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2-6 あの世では洗濯要らず?

 決意を固め、オロチと向かい合ったところで、はっと我に返った。


 手帳が使えない。洪水に巻き込まれ、じっとりと濡れている。表紙は波打ち、ページはふやけ、書き溜めた文字は黒くにじみ、何が書いてあるのか読めやしない。

 ペンも水を吸って重くなっていた。鶴と亀のマスコットも、惨めな顔をぶら下げている。


 喉の奥がきゅっと締まった。命より大事、は大げさだけれど。この手帳には、学校記者として走り回った十一年間と、冥府で過ごした七十年間が詰まっている。

 数え切れない人々と、わたし自身の(あかし)なのだ。

 大蛇に締め上げられたときよりも、地獄の門に片足を突っ込んだときよりも、よほどつらい。珍しく、心がぽきりと折れそうになった。


「あーあー、そんな顔をするなって!ほら、新しいのを調達してやるから。今度はもっと可愛いやつな。花柄とかどうだ? いや、猫柄か?」


 司命が焦ったように早口でまくし立てる。


「事実は、水では消えません。もう一度書き直せばいい。迷ったら、ぼくが補完します。七十年間、隣で見ていましたから」


 司録が冷静に言う。


「あー、そうだな。ぼくも六割くらいは覚えているぞ」

「残りの四割はどうするのですか」

「話を盛る!」

「それは補完ではなく、文書改ざんです」


 双子のやり取りを聞いていたら、なんだかおかしくなってきた。

 ……まあ、元々、擦り切れていたし。冥府にいれば不思議とページが尽きなかったけれど、本来ならとっくに役目を果たしていたはずだし。

 あきらめのため息をつく。


 そのとき、エンマ様が玉座から立ち上がった。颯爽とこちらへ歩いてくる。結われた長髪が、わたしの目の前で揺れ、その影が足元に落ちた。


 ——え。


 エンマ様がひざまずき、わたしの手を取ったのだ。

 細長い指に触れられたとたん、冷たさに全身が跳ねた。日頃から冷淡、無慈悲と思ってはいたが、体温までこうとは知らなかった。


「エンマ様、突然何を!?」

「はわわわ……」


 双子が目を回し始めた。わたしよりも、よほど取り乱している。冥府の王が膝を折るなど、前代未聞なのだろう。


 だが、当の本人は一切気にしていない。

 自らの官服の袖をたぐり寄せ、手帳にそっと押し当てた。そしてわたしの目を見上げる。


「あきらめるな」


 手帳の黒い染みが、みるみるうちに吸い取られていった。一方で、深紅の布は、端からどんどん汚れていく。


 双子が息をのんだ。


「おやめください! それは官服ですよ? 神々から与えられた、冥府の正装ですよ?」


 エンマ様は、ちらりとも振り向かない。ただ淡々と袖を押し当て続ける。

 ページの白が戻る。文字の輪郭が立ち上がる。やがてすっかり元通りになった。


 今度はペンを取り上げ、袖にくるむ。次に開いたときには、ペンも乾き、機能を取り戻していた。


「案ずるな。冥府の衣は、汚れを受けつけない」


 双子に向かって、落ち着いた低い声で言う。そして優雅な仕草で袖を払った。

 ところが袖は真っ黒のままだ。


 エンマ様は、今度はやや力強く、ぶんぶんと袖を振った。


 変化は起きない。吸い取ったインクが、堂々と居座っている。


「……意図的に汚した場合は、例外のようですね」


 司録があきれ顔を見せる。


 エンマ様は、支障ない、という顔で玉座へ戻っていった。ちょっぴり意地になっている気もする。


 手帳をめくり、ヤマタノオロチの証言のページにたどり着く。書き留めた文字は、何事もなかったかのように整列している。その下で、まっさらな新しい(ぎょう)が、静かにわたしを待っていた。


「ありがとうございます!」


 わたしは深々と頭を下げた。

 エンマ様のご厚意、有効活用させていただきます!


 さあ、オロチに何を聞く。何から聞く。頭の中で、無数の問いを組み立てては崩す。


 八岐大蛇(やまたのおろち)が食っていた娘たちは、里の人々によって捧げられた生贄(いけにえ)だった。刃物のような核心だ。質問の順番を間違えれば、彼の心を壊してしまいかねない。


 ——順番。そうだ。

 あなたの最初から始めよう。


「一番古い記憶を教えてください」


 扉をこじ開けるのではなく、ただノックをする問いを選ぶ。


 オロチは再びぼんやりと視線をさまよわせた。広間の壁ではなく、もっと遠い場所を眺めている。

 答えが返ってくるまでの沈黙は、あらかじめ受け入れていた。


「どんな些細なことでもかまいません。景色とか、音とか……」


 記憶の輪郭を紐解くように、そっと手がかりを置いていく。


「名前、とか」


 オロチのこめかみのあたりの鱗に、細い亀裂が走った。耐え切れなくなったように、はらりと一枚、床へ落ちる。オロチ自身はそれに気づいていない。


「ひ」


 ほとんど息を吸い込むだけの音だった。かつての形を思い出したように、唇が動く。


斐伊命(ひいのみこと)と呼ばれていた」


 名乗った瞬間、(せき)を切ったように、鱗がぽろぽろと剥がれ落ちた。

土日は正午頃に更新いたします!

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