2-7 残虐なのは誰?
剥がれた鱗の下から現れたのは、懐かしさに触れた表情だった。
川の流れの中に立ち、仲間たちの声に振り向いていた、神だった頃の姿。
オロチが両腕を広げる。踊るような、流れをなぞるような動きだ。
「おれは川の神であり、川そのものだ。穏やかな清流で……季節の移ろいを見守っていた。春は桜を、秋は紅葉を水面に映していた」
淵を回り、しぶきを上げ、岸に寄り添う——そんな道筋を、体が無意識に描いている。
告白を連ねるたびに、顔から、腕から、足から、次々に鱗がこぼれた。乾いた音を立てて床に散らばる。血がにじむ。目を覆いたくなるほどの痛々しさだ。
それでもオロチの声色は柔らかかった。鱗が剥がれるほどに、重さを脱ぎ捨てるように、四肢が伸びやかに広がっていく。
「生贄など必要ないように思えますね」
わたしは手帳にすがるように綴った。胸が締めつけられる。
この物語の結末を知っているから。
オロチの手の動きが、空中でふと止まった。
「ある年の秋、歴史の中でも稀に見る豪雨が続いた。よからぬ力が満ち、おれは自らを制御できなくなった。堤は崩れ、田は沈み、稲はひとつ残らずだめになった」
オロチはゆっくりと腕を下ろした。目を閉じる。
「明くる秋、川を鎮めるため、最初の娘が投げ込まれた」
鱗がまた一枚、床に落ちる。今度は、水を含んだ土が崩れるような重い音だ。
「八人姉妹の長女ですね」
知っている事実を差し込んだ。
オロチが少しでも話しやすくなるように。これが独り言ではなく、共感する相手のいる対話なのだと伝えるために。
今この場だけでも、孤独ではないことを、どうか忘れないでほしい。
そう願いながら、次の答えを待った。
「……そうだ。幼い頃からよく知っていた。山に遊びに来ては、川岸に寝そべり、日向ぼっこをしていた。美しい貝殻を集め、紐を通して飾りをこしらえ、供物として投げ入れてくれた。信心深く、優しい子だ」
わたしは首飾りに目を向けた。
そう、これはオロチが人々に慕われ、愛されていた証だ。残虐な人食い蛇がこんなものを持っているはずがない。
オロチはこちらを見ていなかった。見えない水面を見つめているのだ。
「あの秋。里の者たちによって放り込まれた娘は、岸から上がれないよう、両手両足を縛られていた。呼吸ができず、水中でもがき苦しみ続けた。縄が肌に食い込み、血が流れ出る。口から色とりどりの花びらが舞い出る」
わたしの頭の中にも、生贄の少女の映像が鮮やかに浮かび上がる。
「おれにはそれが永遠に感じられた。早く楽にして、という懇願が届いた。だからおれは、神として祈りを聞き入れた……
彼女の体を捕らえて、水底に沈めたんだ」
言葉を吐くたび、胸の奥を削っているようだ。それに呼応するように、鱗が一枚、また一枚と落ちる。
自分を理解するということは、痛みを引き受けることなのだ。
「声は途切れ、泡は消え、気づけばおれは、二つの頭を持つ蛇に変身していた。それからは毎年、同じことのくり返しだ。一人食らうごとに、体も魂も引き裂かれ、正気を保てなくなった。次第に若い女の味を好むようになった。そして最後の年には、八岐の怪物に成り果てていた」
言葉が尽きると、あとには水の引いた川底のような静けさが残っていた。
これが八岐大蛇伝説の舞台裏。完全悪として憎まれてきた怪物の、もうひとつの正体だ。
けれど、ここで終わるわけにはいかない。エンマ様の期待通り、もう一歩先へ踏み込まなければならない。わたし自身もそれを望んでいた。
オロチの、ヒイノミコトの心の部分。
言葉を探す。何度も反芻し、慎重に重さを測り、最後の問いを選び抜いた。
「あなたは後悔していますか?」
オロチはすぐには答えなかった。
うつむき、自らの胸元を見下ろしている。首飾りがかすかに揺れた。
「している。けれど、どこからやり直せば救われるのかもわからない」
笑みも強がりもない。
泣きたいのに、泣き方を知らない者の顔だった。
「ああ、おれが欲しかったのは、貝殻だけだったのに」
・・・・・・・・・・
エンマ様の下した判決は、変わらず〝無間地獄〟だった。
わたしは、その首根っこにつかみかかりそうな勢いで猛反撃する。
「どうして! 情状酌量の余地はありますよね。話、聞いていました?」
エンマ様は、眉ひとつ動かさない。すでに閻魔帳に判決を書き終え、筆を置いている。
「事情はどうあれ、清らかな心を捨て、罪なき者を屠り続けた事実は覆らない」
「〝完全悪〟は、大衆の歪んだ心願によって生み出された悲劇の怪物だったのよ」
エンマ様は、怖い顔でこちらを見た。
「神話に正義はない。あるのは、その時代にとって都合のいい解釈だけだ」
「都合だなんて……わたしは公正公平に話を聞きましたよ!」
「当事者らはそう信じているだろう。しかし誰かが誰かに話を聞く以上、必ず主観は混じる。この仕事を続けるつもりなら、ゆめゆめ忘れるな」
ひどい。悪魔の心臓をかき集め、こね合わせて形作られたような男だ。
わたしは歯を食いしばり、なんとか痛いところを突いてやろうと必死だった。
「じゃあ、エンマ様は偏っていないのですか」
「偏っている。だから裁きには複数の目が必要だと判断し、おまえの力を借りている」
エンマ様は事もなげに答えた。
ふうん、それでも最終決定権は自分にあるというわけね。
尚も言い返そうとしたそのとき、間に入ったのはオロチだった。
「もういいよ、お嬢さん。おれは地獄が楽しみだ。己を知ったうえで行けば、苦痛の味もまた変わるかもしれないだろう?」
くつくつと肩を揺らす。皮膚の鱗はすべてが剥がれ切ったわけではない。ところどころで鈍く光っていた。
背後で、重い気配が動く。石が擦れる、低く濁った音。再び、地獄の門がゆっくりと口を開いたのだ。熱風と火の粉が吹きすさぶ。何年ここにいようと、何度立ち会おうと、この瞬間だけはどうしても体がこわばる。
鬼たちが飛び出し、オロチの両腕をつかんだ。オロチは一切の抵抗をせず、おとなしく連れられていく。
思わず後を追った。熱風に押し返されながらも距離を縮める。
「楽しみって……わかっていますか? また一中劫の苦しみに苛まれるのですよ」
オロチは足を止めない。それでも、わずかに顔だけを横へ向けた。
「言ったろう。おれは、本当の永遠の苦しみを知っている。それと比べりゃあ、無間地獄も他愛ない」
わたしは、堪え切れずに身震いした。胸の中の決意を押し出す。
「ヤマタノオロチ——いえ、ヒイノミコト。あなたが聞かせてくださったもうひとつの神話を世に広め、必ず汚名を返上します。わたしがあなたの証人よ」
ヒイノミコトが目を見開いた。
短く息を吐き、鬼の手を振りほどきながら、もがくように肩をひねる。首元に指を差し入れて探っている。紐がほどけ、貝殻の首飾りが外れた。弧を描くように放り投げる。
あっ気に取られながらも、反射的に両手を伸ばした。確かな重みを受け止める。
それを見届けたヒイノミコトは、ふっと肩の力を抜いた。真夏の青空を映したような、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「おまえが冥府にいる限り、また会うときが来るだろう。それまでに、世界の逆風が少しは和らぐことを期待するよ」
軽く手を振る仕草は、別れというよりも、しばらく席を外すだけの仕草に見えた。
わたしも、エンマ様も、司命も司録も、遠ざかる姿をただ黙って見送る。
地獄へ続く門の寸前で、ヒイノミコトはふと足を止めた。
「そうだ。ひとつだけ嘘をついたぞ。おれは二枚舌だからな」
わたしを振り返り、ぺろりと舌を出す。その舌先は丸みを取り戻していた。
「おまえは、よい香りだ」
そして鬼たちに投げ込まれる前に、自ら門の向こうに身を躍らせた。落下する背中が、水に溶ける影のように消えていく。
一中劫後に、また会いましょう。
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