第4章−C
先生になったような、気分。
美言のだーい好きな先生に、なったような気分――。
きしり、きしり……と、いつもはルーカスが座っているはずのあの安楽椅子を揺らす美言の膝の上には、一冊のノートが広げられていた。
そこには、美言にとっては見慣れた筆記体で、イタリア語がびっしりと書き綴られていた。先生が、魔法の基礎知識本を、わざわざ美言のために翻訳してくれたもの。
このノートが手渡されたあの日、何でイタリア語にしたの? と美言から問われ、日本語は書き難くて……と、笑っていたルーカス。彼は今、台所に立ち、美言の代わりに夕御飯の準備をしているはずであった――そう、美言の、代わりに。今日の夕御飯の当番は、美言であったというのにも関わらず。
……美言、先生になったみたいだね。
思いながら、美言は椅子に深く腰掛ける。椅子に揺られて、瞳を細めた。
開け放った窓から入り来る風が、少し冷ややかに心地良い。暮れ始めた世界の中で、部屋には長く影が落ちていた。
美言の視線は、例のノートにあった。しかし、そのノートは父方の母国の言葉で書かれているというのにもかかわらず、美言には内容が全く理解できなかった。
先生……。
紅く、暗い世界では、もはや明かり無しでは、ノートの字など見えるはずもなかった。
美言は、そんな単純なことにも気がつけずにいた。それどころか、自分が今、何をしていたのかということにも、気がついていないようであった。
きしり、と音をたてて、安楽椅子が深く沈む。
美言の瞳が、ぼうっとして、天井のシャンデリアを見上げた。
……ねえ……。
「美言、おかしいよね……?」
美言が、美言じゃあ、ないみたい。
誰にともなく、呟いた。ここには誰もいないのだ、とわかってはいても、誰かに聞いてほしいかのようにして、思わず呟いてしまっていた。
ねえ。
どうしてだろう。
色々と、おかしいよ。ね? そうだよね。
変だよね……。
「おかしいよ……」
自分のことのはずなのに、どうしても、自分がわからない。
美言は深く息を吐くと、そのまま静かに、瞳を閉ざした。
――あの日からは。
彩海が母親の回復を知ってからは、一日が経過していた。
今日、美言は、この家から一歩も街に出ることなく過ごしていた。勿論、森のコスモス畑にも行ってはいなかった。
そうして、久々に打ち込んでいたのだ。今日は偶々暇であったルーカスから指導を受け、魔法の練習に励んでいた。
朝食の後は、机に向かってお勉強。昼食の後は、実技の練習。
しかし、
「美言は……」
その異変は、昼間に起こった。
……どうして? と。何で? と、真昼の庭で、ルーカスを目の前にした美言は絶句せざるを得なかった。
空を、飛べなかったのだ。こうすれば魔女さんみたいだねっ、と、いつものように、お気に入りの箒に跨り、意識を集中した美言ではあったが、箒は全く、ぴくりとも、美言の意思に応えてくれなかったのだ。
今までは、そんなこと、なかったのに。
そんなはずはないと、自分を励まし、何度やっても、結果は同じであった。あまりにも唐突すぎる事態に、暫く言葉を失っていた美言は、ルーカスの言葉を受けてようやく混乱する心を圧し静めることができた。
そういう日も、ありますよ。美言は普段から、頑張り過ぎなんです……ですからたまには、今日くらいは、ゆっくりとお休みなさい、ね?
「魔法が、使えない……?」
それでも諦めきれなかった美言は、自室に戻り、あの日コスモス畑にクッキーを持って行った時の鞄の中に入れっぱなしであった、木の枝を二つ取り出した。
いつもの要領で、意識を集中させる。元に戻るように、また一本になるように……と、手に持ったままの枝へと意識を集中させた。
いつもであれば。
いつもなら、そのくらいのこと、簡単にできるはずなのに。
けれど今日は、やはり、木の枝でさえ、美言の言うことを聞いてはくれなかった。
そうして、今。
逃げ込むように、ルーカスの書斎に入り込んだ美言は、膝の上にノートを広げ、今の今まで今のようにして、時間の流れすら忘れて、ぼんやりと様々なことに意識をめぐらせていた。
今日、突然、魔法が使えなくなった。
それは美言にとって、あまりにも突然過ぎる事件で。
「どうして……?」
今までこんなこと、なかったのに。
魔法が、使えなくなった。
理由もわからない。心当たりも無い。
ただルーカスは、そういう日もありますよ、と言う――でもどうして、
どうして、突然こんなことになってるの?
今日の自分は、昨日の自分と何が違っているというのであろうか。
……単に、美言が疲れてるだけなの? だから、魔法が使えなくなるの?
美言にとっては、わからないことだらけだ。
「どうしてなの……?」
誰にとも無く、もう一度問いかける。
流れる風に、膝の上のノートの頁が、ひらりと一枚捲られる。
黄昏時の世界。もうすぐ、夜になる世界。暗くなる空。その空に、月は今日もたった一つで、輝くというのであろうか。
――きしり、きしり、と、美言が安楽椅子を揺らす。まるで、いつもルーカスがそうしているかのようにして、椅子の背に深く身を預ける。
ふと。
「ぁ……、」
その時偶々、美言の目に、甘い香りの影が留まった。
棚の上に飾られた、一つの花瓶。いつも美言自身が花を飾るその花瓶に、今はもう、あの紅色のコスモスの姿は無い。
けれど。
森の奥の、香りが、する。秋の花に紛れて咲く、あの時――初めて彩海をコスモス畑に案内した日に摘んだ、あの、紅いコスモスの残り香。
秋桜の、香り。そこに、絵の具の香りの幻影が混じり込む。
美言の口が、きゅっと結ばれる。
どうしてか、その時から、しきりに彼のことばかりが思い出されて、ならなかった。
……彩海君……。
彼は今日も、あのコスモス畑にいたというのであろうか。
「彩海君――……、」
ねえ。
ねえ、もうすぐ美言は。
もう君には、会えなくなっちゃうの――?