仕事の問題
朝が来た。
私は目を覚まし、隣にいる「赤ちゃん」を確認する。相変わらず夫そっくりの顔をした小さな存在が、静かに寝息を立てていた。
——いや、夫そのものなのだ。
私はまだ、この異常な状況を完全には受け入れきれていなかった。けれど、目の前の赤ちゃんが明らかに夫の意識を持っているとしか思えない行動をとる以上、もう疑う余地はない。
夫は、本当に赤ちゃんになってしまったのだ。
だが、問題はそれだけではない。
私はスマホの画面を見て青ざめた。
——夫の会社から、何度も着信が入っている。
夫は大手企業の営業部に勤めるサラリーマンだ。仕事熱心で、いつも早めに出社するタイプだった。
そんな夫が朝になっても出勤せず、連絡も取れないとなれば——会社としては当然、異変を感じるはず。
私は震える手でスマホを持ち直し、夫の上司の番号を押した。
「……もしもし、笹山の妻です。朝からご連絡いただいていたようで……」
「ああ、奥さん! よかった、やっと繋がった!」
電話の向こうから、夫の上司である課長の声が響く。
「旦那さん、どうしたんですか? 今日は朝から全然連絡がつかなくて、心配してたんですよ! まさか事故か何か……?」
事故——そう思われても仕方ない。まさか「夫が赤ちゃんになりました」なんて言えるはずもない。
「じ、実は……」
私は一瞬迷ったが、苦し紛れの嘘をついた。
「夫が、今朝急に体調を崩してしまって……高熱が出て、起き上がれない状態で……」
「えっ!? そうだったんですか!」
課長は心底驚いた様子だった。
「それなら、無理せず休むように伝えてください!ただ、今週はちょっと大事な案件があって……何日くらいで復帰できそうですか?」
何日?
私は赤ちゃんをチラリと見た。
——少なくとも、「数日で元に戻る」なんて保証はどこにもない。
「す、すみません、まだ分かりません……。とりあえず、しばらくは安静にさせないと……」
「そうですか……分かりました。じゃあ、何かあったらすぐ連絡してください」
課長は心配そうな声を残し、電話を切った。
私は深いため息をついた。
「しばらく休む」
そう言ったものの、夫がいつ元に戻るのか、そもそも本当に戻れるのか、何の確証もない。
このままでは、夫の仕事が危うい——。
電話を切った私が呆然としていると、腕の中の赤ちゃんがモゾモゾと動いた。
「ふにゃ……」
小さく唸るような声。その表情は——なんというか、「不満そう」だった。
「……何?」
私は思わず赤ちゃんを覗き込む。
まさか、この子——いや、夫は自分の仕事のことを気にしている?
「ねえ……もしかして、会社に行かなきゃって思ってる?」
そう問いかけると、赤ちゃんはじっと私を見つめた。そして、小さく「ふぅ」とため息をついたように見えた。
——ため息!?
こんな仕草、生後数ヶ月の赤ちゃんがするはずがない。これは完全に、「大人が思い通りにならずにイライラしているときの表情」だった。
私は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
「……やっぱり、あなたは蒼太なのね」
赤ちゃんは視線をそらしながら、小さくうなずいた——ように見えた。
夫は責任感が強い人だ。
きっと、こんな状況でも「会社に迷惑をかけたくない」と思っているに違いない。
だが、現実問題として「赤ちゃんの姿で仕事をする」なんて不可能だ。
何か方法はないか——?
私はふと、夫の仕事用PCがリビングの隅に置かれているのを思い出した。
「……蒼太の代わりに、私がメールを確認してみようか?」
赤ちゃんは何かを言いたげに私を見つめた。
私は恐る恐るPCの電源を入れ、夫のメールを開く。すると——
【至急対応!】
【重要】来週のプレゼン資料について
【クライアントからの返答待ち】
——想像以上に、大事な仕事が山積みになっていた。
私は、改めて頭を抱えた。
「どうしよう……」
そのとき。
赤ちゃんがじたばたと動きながら、私の膝の上にいる状態で何かを訴えようとした。
「……?」
私は思い切ってノートを開き、ペンを握らせてみた。
赤ちゃんはまだ筆圧も弱く、まともに字を書くのは難しそうだったが、かすれた線を何本か引いた後——
「パ」「ス」「ワ」「ー」「ド」
私は息を呑んだ。
「……パスワード、打てってこと?」
赤ちゃんは小さくうなずいた。
赤ちゃんが自分でメールを送るのは無理だ。だが、私が代わりに操作し、赤ちゃんが「こうしろ」と指示すれば、ある程度のことはできるかもしれない。
私は赤ちゃんを見つめ、静かに言った。
「……やってみる?」
赤ちゃんは、じっと私を見つめたあと、小さな手をぎゅっと握りしめた。
まるで、「頼んだ」とでも言うように——。