2-4 閻魔vs大蛇、強いのはどっち?
大蛇の八対の赤い瞳が、同時に開いた。完全悪の怪物が、神話の姿を取り戻したのだ。
わたしは、一つの胴体に巻きつかれている。足は宙に浮いていた。牙が、すぐそばで光る。舌が、首元をなぞる。肺の空気が押し出され、肋骨が悲鳴を上げる。
あれ、と妙に冷静な思考がよぎった。
これはひょっとして、食われた娘たちの追体験? 記者が体を張った取材をすることはよくあるが、いくら何でも、そこまで教えてほしくはない——
双子が揃って立ち上がった。
しかしエンマ様は玉座に座ったままだ。閻魔帳を前に、ただ筆を取る。
濃い墨の匂いを引き金に、出会った日の光景が脳裏を稲妻のように突き抜けた。閻魔帳に〝帰寂〟と書き、鬼たちを黒塗りにして葬ったときと同じだ。
振り下ろされた穂先が、文字の最初の一画を表す。
「殺さないで!」
自分でも驚くほどの大声だった。
いや、冥府にいるということは、すでに死んでいるのか。おまえはもう死んでいる、だっけ。
「えっと、つまり、その、彼を消さないで!」
もたつく叫び声を潰すかのように、八岐大蛇に全身を締め上げられた。鱗が刺さり、細かな生傷が一気に刻まれていく。
エンマ様は、じろりとわたしを見上げた。この状況で何をのんきに、という顔だ。
「あのー、何か、消す以外で、応戦をお願いします」
わたしの声は小さくなった。
こんなやり取りをしている間に、大蛇が長い尾を振り下ろす。
轟音。
硬い石の床が割れ、波のようにうねる。蓮の文様が膨れては沈む。わたしの体も投げ出されそうなほど翻弄された。
エンマ様が閻魔帳に筆を走らせた。
——〝八寒〟
次の瞬間、石畳がぴたりと動きを止めた。それだけではない。冷気が走る。凍結だ。床を覆う氷の上で、大蛇の巨体がずるりと滑った。やった!
大蛇は体勢を立て直すことができない。八つの口が、ゆっくりと開く。
「冷たい。こんなことをされては……冷たいだろう。苦しいだろう」
氷の下から音がした。ごぽり、と。眼下で氷がわずかに盛り上がる。嫌な予感。
大蛇が、八つの鎌首をもたげた。
「冥府の王よ。おれは山を這い、川を濁らせた蛇だ」
氷の下で何かがうねる。ひびが入る。
「水は、おれのものだ」
その言葉と同時に、氷片が宙を舞った。砕けた氷の下から透明な水が噴き上がる。
凍りついたはずの空間が、一転して洪水と化した。そのまま玉座へと襲いかかる。波頭が足元へ届く寸前。それでも、エンマ様は立ち上がらない。
筆先が閻魔帳に沈む。
〝開門〟
すると、エンマ様の背後の空気が重く鳴いた。
地獄の門の蝶番が軋み、開いていく。血と骨と錆びた鉄の匂い。
「水はおまえのものか。だが冥府に来た以上、その先はおれが決める」
エンマ様を飲み込むはずだった水が、そのまま門へと吸い込まれていく。よかった、さすがエンマ様——
しかし、水のあまりの勢いに、大蛇の体が傾いた。わたしの上下も逆転する。頭のてっぺんから爪先まで水に溺れた。暴れる大蛇に囚われたまま、地獄の門へと流される。息ができない。
「おれと娘は一心同体。このまま巻き添えにしてくれようぞ!」
大蛇がひとつの頭を水面から持ち上げ、エンマ様に向かって叫ぶ。
歪む視界の端で、エンマ様が立ち上がりかけたのが見えた。意識が遠のき、知らぬ間に目をつぶる。
耳のすぐそばで、ごぼごぼという水音とともに、オロチの声が聞こえた。
「これ以上、踏み込むな。思い出したくもない」
わたしは目を開いた。
こんな状況でさえ、不気味なほどに胸が高鳴る。逃げなければという本能的な衝動を、根っからの好奇心が上書きしていく。
〝それが、今のあなたの感情なのね〟
この人物は、今、確かに、心の奥に沈んだ真実に近づいている。そして、ここにいる他の誰よりも、自分自身への恐怖、嫌悪、後悔、そして取り返しのつかなさを抱いている。
〝あなたは思い出した方がいい。その方が、きっと救われるはず〟
心の中で声を振り絞った。波に揉まれ、まるでオロチとひとつになったような感覚だ。
すすり泣きが聞こえた気がした。
そのとき、水流の勢いが鈍った。エンマ様が〝閉門〟したのだ。闇がゆっくりと塞がっていく。大蛇の尾の先が、地獄のふちに引きずり込まれる寸前で止まった。
門は完全に閉め切られた。
オロチに捕らえられたまま、わたしは陸に打ち上げられた魚のようにびしょ濡れで横たわっていた。肺に空気が流れ込み、視界に色が戻る。
「……っ、げほ、げほ……」
大きく咳き込む。息を整えられない。
でも——生きている。いや、死んでいるけれど。まだここにいる。
一方、オロチは呼吸をしていないようだった。八つ裂きになっていた首は、今はひとつ。巨大な蛇の体は縮み、半分人間の姿へ戻っている。
意識がないのに、わたしを全身で抱きしめていた。
誰か彼を助けて。そう叫びたいが、骨の髄まで冷えに蝕まれ、声が出ない。
そのとき、穏やかな声が耳に届いた。
「はーい、桃鬼特製の気付け薬、お届けでーす」
広間に現れたのは、割烹着姿の桃鬼さんだった。よちよち歩きの男女の幼児を従えている。片手には、とんでもなく怪しい瓶。沼からすくった泥のような液体が泡立っていた。
三人がかりで、オロチをわたしからペリッと引き剥がす。
「爺ちゃんは、こいつの口をこじ開けて。婆ちゃんは、鼻をつまんで」
「「あいあいさー」」
「青鬼の××から搾り取った、泣く子も黙るスペシャル青汁。いっきまーす」
桃鬼さんが、オロチの口に瓶の中身をどぼどぼと流し込んだ。舌に触れた瞬間。
「おええええ!」
神話級の嗚咽が、冥府に響いた。
オロチが目を見開いた。血の気のなかった顔が、みるみるうちに真っ赤になっていく。
「ぐええええ! ここが地獄か!」
「違うよ。腸活、腸活」
桃鬼さんは、笑顔で青汁を注ぎ続ける。
オロチは泡を吹いていた。
「もういい! もういい!」
「だーめ。ごっくんしてくださいねえ」
小児科医のように諭す桃鬼さん。男児がオロチのあごを押さえ込み、女児がさらに強く鼻をつまむ。
オロチは涙を浮かべながら、喉を動かし、ついに飲み下した。
司命と司録が、おおー、と拍手を送る。
わたしはやっとのことで上半身を起こした。
桃鬼さんが振り返る。
「礼阿ちゃんも、一杯やっとく?」
「え、遠慮します」
男児と女児が顔を見合わせ、肩をすくめた。
「ちかごろの若いもんは、こらえ性がないのう」
「そうじゃ、まったくじゃ!」
わたしは冷えた体で、歯をカチカチと鳴らしながら言った。
「……取材、続けます?」
オロチは白目を剥いていた。
「……その前に、水をくれ……」
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