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第4章−A

 あの日から。

 美言の魔法は、今までからは考えられないほどに、急激に上達を始めていた。

「それにしても、美言は本当に、今日は高く飛んでいらっしゃりましたものねえ。絶好調、……な感じですか?」

 その上達ぶりは、美言が箒に跨れば、今やかなり高く、速く空を飛ぶことからも見て取れる。

 空を飛ぶ、などと。

 これこそまさしく、御伽話的に思われがちなのであろうが、魔法使いにとって飛行は、割と当たり前にこなせることの一つであった。空気の質を変化させることによって、魔法使いは空を飛ぶ。つまり空を飛ぶという行為は、単に空気に対して干渉を加えている行為に過ぎないのだ。

 いつもの書斎、安楽椅子の上のルーカスは、傍で机に向かっている美言を微笑まし気に見つめながら、膝の上に乗せた本をぱらりと捲る。

 美言は今、机に向かって魔法の勉強中であった。ルーカスに声をかけられても、比較的真面目な表情を崩そうとはしない。

 ――と。

「ねえ、先生?」

 からり、と鉛筆を机の上に置き、美言が唐突に本から顔を上げたのは、それから暫くしてのことであった。

「何ですか?」

 美言はルーカスの微笑を受けて、うーん、と小首を傾げると、

「どうして美言、彩海君には好きだよーって、言えないんだろうね」

 あまりにも唐突過ぎる言葉を口にした。

 どうやら、美言の頭を真剣に悩ませていたのは、魔法、ではなく、彩海の方であったらしい。

 なんでだろう。

 そのまま、顎に手を当てて、じっと考え込んでしまう。

 例えばね。

 美言、先生には今すぐにだって、好きだよって、きちんと言えるのに。

 司教様にだって、大好きだよって、言うことができるのに。

 それなのになんで、彩海君にだけは、そうやって言えないのかな?

「言えない、とは?」

「……わかんない。でもね、なんかこう――言っちゃあ、いけないような気がする」

 どうしてだろうね?

 説明を求められて、逆に、更に問いを重ねてしまった。

 ……駄目だよ。

 自分でも、わからないことだらけだ。

「美言はね、彩海君のこと、嫌いじゃないの」

 ええ、とルーカスが頷く。

「美言はね、彩海君のことも、だーい好き、だよ」

 美言が、言葉を続ける。

「でも、彩海君には、好きだよって、どうしても言えないの」

 胸の辺りに手を置き、ほっと一息吐いた。

 ねえ、先生?

「でももしかして、美言は、彩海君のことが、嫌いなの?」

 ――そんな馬鹿な。

「その答えは、美言自身が一番よく知っていらっしゃるでしょう?」

 そんな可能性については、考えるだけ無駄というものでしょう。

 美言による、美言への問いに対する答えを即座に口にすると、ルーカスは美言の頭にぽん、と軽く手を置いた。

 そのままにっこりと、微笑みかける。

「ねえ、美言」

「なぁに?」

「一つ、お話を聞かせて差し上げましょうか?」

「うんっ」

 手近にあった棚の上に本を置き、頷いた美言を手招きして、自分の膝の上に座らせる。

 無邪気に喜ぶ少女のぬくもりは、心なしか、今までよりも少し重さを増しているように感じられた。

 ……こんなにも。

 こんなにも、いつの間にか、大きくなられてしまって。

 その分伸びた体を、後ろからふわりと抱きしめると、

「私にも、そういう時期がありました……と、思いましてね」

「そうなの?」

 胸の下で合わさったルーカスの手に手を重ねながら、美言が意外、と言わんばかりに問うてきた。

「ええ」

 ルーカスはその暖かさに瞳を細めつつ頷くと、

「私もどうしても、言えなかったんです」

 もう、今から何十年も前の話になる。今は亡きルーカスの妻と、自分とが出会ったばかりの頃のこと。

「……私には、あなたの他に家族がいるんですって、そういう話は、致しましたでしょう?」

「うん。奥さんと、娘さん、だよね」

 二人とももうこの世にはいませんけれどね。今でも二人は、私の大切な家族なんですよ――あなたと、同様にね。

 そうルーカスが美言へと話したのは、何も遠い昔のことではない。

 美言が、ルーカスの手へと自分の指を絡める。

 その時のルーカスの寂しそうな表情を、美言はよく覚えていた。

 だからこそ。

「ええ。――私もね、そうだったんですよ。妻と出会ったばかりの時、いいえ、結婚してからでさえ。どうしてもあの人に対して、中々好きだと、言えなかったんです」

 ルーカスが、妻と娘とをどんなに大切に想っていたのか。美言はそれを、よく知っている。

「でも先生は、奥さんのこと、愛してたんでしょ?」

「ええ、勿論です」

「でも、好きだって、言えないの?」

 どうして?

「……嫌われるのが、怖かったのかも知れません」

 問う前に、答えてくれた。

 嫌われるのが、怖い?

「或いは、言葉では表現できないくらいに、彼女を愛しているからかも知れません」

 言葉では、表現できないくらいに?

 ルーカスの話が、少しだけ、美言の次元よりも高い所で展開されているように思われてならなかった。

 ……そりゃあ。

 美言だって、恋愛小説とか読むし。――正直、お友達同士で、そういうオトナのザッシとか、まわしっこしたことがないわけじゃあ、ないけれど。

 でも。

「大好きって言葉で表現できないくらいに、大好きなの?」

「言葉に、しちゃあいけないような気がするんです」

 先生のその言い分が、わからないわけじゃあない。でも、

「でも、言葉にしなきゃ、わかんないよね?」

「ええ、その通りなんですよ、美言」

 ルーカスはすんなりと頷くと、

「でも、わかっていても、やっぱりどうしても言えないんです。考えれば考えるほど、好きだって、言えなくなるんですよ。……言ってしまいたいって、言わなくちゃあいけないのかも知れないって、わかっているはずですのに」

 しかし、意思に反して、どうしても本心が、口をついて出てこないのだ。

 それをあの頃の自分は、どれだけもどかしく思っていたことか。

「私の妻は、随分と積極的な女性でしてね。むしろ形的には、私が言い寄られた方なんですが、」

 珍しく、ルーカスは照れ笑いを浮かべた後、美言をもう少し強く抱きしめなおすと、

「私の方は、この通り小心者なものですから。どうしても、彼女に好きだと、言えなかったわけです」

 静かに息を吸い込むと、美言の髪から、甘い花の香りが感じられた。

 ……そう。

 思い返せば。

 少し子供っぽい彼女は、年相応には見えなくて。丁度今の美言が、もう少し大きくなったくらいの年頃にしか見えなくて。

 彼女はいつまでも、結婚してからも、娘が生まれてからも、ずっとずっと、無邪気な女性であった。

 ねえ、ルーカス。私はね、ルーカスのことが、大好きよ。

 あなたの傍に、ずっといたいの……駄目かしら? ねえ……。

 記憶の中で、妻が微笑む。

「愛しているんですよ、彼女のことを。けれど、色々都合をつけているうちに――そう、中々言葉には、できなくなってしまって。彼女が私のことを嫌いになるはずもないし、愛していますよ、好きですよ、って言葉を、きっと彼女は喜んでくれるだろうって、わかっていましたのに。どんなに言葉以上に彼女を愛していても、やはりそれを言葉にするには、愛していますよ、好きですよって、言わなくてはならないことを、わかっていましたのに」

 だから、少し後悔しているんです。

 体の力を抜いて、そっと体重を預けてくる美言の耳元で、優しく言い聞かせる。

「もっと、彼女を安心させてあげることができれば良かったのに……と、ですね」

 或いは、彼女は手探りであったのかも知れない。言葉をくれないルーカスの愛情表現を、どう捕らえたら好いのか、わからなくなることもあったのかも知れない。

 言葉にしなくても、表現できることは沢山ある。だが言葉にすることによって、彼女の不安を、取り除くことができたのかも知れない。

 そう、わかってはいても。

 好きですよ。

 愛しているんです。

 口にしたことが無かったわけではないが、言いたい時に、口をついて出てくる言葉ではなかったのだ。

「ねえ、美言」

「なぁに?」

「私はあの人に対して、中々愛しているだなんて言えませんでしたけれど。それでもずっと、今でも、あの人のことを、紛れも無く愛しているのですよ」

「……うん」

 そんなわけがないとわかってはいても、嫌われることが怖くなってしまうほどに、言葉にできないほどに、大切に想っている。

 それは、大切な言葉を言えなかったことに対する逃げの言い訳でもあるのかも知れないが、自分が臆病にならなくてはならないほど、躊躇しなくてはならないほど、彼女を愛しているということの、裏返しでもあったのだ。

 ですから、美言。つまり、私の言いたいことは。

「美言はそれだけ、彩海君のことを、好きなのではありませんか?」

「美言が、彩海君のことを?」

「そうです。……特別、なんじゃあありませんか? 一番、ですとか」

「特別? 一番?」

 きしり、きしり……と、二人を乗せた安楽椅子が揺れる。

 美言は少し驚いたように、

「美言はね、先生のことが、一番大好きだよ。勿論、パパとかママとかも、一番好きだけど……」

「それは、嬉しいですねえ。……でも、そういう好き、と、彩海君に対する好き、とは、もしかしたら、違うものなのかも知れませんよ?」

 そういう意味で、あなたにとって彩海君は、特別、なのかも知れませんよ?

 付け加えて、美言の髪をするりと撫でる。

 美言も自分の長い髪を、指先に絡めて遊ばせていた。

「……そう、なのかなぁ?」

「そうかも、知れませんよ」

「へぇんなの……」

 納得いかないよ、と、言わんばかりに、美言が口を尖らせる。

 そんな弟子の――否、娘の様子を、父親はどこか微笑まし気な、しかしどこか寂し気な色の混じった視線で見守っていた。


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