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第5章−A

「彩海君、東京に帰られるんですってね?」

 親友の――司教の住む教会を訪れて早々、そう口にしたルーカスは、客間のソファに深く腰掛けたまま、紅茶を一口し、

「それで、というワケでもないのかも知れませんが、まあ、とにもかくにも、実は美言は先日から、魔法を忘れてしまいましてね……本人はかなり、ショックを受けていらっしゃるようですが」

「魔法を、忘れた?」

 比較的ゆったりと告げられて、テーブル越しにルーカスに向かい合っている司教の方が、驚いてしまった。

 珍しく、おじさんの方から教会にやって来たと、思ったら。

 司教の反応など、まるで気にかけてもいないかのように、ルーカスはするりと言葉を続ける。

「あの子はもう……というか、まだ、と言うべきか。とにもかくにも、一六歳ですからね」

 だから?――と問うのは、この場においては、意味の無いことであった。

 司教は魔法使いの世界を知るべき者ではなかったが、事情あって、その世界を深く知ってしまっている。その上、司教とルーカスとの付き合いは、実は司教がまだ子供であった頃からのものなのだ。尤も、その頃から、ルーカスの姿は相変わらずのものであるのだが。

 勿論司教は、ルーカスが、そうして美言が、魔法使いであることを知っている。そうして、魔法使いがいかなるものであるのかも、正しく理解していた。

 美言は、一六歳。そう聞いて、司教も一瞬、ぴたり、と、持ち上げたティーカップを口元で止めていた。

 つまりは、

「"そう"、なんですか?」

「ええ、私が見たところ、"そう"なんですよ、司教」

 ルーカスは深く頷くと、

「あの子の成長期は、まさしく今なんです。あの子の魔法使いとしての実力は、今、決まるんですよ」

 つまり今は美言にとって、魔法使いとして、最も大切な時期なのだ。

「普通、魔法使いとしての実力は、大体十代前半から半ばまでに決まるものですからね。感受性が最も豊かなこの時期に、魔法使いは多くのことを学んでおかなくてはならないわけです……しかし逆に、この時期に成長できない魔法使いは、魔法使いとしてやってはいけないんですよ。成長期を終えると、どんな魔法使いでも、必ず能力の減退期を迎えますからね。そうしてその状態で、魔法使いとしての実力が安定するわけですから」

「なのに美言ちゃんは、彩海のことを、どうやら好きになってしまったらしいと?」

 まるで、話の本筋とは関係の無さそうな発言をした司教へと、しかしルーカスは一つ頷いて見せると、

「おや、司教も、ご存知でしたか」

「ご存知も何も、美言ちゃんを見ていれば、そんなの、一目瞭然です。――私だって、もう年なんですから」

「まあ、美言自身はわかっていなかったようですけれどもね。いずれあの子も、自覚することでしょう」

 ――どうして美言、彩海君には好きだよーって、言えないんだろうね。

 先生大好き。司教様大好き。美言の口癖は、しかし、彩海に対してだけは出てこない。

 なんでなのかなぁ、と、考え込んでいた美言。美言はまだ、ルーカスや司教に対する好き、と、彩海に対する好き、との違いに、気が付いていないらしい。

 美言は、彩海をただ"好き"なだけではない。"好き"、という気持ちに加えて、彩海に恋心を抱いているに違い無い。

 それを踏まえて、ルーカスが言う。

「どんな魔法使いでも、誰かを特別に愛してしまえば。大体は、魔法使いとしての能力が減退してしまうものなんですよ。……人によっては一生それを引き摺りますし、まあ、私みたいに、一時的な現象で済む人もいますけれどね」

 恋に堕ちた魔法使いが、必ずしも、魔法の力を失うわけではない。むしろその恋を、愛を力の拠り所として、魔力を強くする魔法使いも、いることには、いるのだ。

 いずれにしても、恋とは、愛とは、不可解なもの。どんなに偉大な魔法使いが、どんなにその海の中でもがいてみても、結局はもがけばもがくほど、深遠な感情の波に絡まれ、沈んでゆくばかりであるかのように。

 どんなに実力のある魔法使いでさえ、それをどうにかすることはできないのだ。それが恋であり、愛たるものだと、ルーカスは身を持って知ってしまっている。

「魔法使いが、一人で生きていきたがる理由ですよ。どの道魔法界では、慣習的に恋愛がタブー視されているわけですけれどもね」

 何かを懐かしむかのうように、細く息を吐いた。

 何と無しに、眼鏡を押し上げて、

「私達にとって、心の安定はなによりも大切なものです。恋とか、愛なんて、そんなもの……揺れて、揺れて、どうなるかわからない。そんな不安定な状況に身を置きたがる魔法使いなんて、基本的にはいるはずがないんですよ」

 一般的に、魔法使いは皆、自分が魔法使いであることに、誇りを持って生きているのだから。

 常人には無い、魔法使いの能力。自ら進んでそれを捨てようとする魔法使いなど、基本的にはいるはずがない。

 ルーカスが口にした通り、魔法使いにとって精神を安定させておくこととは、魔法使いとしての命を保っていることとほぼ同義になることであった。揺らぎ無く、真っ直ぐな強い心のみが、目には見えない世界を動かし得るのだ。

「でも」

 ルーカスは首筋に手を当てると、そこにあった、光沢の薄い細い鎖を指先に引っ掛けた。

 軽い音をたてて服の中から出てくるペンダントトップを、手の平の上に乗せると、

「愛とはやはり、不可解なものですから」

 ペンダントの蓋を、そっと開いた。

 その内側にはめ込まれた、色褪せた小さな写真。その小さな世界の中で、女性と男性と、そうして小さな少女とが、手と手を重ね合わせて微笑みを浮かべていた。

 ――ああ、

「あの時私は、魔法使いとして一生を全うしよう、って、そう思って、毎日を一所懸命に生きていたはずですのに。あの人に一瞬微笑まれただけで、そんな何十年来の決意が、どうでもよくなってしまったんですよ」

 写真の中に、眠る過去。

 愛しい、愛しい、あの女性。言葉にすることすら馬鹿らしく感じられるほどに、本当に、本当に愛している。

 ……ですから。

 もし一瞬でも、この写真の時間に、戻ることができるのであれば。

 もし、自分の気持ちに一番近い言葉をもって、彼女を安心させることが、できるのであれば。

 そう、つまりは、彼女を強く抱きしめて、口にするのが苦手だったあの言葉を、愛しているという言葉を、囁くことができるのであれば。

 考えて、夢想してしまうだけで、彼女を抱きしめていたあの時と同じほどに強い望みと不安とを覚えてしまうのだ。

 彼女は昔のように、

 私へと、笑いかけて、くださるのでしょうかね。

 溜息を、一つ吐き、

「彼女に出会う前まで、ずっとそう思っていました。安っぽい恋愛物語なら、いくらでも知っていたんです。でも私には、その気持ちがわからなかった。馬鹿らしいとさえ、思っていましたよ。……心のどこかで、私にはそういう想いをする機会なんて訪れないだろうって、そう決め付けていたんです。そう信じ込んでいた。でも、」

 でも。

 ルーカスは瞳を、写真から離そうとしない。

 小さな写真の中から、三人の男女は無言のままに、こう語りかけてくる――ねえ、私達は、こんなにも幸せ、ね?

 こんなにも、

 そう、こんなにも、

「幸せなんです。彼女がそこにいてくれるだけで。今まではどうでも良かった世界が、こんなにも美しく思えてしまう。そんな美しい世界の中で生きていけるだなんて、私はなんて幸せなんだろう、って。……ねえ、司教。愛というものは、不可解なものなんです。彼女の存在に気付いた瞬間、私の中で全ての価値が変ってしまったんですよ」

 そんなこと、あり得るはずが無いと思っていましたのに。

 ルーカスはやわらかく微笑むと、ペンダントの蓋をぱちんっ、と閉じた。

 再び服の中に、抱え込むかのようにしてしまいなおす。

 大切な、家族。

 胸の内で微笑む、妻と、娘と、あの時の自分。

「――そのような想いを捨てろと言われても、無理でしょう? たとえそのおかげで、精神的に不安定な要素を得ることになったとしても、ですね」

 愛しているのだ、今でもまだ。彼女がこの世から姿を消してしまってからでも、いまだに彼女を愛している。

 そうして、相変わらず、世界は美しいのだ。彼女の愛した世界は、ルーカスにとっても美しい世界なのだ。

 おそらく、これからもずっと。

「悩んだり、痛い想いをしたり。捨てなくちゃあならないものだって、沢山ありました。そんな犠牲も、沢山ありますけれどもね。それと引き換えにしてでも、得ていたい幸せがあるんですよ。……思うにそれが、愛というものなのでしょう」

 だから、私は。

 そっと付け加え、ルーカスはティーカップを静かに持ち上げた。

 甘い紅茶の香りが、心に穏やかさを広めてゆく。

「もし美言が、そのような幸せに出会うことができたとすれば。例え彼女が魔法使いとしての生命を失うことになったとしても、それを止めようとは、思わないんですよ。今も、きっと、未来もね」

 いいえ、思えないのでしょうね。

 紅茶を一口、そっと付け加えた。

 もし今、このまま美言の魔力が回復しなければ、美言はおそらく、一生魔法使いにはなれないであろう。仮にもし、今、魔法使いとしての力を取り戻したとしても、これはどの魔法使いにも共通することではあるが、未来にも魔力を失う可能性は付き纏う。その上ただでさえ、美言は夢見がちな娘なのだ。

 しかし、いずれにしても。

 ルーカスにとっては、大切な、娘のような、……否、娘である美言。できれば彼女も、自分と同じ、いや、或いはそれ以上の幸せを知る機会に恵まれますようにと、願うばかりであった。例えそれが結果的に、魔法使いとしての生命を失うことに繋がろうとも。

 ……笑っていて、ほしいんですよ。

 彼女には、幸せでいてほしい。あの屈託の無い笑顔に、ルーカスも何度助けられたことか。

 ルーカスが思うに、美言の最も得意かつ最大の魔法は、あの笑顔なのだ。そうしてその魔法は、美言自身が幸せでなくては、成立しないのだ。

「……おじさんらしい」

 不意に。

 今まで黙ってルーカスの話を聞いていた司教が、くすり、と忍び笑いを洩らした。

 ルーカスはあからさまに表情に戸惑いを浮かべ、

「そうですか?」

「ええ、とても。――でも私は、正直少し嬉しいんです」

「嬉しい?」

「ええ」

 問われて頷き、司教はチョコレートへと手を伸ばした。

 包み紙を、ゆっくりと剥きながら、

「おばさんも、それから、あの子だって。それに、美言ちゃんも――、おじさんにそれだけ愛されていて、本当に幸せだった、いいえ、幸せなんだろうなって、そう思うんですよ。……私だって好きな人には、幸せでいてほしいものですからね」

 司教もルーカス達家族が、大好きなのだ。それは、あの頃からずっと、今でも変らない。

 だから。

「おじさんの言葉を聞いていると、皆幸せなんだろうなって……本当に、嬉しくなるんですよ」

「そんなこと、」

「ありませんよ、って言うのは、駄目ですからね? 私は知っているんですから。おばさん達が、どんなにおじさんのことを大切に想っていたのか」

 ルーカスのいつもの口癖を遮って、司教がそっと言葉を続けた。

「おじさんと出会えてよかったって、おばさんはいつも、そう口にしていましたから」

「――ええ」

「それはおじさんもご存知でしょう?」

「……ええ」

 自信の無さからか、歯切れの悪い返事をするルーカスへと、

「おばさんだって、おじさんと同じなんですよ。おじさんだって、おばさんに会えて良かったって、そう思っているでしょう? おばさんだっておじさんに会えて、おじさんと同じくらいに幸せなんです。紛れも無い、事実ですよ。……勿論、美言ちゃんについてもね」

 司教は微笑を深くすると、チョコレートを口の中へと放り込む。

 その甘さを、紅茶で落ち着けて、

「いずれにしても、めぐり合わせとは、不思議なものですね。それだけで、誰かと誰かが幸せになる……、」

 まあ、その逆もあることには、あるのでしょうが、それはともあれとして、ですよ。

「どうか、美言ちゃんにとっても、彩海にとっても。二人の出会いが、良かったと思えるものになれば、良いのですけれどもね」

「ええ、そうですね」

 頷いて、ルーカスがそっと、同意の笑みを浮かべた。


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