一話:人間
前日の雨とは打って変わり、心地良い青嶺の風が吹いて若葉が照らされ踊る好天。和福 蘭は起き掛けの目を擦る。ベットから降りて徐にキッチンに足を運び、珈琲メーカーに豆を流してスイッチを入れる。ドリップを待つ間にシャワーを浴びながら髭を剃って髪を乾かす。洗面所からボクサーパンツ一枚で現れ、そのまま出来上がったマグカップを手に取り啜る。ドレープカーテンのみを降り纏めて熱と共に流し込み終えると、クローゼットから今日の衣服を取り出す。少しオーバーサイズの黒のカーゴパンツ、裾の合った黒のワイシャツに肌を通して襟元は第一ボタンまで止める。そして香水を軽く首元に振りかける。檜のウッディーな森林の爽やかさと落ち着き、その中に透き通った甘さのある馨りが鼻腔をくすぐる。踝が出る程度のソックスとソールが薄めでデニムで作られた真っ黒なスリッポン。アウトサイドには白いコスモスがステッチされている。それ等を履いて、家の戸に鍵を閉める。
出てすぐの人気のない公園、その近くにある遊歩道を両ポケットに手を入れて漫歩する。街路樹の若々しさや、鳥の鳴き声が五感を撫でて風が余韻を残す。しばらく歩くと異様な廃ビルが左手に現れる。それは不自然に残っているような、ここだけ取り残されたような、そんな気がする。ビルの入り口には三メートルほどの鉄製で柵状の扉。それは手入れされず、あちこちの塗装がペリペリと、古くなった角質のように浮かび剥がれている。捲れ、錆と土に汚れた場所には苔や、細く小さな蔦生の植物が彩を与えていた。点在するそれは松島のようにも思えるほど美しい。その扉は施錠されている。南京錠の鍵穴と、一つひとつが親指ほどの太さのチェーンロック、その間は全て錆び付いている。うねる可動域を失って余裕なく締め付ける。独りで流れた時間が人の力では侵入する隙間を与えないほどビルを閉ざしているように見えた。
蘭はそれを軽々と飛び越えて3階の非常階段に向かう。階段を上がってすぐの306号室と防火扉の間にある消化器格納箱。この中を毎日蘭は確認する。そして歪いた戸を少しだけ強引に開くと封筒が入っていた。蘭は表情を曇らせる。封筒はわずかに湿っていて紙の繊維がふやけていた。中にあった便箋は過剰に整えられた筆致で余白を広く取りながらこう書かれていた。
「貴方に会いたいと思いました。静かに判断してください。理由はこれくらいしか形に出来ませんが、貴方から同じ空気を感じた気がしました。どうか、お願いします。」
署名はなかった。差出人を記す位置は、街外れの有名なお菓子メーカーの工場跡地だった。建物は取り壊されず、形をそのままに閉鎖されていた。蘭は一度目を通し、便箋を封筒に戻してから黙って鞄にしまった。彼は便箋の言葉の内容よりも書きぶりの慎重さにだけ目を留めていた。
一度家に帰った蘭は仕事の用意をして指定された場所に向かう。亭午の刺が淡くやんわりとしたものに変わり、照らされた蘭の格好は漆黒のロングコートが鴉の羽のように艶やかで落ち着いた雰囲気を感じさせる。履き変えたブーツは光沢感を失ったワインレッドのような深みのある暗めのルージュ。そのマットな皮の質感をアイレットのシルバーが引き締めている。そして蘭は便箋に火を付け灰皿の上に投げてから再び家を出た。
街の舗道のアスファルトには小靴がカスタネットのように弾けて、音を履く子供達の陽炎に歪む影が音階のように見える。喫茶店のテラス席では女学生達とその会話に咲く華は一対の千紫万紅の花束。皆、手元のグラスを遊ばせており、射す光は都度変わる。それは浮かぶ氷を通してプリズムして一刻一刻のどの時にも同じ表情を見せない、極彩色に輝く宝石に変わる。店内外問わずに旧式スピーカーから漏れる古いポップソングのリズムが乱れず適度に崩れて背景音として溶け込むことに躊躇がなかった。
そんな街の中で蘭は目線を進行方向から動かさない。心情で渦巻く喜怒哀楽の往時と現在の逆流がヘドロを巻き上げる。渾沌に曇った水底には沈んだまま時を刻む古い懐中時計の時間だけが誰にも干渉されずに続いていた。
街の音が一歩ずつ薄れていく。左に曲がると通りの色が変わった。ロングコートの輪郭は靴音の響くたび朧げに幽世に溶けて近代機器の排気音は遠ざかる。店舗の看板が途切れた。この先には活気を閉じた建物が並び始めている。謳歌する生命の存在感の稜線はやがて風の音にボヤ付いて落ち葉の囁きに置き換わる。外壁に貼られたポスターは、退色しかすれた接着剤だけがその輪郭を保っていた。街路樹は剪定されず手を光に向けて乱雑に伸ばして根際は廃棄された文明と自身の汚れに覆われている。蘭はふと足を止めた。目線の先で地面が崩れていた。舗装が剥がれ苔の根が浮き、鉄製の側溝蓋が歪んだまま放置されている。遠くで風が鉄橋を撫でる。震え悶える鉄の音が律儀な周期で耳に届く。蘭はただコートの襟をわずかに立てた。また足音をひとつずつ重ねて歩く。振り返らない。何も見つめない。自分から遠ざかる。居心地は悪くないはずなのに虫唾が走る。一人のはずなのに息を殺す。あの日伸ばせなかった手が記憶の中で赫灼と脈打つ。脈動に耳を奪われ無心で歩を進めるうちに気が付くと視界の奥、灰色の建造物。歪んだ天井。赤く錆びた階段。工場跡地、指定された場所。いつの間にか動悸は消えていた。乱れた着丈を直して、蘭はそのまま無言で敷地内へと踏み入った。
敷地の境界をまたいだ瞬間、背後の街が扉のように閉じる音を立てた気がした。工場跡地は無音だった。だだ、建物の間に風が吹き込み響くビル風が寂しげな口笛のように聞こえる。地面には割れたタイル片と、朽ちた鉄骨の断面が散らばっていた。至る所の鉄錆を風砂が削り、過去を含んで舞う霧のような砂埃が視界をさらに暗ませる。建屋の入口は半開きのまま、金属の蝶番が固着し開ききることも閉まりきることもない。その隙間をくぐるように蘭は中へ入った。内部は匂いのない薄い暗がりだった。酸化した機械油の残り香すらも、もう失われている。進む廊下の天井は高く、窓硝子と蛍光灯は全て砕け落ちていた。そこにふと左側の窓から陽が落ち、差し込んだ夕陽が床に当たって硝子片を美しく乱反射させる。一部は機能を失った窓に当たり、影となってかすれた黒い窓枠を伸ばして。床に現れたのは、夕焼け色のステンドグラスで作られた窓。L字に窓が伸びて朱色に包まれ輝く空間。形が崩れる以前、いや、その時よりもきっと美しい情景に思わず蘭はため息を付く。息を呑みながら足を下ろすたびに霜を踏んだような感覚や音が伝う。視覚のみならず聴覚、触覚までもが美しい。徐にかがみこみ、硝子を両手で汲み取るように掬い取る。細かい傷に血に塗れ、それでもなお手相を変えず声を漏らす。
「君たちは、僕にも平等で居てくれる。」
蘭は微笑み流すように硝子を溢す。すると瞬く間に傷が皮膚を編み込み、漏れ出た血を飲むように修復していく。次の扉のドアノブに手を掛ける頃にはもう跡形も無く消えていた。扉を開くと、そのフロアは切り取られたように先の見えない暗闇だった。奥に向かって歩くたび蘭の足音は吸い込まれるように空間へ消えていく。この空間の輪郭がわからないほどの暗がりを這わせるようなすり足と、右手で前方の障害物を探り、左手でコンクリートでできた壁をなぞり空間を把握する。ただ足を動かす。しばらくすると再び突き当たった。だが扉はない。進行方向を探るとどうやら右に空間が伸びているらしい。ここは恐らく回廊のようだ。変わらない挙動でさらに進むと今度はすぐに足の爪先と右手に何かが触れる。左手は何にも触れない。恐る恐る二部位でそれぞれの輪郭をなぞる。右手に伝わったのは冷ややかで斜め上に続く指がまわる程度の円柱。爪を立ててカツカツとつつくと中が空洞なのかキンキンと金属音が鋭く掠るとシャッと響く。足先には酷く弾性を失ったゴムのようなものがコーティングされているのか僅かな沈み込みを感じるが頑丈で構造のしっかりとした硬さを感じる。形は通路の端から端まで続いて高さがある。全体を確認するために足先を対象に付けながら脚を上げると丁度自身の脹脛の真ん中ほどでカクンと爪先の方向にスライドされた。が、すぐにまた同じ感触が伝わって足裏には足先に感じたものと同じ感触。どうやらこれは階段のようだ。右手に触れたのは金属製のスロープだったのだろう。蘭は確認動作をそのままに左手を再び前に出し階段を登っていく。
『2.3.4~...』
口には出さず、頭で段数を数えながら、一段ずつ、丁寧に。
『22.23.24.25....』
『... 』
26段目、爪先に何も当たらない。スロープも平行になり直ぐに途切れた。階段はここで終わりのようだ。そして左手は2、3歩すると何かに当たる。壁のコンクリートの質感とは違う。ザラザラとした錆びついたステンレスのような。ある程度の厚みはあるが叩くとガシャンと響き揺れる程度の薄さ。これが扉だと仮定すると前回の扉のドアノブは右手側に側に付いていた。試しに左腕を脇を締め、対側に付けてから対象に触れるまで上げ、触れた周辺をなぞると想像通りの突起物があった。冷たいが、丁度握手をするような握り心地。蘭は確信してそれを右回りに捻る。次の瞬間、目が眩む。光が差し込んで風がコートを揺らし、木々のざわめきがささやいて地平線に沈む夕陽が薄らに開いた目に映る。追うように響く仲間呼ぶ鴉の声。
屋上。囲うようにフェンスが張られている。それに寄りかかるように肘を掛け街を見つめる人影。蘭は歩み寄り十歩ほど手前で止まる。大学生だろうか。暗めの茶髪で長過ぎないセンターパート。シワが目立つ襟が曲がった裾の寄れた白のワイシャツを着ていて擦れて色の落ちたスラックスと黒のビーチサンダルを履いた青年。足音が止まったことに気づいたのか青年が振り返り丁寧に一礼する。顔は痩けていた。目の下にうっすらと影がある。けれど声は崩れていなかった。
「御足労頂きありがとうございます。と言っても僕が勝手に決めた場所ですからね、ずいぶん都合のいい物言いですよね。」
青年は口元にわずかに笑みを寄せた。それは愛想ではなく自分の存在が配慮の対象からずれていることをどこかで理解している人間の笑いだった。
「ここに来るかどうか半々だと思ってました。いや、三割ぐらいでしょうか。でも来て頂けて良かったです。」
蘭は返事をしなかった。青年は続ける。
「あなたと話す機会をこうして持てたことをありがたく思います。」
その声は柔らかかった。表情はすでに何かを越えきった人間のものに似ていた。恨みや憎しみなどここにはない。ただ静かな整理の気配だけが漂っていた。
「僕は生き延びたわけじゃありません。ただ、死に損ねてそのまま身体の方だけが変わってしまっただけです。今はもう自身の在り方すら他人事のように感じています。」
言葉は一定のリズムで紡がれていた。音程にも感情の波は無い。青年はボロボロのフェンスに背を預けながら言った。その姿勢から青年に防衛の本能が意識が欠落していることを知る。死の恐怖が薄れてどこか壊れて諦めているような。身体の重さだけが地面と身体を結びつけているだけ。そんな在り方だった。
「ですがcomtionix(以後CMX)になった今も日に日に意識は混濁していってます。もう後は、まぁ察しちゃってますよね。」
青年ははにかみながら少し勢いを付け体を起こして一歩だけ前に出た。その足音は埃を巻き上げなかった。
「だから今日はお願いに来たんです。自分ではもう選べないから僕を判断してほしい。」
その言葉を聞いても蘭は眉ひとつ動かさない。ただ呼吸のリズムを少しだけ変えた。沈黙が落ちた。空気がやや沈む。青年はそれを拒絶とは取らなかった。
「もちろん、断られてもいいんです。あなたが首を振って帰っていくなら、それも理解できる。でも、もし...。」
しばらくの沈黙のあと青年はフェンスの向こう側、別の建物の壁を目でなぞるように見つめた。誰が描いたのかも分からない赤錆の落書きが雨に洗われて薄く残っている。まるでこの工場跡地に流れる血液が傷付き溢れるように。
「昔は誰かの役に立つことが存在する理由だと思っていたんです。些細なことでも。何かを持っていく、拾う、代わりに謝る。そういう意味のない奉仕みたいなことで居場所をごまかしていた。」
物語を語っているというより自分の中で自分が死んだ。その亡骸を言葉にして一枚ずつ日々の仮面を剥がして、その時の死に顔を撫でながら棺を閉じて整理する。そんな語りだった。
「でもそれをやめた瞬間、自分がどれほど中身のない存在だったのかはっきりわかりました。驚くほど空っぽだった。それがきっと変わってしまった理由です。」
風が一度だけ吹き抜けフェンスが軋む。陽が完全に沈み切って明かりは月光と街の明かりが遠くに見えるだけになる。ようやく蘭が声を発した。
「君は特別じゃない。」
青年は少しだけ瞬きをしたあと口元にわずかに笑みを戻した。
「そうですね。だからこそ誰かに最後も見届けてもらいたかったんだと今になって思います。きっとそれだけで、いい気がしたんです。」
その視線が初めて蘭を正面から捉えた。けれどそこに求めるものもなかった。確認しておきたかった。ただそれだけ。その答えに蘭は何も言わなかった。そのまま一拍。そして静かに一歩、距離を詰めた。変異はまだ始まっていなかった。けれどそれが遠くないことは、もうお互いにわかっていた。
「どうして、あの時…って、言えたらよかったのに。」
その言葉は、蘭に向けられたものではなかった。青年の視界に一人の女性、その後ろ姿が映る。
「ユイ...。」
声は掠れていたがまだ青年の声だった。手は震え、だが掴むものは無く空を握ろうとするような仕草を見せた。背骨が軋む音がした。肩の筋肉が不自然な形に膨れ上がる。皮膚の下で骨格がずれて静かな悲鳴のように関節が鳴った。
「聞き忘れちゃいました...。こうなる前に...貴方の名前を。」
肺の震えと喉の残響だけで形作られていた小さな息漏れのような声。それは慟哭ではなく哀しみが沈殿したまま滲み出た独り言だった。ひとつずつ噛み合わなくなった関節が、皮膚の下で歪な音を立てている。背中。肩甲骨の内側。背広の布地が裂けて血と粘性の高い赤黒い液が溢れ出す。盛り上がった筋肉が破裂し、皮膚を突き破り背を覆うように幾つもの黒ずんだ骨片が突き出る。それが蠢く柘榴のような血肉のようにみえる。頭部は崩壊して嘴が伸び、猛禽類の鋭い眼光に楕円の瞳孔。脚が砕け、関節が逆に折れた。重心は前傾にずれる。アキレス腱と指の腱は爆ぜ捲れて現れる鍵爪は鷲のようになる。脚肌も歪んだ六角状にひび割れ黄色がかる。そして全身を仰け反らした次の瞬間、対象が咆哮。フェンスは音衝に吹き飛ばされる。跡地全体が震えて足場がひび割れる。同時に臀部から飛び出す骨肉躯幹。松皮の様な鱗殻に腹部の中心からは蛇腹のように波打つ鱗がせり上がり三又に別れ、中央の組織が靭尾となり収束する。残された左右に隔たれた肉塊は前脚同様強靭な脚となる。はずだった。創られたのは蜥蜴の様な骨格に鳥類の特徴が辻褄が合わずに混ざった異形だった。脊椎を軸に剣山の如く多数の鋭骨が伸び、それは象牙の様に滑らかではなく巨木の重なったささくれの様な表面。何度も再生と腐蝕を繰り返してその痕が斑模様になり、幾つもの目に見える。蘭はそれを見ていた。静かに何もせず。目の前でかつて「青年」と呼べた人間が人間であることの構造から一つずつ外れていくのを。どこか既視感を伴ってただ見つめていた。まだ唯一彼のままでいた両腕が蠢き出して肩甲骨、三角筋、僧帽筋から赤黒く血でできたジャムの様な質感の組織が飛び出す。塒を巻き、腕を飲み込見ながら肥大していく。各関節付近からは中手骨だろうか、蝙蝠に似た骨格が形成される。比重が変わり、前傾になって倒れそうになる。ところがそのままの勢いで迫り上がるように上体を起こし、前腕は広げるように上げた。眼光の鋭さが増して前腕から斑模様の勾玉形の尖爪が剥き出しになる。羽毛が鱗殻の隙間を縫って頭部からグラデーションを掛けるように彩度を落としながら全身を覆い駆け巡る。その途中、耐えきれずに地に伏すように倒れ込む。蘭は躱すために後方に飛び、そのまま隣の建物へ飛ぶ。剛腕の尖爪が縦に空気を裂きながら周囲の埃が乱し、酸化した血の模様を描いて足場はそれを支えきれずに崩落する。
変態とは破壊ではなく再配置だった。壊れて終わるのではなく、欲望と思想、感情に劣等。個体が持つ曖昧な自分を曖昧なままで終わらせまいと足掻く激情を。輪郭のない物に輪郭を与える。言うならば”正しいカタチ”に繋げ直す儀式。だが神は行きすぎた力には抱えるカタチには代償を欲す。等価に見合うよう心を食う。食い尽くされ自我を失ったカタチはEmglerr(以後EGL)へと成り果てる。結局、当人の能力以上のものはどんな奇跡の下でも得ることはできない。日常はどこまでも残酷で、残酷な世界はどんな理不尽な事象にも望まぬ対価を与える。
瓦礫の山に蘭は飛び降りる。砂埃の奥瓦礫を被る卵型になったEGL。ただ対象から滴る血液の音だけがゆっくりと反復される。月光が刺し、EGL照らす。羽根々の一つひとつのディティールが鮮明に純白に輝く。思わず息を呑み瞬きした瞬間、突風が蘭を襲う。咄嗟に襟を引っ張り屈み背けるようコートに身を隠す。が、石礫が節々を強打し隠しきれない頬や手の生肌に砂塵が牙を剥いて鎌鼬のような風が切りつける。数秒して風砂の檻から解放された蘭は傷だらけでコートも所々が薄くなり切れていた。ゆっくり顔を上げ目を開く欄の目に映る純白のワイバーン型のドラゴン。いや、違う。剛強な前腕とそこから伸びる雄麗な翼羽と六足歩行の構造がワイバーンの亜種に見える。だが頭部は鳥類、下半身は蜥蜴のような爬虫類。頭部が雌鳥でもなければ尾が蛇でも無い様子から分かりにくいが、これは。
「コカトリス。」
蘭は言う。その瞬間空気の質が変わった。風が止まり影が濃くなり周囲の残響が消えた。それは視線だった。だが神話のように即死をもたらすものではない。殺さないままずっと壊し続ける視線。それが青年の抱える強迫観念の現れのようだった。他者からの不確定なのに鮮明に感じる視線は自分も同じ。答えも無く終わりも無い苦悩。蘭はそれを受け止めるように見返したほんの数秒、自分の内部のカタチが曖昧になる感覚。自分は自分であると信じているだけなのではないかという微かな揺れ。それでもなお視線を逸らさなかった。蘭はその視線を受けたまま一歩前に出た。躊躇はなかった、だがそれは決意とも違っていた。コカトリスはわずかに喉を鳴らす。それは叫びではなく声になる直前で潰された意思の残骸のような音だった。両脚が微かに屈んだ。その姿勢の崩れを見た瞬間、蘭は目線を逸らす。異形の膝が地面を蹴る音。鋭利化した爪撃を放とうと肩甲骨が振りかぶる角度。
「皮肉だな。」
蘭はそう言うと半身になって足を開くが、揃えず踵を浮かせ仁王に立つ。
コカトリスが動く。脚部の発達し隆起した筋組織が関節音とともに地を蹴った。その動きは直線ではない。鳥の跳躍とも蜥蜴の突進ともつかない破綻した連動が地を這う。瞬間、蘭の腹部に熱が広がる。地面ではなく空間そのものが軋んだような音だった。先の風砂で飛ばされた鉄骨や礫の残骸がわずかに遅れて臓に届く。回避が間に合わない。蘭は即座に、左腕を切り捨てる判断を下す。肘を畳み、脇を開き、最小損失での切断ラインに自ら身体を合わせた。コカトリスの前腕の突起した骨の刃が蘭を裂こうと迫る。鮮血が舞い空気が破れ、骨が露出する。蘭の左腕が肘から先ごと飛び、置いて行かれるように空間へ伸びて空中で花が一輪開いた。すぐに再生が始まる。が、この戦闘ではもう使いものにはならないだろう。何も無かったように蘭はすでに次の動きに移っていた。揺れるコカトリスの左足の軌道を読み、衝撃を流すために身体を捻りながら何かを腰の後側から引き抜いた。それは刃渡り13cmの鉛合金製ナイフ。それを通り過ぎる対象、その喉の可動域の末端角度に差し込もうと受け流した力を遠心力に変えて軸足を踏み抜き跳躍した瞬間。砂礫が吹き飛び地面が凹んで白い巨影が視界の上へと跳ね上がった。コカトリスが飛翔した。剛強な脚で自身の重さをいともせず地を蹴り翼を叩いて風が斜めに裂ける。ナイフは躱され蘭の体勢も崩れたかと思いきや、まるで”わかっていた”のかのように悪い足場の中でも体軸は整っており、目線は空中の対象に変わらず向いている。そのまま滑空し旋回して月を背に大きく翼羽広げる。翼羽がたなびき広がる様は雲海の重ね変わり往く波。後光が刺し、蘭を見下すそれは神話そのものの体現だった。翼の端の鋭骨が斑模様の刃物のように突き出ている。コカトリスもまた蘭から目線を外すことはない。蘭の視線に応えるように翼を閉じた次の瞬間。音もなく瞬きする間に穿たれそうな特攻が、輪郭を崩さず正確な軌道と共に落迫する。それは一本の剛槍。その渾身の刺突。踏み込みの猶予は一秒に満たない。迎撃は困難。そんな状況の中、蘭はなぜか動かずにブツブツと何か口からこぼすように発している。
──前腕部の力み、股関節の可動角、脊柱の揺れ。
──脚部の屈伸速度、斜視方向、後方へ微妙な重心のずれ。
──攻撃意図:直下型の突落、0.82秒後。
──翼の張力対称性に僅かなズレ、左3%。
──視線の揺れ:跳躍前、1.4秒ごとに硬直→反転→再収束。跳躍後、収束後、変化無し。
──羽根の展開角:右最大96度、左92度、可動域不均等。
──尾の基底部が不自然に張る=次動作に捻転を含む可能性。
──前脚の爪:地面との接触予測角が変化。
0.5秒後、コカトリスは勢いをそのままに前方に回転し、同時に拡げた両腕。伴って斑模様の刃物が回転に合わせて空気を裂く。
──上半身の重心傾斜:前傾22度。
──両肩の脱臼可動。腕部回転開始角:右148度、左143度。
──胸椎可動限界突破。脊柱を軸に旋回。
──回転速度:1.8回転/秒(上体部限定)。
──腕部外面:硬化鱗状の斑模様、血管収縮により硬質化。
──刃状の突起が捩れに合わせて振動、空気の断裂音発生=振動周波数200Hz前後。
──攻撃範囲:直径4.5mの水平円弧。
0.2秒後、遅れて剛靱尾が蘭を地面ごと叩き押し潰さんと振り下ろされる。
──尾の根本、筋繊維の収縮遅延
──胴体回転に伴う反作用運動、振り下ろし。
──尾長:約3.7m、先端重量集中、先端質量=主翼の1.3倍。
──叩きつけ地点:半径1.5m、軌道弧内の地面ごと破壊見込み。
──尾椎可動角:最大60度、下方推力方向の伸張。
──速度:0.1秒後、最大圧着点。
──空圧反応:着弾直前に地面沈下、圧縮波発生。
0.0秒。
着弾点が潰れ瓦礫が飛んで粉塵が舞う。コンクリート片が弾かれた硬貨のように縦回転しながら空中に跳ね上がる。破砕された地層の断片が砕けた骨のような軌道を描き月光を切り裂いていく。表面を滑った粉塵は爆風に舐められるように舞い上がり視界を白濁させる。圧縮された空気が尾の根元を中心にして半球状に拡がる。その膨張は無音で押し出された空間が一気に反発したようだった。捻り削りながら回転した体を六本の手脚を開爪を強引に開いて地層に更に突き刺した。ただの着地が二波目の攻撃に変わり、跳ねた瓦礫同士が空中で衝突する。破片が擦れ合い、鉄片が甲高い摩擦音とともに弾ける。金属音が重なるたび、脳の奥に鈍い衝撃が突き刺さる。小石一つさえ、暴力の断片として機能する。飛翔した破片が壁に突き刺さり、瓦礫に影を作りながら転がる。そのすべてが、蘭の周囲を囲うように、同時多発的に発生していた。そのはずだった。爆心地に欄の亡骸は愚か、姿も無い。突然、強烈な痛みと共にコカトリスの視界が消える。コカトリスは起きた状況の理不尽さが分から無かった。そのとき、悶える背中に違和感を感じる。違和感目掛けて壁に背を打ち付ける。だが何かが潰れた感触も、蘭が砕けた喜びを享受することは出来なかった。それどころか左の翼羽にまたもや激痛が走り、大きく切り裂かれた。連続して、中手骨の付け根に細かいながらも、先とも変わらない痛みが何度も何度もコカトリスを襲う。痛みの中、右目の傷が少し浅かったのか光が差し込む。同時。口をわずかに開く。喉奥に露出した咽頭部から、青白い光が漏れている。それは炎ではない。熱も持たずただ鈍く、粘膜を内側から照らしていた。
──口腔内発光:蒼白。
──照射範囲:約直径2メートル。内部構造に呼応した脈動。
──光質:断続的、脈拍とは非同期。神経性ではなく、生理的充填。
──目的推定:①視線干渉の前兆、②鳴動発声に伴う熱圧処理、③精神波放出用の前駆現象。
──点滅間隔:0.6秒周期、最大2.3秒持続。臨界3秒前に高周波振動あり。
舌の奥が脈動し、肺の奥で何かを溜め込んでいるような気配。
蘭はコカトリスから離れ、即座に片耳を押さえて、もう片耳から空気を含むような強烈な掌底を叩き、両鼓膜を破壊する。それからコートで視界を覆った。上下の歯列が重なり、カチリと噛み合う。途端に天を割らんばかりの叫鳴と蒼白の極光が周囲を包む。鳴き声と由来の呪いが一体化した放出。空気が潰れる。本来なら鼓膜が震え、数拍遅れて胸骨が重くなる。視界の周囲がぐにゃりと凹むように、距離の感覚が曖昧になる。同時に何かが内側から侵食してくる。自分の名前や記憶、動作の順序といった「自分を成す一連の情報」が、一時的に外されたように薄く、遠くなっていく。そういった感覚に見舞われていただろう。コートの輪郭に走る発光が終わり、視界を開ける。目の前では今だに咆哮を続けているのだろうか。鼓膜が戻っていないため確認出来ない。コカトリスは身体、手足は低くひれ伏すようにし、首だけが上に伸びて目線は焦点が定らまないまま、口を開き続けている。
何故、蘭にはあの猛攻や叫鳴が届かなかったのか。それは生物は動作を行う際にいくつかの順があることにカラクリがある。
①意図の発生(認知)
「何をしたいか」が意識または無意識下で立ち上がる段階。
敵の動作に対し「避けたい」「攻撃したい」と思う。
②状況把握(感覚入力)
視覚・聴覚・触覚などの感覚器から情報を得て状況を判断する。
相手の腕の動き、風、重心の揺れ、足音など。
③予測・比較・選択(意思決定)
今得た情報と過去の記憶・経験を照らし合わせ、最も合理的・効果的な動作を選ぶ。
「右にかわすべき。」「この距離なら突ける。」など。
④運動プログラムの生成(脳内シミュレーション)
小脳・補足運動野などで動作の筋肉パターンを作成。
右膝を沈め、左脚に重心をのせて前方へ踏み込む。
⑤運動指令の伝達(神経伝達)
中枢神経系(脳→脊髄)から末梢神経を通じて筋肉へ命令が送られる。
⑥筋収縮・動作の発現(身体反応)
実際に筋肉が動いて関節が稼働、動作として外に現れる。
踏み込み、腕を振る、回避、打撃、跳躍。
⑦フィードバック制御
実行した動作の結果を再度感覚器から受け取り、次の修正動作へつなげる。
蘭はこれらの知識と、自身の抱える「持病」が大きく起因し、意図の発生(認知)〜運動プログラムの生成(脳内シミュレーション)までの四つのポイントに意識を多く置き、そこから幾千通りの動作を予測、重複した箇所にポイントを絞る。
そうした動作予測の積み重ねと、運動指令の伝達(神経伝達)時に起こる伝達部位のわずかな兆しから、少し先、対象の「未来」を読み取ることができる。
それを絶えず行い続けることが、「和福 蘭」の能力である。
蘭の鼓膜は再生が行われているが、まだ音が届くことは無い。コカトリスの顎がわずかに引きつっていた。負荷は、あちらにもかかっている。あれは発する側すら制御しきれていない叫び。蘭は目線は外さず自身の鼓膜と手首まで再生されていた左腕の再起を静かに待った。
殺せた。
だが正気じゃない彼が今死んだら本当に”意味が無くなってしまう。” そう思った。
ここまで戦闘開始から4〜6分。あまりにも長く感じるがほんの一瞬だった。
それから2~3分して、蘭の鼓膜は完治し、それによって音が止んだことを知るが、左腕は前腕部までしか戻らなかった。コカトリスの瞳孔も焦点が徐々に整い首を楽にして身体を起こす。正気に戻ったのだろう。だが再生限界なのか翼羽の裂目が閉じることは無かった。砂塵が降りきらないまま空気だけが落ち着きを取り戻していく。そのなかで、二つの気配だけが静かに向かい合っていた。裂けた翼がわずかに動く。すでに飛ぶことは叶わない。だが、地上を走るには充分すぎる推力を、コカトリスはまだ保持していた。蘭は構えなかった。ただ、靴底をずらして、接地面の摩擦を記憶する。呼吸を一段階浅くし、心拍のタイミングを相手の筋の膨張に同期させる。ゆっくりとコカトリスの膝が鳴り、爪が瓦礫を噛む。骨盤が沈み、左肩を開くと下半身のバネを完全に収縮させる。
──膝関節の可動角:最大屈曲、内転方向に3°のズレあり。
──爪の接地:前縁から接地、摩擦値上昇=瓦礫嚙み。
──骨盤沈下:圧縮→反動動作、臀筋の緊張持続0.4秒。
──肩甲骨の開き:左先行、肩軸の角度12°内旋。
──下半身のばね動作:脚部伸長タイムラグなし=瞬発型跳躍。
──翼基部の張力:破断域の緊張増=補助推進に用いる。
──風圧反応:一次破裂後、再膨張=空気抵抗の破裂構造。
──突進姿勢:頭部下制、前肢後方折り畳み=全重心が前方へ。
──突進軌道:低軌道直線、接地、空中複合型。
──予測接触までの残秒:1.1秒。最大速度到達まで0.8秒。
──攻撃意図:咽頭下から脇腹を裂く軌道。視線誘導なし。
剛翼と地面が爆ぜて空気が二段階で割れる。低く滑らかに空気を凪ぐ万物を貫く突進。軌道は正面。やはり極上の刺突。涯角槍のような一閃。蘭は動かない。それは反応の遅れではなく既に割られる空気の質だけを追っていたためだった。爪が地を掠める音、左の軸足の反発力。その連動で頭部の重心がわずかにずれる。その一瞬の芯の外れを狙う。蘭は踏み出していない。踏み外した。自身の足場、摩擦の緩い一点に重心をわずかに落とし込む。滑るように身体を傾ける。それで充分だった。風が顔の右側を抉るように抜け、コカトリスの軌道が目の前を通り過ぎる。速度は制御されていない。全質量を当たること前提で構成された一撃。咽頭下から脇腹を裂く狙いはわずかに逸れコートだけが裂けた。蘭は残身の内に刃を引いた。回転はさせない。ただ、刃の向きだけを立てただけだった。コカトリスの脇腹がその刃を迎えにくる。血飛沫が蘭を中心に辺りを覆いながら後方に通り過ぎた後、開いた肋の淵が呪いの内部を露出させていた。羽根が振るえる。呼吸の形が血液の溢れる音に変わる。蘭は一歩も動いていない。すでに追撃は不要だった。コカトリスの脚が滑り、呼吸も大きくなる。純白の羽々が空気を掴めずに地に当たる。回避も、跳躍も、もう不可能。堕ちた。
蘭がナイフを腰に戻すと戦いの幕切がカチャリと鳴った。
気がつくと雨が降っていた。突進の余波は消えて雨音だけが空間を満たしていた。青年の身体が崩れ、支えを失っていた構造が順に崩れ落ちた。羽が地に濡れ脚の力が抜ける。骨の角度が歪みながら、瓦礫に身体を預けていく。蘭は近づく。慎重な歩みではなかった。ただ一歩一歩、音を立てて、雨音に濁されて。そして彼の前で止まり、地に堕ちたその目を見つめる。あの自分を忘れるような感覚は無い。変質しきった鳥類の頭部。その悲しい目を。もう語るものはなく屋上の対話、あの心地良い静けさを胸に心も濡らす。そのとき街の方から小さな小さな話し声が聞こえる。蘭は瓦解した鉄骨を跳び渡るように登って高所からその様子を確認しに行く。すると傘を刺したECAら数人と街人の人影が街灯に照らされていた。体重を支える鉄筋から手を離して再び青年の元に向かう。彼の元へ戻る中、蘭は胸ポケットの内側から銃を取り出した。それはシングルショット型の珍しいシルバーマグナム。それに装填された鈍く光る鎮魂の弾丸。青年は蘭の所作に合わし、目を閉じてその時を待っていた。蘭は彼の眉間に照準を合わせ一言、蘭は言う。
「和福 蘭だ。」
青年は、閉じていた目を見開いて、咄嗟に口から血を吐きこぼした。でもそれは苦しそうには見えず、何故か嬉しそうに見えた。
そして夜雨の帷に哀音が馴染むように溶けて、響いた。
洗面所で口を濯いでからシャワーを浴びる。赤黒く酸化し、固まった血液が髪や指先から溶け出すように流れていく。それらが飛ばされた左腕から流れ出た血液と混ざり合うかのようにゆっくりと新しい腕を構築していく。そう見えただけで以前の腕ときっと、変わりはないのだろう。形を成していく時間が停止した時間をまた動かし始めたような感覚。蘭は浴室から出て顔を拭き部屋に戻る。窓の外は暗く、遠くからはECAが青年を処理し規制された境界線で詰まる街の人々のざわめきが、雨露と共に窓を伝う。蘭は鏡に映った自分を見つめると後方に机上が目に入る。そこには燃え残った便箋が静かに焦げていた。蘭はそれを見つめて、そして、ただ、電気を消した。