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第34話 8月31日

 早朝、まだ空は薄青く、秋の気配を感じさせる冷たい空気が静かに流れている。雅治の家の玄関先には、トランクに荷物が積まれた車がエンジンを暖めながら待機していた。

 陽菜は家の中で最後の支度を整えていた。ポシェットにリボンで飾られたスノーベルの蹄鉄を丁寧にしまった。先日の泰造の快気祝い兼陽菜のお別れ会で友梨佳からもらった物だ。馬の蹄鉄は幸運をもたらすとされ、上向きに飾ると幸運がたまり、下向きに置くと不運を下から吸い込むのだそうだ。陽菜は蹄鉄を上向きになるようにしまった。

 陽菜は白い薄手のカーディガンを羽織るとポシェットをたすき掛けにかけた。

「忘れ物ないかい?」

 叔母の真由美が顔をのぞかせて声をかけた。

「うん、大丈夫。」

 陽菜は頷き、部屋を振り返る。荷物が何もない部屋はガランとして寂寥感が漂い、毛布を丁寧にたたまれたベッドだけが、かつての温もりの影を残していた。

「一か月間、お世話になりました」

 呟くと、静かに部屋の扉を閉めた。

 玄関を出ると、そこには高柳牧師が待っていた。赤ら顔に少しの疲労感を漂わせつつも、彼の目には温かい光が宿っている。

「おはようございます、高柳牧師」

 陽菜は礼儀正しく挨拶をした。

「主取さん、今日でいったんのお別れですね。そして新しい旅の始まりです。あなたの決意を私は心から尊敬します」

 高柳が静かに語りかけると、陽菜は真っ直ぐに顔を上げて答えた。

「はい、また皆さんと一緒に暮らせるように、友梨佳と一緒に夢を叶えるために、まずは頑張って勉強してきます」

 高柳は満足そうに頷いた。

「『見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる』 主取さんの未来には、きっと荒れ野に道が開け、砂漠に水が流れるような素晴らしいことが始まるでしょう」

「ありがとうございます」

 陽菜は丁寧にお辞儀をした。

 見送りに来たのは高柳だけだった。遥は仕事で大阪に出張中で、友梨佳と泰造は早朝から牧場の仕事があるため来られない。陽菜はそれを理解していたが、やはり心の中に少しだけ寂しさが残る。

「牧場の仕事は待ったなしですからね。でも、友梨佳さんもきっと陽菜さんのことを思いながら仕事をしているはずですよ」

 高柳が察したように語りかけた。

「はい、わかっています」

 陽菜は小さく微笑みながら、涙をこらえた。

 雅治が車のドアを開けると、陽菜は振り返り、高柳に深く一礼した。

「本当にお世話になりました。来年の春にはきっと戻ってきます」

「神のご加護があるように」

 高柳が祝福の言葉をかけると、陽菜は車に乗り込んだ。

 エンジンが再び静かに唸りを上げ、車はゆっくりと玄関先を離れていった。陽菜は後部座席から最後にもう一度家を振り返る。高柳がスマホをポケットにしまいながら手を振る姿が小さくなり、やがて見えなくなった。


 車が海岸沿いの道に差し掛かると、波打ち際からの潮風が窓越しに入り込み、朝の冷たさを運んできた。陽菜は窓の外を眺め、目に映る景色に牧場での日々や一昨日友梨佳とここで語り合っていたことを思い出していた。

「今日は天気が良くてよかったね。見送られるには絶好の日だ」

 運転席の雅治が明るく言ったが、陽菜は曖昧に微笑むだけだった。

 その時、助手席から海岸を眺めていた真由美が突然「陽菜ちゃん、あれを見て!」と声を上げた。

 陽菜が目を向けると、朝日に照らされた砂浜をスノーベルが駆け抜けてくるのが見えた。馬の背には友梨佳が乗り、手綱を握りながら懸命に車と並走している。風を切るスノーベルの白い体が朝日に輝き、友梨佳の金髪が美しく舞い上がっていた。

「友梨佳! どうして!」

 あわてて車の窓を開けると、大きく両手を振りながら声の限り叫んだ。

 陽菜の瞳には驚きと感動の涙が溢れた。

 友梨佳は笑顔を浮かべながら片手を大きく振った。

「陽菜ー! サプライズ成功! おじいちゃんが見送りに行かせない訳ないでしょ!」

 声を張り上げながら、全力で走るスノーベルの背中でバランスを取る友梨佳の姿は力強かった。

 陽菜はハッとした。一昨日、わざわざ牧場から離れたこの海岸まで来た理由が分かった。最初からここでスノーベルと見送るつもりで、下見を兼ねてきたのだ。砂浜の状態や障害物の位置を確認していたのだろう。弱視であっても友梨佳なら一度砂浜の状況を頭に入れてしまえば、馬の耳や頭の動きで対応できてしまう。あとは高柳が車の色形と出発した時間をスマホで友梨佳に伝えたのだろう。

 陽菜は風を感じながら大声で応えた。

「友梨佳! ありがとう! 絶対にまた戻ってくるから!」

「約束だよ! また一緒に乗馬しようね!」

 スノーベルは波打ち際の濡れた砂を蹴り、軽快なリズムを刻みながら車と並走する。陽菜は窓から身を乗り出すほどに顔を出し、腕を振り返り続けた。涙が頬を伝いながらも、彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 やがて車が道を曲がり始め、スノーベルの姿が遠ざかる。友梨佳は最後まで手を振り続け、陽菜も窓越しにそれを見つめ続けた。

 車の中に戻ると、陽菜は窓を閉めた。

「ありがとう、友梨佳……」

 言葉とは裏腹に、陽菜の心は潰されるかのように苦しかった。

 車がトンネルに入り、窓に反射する陽菜の頬にはまだ涙が伝っていた。

「何でだろう。一時のお別れなのに」

 そう思いながら陽菜はゆっくり目を閉じた。陽菜の脳裏に友梨佳と過ごした日々が鮮明に蘇る。馬の背に揺られながら牧場の丘を駆け抜けた風景、笑い声、そして約束……

 トンネルを抜けると、車窓越しに広がる海が一面に輝いていた。朝日が水面に反射し、揺れる光の筋が陽菜の目に飛び込んでくる。

 ポシェットの中で軽く触れた蹄鉄が冷たく硬い感触を返す。その感触を指先で確かめながら、陽菜は声に出していない思いを心の中でつぶやいた。

「友梨佳、待っててね……」

 雅治が運転席から振り返りもせずに言った。

「この先、大きな岬が見える。見送りにはいい景色だよ」

 陽菜は小さく頷き、後部座席の窓をそっと開けた。潮風が勢いよく吹き込み、髪を乱しながらも新しい季節の訪れを告げているかのようだった。

 車は坂道を上り、視界が開けた瞬間、遥か遠くに友梨佳とスノーベルの姿が見えた。小さくなったふたりの姿を目にした陽菜は思わず息を飲む。

「まだ、そこにいる……」

 彼女の唇がわずかに動き、涙が頬を伝った。

 スノーベルの白い体が海の光を受けて輝き、その背中に座る友梨佳がじっとこちらを見ていた。その姿は遠ざかっていく車に向かい、最後まで何かを伝えようとしているかのようだった。

 車が次のカーブに差しかかると、ついに友梨佳の姿が見えなくなった。陽菜はそっとポシェットの中の蹄鉄を握りしめる。その触感は冷たくもあたたかく、これからの道を照らす小さな灯火のようだった。

 車が再びトンネルに入り、暗闇に包まれる。陽菜は流れる風の音と共に未来を見つめる気持ちを膨らませていた。


「お馬の親子は仲良しこよし 

 いつでも一緒にぽっくりぽっくり歩く」


 陽菜はつぶやくように繰り返し歌った。

 トンネルを抜けた先に待つ景色は、まだ見ぬ新しい世界の始まりを告げているようだった。


 車が海岸沿いのカーブを曲がり、完全に姿を消した。その瞬間、友梨佳はスノーベルをゆっくりと止めた。

 遠ざかっていく車が完全に見えなくなった後も、彼女の視線はその方向に向けられたままだった。

 スノーベルの蹄が砂浜に刻んだ跡は、打ち寄せる波にさらわれて消えかけていた。友梨佳はスノーベルから降り、波打ち際に立ちつくしていた。

 砂浜に刻まれた馬の蹄跡が、波にさらわれて少しずつ消えていく。それをぼんやりと見つめながら、胸の中で何かがぽっかりと空いたような感覚が広がっていた。

「行っちゃったね……」

 つぶやきながら、友梨佳はスノーベルの首筋をそっと撫でた。陽菜の笑顔や、砂浜で語り合った時の真剣な瞳が次々と思い浮かぶ。

 友梨佳はゆっくりと潮風を吸い込み、波の冷たい感触を足元に感じながら目を閉じた。

「なんで、こんなに寂しいんだろう……」

 波音に消されるような小さな声で、友梨佳は自分に問いかけた。友達が一旦横浜に戻る、それだけのはずなのに、この胸の痛みは何なのだろう。

 思い出すのは陽菜と過ごした短い時間の一つ一つ。スノーベルに触れて笑顔を見せた陽菜、夕焼けの牧草地で見せた真剣な表情。

 その全てが胸を締め付けるように愛おしかった。

「もしかして……好きなのかな、あたし……」

 その言葉を口にした瞬間、友梨佳は顔を両手で覆った。自分の心がどこに向かおうとしているのか分からず、怖さと戸惑いが混じる。

「そんなわけないよね。これってただ……そう、友達がいなくなって寂しいだけだよ」

 波がまた足元を濡らす。友梨佳は砂浜に視線を落とし、溜息をついた。

 しばらくして、友梨佳はゆっくりと顔を上げた。水平線の向こうに広がる空が、まるで新しい旅立ちを祝福するように見えた。

「陽菜が帰ってきたら、その時にわかるかもしれない……」

 友梨佳の髪が風に揺れ、彼女の目は前だけを見据えていた。

 彼女はスノーベルの背に軽やかに乗り、手綱を握った。

「帰ろう、スノー。陽菜が戻ってくるときまでに、もっといい牧場にしておかなきゃね」

 波の音が遠くなる中、朝陽が彼女の背中を温かく照らし始める。

 歩き始めてすぐに、友梨佳はふと思いついて口ずさみ始めた。


「お馬の親子は仲良しこよし

 いつでも一緒にぽっくりぽっくり歩く」


 声は波音に溶けながらも、砂浜に広がっていく。スノーベルがそのリズムに合わせるように軽やかに歩を進める。

 自分の声に少し笑いながら、友梨佳は手綱を引いて歌い続けた。


「お馬の親子は仲良しこよし……」


 スノーベルに乗って歩くその姿は、まるで砂浜と空に溶け込んでいくかのようだった。波打ち際に残された足跡と蹄跡は、打ち寄せる波にさらわれて静かに消えていく。

 朝陽がさらに高く昇り、海岸を黄金色に染めていく。友梨佳とスノーベルは砂浜をゆっくりと歩きながら、次第に牧場への道へと向かっていった。遠くでカモメの声が響き、風が彼女の髪をそっと揺らす。

 友梨佳の歌声は波音と調和しながら、やがて聞こえなくなり、砂浜には静けさだけが戻った。


最後までご覧いただき、ありがとうございました。

2人のその後をテーマにした続編アフターストーリーを現在執筆中です。

そちらも完成したら読んでるいただけると幸いです。

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