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地獄の手前でエンマ大王に見そめられたら《てまえみそ》  作者: 犬ノ木 望
八百万の証人/二人目 八岐大蛇
17/24

2-5 今さら?

 幼児たちが、腰に下げた水筒の水をオロチに飲ませてやる。


「……(もも)、助かった」


 玉座に座っているエンマ様が、桃鬼(ももおに)さんに向けて粛々(しゅくしゅく)と言った。


「いえいえ。ご入用とあらば、何なりと」


 桃鬼さんは癖毛を搔きながら、大広間を見渡した。一面水浸しで、床のあちらこちらが割れている。

 わたしに小さくたずねた。


「エンマ様は、なぜ〝帰寂(きじゃく)〟を使わなかった?」


 帰寂。すべてを無に帰す二文字だ。それを閻魔帳(えんまちょう)に書いて、八岐大蛇(やまたのおろち)を消滅させれば、こんな大騒動にはならなかったのに。


「わたしが止めてしまったからです……」


 仕方なく白状する。

 桃鬼さんは、あらあら、とだけ返した。


桃爺(ももじい)桃婆(ももばあ)も、ありがとな!」


 司命が幼児たちに声をかける。桃鬼さんが冗談で〝爺ちゃん〟〝婆ちゃん〟と呼ぶのになぞらえ、そんなあだ名で呼ぶのだ。


「んじゃ、がんばって取材してちょうだい」


 桃鬼さんが、わたしの頭にぽんと手を置いた。わーいと両腕を上げて駆けていく幼児たちとともに、さっさと撤収していく。


 残されたのは、何にも例えがたい青汁の醜悪な臭いだった。


「取材って……今さら何を聞くつもりですか。ひどい目に遭ったばかりなのに」


 司録があきれ果てる。


 わたしの(かたわ)らで、オロチはぼんやりと天井を眺めていた。洪水の痛手か、青汁の衝撃か、それとも。


「まだ聞かなければならないの」


 でも、何を? 肝心の問いが出てこない。頭が真っ白だ。こんな感覚は初めてだった。


 そんなわたしを、エンマ様は暗い瞳で観察していた。黙って待っていたが、やがて視線を隣のオロチへと流す。


「その女から、花の香りはするか」


 ええっ、変な質問——

 全員が心の中でずっこけたのは明らかだった。


「も、もう、エンマ様ったら、こんなときに冗談ですか」


 なんとかフォローしようと、引きつった笑みをひねり出す。


 花? 香り? 何の話だっけ。記憶を逆再生する。

 〝若い女は花の香り。雑味なし〟——オロチの食リポだ。


 オロチも場違いな質問に面食らっている。

 エンマ様が補足した。


「それも一応、若い女だが」


 しつこい男!


 あきれるわたしの頬に、オロチが鼻先を押し当てた。遠慮なく、くんくんと嗅ぐ。


「いや、こいつは無臭だ」

「あなたも馬鹿真面目に答えないでくださいよ」


 わたしが眉根を寄せると、司命は意地悪な笑い声を上げた。


「おいおい。それじゃあまるで、れーちゃんが若くなくて、雑味たっぷりみたいじゃないか」

「うるさいな。花の香りなんて、男の子の幻想でしょ」

「幻想とは限りませんよ」


 こう発したのは司録だ。机いっぱいに何冊もの帳面を広げ、目にも留まらぬ速さでめくっている。


「食事を断ち、清めの水だけを体内に入れ、口に花びらを含まされる娘たちは、歴史の様々な場面に登場します」


 その言葉は、点と点が線で繋がる感覚を連れてきた。オロチの隣で硬直する。


 若い娘。年に一度。断食。供花(くげ)


 オロチは渇欲(かつよく)に任せて食べたのではない。


「……生贄(いけにえ)


 そっとつぶやく。


「姉妹は、里の人々によって捧げられた生贄だったのね」


 オロチははっきりと息をのんだ。片手で自らの胸元を押さえる。手の甲に弾かれ、首飾りに通された貝殻がたゆたう。一中劫(いっちゅうこう)の歳月を経たとは思えないほど艶やかで、欠けひとつない。

 それらが奏でた、しゃん、という音を引き金に、頭の中で、手帳に書き留めた文字が次々と降り注いだ。


 娘は濡れていた。

 丸呑み。

 彼は山から下りてくる。

 神々の時代。


「八岐大蛇になる前、あなたは川の神様だったのではないですか?」


 オロチの目が大きく見開かれた。皮膚に張りつく鱗が、かすかな震えとともに浮き上がる。抜け殻のような表情だ。きっとオロチも戸惑っている。


 自分が何者なのかがわからない恐怖。正体のない空虚。自らを〝完全悪〟と信じ込んで生きる方が遥かに楽だろう。


 それでも、わたしは——


「聞かせてください」


 オロチの視線は行き場を失い、漂ってから、こちらへと戻ってきた。


 喉が動く。唇がわずかに開く。待てど音は出ない。


 やがて、鼻で短く息を吐いた。


「……くだらねえ」


 オロチはそう吐き捨てたあと、こぶしを握りしめたまま動かなくなった。虚勢の言葉だけがうわべに出て、肝心の感情が追いついていない。


「話したところで、今さら何が変わる」


 問いかけというより独り言だ。自身に言い聞かせている。そう信じなければ、無間地獄(むげんじごく)に身を置くこともできなかったのだろう。


「わたしに話すことで、あなたも自分のことを知って」


 説得する声が震えた。

 その揺らぎを敏感に察知し、オロチの眉が動く。


「なぜおまえが震えている」


 言葉に詰まった。隠しているつもりはなかったが、見抜かれるとは思わなかった。


「怖いからです。真実は神話よりももっと残酷かもしれない。あなたを傷つけたくない」


 正直に告げた。


「悪でい続けるのは楽ですよね。悪に理由はいらない。悪なら聞かれない。思い出さなくて済む」


 勇気を振り絞り、胸元でペンと手帳を強く握りしめる。


「でも、今、目の前に立っているあなたは、とても清らかで美しい。その本質を信じたいの」


 オロチはすぐには反応しなかった。視線を落とし、自らの手を見つめている。爪の隙間に残った何かを確認するような仕草だ。


「勝手なやつだな」


 遅れて、乾いた笑いがこぼれる。しかし声には(とげ)がなかった。


「思い出したくないところほど、泥みたいに沈んでいやがる。掘り起こせば、手も心も汚れる。それでもおまえは、震えながら、一緒に手を突っ込むってわけだ」


 わたしはうなずいた。

 オロチは観念したように、深く息を吐く。


「わかったよ。もう、おれ一人じゃ引き上げられねえ。おまえが聞き出してくれ」


 わたしはオロチから目を離せなかった。胸の奥が、じんと熱を帯びる。


 数え切れない沈黙の奥に秘めてきた、大切な何かを預けてくれた——

 その重みが、感謝という言葉では足りない感情になって広がる。

平日は毎朝7時頃に更新いたします。

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