第6章−C
青い空。白い雲。揺れる秋の桜。微笑みあう、美言と彩海。
そこには、いつもの光景があった。森の奥の、コスモス畑。
全てはまるで、あの雨など無かったかのようにして、穏やかさを取り戻していた。それは、このコスモス畑にしても、美言にしても、彩海にしても同じことであった。
あの事件の後。
彩海は教会で療養し、今やすっかり元気になっていた。体調が万全のものとなってからは、またいつものように、この場所へと、絵を描きに来ている。――尤も、そのようなことをしていられるのも、残り数日となってしまっているのだが。
美言は美言で、あの事件を切欠に再び魔法の力を取り戻し、連日一所懸命、その練習に励んでいた、その傍ら、勿論こうして、彩海の所に来ることも忘れない。――尤も、そのようなことをしていられるのも、残り数日となってしまっているのだが。
ちなみに、彩海も知らない事件の顛末は、こうであった。美言がどのように、彩海を助けたのか。――彼女は頭上で雨を蒸発させ、雨が止むまで、二人を包む空気を、ほんのりと暖かい温度に保っていたのだ。その後は、二人を探しに来てくれた司教とルーカスとが、二人を保護してくれた。
時間が、刻一刻と過去ってゆく。その分、冬の香りが、そろりそろりと近くなる。
それでも二人は、相変わらずであった。相変わらず、残りの時を、いつものように過ごすばかりであった。
ただ。
少しだけ、いつもと違うことが起こっていたことも、事実ではあった。
事は、美言がいつものように、彩海が絵を描いている姿を、後ろから眺めていた時に、訪れた。
「コスモスってね、実はとっても強い花なんだよ。たとえば台風なんか来ても、茎の途中から根を出して、また立ち上がっちゃうの」
だからあれだけの雨の後なのに、皆こうして、元気に咲いてるんだよ。ね、皆ほら、寄り添いあってる。
美言は、付け加えて、微笑んで、
「ねーえ、彩海君」
唐突に、呼びかける。
「ん?」
彩海が、美言の方を振り返る。
その先では、美言が満面の笑みを浮かべて、彩海のことをじっと見つめていた。
「えへへ……」
「何だよ、気持ち悪いな」
「あのね、ふと思ったの。大丈夫だよ。美言ね、寂しくなんか、ないもん」
「はぁ?」
「美言、寂しくなんか、ないよ」
美言は繰り返して、彩海の大好きなその笑顔を深くした。
コスモスの、花が揺れる。
甘い香りが、風に舞い散る。
秋の気配が、二人の周りに咲き乱れる――彩海の視線が、キャンバスへと戻された。
美言の視線も、キャンバスの上に留まる。
彩海が、筆とパレットとを手に取った。
パレットが、ほんのりと色付けられる。まずはまた、紅色のコスモスが、キャンバスの上に花を咲かせた。
コスモスは、ようやく蒼く輝いた空へと向かって、すっくと背を伸ばす。その世界に、もう間も無く太陽が照り輝くということを、信じるかのようにして。
真剣な、彩海の横顔。
美言の手が、ふと、彩海の肩に伸びかける。
美言の心が、ときり、と跳ねる。
――このまま、素直に。
彩海に触れてしまうことが、できたのならば。
そういえばなぜか、美言は今日までずっと、そう思い続けてきた。
けれど。
どうしてか美言、いつもいつも、……先生にはそうすることができるのに、彩海君には、そうすることができなくて……、
「美言」
ぴくり、と。
伸ばされかけたその手が、彩海の肩の前で動きを止めた。名前を呼ばれた少女が、ゆっくりとその手を下ろす。
一瞬、後悔した美言ではあったが、
「……なぁに?」
平穏を装って、返事をした。
筆とパレットとを横に置き、彩海が再び、美言を振り返る。
彩海が、一つ息を吸う。
「来年も、来ようかな」
唐突な言葉に、美言がきょとん、と瞬きを一つする。
来年も?
「大伯父のヤツも、ルーカスのヤツも、面白い人だったし」
……うん、
「それに、」
それに?
「……月代は、君が言った通り、とっても良い街だったし」
うん。
「――何せここには、君がいるからね」
「……美言が?」
美言が、いるから?
思わず、声に出して問うてしまった。そんなつもりは無かったというのにも関わらず、思うより先に、言葉の方が飛び出してしまっていた。
そのまま二人とも、黙り込んでしまった。
穏やかな、沈黙の花霞。
やがて。
「そこに、立って」
「……へ?」
「いいから、そこに、立って」
キャンバスの向うを指差し、彩海が、断ることは許さないよ――と言わんばかりに、美言を促した。
あまりにも唐突過ぎる展開に、美言には、何がなんだかわからなかった。
「立つの?」
「そう、立つの」
ひらり、とスカートの裾を持ち上げた美言が、軽い足取りでキャンバスの前に立つ。
二人が、向かい合う。
「もう少し、離れて……そう、その辺りが、良いかな」
彩海に指図されるままに、美言は、秋桜の間を縫うようにして歩む。
「止まって」
そっと、花を踏まないように気をつけながら、立ち止まった美言が彩海に問いかける。
「ねえ、どうしたの? 急に」
「君が、いい」
「どういう、こと?」
「君がここにいれば、寂しくないような気がする」
「寂しく、ない?」
「一番の、花を咲かせなくちゃと思ってね」
言うだけ言うと、彩海はテーブルの上から、鉛筆を一本取り上げた。
本当であれば、色を着け始めた絵に再び下書きをするなどと、あまりあってはならないことであるような気もするのだが。
――でも、仕方が無い。
そうしたいと、思ったのだ。この絵に、一番の花を咲かせたい。
まだ、色付いていないコスモスの咲き乱れるキャンバスの一画に、彩海が真っ直ぐな線を、一本描き込む。
「ねえ、彩海君」
「黙って。君ももう子供じゃあないんだから、じっとしていることくらい、できるよね?」
「ねー、もしかして彩海君は、美言にモデルになってくれ、って言ってるの?」
少し楽しそうに問いかけられ、
「黙って」
「……相変わらずそういうトコ、愛想悪いよね、彩海君はさ」
キャンバスに線を入れ始めた彩海の言葉に、美言がぷう、と頬を膨らませる。
だが。
「美言」
「なぁにー」
相変わらず不機嫌そうに口を尖らせている美言へと、
「笑って」
彩海が、唐突な注文をつける。
「は?」
「だから、笑って、って言ったんだよ」
そりゃあ、花の蕾も、美しいけど。でも、折角の一番の花には、やっぱり咲いていてもらわなくちゃあ、駄目だろう?
口にはしなかったが、心の中でそう続けた。
折角なのだ。
どうせなら、美言の笑顔を、この絵の中に描き込んでおきたい。
そうすれば、きっとこの絵ももっと満足のいく出来になるだろうし――君は本当にお喋りで、よく笑うから。そんな君になら、この絵の中からでも、見る人に幸せを分けてあげることができそうで、と、思ってさ。
それに僕だって、君のことを、嫌でも覚えていなくちゃあならなくなるだろう?
彩海の言葉を受け、美言は空を見上げて、うーん、と小さく息を吐いた。
それから、何かを吹っ切るかのようにして、彩海を見遣る。
……よしっ。言いたいことは、今のうちに言っておかなくちゃっ。
「ねえ、美言はね、彩海君のこと、」
「全く、君はよく喋るなぁ……相変わらず」
「人の話は最後まで聞いてよ! 全くもう!」
折角美言ったら、頑張ろうと思ったのに……!
何だかまた言えなくなってきちゃった……と、胸を押さえて息を吐く美言。
――その耳に。
「好きだよ」
囁くような呟きが聞こえて来たのは、美言が決意してもう一度口を開こうとしていた時のことであった。
美言の視線が、跳ね上がる。
その瞳が、彩海を真正面から見据える。
彩海は相変わらず、キャンバスの上に鉛筆を滑らせていた。キャンバスの上に目を留めて、その世界に、入り込んでしまっている。
しかし先ほどの声音は、紛れも無く、彩海の声音であった。
遅ればせ確信した美言の動きが、不意にぴたり、と止まる。
「……へ?」
「僕は君のことが、好きだって、言ったんだよ。だからほら、黙って、……笑って」
彩海は、一瞬だけ美言に視線を投げかけると、さも無愛想に、面倒臭そうに、――を装って、再び自分の描くコスモス畑へと意識を集中させた。
一番の、花。
このコスモス畑に咲く、一番美しい、香しい花。
「えへへ……っ」
その花は、先ほどよりも少しだけ、赤い色を強くする。彼女は、本当に、心の底から幸せそうな笑顔を浮かべると、ゆるく俯いて、上目遣いに彩海を見上げた。
先、越されちゃったね。
ずっと美言、彩海君に、そうやって言おう言おうって、思ってたのに。
「……ねーえ、」
「だから、黙ってろって」
「その前に、一つだけっ!」
美言は精一杯の勇気で、彩海の視線を絡めると、
「大好きだよっ」
少し恥ずかしそうに、けれども、満面の笑顔で言葉を続ける。
「美言は彩海君のこと、だーい好き、だよっ!……ねえ、だから、」
そう、だから。
大好きな人には、美言の大好きな場所を、案内してあげたいから。
それに、大好きな人と、いつまでも離れ離れになるのは、とっても辛いから。
「教えてあげるねっ、月代の、秘密をたーくさん。季節の風景とか、色んな場所とかっ。そうしたら、彩海君はまた絵を描きに来れるでしょ? 月代は、とっても綺麗な場所だから!」
それにね。
「それにそうしたら、美言は彩海君に、また沢山、会えるでしょ?」
今にも抱きついてきそうな、屈託の無い笑顔を向けられた彩海の顔に、
「僕も、そうしたいな」
知らず、珍しく素直な微笑が浮かんでいた。