表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/18

第6章−C

 青い空。白い雲。揺れる秋の桜。微笑みあう、美言と彩海。

 そこには、いつもの光景があった。森の奥の、コスモス畑。

 全てはまるで、あの雨など無かったかのようにして、穏やかさを取り戻していた。それは、このコスモス畑にしても、美言にしても、彩海にしても同じことであった。

 あの事件の後。

 彩海は教会で療養し、今やすっかり元気になっていた。体調が万全のものとなってからは、またいつものように、この場所へと、絵を描きに来ている。――尤も、そのようなことをしていられるのも、残り数日となってしまっているのだが。

 美言は美言で、あの事件を切欠に再び魔法の力を取り戻し、連日一所懸命、その練習に励んでいた、その傍ら、勿論こうして、彩海の所に来ることも忘れない。――尤も、そのようなことをしていられるのも、残り数日となってしまっているのだが。

 ちなみに、彩海も知らない事件の顛末は、こうであった。美言がどのように、彩海を助けたのか。――彼女は頭上で雨を蒸発させ、雨が止むまで、二人を包む空気を、ほんのりと暖かい温度に保っていたのだ。その後は、二人を探しに来てくれた司教とルーカスとが、二人を保護してくれた。

 時間が、刻一刻と過去ってゆく。その分、冬の香りが、そろりそろりと近くなる。

 それでも二人は、相変わらずであった。相変わらず、残りの時を、いつものように過ごすばかりであった。

 ただ。

 少しだけ、いつもと違うことが起こっていたことも、事実ではあった。

 事は、美言がいつものように、彩海が絵を描いている姿を、後ろから眺めていた時に、訪れた。

「コスモスってね、実はとっても強い花なんだよ。たとえば台風なんか来ても、茎の途中から根を出して、また立ち上がっちゃうの」

 だからあれだけの雨の後なのに、皆こうして、元気に咲いてるんだよ。ね、皆ほら、寄り添いあってる。

 美言は、付け加えて、微笑んで、

「ねーえ、彩海君」

 唐突に、呼びかける。

「ん?」

 彩海が、美言の方を振り返る。

 その先では、美言が満面の笑みを浮かべて、彩海のことをじっと見つめていた。

「えへへ……」

「何だよ、気持ち悪いな」

「あのね、ふと思ったの。大丈夫だよ。美言ね、寂しくなんか、ないもん」

「はぁ?」

「美言、寂しくなんか、ないよ」

 美言は繰り返して、彩海の大好きなその笑顔を深くした。

 コスモスの、花が揺れる。

 甘い香りが、風に舞い散る。

 秋の気配が、二人の周りに咲き乱れる――彩海の視線が、キャンバスへと戻された。

 美言の視線も、キャンバスの上に留まる。

 彩海が、筆とパレットとを手に取った。

 パレットが、ほんのりと色付けられる。まずはまた、紅色のコスモスが、キャンバスの上に花を咲かせた。

 コスモスは、ようやく蒼く輝いた空へと向かって、すっくと背を伸ばす。その世界に、もう間も無く太陽が照り輝くということを、信じるかのようにして。

 真剣な、彩海の横顔。

 美言の手が、ふと、彩海の肩に伸びかける。

 美言の心が、ときり、と跳ねる。

 ――このまま、素直に。

 彩海に触れてしまうことが、できたのならば。

 そういえばなぜか、美言は今日までずっと、そう思い続けてきた。

 けれど。

 どうしてか美言、いつもいつも、……先生にはそうすることができるのに、彩海君には、そうすることができなくて……、

「美言」

 ぴくり、と。

 伸ばされかけたその手が、彩海の肩の前で動きを止めた。名前を呼ばれた少女が、ゆっくりとその手を下ろす。

 一瞬、後悔した美言ではあったが、

「……なぁに?」

 平穏を装って、返事をした。

 筆とパレットとを横に置き、彩海が再び、美言を振り返る。

 彩海が、一つ息を吸う。

「来年も、来ようかな」

 唐突な言葉に、美言がきょとん、と瞬きを一つする。

 来年も?

「大伯父のヤツも、ルーカスのヤツも、面白い人だったし」

 ……うん、

「それに、」

 それに?

「……月代は、君が言った通り、とっても良い街だったし」

 うん。

「――何せここには、君がいるからね」

「……美言が?」

 美言が、いるから?

 思わず、声に出して問うてしまった。そんなつもりは無かったというのにも関わらず、思うより先に、言葉の方が飛び出してしまっていた。

 そのまま二人とも、黙り込んでしまった。

 穏やかな、沈黙の花霞。

 やがて。

「そこに、立って」

「……へ?」

「いいから、そこに、立って」

 キャンバスの向うを指差し、彩海が、断ることは許さないよ――と言わんばかりに、美言を促した。

 あまりにも唐突過ぎる展開に、美言には、何がなんだかわからなかった。

「立つの?」

「そう、立つの」

 ひらり、とスカートの裾を持ち上げた美言が、軽い足取りでキャンバスの前に立つ。

 二人が、向かい合う。

「もう少し、離れて……そう、その辺りが、良いかな」

 彩海に指図されるままに、美言は、秋桜の間を縫うようにして歩む。

「止まって」

 そっと、花を踏まないように気をつけながら、立ち止まった美言が彩海に問いかける。

「ねえ、どうしたの? 急に」

「君が、いい」

「どういう、こと?」

「君がここにいれば、寂しくないような気がする」

「寂しく、ない?」

「一番の、花を咲かせなくちゃと思ってね」

 言うだけ言うと、彩海はテーブルの上から、鉛筆を一本取り上げた。

 本当であれば、色を着け始めた絵に再び下書きをするなどと、あまりあってはならないことであるような気もするのだが。

 ――でも、仕方が無い。

 そうしたいと、思ったのだ。この絵に、一番の花を咲かせたい。

 まだ、色付いていないコスモスの咲き乱れるキャンバスの一画に、彩海が真っ直ぐな線を、一本描き込む。

「ねえ、彩海君」

「黙って。君ももう子供じゃあないんだから、じっとしていることくらい、できるよね?」

「ねー、もしかして彩海君は、美言にモデルになってくれ、って言ってるの?」

 少し楽しそうに問いかけられ、

「黙って」

「……相変わらずそういうトコ、愛想悪いよね、彩海君はさ」

 キャンバスに線を入れ始めた彩海の言葉に、美言がぷう、と頬を膨らませる。

 だが。

「美言」

「なぁにー」

 相変わらず不機嫌そうに口を尖らせている美言へと、

「笑って」

 彩海が、唐突な注文をつける。

「は?」

「だから、笑って、って言ったんだよ」

 そりゃあ、花の蕾も、美しいけど。でも、折角の一番の花には、やっぱり咲いていてもらわなくちゃあ、駄目だろう?

 口にはしなかったが、心の中でそう続けた。

 折角なのだ。

 どうせなら、美言の笑顔を、この絵の中に描き込んでおきたい。

 そうすれば、きっとこの絵ももっと満足のいく出来になるだろうし――君は本当にお喋りで、よく笑うから。そんな君になら、この絵の中からでも、見る人に幸せを分けてあげることができそうで、と、思ってさ。

 それに僕だって、君のことを、嫌でも覚えていなくちゃあならなくなるだろう?

 彩海の言葉を受け、美言は空を見上げて、うーん、と小さく息を吐いた。

 それから、何かを吹っ切るかのようにして、彩海を見遣る。

 ……よしっ。言いたいことは、今のうちに言っておかなくちゃっ。

「ねえ、美言はね、彩海君のこと、」

「全く、君はよく喋るなぁ……相変わらず」

「人の話は最後まで聞いてよ! 全くもう!」

 折角美言ったら、頑張ろうと思ったのに……!

 何だかまた言えなくなってきちゃった……と、胸を押さえて息を吐く美言。

 ――その耳に。

「好きだよ」

 囁くような呟きが聞こえて来たのは、美言が決意してもう一度口を開こうとしていた時のことであった。

 美言の視線が、跳ね上がる。

 その瞳が、彩海を真正面から見据える。

 彩海は相変わらず、キャンバスの上に鉛筆を滑らせていた。キャンバスの上に目を留めて、その世界に、入り込んでしまっている。

 しかし先ほどの声音は、紛れも無く、彩海の声音であった。

 遅ればせ確信した美言の動きが、不意にぴたり、と止まる。

「……へ?」

「僕は君のことが、好きだって、言ったんだよ。だからほら、黙って、……笑って」

 彩海は、一瞬だけ美言に視線を投げかけると、さも無愛想に、面倒臭そうに、――を装って、再び自分の描くコスモス畑へと意識を集中させた。

 一番の、花。

 このコスモス畑に咲く、一番美しい、香しい花。

「えへへ……っ」

 その花は、先ほどよりも少しだけ、赤い色を強くする。彼女は、本当に、心の底から幸せそうな笑顔を浮かべると、ゆるく俯いて、上目遣いに彩海を見上げた。

 先、越されちゃったね。

 ずっと美言、彩海君に、そうやって言おう言おうって、思ってたのに。

「……ねーえ、」

「だから、黙ってろって」

「その前に、一つだけっ!」

 美言は精一杯の勇気で、彩海の視線を絡めると、

「大好きだよっ」

 少し恥ずかしそうに、けれども、満面の笑顔で言葉を続ける。

「美言は彩海君のこと、だーい好き、だよっ!……ねえ、だから、」

 そう、だから。

 大好きな人には、美言の大好きな場所を、案内してあげたいから。

 それに、大好きな人と、いつまでも離れ離れになるのは、とっても辛いから。

「教えてあげるねっ、月代の、秘密をたーくさん。季節の風景とか、色んな場所とかっ。そうしたら、彩海君はまた絵を描きに来れるでしょ? 月代は、とっても綺麗な場所だから!」

 それにね。

「それにそうしたら、美言は彩海君に、また沢山、会えるでしょ?」

 今にも抱きついてきそうな、屈託の無い笑顔を向けられた彩海の顔に、

「僕も、そうしたいな」

 知らず、珍しく素直な微笑が浮かんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ