第6章−B
予感、的中。
何かが、あまりにもおかしすぎると思ったのだ。だから、美言は走っていた。どこへ――街外れの、あの森の方へと。
「やだ……ちょっとっ! 大丈夫っ?!」
美言はここまで、傘も差さずに、ワンピースが汚れることにも構わずに、水溜りの大きな石畳の上を、ぬかるみ始めた土の道を、全力で走って来ていた。その先で、まさかこのような光景に出会うことになるなどと、全く予測もしないままに。
「彩海君!」
「あんまり大声は……、」
出すなって。頭に、響くからさ。
美言に抱えられた彩海は、薄い意識の中からぼんやりと言葉を紡ぎ出した。
言葉の最後が、声にならない。そのようなことにすら、気がついていなかった。
――雨に打たれる森の中で美言が見つけたのは、絵を描くための道具一式と共に道の木陰に座り込む、彩海の姿であった。
我を忘れたかの如くにして彼に駆け寄った美言は、ゆっくりともたれかかってきた彩海を、しっかりと受けとめた。受けとめて、しかし、そこからどうすればいいのか、わからなくなる。
「しっ……しっかりしてっ、ねっ? 帰ろ……ね、彩海君ってばっ」
だが、彩海が立てないであろうことなど、一目でわかることであった。
美言の姿を見て安堵したのか、彩海は瞳を閉ざし、大きく息を吐いた。しかし、その息は荒く、整う気配を見せなかった。
……熱?
彩海の額に手を置いた美言が、はっとする。
彩海が最近、風邪をひいていることは、美言としても知っていた。知っていたからこそ、
無理はしないでねって、前に会った時、あんなに言っておいたのに……!
あまりにも突然の雨に見舞われ、彩海としても、対応のしようが無かったのであろう。結果として、水に濡れながら、びしょ濡れになりながら、キャンバスと画材道具とを木陰に運ぶはめになった。元々悪かった体調が、その最中に悪化してしまったと考えることは、決して難しいことではない。
「やだ……ねぇってば!」
慌てる美言をさし置いて、彩海はただ、自分を包み込んでいる暖かさに信頼を置いて、ふわり、と、意識を手放した。
美言が彩海を揺すれども、その名前を呼ぼうとも、彼はもはや、こちらの世界に戻ってこようとはしなかった。
美言が、絶句する。
雨が、木々の葉の堤防を破り始める。
「彩海君っ、駄目だよ! 起きてってばあ……ねえ!」
彩海はぐったりと力を失ったままで、小刻みに呼吸をするのみであった。
美言がその手を、そっと取り上げる。
……やだよ……誰か、お願い。
思いながら、ふと、馬鹿みたいなことを思い出す。
そういえば、美言は先生の弟子なんだよ。ねえ、美言は、魔法使いなんだよ……?
魔法を忘れた、魔法使い。けれど、魔法使いは、魔法使いだ。自分は、誰かのためになれる魔法使いを目指す、魔法使いの、弟子。だったら魔法が使えて、当然ではないか。
――僕の最終目標は父さん、さ。遠い目標だとは、わかってるけどね。
誰かに笑っていてほしいから。幸せになってほしいから。そう言って、キャンバスに向かい続けていた、彩海。
美言だって、それは同じだよ。美言だって、……君の笑顔を、見ていたいんだもん。確かに、あんまり表情にはしてくれないけど――。
でも、だから。
思い出さなくちゃ。
こんなんじゃ、このままでいちゃ、駄目じゃない、美言。そんなんじゃ、先生みたいになれるはずがないよ……だから。
彩海の手を握る力を、強くする。助けたい人が、ここにいるのだ。
ねえ。
美言には、そういう力があるんだよ。美言には、今、彩海君を助けることのできる力が、あるはずなの。だって、そうでしょ? だって美言は、この前まで。空だって飛べたし、物だって直せたの。
魔法とはまさしくアイディア勝負なんですよ、と、いつぞやにルーカスがそう言って笑っていたことを思い出す。自分の周囲にある"モノ"をどのように変化させるのか。変化させる方法は"数式"によって定められていたとしても、何をどのように変化させ、利用するのかは、魔法使いが自由に決めることなのだ。
どうしたって、美言は、彩海君を助けたいの。だって、美言は先生のような魔法使いになりたいの。誰かを助けることのできるような、魔法使いに。
それに。
だって、彩海君は――、
「やだ……彩海君! しっかりしてよ、ねえ!」
彩海君は美言にとって、
美言にとって……、
「彩海君! 彩海君ってば!」
美言にとって、こんなにも大切な人なのに……!
失いたくない、と、ただ純粋にそう思う。あの時触れたぬくもりも、もらった微笑みも、いつまでも近くで感じていたいと、そう思う。
もしこのまま、彩海君がいなくなっちゃったら?
美言の傍から、いなくなっちゃったら?
大袈裟かも知れないけれど、と。心のどこかでは冷静にそう理解していても、考えれば考えるほど、腕に抱える暖かさが、冷たく遠ざかってゆくかのように感じられた。彼は今、こんなにも自分の近くにいるというのにも関わらず、どうしてか、その実感が湧いて来ない。
雨が、二人の間にも落ち始める。水は容赦無く、ぬくもりを流し落としてゆく。
怖いよ。
心の中で、美言が呟く。
美言はね、すごく、怖いよ……、彩海君……。
天の涙は地を轟音で轟かせ、世界を美言から霞ませてしまう。
鳥達の鳴き声も、風の音すらも聞えない森の中。美言の愛する光景は、ここには微塵も存在してはいなかった。
水の轟く、音だけがする。
ただ、それでも。
荒くも細い彩海の息遣いだけが、美言の耳に、はっきりと聴こえてくる。
「彩海君……」
彩海君。
瞳を閉ざしたまま、彩海は美言の言葉に応じる気配を見せなかった。
美言は空を見上げる。今にも落ちてきそうなほど垂れ下がった木々の葉の間から、雨雲色の空が、ちらりほらりと揺れて見える。
まだまだ雨は、止みそうになかった。世界から熱が、奪われてゆく。
美言は再び、彩海へと視線を戻した。
……ねえ、誰か。お願い、応えて。
どうやったら美言は、彩海君のことを、助けることができるの?
誰か教えてよ、と、祈るような気持ちで、美言は心当たる人々を呼ぶ。
パパ、ママ、先生。司教様……、それに、美言君の、お母さんも、お父さんも。
美言は一体、どうすればいいの? このままだと彩海君、本当に死んじゃうかも知れないんだよ……ねえ、そんなの嫌だよ――、美言、そんなの絶対にイヤ……。
美言の手が、彩海の頬へと触れる。
お願い、彩海君。ここから、いなくならないで。美言の傍から、いなくなっちゃあイヤ。
だって。
「彩海君……美言はね、」
今までどうしてか、ずっと言うに言えなかった。だけど、
「美言はね、彩海君のこと、大好きだから。だから、彩海君……、」
こんなの、美言の我侭かも知れないけど。
でも、どうか。お願い、どうか、
「美言の傍から、いなくならないでよ……」
そうして。
降り注ぐ、雨粒の中に。
その時、一筋の暖かい想いが紛れ込んだ。
美言の頬を、涙が伝う。
泣き出した美言の心は、美言によって握られた彩海の手の上に、音もたてずに溶け込んだ。
そうして――。