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第33話 8月29日

 夕陽が海に沈むころ、陽菜はスノーベルに、友梨佳はルージュメサイユの背に乗って砂浜にたどり着いた。潮風が心地よく頬を撫で、波打ち際に馬の蹄が柔らかい音を立てる。空は赤から紫へと変わりゆき、海面にはきらめく光の道が伸びていた。

 砂浜沿いには国道が伸び、ヘッドライトやテールライトを光らせながら車が行き交っている。

 泰造が今朝退院し、今夜はイルネージュファーム御用達の店で快気祝いをする予定だった。陽菜はそのまま高辻牧場に泊まるので、荷物を友梨佳の部屋に置いたあと時間になるまで外乗に出ることにしたのだった。

「ねえ、陽菜。どう? 砂浜を馬で歩くのって気持ちいいでしょ?」

 友梨佳は前を振り返り、笑顔を向けた。

「うん、こんなに気持ちいいの初めて。馬と一緒に自然の中にいると、すべてのことがどうでもよくなりそう。」

 陽菜の声は柔らかく、心からの解放感が伝わる。

「友梨佳、ありがとう。こんな景色、一生忘れない」

「何言ってるの? これからも何度でも見られるよ。」

 友梨佳は陽菜を振り返り、眩しそうに微笑む。

 その言葉に陽菜の胸は温かくなった。交通事故以来、心のどこかで「失ったもの」にばかり目を向けていた彼女が、初めて「得たもの」を実感した瞬間だった。

 やがて砂浜と国道が分岐するところまで来て、馬の歩みをとめた。そこから先は岩場となるため、馬では進めない。

 ふたりは馬の頭を海に向け、水平線にさしかかる夕陽を眺めた。

「陽菜ありがとう。牧場を助けてくれて。おじいちゃんも死ぬほど喜んでた」

 実際、会議のあとで結果を報告した時の泰造は、陽菜の手を握り締めながら上半身を折り曲げてピクリとも動かなくなり、同席していた高柳も一瞬動揺したくらいだった。

 泰造が嗚咽しながら何度も「ありがとう」と言ってから、ホッとしたのと感動が入り混じった何とも言えない気持ちで友梨佳と笑い泣きした。

「あたし陽菜に何かしてもらってばかりね」

「なんで? 馬の乗り方を教えてくれたのは友梨佳だよ。遥さん達に引き合わせてくれたのも、将来の道筋を照らしてくれたのも。そして何より……」

 陽菜は手を伸ばして友梨佳の手を握った。友梨佳が、ドキッとして陽菜を見る。

「あの日、牧場で私に声をかけてくれたのは友梨佳だよ。だから、してもらえたのは私も一緒。友梨佳に出会えて良かった。何という神のお導き……」

「初めて会った時も言ってたね。でも、神様って本当にいるんじゃないかって今は思えるよ」

 陽菜を見つめる友梨佳の髪が夕焼け色に染まっている。友梨佳の目は涙で溢れた。サングラスをかけてて良かったと思った。

 ふたりは手をつないだまま無言で夕陽を眺めた。暗くなり始めた空に星がぽつりぽつりと瞬きだしていた。

「明後日は何時に出発するの?」

 友梨佳がつぶやく。

「9時の飛行機だから、6時過ぎには出るって。車椅子だから搭乗手続きに時間がかかるの」

「そっか……」

 友梨佳が寂しそうにつぶやく。6時頃は朝飼で忙しい時間だ。泰造にはまだ無理はさせられない。

「大丈夫。分かってるから」

 陽菜は笑顔を作ってみせるが寂しさは隠しようがない。北海道から立つ時には友梨佳に見送ってほしかった。

「でも、春になったらイルネージュファームに就職するんでしょ? そしたらご近所さんだから何時でも会えるよね」

 2人の間に流れる寂しさを振り払うかのように、友梨佳が明るく言った。

「そのことなんだけどね……私、決めたことがあるの」

 陽菜は海を見つめながら話し始めた。

「何を?」

 友梨佳も潮風に目を細めながら問い返す。

「私、大学に進学することにする。大学を卒業してからイルネージュファームで働かせてもらう」

「そう……なんだ」

「この前のプレゼンで分かったの。私には牧場や経営に関する知識も経験もなさすぎるって。この前は高柳先生や遥さんが全部お膳立てしてくれて、私はそれに乗っかっていただけ。遥さんは働きながら身につければいいって言ってくれたけど、将来の事を考えたらちゃんと勉強した方がいいと思って。それでね……」

「そっか、そうだよね」

 陽菜の言葉を遮るように友梨佳が言った。

「陽菜は頭が良いんだもん。大学に行った方がいいよ。夏休みとかに遊びに来てくれるんでしょ?」

「それはもちろん。何なら週末にも来られるよ。だって……」

「あたしは嬉しいけど、お金と時間がかかりすぎるよ。たまに遊びに来て、卒業したらイルネージュファームに戻ってきてくれたらそれでいいよ。そりゃあ、ちょっとは寂しいけど」

「友梨佳聞いて。大学は東京だけにある訳じゃないのよ」

「……え?」

 不思議そうに首をかしげる。

「私が進学しようとしているのは帯広畜産大学。畜産学部で農業経済学を勉強するの。大久保先生の話しだと、帯広からだと車で3時間くらいで来られるらしいよ。私、横浜にいるうちに頑張って車の免許も取るから」

 友梨佳は話を呑み込めず、きょとんとしていたが、陽菜の言っていることが分かると笑顔をはじけさせた。

「じゃあ、春からずっと道東で暮らすの?」

「そうだよ」

「じゃあ、毎週末遊びにおいでよ」

「いや、毎週末はどうだろう。勉強もあるし」

「じゃあ、あたしが遊びに行く。それならいいでしょ?」

「まあ、それならいいんじゃない。あ、でも試験前とかは無理だよ」

「うん、分かってる! やったー!」

 友梨佳はルージュメサイユの首筋をパンパンと叩いて、その首に抱きついた。ルージュメサイユが迷惑そうに鼻を鳴らす。

「あとね。もうひとつあるの」

「なに?」

 たてがみを撫でながら友梨佳は聞いた。

「イルネージュファームで3年くらい実務経験を積んだらね……」

「うん」

「高辻牧場で友梨佳と一緒に働きたい。業務の幅が広がるから、一人でも多く人はいた方がいいでしょ? ……どうかな?」

 と、上目づかいに友梨佳を見る。

 そのしぐさに思わず胸が高鳴ると、そのすぐ後に涙があふれだしてきた。今度はサングラスでは隠し切れない。友梨佳はサングラスを外し、両手で涙をぬぐいながら、「そんなの。ダメな訳ないっしょ」と泣き混じった声で答えた。

「陽菜……ずるいよ」

 友梨佳は涙声でつぶやいた。

「え、何て?」

 陽菜が聞き返すと、友梨佳の腹の虫が盛大に鳴いた。

「もう! お腹すいた!」

 友梨佳は笑い泣きしながら大声で夕陽に向かって叫んだ。

「私も!」

 陽菜も大声で叫ぶ。

 ふたりの笑い声は潮風に乗り、沈みゆく夕陽の先へと広がっていった。

 これから訪れるどんな日々も、ふたりでなら乗り越えられる。そんな確信を胸に抱きながら、夜空にはひときわ明るい星がふたりを見守っていた。

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