熱に浮かされて
「フランマ」
そう声をかけられて振り向くと、夫と娘が立っていた。
夫は少し得意げな顔で、手にした三枚のチケットをひらひらと揺らす。
「今度、三人で遊園地に行かないか?」
「いつの間に取ったのよ」
「この子が行きたいって言っててさ。それに、いつも疲れてるだろ? たまにはいいかなって」
その優しい声に、思わず笑ってしまう。
「全然いいわ。むしろ、あなたにそんな気遣いができたことに驚いてる」冗談交じりにそう言った。
「あのお城行きたい!」
娘は目を輝かせながら叫んだ。
その日、私たちはいくつものアトラクションを回った。笑い声と音楽、時間を忘れて楽しんでいた。
「次はジェットコースター!」
「じゃあ行こうか」
夫は笑い、三人で人混みの中へ向かった。
ジェットコースターの前には、長い行列ができていた。周囲は騒がしく、人が絶え間なく行き交っている。
次に大きな人波が押し寄せた、その瞬間だった。
――娘が、いない。
「……あれ?」
振り返っても、手を伸ばしても、そこにいるはずの姿がなかった。胸の奥が、ひやりと冷える。
私たちは必死に辺りを探し回り、迷子センターへ向かった。
「どこに行ったんだ……」
「大丈夫よね……?」
そう言い聞かせても、不安は消えなかった。名前を呼びながら、園内を歩き回る。笑い声が、次第に耳障りに変わっていく。
一時間が過ぎたころだった。
娘は見つかった。
トイレで――無惨な姿で見つかった。
警察官が淡々と告げた。だがその声はあまりにも遠く届かなかった。彼もまた涙を堪えていた。
数日後、伝えられたのは、15歳の少年がトイレに娘を連れ込み、わいせつな行為をした後、殺害したということだった。
私の胸の中には、憎悪と怒りが渦巻いていた。加害者が少年であるという理由だけで、少年法によって罪が軽くなる。そんなことが許されてたまるか。
毎晩、眠れずに考えた。もし自分の手で、あの少年を――いや、あの化け物を――制裁できるのなら。
法の下で守られる若さが、理不尽に命を奪った者が許せなかった。
街を歩くたび、学校に通う子どもたちを見るたび、心は痛み、憎しみは募った。
娘はもう二度と帰ってこないのだ。
ある夜、夫は椅子に座り、何も言わずに新聞を読んでいる。その背中を見ると、胸の奥でくすぶる怒りが抑えられなくなった。
「あなた……あのとき、ちゃんと見てなかったんでしょう?」
「え……?」
「ジェットコースターの前! 一瞬でも気を抜いたから、娘は――」
声が震え、抑えきれない怒りがにじむ。
「一瞬でも目を離したあなたのせいで、あの子は――」
「……違う。お前だって見てなかっただろう、俺を責められる筋合いあんのかよ」
「あなたの注意不足で……」
言葉は次第に罵倒になり、声が高まり、夜の静寂を裂いた。
私は涙が止まらなく、胸が張り裂けそうだった。
その晩、私たちは口もきかずに寝室に戻った。
私の胸には深い孤独と自己嫌悪が刻まれた。
次の日も、そしてその次の日も、同じ空気が続いた。事件の怒りと憎悪を誰にも向けられず、お互いにぶつけ続ける。
家にいても、会話はなく、視線すら避け合った。
かつての温かい家族の笑い声は、もはや思い出の中でしかない。
そんな状態で長く続くわけがなく私は夫に別れを告げた。
数年後の、ある夜だった。窓の外が、ふと明るくなった。
次の瞬間、窓を開け異形のものが、部屋に入り込んできた。
「ずっと見てたよ。可哀想だね。復讐もできなくて」
低く、愉快そうな声。人の形をしていながら、明らかに人ではない。
――悪魔だ。
この国に悪魔が存在することは知っていた。
悪魔は、私の前に立ち、楽しそうに語り始めた。
「あの少年が、君の娘に何をしたか教えてあげるよ!どんなことして、どのように――」
それは私が知らなかったこと。知りたくなかったこと。
「……それで、――」
「黙れ」
声が震え、涙がこぼれる。
「それ以上、喋るな。」
悪魔は肩をすくめ、笑った。
「悪魔の契約って、知ってる?それは、魂や将来などを代償に捧げる代わりに、富、知識、力――現世の望みを叶えるものなの。そしてね実はその少年、もう社会に出てるんだよね。居場所も、今の生活も、我は全部知ってるよ」
悪魔の目が、赤く光る。
「契約すれば、教えてあげる。それに……力もね」
私は、代償を聞かなかった。聞く余裕なんて、なかった。
契約を結んだ瞬間、体に熱を帯びた。あの悪魔は炎の悪魔だった。そして私は、炎を操る力を得た。
悪魔に導かれ、向かった先。そこには――幸せそうに笑う、あの少年と、その家族がいた。
なぜ。娘を殺したくせに、なぜ幸せに生きている。
憎しみが、炎となって溢れ出す。
家は、あっけないほど綺麗に燃え上がった。
悲鳴も、叫びも私にとって心地の良いものだった。
私は、燃える家を背に、軽い足取りで帰路についた。
――仇は取った。
そう思うと、胸の奥が、異様なほど清々しかった。
それから、何年も経った。
私は仕事場で、素敵な人と出会い、子供にも恵まれた。過去のことも、悪魔のことも、いつしか忘れていた。
だが、ある日――家は燃えていた。
「あぁ――――」
声にならない叫び。
二人は、まだ家の中にいた。
そして、帰らぬ人となった。
それをやったのは、あの悪魔だった。
「悪魔というものはね、人間に興味を持たない。だから無差別に殺したりはしないんだよ。」
炎の向こうで悪魔が言う。
「正当防衛でもない限り、ね。……何が言いたいかわかる?」
悪魔は、ゆっくりと告げた。
「お前の契約のせいで、二人は死んだんだよ。あの契約の代償はお前の”幸福”なんだ」
「お前がこの先、どんな幸せを見つけても、必ず我が壊す。残念だけどお前に幸福は訪れないよ」
「あぁ……」
私は膝から崩れ落ちた。
悪魔は嗤う。
「悪魔は人間の絶望と恐怖が大好きなんだよ!」
そして、気づいているだろう? と続ける。
「我と契約してから、見た目が変わっていないことに」
その事は薄々気づいていた。
あの日から見た目が変わらないこと、きっと悪魔と契約すると、不老になるのだ。
「感謝してほしいものだね。力を分け与えてやっているんだから。釣り合いは取れているだろ?じゃあね」
そう言い残し、悪魔は消えた。
私が契約しなければ、二人は――。
……違う。
私が、最初からあの子をちゃんと見ていれば。
「……全部、私が招いたことだったんだ……」




