第5章−B
珍しくこんな時間に、街の中で出会ってしまった。
「……っ、」
彩海の姿を見かけた瞬間、どうしてか美言は、一瞬、呆然と立ち竦んでしまった。
昼時の、月代の、高台。長い、坂道。都会の見える場所、海の見える場所で、ばったりと出会った、美言と、彩海。
「こん、にちは」
「やあ」
立ち止まり、美言が頭を下げると、彩海は坂の下から軽く片手を挙げて、挨拶を返してきた。
出会ったばかりの頃とは違い、彩海も美言と出会えば、彼女を気にかけて、しっかりと立ち止まってくれる。
そんな彩海の姿を一瞥すると、美言は背中で手を組み、きょとん、と、心の中に浮かんだ問いを言葉にした。
「彩海君、今日は絵、描かないの?」
珍しく、彩海は何一つとして荷物を持っていなかった。あの重そうな油彩絵具一式も、スケッチブックでさえ、今日は一つとして手にしていない。
「ああ」
彩海は両手を肩の辺りまで挙げて頷くと、
「大叔父に頼まれて、ちょっと用事を済ませてきてね。絵は、これから描きに行こうと――、」
思ってる。
続けようとしたところで、言葉が途切れた。
咳込んだ彩海に、美言が慌てて手を伸ばしかける。
「……大丈夫? 風邪?」
「――別に」
短く答えられて、美言は心残りを感じながらも、そっと手を下ろした。
彩海は咳をもう一つ、大きく溜息を吐くと、
「大したことない」
「だったらいいケド……でもなんか、疲れてるみたいだよ? 少し、休んだら?」
絵、描きに行かないで。
どうせ今日は美言も行けないしね、と心の中で付け加える。今日は、少し用事が立て込んでしまっているのだ。
「時間が、あまり無いからね」
「……うん」
「できるだけ、こっちで描いて行きたいから」
あの絵に、何が足りないのか。よく見て、聴いて、嗅いで、感じて、探しておかなくちゃあ、ならないだろうから。
「……そっか」
咳払い交じりに、彩海が言う。美言は小さく納得しながら、一瞬だけ視線を俯けた。
それから、いつもと同じ、笑顔を取り繕う。出会った時から変らない笑顔を、彩海に向けて見せた。
「でも、良かったっ。彩海君の絵が、きちんと進んでくれてっ」
出会ったばかりの頃は、題材が無くて、彩海君ったら、困ってたんだもんねっ。
何はともあれ、彩海が目標に向かって進んでいてくれることが、美言にとっては本当に嬉しかった。
なのに、美言は。
「コンクールまで、間に合いそうっ?」
「おそらくね」
美言は進むどころか、後退しちゃってるんだ……。
ふと、そんなことを思ってしまった。心の中に過ぎった考えを、美言はすぐに、何とかして振り払う。
違う、今はそう言うコト、考えちゃダメだよ。魔法が使えないとか、何だとか、そんなコト、考えちゃダメ。
前向きに生きていくの。そういう時期もあるから大丈夫、って、先生、言ってたもん。
「そっか、ほんっとうに、良かったねっ!」
「まあね」
彩海は一つ頷くと、くしゃみを一つ。眉を顰めて、溜息を吐いた。
……何だろう。
それから改めて、美言を見遣る。大丈夫? と心配してくる彼女に、大丈夫、と答えれば、彼女はいつもと同じ笑顔で、早く風邪、治さなくちゃねっ、と、元気を向けてくる。
だが。
どうしてか、ぱっとしない。まるでいつもの世界に、霞がかかっているような――そんな気分。
そのまま他愛の無い話を続けていくうちに、彩海のその思いも強くなっていった。
美言は確かに、いつもの美言であった。しかし、何かが違うような気がする。
「君、ね、」
だから、問うてみることにした。
何がいつもの美言と違うとは言えないが、そうだ、強いて言うなら、美言の笑顔が、裏に何かを隠しているような……そんな、感じ。
「何か、悩み事でも?」
その指摘は、美言にとっては、あまりにも予想外のものであった。
――どうして。
「何で、そう思うのっ? やーだなっ、」
指摘されて、平静を装って、声音の音調を高くした。無理やり楽しい気分を作り出して、両手を広げて言葉を続ける。
「美言こんなにも、元気なのにっ」
「いやだって……、」
彩海はまるで、言葉を捜すかのようにして俯いた後、
「浮かない笑顔だから……、」
言い辛そうに、続けた。
静かな声音が、美言の心に強く訴えかけてくる。
「……そう、かなぁ」
そんなハズないよ。
だって、街の人達と話したって、お友達と話したって、誰も美言に何かがあっただなんて、気付かなかったんだよ?
先生や司教様は、美言の事情を知ってるからともあれ――と。美言が、魔法を使えないことに対して、かなり落ち込んでいることを知っているからともあれ、と。
でもどうして、そういうコトを知らない、彩海君が。まだ出会ってから、一ヶ月くらいしか経ってないのに、彩海君が。
「そんなこと、ないのにな」
美言の気持ちに、気がついちゃうの?
それなりに、自信があった。魔法の使えなくなったあの日から、確かに自分が落ち込んでいるであろうことは、美言自身、よくわかっていた。わかっていたからこそ、元気でいようと努めていた。いつもと変らない自分を演出しようと努め、その成果があがっているものと、自負していた。
だって、誰も気付かなかったから。
ルーカスや司教はともあれとして、その他の人から、今のような指摘を受けたことなど、今まで一度も無かったのだ。
美言は、いつもの美言のままであるはずであった。よく笑う娘。どんなことがあっても、元気な美言。
なのに。
「美言は、元気、だよっ?」
えへへっ、と悪戯っぽく瞳を輝かせた美言の姿に、彩海は静かに、不信を積もらせる。
「……なら、いいけど」
行き詰った、笑顔。
ふと、そんな気がした。
一見して楽し気な美言の笑顔は、確かに出会った頃からずっと変らない、屈託の無い笑顔であった。それでもなぜか彩海には、今日の美言の笑顔が、
――君、無理してる?
問いを、口にしかけて。都合悪く、咳に見舞われる。
美言が、顔を顰めた。
「大丈夫?」
それは、僕の台詞だ。
「無理しちゃ、ダメ、だよ?」
君こそ、だよ。
こほんっ、と最後に一つ咳をすると、彩海は何とか息を整える。
途端、二人の間に、沈黙が落ちた。
遠くから、時を告げる教会の鐘の音が流れて来る。ふと、顔を上げた彩海の視界に、この坂の下に広がる遠い世界の光景が飛び込んで来た。
美言も何気無く、彩海と同じ場所へと視線を巡らせた。
途端、
「ごめんねっ、今日は美言、これから買出しに行かなくちゃいけないのっ! だから……また明日は、きっと行くよ!」
「……あ、」
美言。
何となく、彼女を引きとめようとした彩海の様子には気付かぬままで、美言は手を振って、街の方へと駆け出した。
それから、少し先で、くるり、と唐突に振り返り、
「あ、風邪、気をつけてね! 絶対に無理しちゃダメだよ? もうすぐ彩海君、また帰らなくちゃならないんだからっ!」
……帰らなくちゃ、ならない?
何気無く続けた言葉に、美言は一瞬だけ、はっと息を止める。
そっか、彩海君は、東京に帰るんだもんね。
当たり前のことを心の中で確認してから、美言は心を落ち着けるかのように、深呼吸を、一つ。
「じゃあ、またねっ!」
また、会おうね。
笑顔を咲かせて、街の方へと駆けて行く。
その後姿が坂道の下に隠れても、彩海は暫くの間、彼女の走り去った方を見つめていた。
――花の香りが、遠くなる。
遠くで、海が光を散らす。青い風が、都会越しに、月代まで運ばれてきているかのようであった。