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第4章−B

 このキャンバスの世界が、秋桜で満開になった頃には。

 ――母さんは。

 元気になって、いるのだろうか。

 初めてここに来た時にも沢山咲いていた花々が、その数を、更に増やし続けて一ヶ月近く。元々は真っ白であったキャンバスの上に、大まかな色が散りばめられ始めてから、暫く。

 絵は、次第に完成へと近づいて行く。時は音をたてずに、だが、確実に流れて行く。

 いつものようにキャンバス立てに向かったまま、コスモス畑の中で、彩海は静かに溜息を吐いた。

 ……やれ。

 母さん。

 僕は母さんに言われた通り、全力で、頑張っている。――つもり、だけど。

 でも。

 何かが、足りないような気はする。

 キャンバスをじっと見つめて、もう一つ、溜息を吐いた。

 元々、題材が見つからない、見つからない……と困っていたことを、ふと思い出す。あの時は、軽いスランプであったのだろう。この場所に美言によって導かれるまで、彩海はどんなに素晴らしい景色を見ても、どうしても、それを描く気にはなれなかったのだ。

 今まで描いた絵の中でも、この絵の出来は、決して悪い方だと思わない。むしろ、出来栄えとしては、今の時点ではかなり良い方だとさえ思う。題材が題材だけに、それこそ、美言曰く、相手が"本物の自然"だけあって、コスモス畑は、彩海に対して強い想像力をもって迫ってくるのだ。

 それでも。

 どう、しようかな。

 小さなテーブルに、手にしていたパレットと筆とを置き、彩海は背を反らしてキャンバスを見遣った。

 決して満足はいかないのだ。

 気のせいか、何かが、足りないような気がする。

 母さんも、父さんも。それから、この絵を見る、沢山の人も。喜んでは、くれるのだろうか。父さんの絵を見た時のように、嬉しそうに、楽しそうには、してくれるのだろうか。でもそれには、何かが足りないような気がする。気のせいか、これじゃあ、いけない気がする。

 父の言葉を借りるのであれば、そう、

 見えない、何かが? 足りない、ような……?

 ――と。

 彩海君っ! と。

 聞き慣れた声音で、呼びつけられたような気がした。もう間も無くして、小さな足取りが近づいてくる。

 美言。……もう、そんな時間か。

 美言が来る時間、と言えば、大体は昼過ぎであることを、彩海はよく知っていた。

「ねえっ、彩海君っ」

 彼女は珍しく挨拶も無しに彩海に駆け寄ると、相当急いで駆けて来たのであろう、途切れ途切れな息を、しかし整えようともせずに、

「おめでとう!」

 ぱっと、一言口にする。

「おめでとう! 彩海君っ! ねえ、聞いてよ!」

 美言はコスモスを踏まないように細心の注意を払いながら、ようやく辿り着いた彩海のすぐ後ろで立ち止まると、満面の笑みを咲かせ、

「お母さん退院できるんだって! 彩海君のお母さん、退院するんだよっ!!」

「――え?」

 あまりにも唐突で、意外過ぎる言葉に。

「何だって?」

 そりゃあ、母さんが比較的元気だ、って話は、聞いていたけど。

 ……退院することになった?

 彩海は一瞬、言葉を失ってしまう。

 母さんが、退院?

「だから、お母さん退院するの! もう一ヶ月もしないうちに、退院できるだろうって!」

 司教様がね、彩海君に伝えてほしいって、美言に伝言をお願いしてきたのっ!

「……良かったぁ! ほんっとうに良かったねっ!」

 ――そうか。

「うん」

 手放しで喜ぶ美言に、彩海は意外にも、感情の薄い声で頷きを返した。

 一言だけ、事実を確認するかのように付け加える。

 そうだ、つまりは、

「これで僕は、また母さんと一緒に、暮らすことができるんだ」

「だねっ! でもほんっとうに良かったよ! おめでとう! 彩海君っ」

 美言には視線を向けずに、ぽつり、ぽつり、と続ける彩海の背に、勢い付いて美言が抱きついた。

 美言としては、この喜びを、早く共に、分かち合いたかったのだ。

 親のいない悲しみを、美言は嫌でも知ってしまっている。ゆえに、両親を亡くした美言にとって、彩海の母親が元気になったのだという朗報は、我が身に訪れた喜びのように嬉しく感じられた。

 ねえ。

 彩海君には、パパもママもいないだなんて……、そんな悲しい想い、してほしくないよ。

 ただでさえ、彩海も父親を失い、親のいない悲しさというものをわかっているはずなのだ。その悲しみが二つになってしまうことなど、

 あまりにも、辛すぎるよ。

 だから。

 彩海に抱きついたままで、美言が瞳を閉ざす。

「本当に、良かったぁ……」

 彩海を包む力を強めて、そっと息を吐く。

 良かった。

 彩海君はこれで、悲しまずに、済むんだね。

 大好きな人の悲しむ姿など、見たくはない。ルーカスの悲しむ姿も、司教の悲しむ姿も、――そうして、彩海の悲しむ姿も、見たくはない。

 大切な人には、いつも笑っていてほしいから。

 幸せが、好き。それはきっと、誰にとっても同じこと。美言にとっては、大好きな人が笑っていてくれることが、本当に幸せなことで。

「うん」

 しかし、時が経っても彩海の反応は、美言が予想するよりも、ずっと冷静なものであった。

 美言の重みを感じながら、彩海はそこから、動こうとしなかった。ただ真っ直ぐにキャンバスを見つめ、着け始めたばかりのコスモスの色を、一つ一つ、上の空で確認してゆく。

 ……この赤は、少し濃すぎるかな。

 彩海の心の中には、そんなどうでもいいような呟きがあった。

 流石にその様子を疑問に感じた美言が、ぽつり、と彩海に問いかける。

「嬉しく、ないの?」

 それでも、彩海は美言を振り返ろうとはしなかった。

 美言の手が、彩海から離れる。

「どうしたの……?」

 もっと、喜んでくれるものだとばかり思っていた。今日は彩海に、とびきりの朗報を持ってくることができて良かったと、そう思っていた。

 ふと、美言の視線が、キャンバスの上に留まる。

 出会ったばかりの頃は真っ白であったキャンバスの上に、今は鮮やかに色づく世界ができつつあった。

 美言と同じ場所を見つめながら、ようやく、彩海が小さく口を開く。

「美言」

「なぁに?」

「もうあまり長く、月代にはいられないんだろうな」

「――あ……、」

「母さんが、元気になったから。僕は、母さんが退院するまでに、帰ろうと思う。……東京に、帰るんだ」

 もうこの絵に色を乗せ始めている以上、仕上げは、東京でもできること。確かに景色を目の前にして描いた方が好いことに変わりは無いのだろうが――いやむしろ、幻想的な要素を付け加えるのであれば、原物を目の前にしない方が好いこともあるのかも知れない。尤も、彩海はこの絵をどのように完成させるかは、まだ決めていないのだが。

 その瞬間、妙に冷静な理解が、美言の中を駆け抜けた。

 そうだ、よ、ね。

 そうだよ。

 美言が、背中できゅっと自分の手を結ぶ。

 彩海君のお母さんが元気になって、また彩海君が、お母さんと一緒に暮らせることになった、っていうことは。

「とう、きょう?」

 かえる? とうきょうに?

 この国の、首都の名前。この県の隣にある、日本でたった一つの都の名前。

 隣だなんて。

 近いけど、でも、とても遠い。

 だってそれって、

「月代から、いなくなっちゃうの? 彩海君……、」

 もう美言は彩海君に、毎日は会えなくなっちゃうってことでしょ……?

 当たり前のことを問うて、美言はぼんやりと、彩海を見つめた。

 振り返ってはくれない、彩海の背中。

 ……こんなにも。

 今はこんなにも、触れられそうなくらい近くにいるのに、美言は彩海君に、もう、会えなくなっちゃうの?

 そんなの、

「そっ……かぁ……、」

 いつか来る日だとは、確かに、わかってはいたような気がする。しかしそれでも、

 そんなの、唐突過ぎるよね……?

 しかし。

 思ったことを、美言は決して口に出そうとはしなかった。

 無理やり笑顔を浮かべると、

「でもっ! 良かったじゃないのっ、ね? またお母さんと一緒に暮らせるんだよ? 彩海君は……ねえ、」

 ねえ。

 良かったじゃない……ね?

 言う代わりに、美言は両手を、彩海の両肩へと置いた。

 その上から、彩海の左肩へと、軽く頭を乗せると、

「美言は……嬉しいよ」

 嬉しいよ。嬉しいんだよ。本当だよ、彩海君。

 けれど、どうしてだろう。

 嬉しいはずなのに、美言はどうして、素直に笑えないんだろう。

 悲しいことが、あったわけじゃないのにもかかわらず――。

 美言ったら、ちょっとおかしいよね。

 心の中で、自分自身を笑い飛ばす。おかしいね、そんなの、と、くすりと笑う。

 ――秋が、流れる。

 その響きに、彩海のパレットから漂う、絵の具の匂いが混じり込んだような気がした。

 秋桜が、揺れる。この世界と、彩海の描く世界とで、秋桜が静かに揺れる。

 暫くの、沈黙の後。

「おめでとう」

 彩海君。

 その沈黙を破り、瞳を閉ざしてようやく囁いたのは、美言であった。

 その声音に、しかし彩海は応えない。

 彩海は黙ったままで、美言の暖かさを感じていた。

 甘い、花の香りがする。

 その香りを、心地良く吸い込んで、

「……ありがとう」

 ぽつり、と、彩海も呟いた。

 けれど。

 違う。

 僕が美言に言いたいのは、こんなことじゃあなくて。

 静かに答えてから、彩海は自分の言葉にはっと後悔の念を感じていた。

 自分には、もっと美言に対して言うべきことがあるのではないか。今自分が美言へと言うべきことは、こんなことじゃあない。

 こんなことでは、なくて。

「うん、おめでとう」

 震えを押さえた声音が、心に響く。

 美言。

 どうしてか、今日は美言が、いつもよりも近しい存在に感じられてならなかった。いつも傍にいてくれた彼女が自分にとってこんなにも暖かい存在であったのだと、彩海はこの時初めて、切々と深く感じていた。

 しかしこの暖かさは、もうすぐに、過去って行ってしまうに違い無い。

 それでも彩海は、言いたいことを、本当に自分の言いたいことを、彼女に伝えることはできなかった。

 それどころか、彼女の方を振り返ることすら、できずにいた。


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