2-5 今さら?
幼児たちが、腰に下げた水筒の水をオロチに飲ませてやる。
「……桃、助かった」
玉座に座っているエンマ様が、桃鬼さんに向けて粛々と言った。
「いえいえ。ご入用とあらば、何なりと」
桃鬼さんは癖毛を搔きながら、大広間を見渡した。一面水浸しで、床のあちらこちらが割れている。
わたしに小さくたずねた。
「エンマ様は、なぜ〝帰寂〟を使わなかった?」
帰寂。すべてを無に帰す二文字だ。それを閻魔帳に書いて、八岐大蛇を消滅させれば、こんな大騒動にはならなかったのに。
「わたしが止めてしまったからです……」
仕方なく白状する。
桃鬼さんは、あらあら、とだけ返した。
「桃爺も桃婆も、ありがとな!」
司命が幼児たちに声をかける。桃鬼さんが冗談で〝爺ちゃん〟〝婆ちゃん〟と呼ぶのになぞらえ、そんなあだ名で呼ぶのだ。
「んじゃ、がんばって取材してちょうだい」
桃鬼さんが、わたしの頭にぽんと手を置いた。わーいと両腕を上げて駆けていく幼児たちとともに、さっさと撤収していく。
残されたのは、何にも例えがたい青汁の醜悪な臭いだった。
「取材って……今さら何を聞くつもりですか。ひどい目に遭ったばかりなのに」
司録があきれ果てる。
わたしの傍らで、オロチはぼんやりと天井を眺めていた。洪水の痛手か、青汁の衝撃か、それとも。
「まだ聞かなければならないの」
でも、何を? 肝心の問いが出てこない。頭が真っ白だ。こんな感覚は初めてだった。
そんなわたしを、エンマ様は暗い瞳で観察していた。黙って待っていたが、やがて視線を隣のオロチへと流す。
「その女から、花の香りはするか」
ええっ、変な質問——
全員が心の中でずっこけたのは明らかだった。
「も、もう、エンマ様ったら、こんなときに冗談ですか」
なんとかフォローしようと、引きつった笑みをひねり出す。
花? 香り? 何の話だっけ。記憶を逆再生する。
〝若い女は花の香り。雑味なし〟——オロチの食リポだ。
オロチも場違いな質問に面食らっている。
エンマ様が補足した。
「それも一応、若い女だが」
しつこい男!
あきれるわたしの頬に、オロチが鼻先を押し当てた。遠慮なく、くんくんと嗅ぐ。
「いや、こいつは無臭だ」
「あなたも馬鹿真面目に答えないでくださいよ」
わたしが眉根を寄せると、司命は意地悪な笑い声を上げた。
「おいおい。それじゃあまるで、れーちゃんが若くなくて、雑味たっぷりみたいじゃないか」
「うるさいな。花の香りなんて、男の子の幻想でしょ」
「幻想とは限りませんよ」
こう発したのは司録だ。机いっぱいに何冊もの帳面を広げ、目にも留まらぬ速さでめくっている。
「食事を断ち、清めの水だけを体内に入れ、口に花びらを含まされる娘たちは、歴史の様々な場面に登場します」
その言葉は、点と点が線で繋がる感覚を連れてきた。オロチの隣で硬直する。
若い娘。年に一度。断食。供花。
オロチは渇欲に任せて食べたのではない。
「……生贄」
そっとつぶやく。
「姉妹は、里の人々によって捧げられた生贄だったのね」
オロチははっきりと息をのんだ。片手で自らの胸元を押さえる。手の甲に弾かれ、首飾りに通された貝殻がたゆたう。一中劫の歳月を経たとは思えないほど艶やかで、欠けひとつない。
それらが奏でた、しゃん、という音を引き金に、頭の中で、手帳に書き留めた文字が次々と降り注いだ。
娘は濡れていた。
丸呑み。
彼は山から下りてくる。
神々の時代。
「八岐大蛇になる前、あなたは川の神様だったのではないですか?」
オロチの目が大きく見開かれた。皮膚に張りつく鱗が、かすかな震えとともに浮き上がる。抜け殻のような表情だ。きっとオロチも戸惑っている。
自分が何者なのかがわからない恐怖。正体のない空虚。自らを〝完全悪〟と信じ込んで生きる方が遥かに楽だろう。
それでも、わたしは——
「聞かせてください」
オロチの視線は行き場を失い、漂ってから、こちらへと戻ってきた。
喉が動く。唇がわずかに開く。待てど音は出ない。
やがて、鼻で短く息を吐いた。
「……くだらねえ」
オロチはそう吐き捨てたあと、こぶしを握りしめたまま動かなくなった。虚勢の言葉だけがうわべに出て、肝心の感情が追いついていない。
「話したところで、今さら何が変わる」
問いかけというより独り言だ。自身に言い聞かせている。そう信じなければ、無間地獄に身を置くこともできなかったのだろう。
「わたしに話すことで、あなたも自分のことを知って」
説得する声が震えた。
その揺らぎを敏感に察知し、オロチの眉が動く。
「なぜおまえが震えている」
言葉に詰まった。隠しているつもりはなかったが、見抜かれるとは思わなかった。
「怖いからです。真実は神話よりももっと残酷かもしれない。あなたを傷つけたくない」
正直に告げた。
「悪でい続けるのは楽ですよね。悪に理由はいらない。悪なら聞かれない。思い出さなくて済む」
勇気を振り絞り、胸元でペンと手帳を強く握りしめる。
「でも、今、目の前に立っているあなたは、とても清らかで美しい。その本質を信じたいの」
オロチはすぐには反応しなかった。視線を落とし、自らの手を見つめている。爪の隙間に残った何かを確認するような仕草だ。
「勝手なやつだな」
遅れて、乾いた笑いがこぼれる。しかし声には棘がなかった。
「思い出したくないところほど、泥みたいに沈んでいやがる。掘り起こせば、手も心も汚れる。それでもおまえは、震えながら、一緒に手を突っ込むってわけだ」
わたしはうなずいた。
オロチは観念したように、深く息を吐く。
「わかったよ。もう、おれ一人じゃ引き上げられねえ。おまえが聞き出してくれ」
わたしはオロチから目を離せなかった。胸の奥が、じんと熱を帯びる。
数え切れない沈黙の奥に秘めてきた、大切な何かを預けてくれた——
その重みが、感謝という言葉では足りない感情になって広がる。
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