、なっちゃんが家から出てこなくなった。
僕はいつものようになっちゃんと一緒に学校に行こうと、なっちゃんの家のインターホンを押すと、勢いよく扉が開き、なっちゃんのお母さんが出てきた。いつもなら、なっちゃんが笑顔で出てきてくれるのにと思っていると、なっちゃんのお母さんの様子がいつもと違うことに気がついた。いつもは、ずっとニコニコしていて優しい目をしているのに、今日は何かに脅えるような目をしている。
「あっ、けんちゃん。ごめんなさい、なな、風邪ひいたから学校お休みするわね」
なっちゃんのお母さんは僕のことを見ず、すぐに扉を閉めた。そんなになっちゃんの風邪が酷いのかと思いながら、僕は一人で学校に行った。
その次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、なっちゃんは学校を休んだ。
あの日から、なっちゃんの家のインターホンを押しても誰も出てこなくなった。お母さんが心配してなっちゃんのお母さんの携帯電話に連絡してみたけれど、誰も出なかった。僕は心配で心配でたまらなかった。もしかしたら、なっちゃんは重い病気にかかったのだろうか。そう思うと、居ても立っても居られなかった。
学校から帰ってきて、玄関にランドセルを置くとすぐ、外に出てなっちゃんの家の玄関の前に立つ。一度インターホンを押してみるが、やっぱり反応はない。目線を落とすと、そこには小さくも大きくもない植木鉢がある。なっちゃんが引っ越してきてから数日後、なっちゃんのお母さんが買ってきたらしい。その植木鉢には花は咲いていないが、土が隠れるほど緑色の葉が青々と生い茂っている。僕はその植木鉢に手を突っ込み、土の中からあるものを探し出す。手先に何か土では無いものが触れ、それを掴み土の中から引きだす。僕の右手には、探していたもの、ビニール袋に入れられているなっちゃんの家の鍵がしっかり握られている。もし、なっちゃんが家の鍵を無くした時に、この鍵を使いなさいね、となっちゃんのお母さんがなっちゃんに言っていたのを覚えていてよかった。
僕は早速、ビニール袋から鍵を取り出し、なっちゃんの家の鍵穴に差し込む。当然ながら開いた扉を恐る恐る開けると、やけに静かだが、前に来た時と同じ光景が目の前に広がった。本当はこんなことをしてはいけない、これは泥棒と同じだ、と思ったが僕には迷いは無かった。ちゃんと靴を脱いで、なっちゃんの部屋を目指す。何回も来ているため、なっちゃんの部屋が何処かなんて、迷いもしなかった。玄関とリビングよりも奥にある扉を開けたその場所はなっちゃんの部屋だ。なっちゃんが寝ているといけないから、そっと扉を開けようとした。しかし、出来なかった。
その部屋は、僕の知っているなっちゃんの部屋ではなかった。
本棚の上に並んでいたぬいぐるみ、教科書などが床に散らばり、ベッドの上には服を着たままのなっちゃんが仰向けで寝ていた。僕は勇気を出してベッドに近づき、なっちゃんに話しかける。
「なっちゃん、風邪、大丈…」
言いかけた言葉はそれ以上出てこなかった。なっちゃんの顔は青痣だらけで、口にはタオルが詰めこめられていた。そっとなっちゃんに触れると、すごく冷たかった。
「病院、連れて行かないと」
僕は咄嗟にそう思い、なっちゃんを抱き上げて玄関へと走った。なっちゃんの体は、羽のように軽かった。
「うわ、けんちゃん如何したの!」
ちょうど玄関を出た所で、お母さんが仕事から帰ってきた。
「お母さん、なっちゃんが、なっちゃんが冷たくて、息、してないの」
自分でも気がつかないうちに、頭の中がパニックになり、涙を流していた。僕が抱いているのがなっちゃんだと分かった瞬間、お母さんも目を丸くしてなっちゃんにそっと触れた。
「どうしよ、早く、病院行かないと、なっちゃんが、なっちゃんが」
止まることなく溢れだす涙。お母さんは僕の頭をポン、と軽く撫でると携帯電話を取り出し、何処かに電話し始めた。僕はただ、目を覚まさないなっちゃんを、強く抱きしめた。
あれから、救急車が来て病院に行ったが、なっちゃんは天国に行ったんだよ、と医師に言われ、また僕は泣いた。その後、家に警察の人も来て、どうやってなっちゃんの部屋に入ったのかとか聞かれたから、全部正直に答えた。僕との話が終わると、次はお母さんと話をしていたけど、内容なんて耳に入ってこなかった。
警察の人も帰り、僕はずっとわからなかったことをお母さんに聞いた。
「なっちゃんのお母さんが、なっちゃんを殺しちゃったの?」
お母さんは目を見開き、少し涙を流した。あの日から、ニュースを見るとなっちゃんと、なっちゃんのお母さんの写真が度々取り上げられていた。
「ねぇ、お母さん」
「ん、どうしたの?」
涙の溜まったお母さんの瞳が、少し綺麗に見えた。
「僕のこと、ずっと好きでいてくれる?」
お母さんは声を上げて涙を流しながら、僕を優しく抱きしめてくれた。お母さんの答えは、涙声で聞き取りづらかったが、僕を力強く抱きしめるお母さんのぬくもりは、確かに感じられた。
「おい、北村。第一志望だけ書いてどうする。もう少し考えてから提出しなさい」
口うるさい担任教諭は、僕が早々に提出した進路希望調査に不満があるらしい。
「大丈夫ですよ、第一志望だけで。あと、考える意味なんて無いんで」
そういって鞄を持って教室を出た。
僕の夢は、あの日から変わらない。心に傷を持った、親から虐待を受けた、そんな子ども達や、自分の子どもを愛せない、愛し方が分からない人と向き合う。
なっちゃんを守れなかったけれど、なっちゃんと同じような過ちが無いようにする。
第一志望の欄には、しっかりと「児童虐待専門カウンセラー」と書いた。
「なっちゃん、今日は良い天気だよ」
雲ひとつない晴天に、なっちゃんの笑顔が目に浮かぶ。その笑顔はこの太陽よりも眩しく、温かな微笑みだった。
END