2.目覚めた少女
氷が砕け散る音が、静寂の牢獄に響き渡った。
細かな氷片が宙を舞い、魔力の余韻が周囲の空気を震わせる。凍りついていた時間が、ゆっくりと溶けていく。
レオニスは、目の前の少女を見つめていた。
紅い瞳。深い炎の色を宿した双眸が、こちらをまっすぐに見つめ返してくる。
氷の棺の中で静かに眠っていたはずの少女は、まるで長い夢から覚めたばかりのような表情を浮かべていた。
だが――
「……なぜ……」
レオニスは、喉の奥から絞り出すように言葉を発した。
目の前の少女は、確かに自分の名を呼んだ。
しかし、彼は彼女のことを思い出せない。
この牢獄の最奥に囚われていた者たちは、すべて王自身が決定した処遇のはずだ。誰を封じ込めたのかも知らぬまま、ここに足を踏み入れることはありえない。
それなのに――この少女だけは違った。
彼女の姿を見た瞬間、心の奥に鈍い痛みが走った。
彼は一度、彼女を知っていたのではないか?
それとも――忘れてしまっただけなのか?
「……レオニス……」
少女の声は、かすれていた。長い間氷の中で眠っていたせいか、声を出すのも困難な様子だった。
レオニスは無言のまま、彼女の様子を観察した。
白い肌は氷の冷気に晒されていたせいか、ほんのり青白い。それでも、血色が戻るにつれ、薄桃色の色味が宿り始める。
細くしなやかな指先が、わずかに震えながら動いた。
そして、少女はゆっくりと手を伸ばした。
その手が、レオニスの黒衣の袖に触れる。
「……お前は、誰だ?」
レオニスは、思わずそう問いかけていた。
少女の瞳が、わずかに揺れる。
彼女は何かを言おうとしたが、すぐに表情を曇らせた。
「……わからない……」
その声には、微かな怯えがあった。
「……わたし……どうして、ここに……?」
少女は自分自身の記憶がないことに戸惑っているようだった。
レオニスは、その表情をじっと見つめた。
自分の名前を知っている少女。だが、彼女は自分自身のことを覚えていない。
いったい、彼女は何者なのか?
そして――なぜ、自分の名前を知っているのか?
「王よ」
静寂を破るように、ヴァルターが声を発した。
「この少女をどうされますか?」
彼の声は冷静だったが、その瞳には明らかな警戒が浮かんでいた。
牢獄に囚われていた者を解放することは、通常ありえない。ましてや、その理由が不明のままであればなおさらだ。
レオニスは答えを出せずにいた。
この少女が何者なのか分からぬ以上、迂闊に自由を与えることはできない。
だが――
彼は、決断することを躊躇していた。
このまま彼女を再び氷の中に閉じ込めるべきか。
それとも、真実を知るために解放するべきか。
レオニスは、無意識に拳を握った。
「……城へ連れていく」
ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「よろしいのですか?」
「ああ」
レオニスは、少女を見下ろす。
「……お前を閉じ込めた理由を、私は思い出せない」
少女の肩が、わずかに震えた。
「だが、お前は私の名を知っていた。そして、私はお前の顔を見て、何かを感じた」
レオニスの声は、いつになく低く響いていた。
「お前が何者なのかを確かめる。それまでは――私のもとに置く」
少女は驚いたように彼を見上げた。
その瞳には、恐れと不安、そして……ほんの少しの安堵が混ざっていた。
牢獄の扉が開かれた。
レオニスは少女の前に手を差し出した。
「……立てるか?」
少女は、わずかにためらった後、その手を取った。
冷たい。
まるで氷のような指先だった。
だが、その奥には確かに微かな温もりがあった。
少女は震える足で立ち上がった。
炎のような髪が、静かに揺れた。
そして――
この瞬間、レオニスは知らぬ間に運命の歯車が回り始めたことに、まだ気づいていなかった。