第九十二話 存在しない弟
前書き
この物語は、目には見えないものに耳を澄ませながら、自分自身の運命と向き合っていく少女・楓夏の物語です。
森の声。
魂の記憶。
ご先祖様から受け継がれる想い。
そして、まだ誰にも決められていない未来。
私たちは、日々の中で「どうしてこんなことが起きるのだろう」「なぜこの人と出会ったのだろう」と、不思議に思うことがあります。
もしかすると、その出来事には、目には見えない意味があるのかもしれません。
楓夏もまた、森から聞こえる不思議な声をきっかけに、さまざまな魂や未来と出会い、自分が何者なのかを知っていきます。
けれど、この物語で描きたいのは、特別な力を持つ少女の冒険だけではありません。
大切な人を想う気持ち。
失った人への愛。
自分では変えられない過去。
そして、これから先をどう生きるのかという「選択」。
どんなに過去を変えたいと思っても、起きてしまった出来事を消すことはできません。
それでも、その経験を抱えたまま、未来へ進むことはできます。
誰かに決められた運命ではなく、自分自身で選んだ道を歩いていく。
その先に、どんな未来が待っているのか――。
楓夏と一緒に、森の声に耳を澄ませながら、この物語の世界を旅していただけたら嬉しく思います。
あなたの心にも、いつか小さな「声」が届きますように。
そして、その声があなた自身の未来を選ぶための、優しい道しるべになりますように。
第九十二話 存在しない弟
「お兄ちゃん」
黒い糸の中の少年が、凪人へ微笑みました。
凪人は動けません。
「……弟?」
少年は頷きます。
『うん』
「僕に弟はいない」
『今はね』
楓夏が息をのみました。
「今は……?」
少年は黒い糸の向こうから答えます。
『僕は、本当は生まれるはずだった』
***
零が黒い糸を見つめます。
「これは、消された可能性……」
最初の守り手が頷きました。
「そうです」
「つまり、この少年は――」
「存在しなかった未来の魂です」
凪人は苦しそうに目を伏せました。
「どうして僕は覚えていない?」
「生まれなかった存在だからです」
少年が笑います。
『でも、お兄ちゃんだけは覚えてる』
「……覚えてない」
『魂は覚えてるよ』
凪人の胸に、小さな光が灯りました。
その瞬間――。
凪人の頭の中に、幼い頃の光景が浮かびます。
二人の少年。
一緒に走る。
一緒に笑う。
そして――。
小さな弟が言いました。
『大きくなったら、お兄ちゃんを守る』
凪人の目から涙が落ちます。
「……僕は、忘れてた」
***
楓夏が尋ねます。
「どうして弟さんは生まれなかったの?」
少年の表情が曇ります。
『僕が生まれる未来を、誰かが消したから』
「誰が?」
少年は答えません。
代わりに黒い糸の奥を指しました。
そこには、一つの黒い扉があります。
『あの向こう』
零が青ざめました。
「あれは……」
最初の守り手が言います。
「禁じられた未来への扉」
「そんなものが、どうしてここに?」
「誰かが意図的に残したのでしょう」
凪人が立ち上がります。
「僕が行く」
楓夏が止めます。
「一人では行かない」
「でも――」
「あなたの弟なんでしょう?」
凪人は黙ります。
「だったら、一緒に探そう」
結花も手を挙げます。
『私も行く』
「結花も?」
『うん』
結花は笑います。
『だって、未来の家族でしょう?』
凪人は涙を拭きました。
「……ありがとう」
***
四人は黒い扉の前に立ちました。
最初の守り手だけが、そこから離れません。
「この扉の先へ行けば、今までの時間には戻れなくなるかもしれません」
楓夏は尋ねます。
「それでも行く」
「なぜ?」
「凪人くんの弟を、なかったことにしたくない」
凪人も頷きます。
「僕も」
結花が扉に触れました。
すると――。
扉が勝手に開きました。
その先には、真っ暗な空間。
そして中央に、一人の女性が立っていました。
「……誰?」
女性が振り返ります。
楓夏は息をのみました。
「お母さん……?」
そこにいたのは――。
楓夏の母でした。
しかし、若い。
そして腕の中には――。
一人の赤ん坊。
凪人の弟です。
凪人が震えます。
「どうして……」
若い母は赤ん坊を見つめながら、涙を流していました。
「この子を生んではいけない」
楓夏の顔が強張ります。
「なぜ?」
女性は答えます。
「この子が生まれると――」
赤ん坊を抱きしめます。
「世界樹が枯れてしまうから」
***
「そんな……」
凪人が絶句します。
若い母は続けます。
「この子には、強すぎる力がある」
「未来を変える力」
「その力が目覚めれば、世界の時間が壊れてしまう」
凪人は首を振ります。
「だから、存在を消したの?」
「……そう」
赤ん坊が泣き始めます。
女性は涙を流しながら、赤ん坊を抱きしめました。
「ごめんなさい」
「あなたを嫌いだからじゃない」
「世界を守るために――」
凪人が叫びました。
「そんなの、理由にならない!」
女性が振り返ります。
「あなたは……」
「僕は、この子の兄です」
凪人の胸の紋章が輝きます。
「弟を守る」
***
すると、赤ん坊が凪人を見つめました。
まだ言葉を話せないはずなのに――。
『お兄ちゃん』
凪人の目から涙が溢れます。
「……覚えてる」
『僕も』
「ずっと忘れてた」
『でも、今思い出した』
楓夏は胸が熱くなりました。
そのとき。
最初の守り手が静かに言いました。
「ここから先は、あなたたち自身で決めなければなりません」
「どういうこと?」
「この弟を今の世界へ連れていけば、世界樹は枯れる可能性があります」
楓夏が弟を見る。
「じゃあ、連れて帰れない?」
「いいえ」
「方法はあります」
女性は凪人を見つめました。
「弟を救うには――」
そして、楓夏へ視線を移します。
「始まりの紋章を二つに分ける必要があります」
「二つに?」
「一つは楓夏」
「もう一つは――」
女性が凪人の胸を指しました。
「凪人」
凪人の胸に、見たことのない光が浮かび始めます。
そして――。
赤ん坊の胸にも、同じ紋章が現れました。
「これは……?」
零が震える声で言います。
「兄弟の魂が、同じ未来を共有している……」
その瞬間。
黒い扉の向こうから、巨大な音が響きました。
ドン――!
世界が揺れます。
女性が青ざめます。
「もう時間がありません」
「何が来るの?」
女性は答えました。
「この子を消した張本人です」
暗闇の奥から――。
一人の男が歩いてきました。
その顔を見た瞬間。
楓夏は言葉を失いました。
「……お父さん?」
しかし、凪人が叫びます。
「違う!」
男は笑いました。
「よく分かったな」
そして――。
「私は、お前たちの父親ではない」
男の目が赤く光ります。
「お前たちの未来を作った者だ」
――第九十三話へ続く。
後書き
『世界樹の少女と、終わりの魂』を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話。
長い旅となった楓夏の物語も、ここで一つの区切りを迎えました。
最初は、森から聞こえる不思議な声に戸惑っていた少女が、たくさんの人や魂、そしてさまざまな未来と出会いながら、自分自身の運命と向き合っていきました。
物語の中では、失われた未来や、選ばれなかった未来も登場しました。
けれど、どの未来も決して無意味なものではありません。
私たちの人生にも、「あのとき別の道を選んでいたら」と思う瞬間があるかもしれません。
過去に戻ってやり直すことはできなくても、その経験をこれからの人生にどう生かすかは、自分で選ぶことができます。
楓夏が最後にたどり着いた、
「未来は誰かに決めてもらうものではない」
という答えは、この物語を通して伝えたかった大切なテーマでもあります。
そして、目には見えない魂や森の声を描きながら、もう一つ大切にしたかったのは、「つながり」というものです。
大切な人との思い出。
亡くなった人から受け取った愛。
家族の絆。
言葉にできなかった想い。
それらは、姿が見えなくなっても、心の中から簡単に消えるものではありません。
もしかすると、ふとした瞬間に感じる懐かしさや、夢の中で出会う大切な人の姿も、心の奥に残った記憶や想いが、私たちに何かを伝えているのかもしれません。
楓夏は、森の声を聞くことで、たくさんの魂と出会いました。
そして最後には、自分自身の声にも耳を澄ませることができるようになりました。
物語は終わりました。
けれど、楓夏たちの未来は、ここからも続いていきます。
悠真がどんな人生を歩むのか。
結花がどんな大人になるのか。
凪人と楓夏がどんな日々を重ねていくのか。
それは、誰にも決められていません。
だからこそ、未来には無限の可能性があります。
この物語を読んでくださったあなたの未来も同じです。
もし今、迷っていることがあるなら、焦らなくても大丈夫です。
立ち止まってもいい。
遠回りしてもいい。
時には、最初から選び直してもいい。
あなたがあなたらしく歩いていく限り、その一歩一歩が、あなただけの未来になっていきます。
最後まで楓夏たちと一緒に旅をしてくださった皆さまへ。
心からの感謝を込めて。
そして、いつかどこかの森で風が木々を揺らしたとき――。
ほんの少しだけ耳を澄ませてみてください。
もしかしたら、楓夏の声が聞こえるかもしれません。
「大丈夫。
未来は、これから自分で選んでいけるよ」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
全100話――完結。




