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第32話 8月26日 その2

 会議室は陽菜が想像していたよりコンパクトだった。巨大な会議室にスクール形式に机と椅子がびっしり並べられ、そこに企業の重鎮たちが座り眉間に皺を寄せながらプレゼンを聞くものだと思っていた。

 実際の会議室は15人が入れば一杯の広さで、スクリーンを正面にしてコの字に長机が配置されていた。

 スクリーン寄りのノートパソコンが設置された席に陽菜は高柳に促されて座り、その隣に高柳、友梨佳の順に席についた。

 遥はただ1人スクリーン正面の席に着いた。

 陽菜は準備したパワーポイントの動作確認をした。問題ない。

「主取さん」

 高柳は努めて穏やかに声をかけた。

「企業間の案件というのは、水面下での根回しや交渉で9割方決まります。会議でのプレゼンは言ってしまえば事後処理です。このプレゼンも然りです」

 高柳の言葉をそのまま受け取っていいか陽菜には分からなかった。いまのアルテミスリゾートが置かれている立場を考えればその通りなのだろうが、重役会議でそれまでの話しが一蹴されてしまうということも話としてよく聞く。アルテミスリゾートの統括本部長である柴田は辣腕で知られていると叔父の雅治から聞いていた。陽菜のプレゼンが無下に却下されることもあるかもしれない。

 早く始まってほしい。陽菜の心臓は、その音が会議室中に響いているのではないかと思うほどに激しく脈打った。

 そこに、アルテミスリゾートの社員が会議室に入ってきた。

 高柳と遥がすかさず起立し、それに倣うように友梨佳も立ち上がった。

 先頭で入ってきた小太りで黒縁の眼鏡をかけた男性が高柳に歩み寄ると名刺を差し出した。

「高柳先生ですか。アルテミスリゾート東日本統括本部長の柴田と申します。お噂は唐津からよく伺っていますよ。本日はお手柔らかにお願いいたします」

「唐津さんは今は本社勤務でしたか。昔は大変お世話になりました」

 高柳も名刺を差し出す。一昨日急いで印刷会社に名刺を作ってもらっていた。

「あなたが主取さんですね。大変優秀とお聞きしています。本日はよろしくお願いいたします」

 柴田は陽菜に対しても名刺を差し出し、丁寧に挨拶をした。

「主取陽菜と申します。本日はこのような機会を頂きましてありがとうございます」

 うんうん。と頷くと、柴田は小太りの体を揺らしながら、陽菜と向かい合わせの席に座った。

 穏やかそうな人だ。陽菜は少しだけ心が軽くなった気がした。

「あら、富樫さん。その節はどうも」

 遥が少し遅れて履いてきた富樫と中村に笑顔で挨拶をしたが、その目はまるで笑っていなかった。

「お噂が間違いと分かって安心しました。弊社といたしましても安心して貴社とお取引ができます」

 富樫も穏やかに話しているが、表情は険しいままだ。

「それでは始めましょうか」

 富樫が席に着いたのを見計らって柴田が発言した。その瞬間、会議室の空気がピンとしたものに変わる。

 高柳がおもむろに立ち上がった。

「本日はお忙しい中、弊社、高辻牧場の提案する業務提携に係るご説明を差し上げる機会を賜りましてありがとうございます。日高地域の観光および馬産業の活性化に本業務提携は必要不可欠と考えます。是非、弊社の提案する業務提携につきましてご検討いただけますと幸いです。それでは、本業務提携の企画者の主取よりご説明いたします」

 高柳は席に着くと、陽菜に向かって頷いた。

 陽菜は小さく息を吐くと、ゆっくりとしかしはっきりした口調でプレゼンを始めた。「本日は、皆さんにお時間をいただきましてありがとうございます。私、主取陽菜は、高辻牧場の未来と、日高の地域全体の未来について話したいと思っています」

 陽菜の声は最初、少し震えていたが、言葉を発しながら次第に自信を取り戻していった。

「皆さんご存じの通り、高辻牧場は長年、サラブレッドの生産を行ってきました。しかし、近年、競走馬業界の変化と経済的な困難が重なり、経営が厳しい状況に立たされています。私たちだけでは、今の状況を乗り切るのは難しいというのが現実です。でも、私はこの牧場を続けたい。これまで守り続けてきた伝統を、未来に繋げたいんです」

 陽菜の言葉には、熱意が込められていた。彼女は目の前に座る相手の顔を一人一人見つめながら、提案の核心に触れた。

「そのために、私は新しい提携の形を提案したいと思っています。高辻牧場、イルネージュファーム、そしてアルテミスリゾート。この三者が力を合わせ、競走馬生産だけでなく、観光業や体験型施設としても地域に貢献できるような事業を立ち上げることです」

 柴田は椅子を少し前に動かし、興味深げに聞いている。陽菜は一度視線を落とし、自分が用意していた資料を見直す。

「まず、高辻牧場は、現在の放牧地の3分の2をイルネージュファーム様に貸与します。高辻牧場は競走馬の小規模な生産と休養馬の預託、観光客向けの乗馬施設の運営を行います。

 イルネージュファーム様は貸与した放牧地に競走馬の育成施設と預託設備を整備し、生産育成牧場として業務を拡大させます。これは地域の生産牧場から育成年齢になった競走馬をいち早く受け入れることで、人手不足に悩む零細牧場の負担軽減にもつながります」

 遥が頷きながら陽菜のプレゼンを聞いていた。

「アルテミスリゾート様におかれましては、イルネージュファーム様の育成施設内の土地に、グランピング施設の設置と運営お願いしたく存じます。現在、競馬はゲームやアニメなどのコンテンツで非常に盛り上がりを見せています。そこで、飼育見学ツアーを拡大して、観光客にサラブレッドの育成や調教の様子を間近で見てもらう計画を提案します。それに加えて、アルテミスリゾート様の宿泊施設との連携を深め、牧場ツアーや当施設での乗馬体験や子ども向けの動物ふれあいプログラムをパッケージとして販売することで、リゾートのお客様にも新たな体験を提供できるものと思います」

「さらに」と、陽菜は言葉を続けた。

「将来的にイルネージュファーム様と高辻牧場は共同してクラブ法人と愛馬会法人を立ち上げます。いわゆる一口馬主です。イルネージュファームはコンスタントに重賞勝ち馬を輩出しています。イルネージュファーム様の生産した馬に出資したいと思う顧客は多いと思われます」

 陽菜はさらに続けて、

「アルテミスリゾートホテルに宿泊し、牧場ツアーに参加された方に対して優先出資権を付与したいと考えています。アルテミスリゾートホテルに宿泊する大きな付加価値となり得ると考えます」と力強く説明した。

 柴田が静かに頷きながら言葉を発した。

「なるほど……確かに、それぞれの強みを生かした提携だね。でも、どうやってそれを運営するのか。財政的な面も含めて、リスクはあるでしょう?」

 高柳と事前に想定していた質問だ。

「もちろん、リスクはあります。でも、それ以上に、この提携がもたらす利益は大きいはずです。私たちの牧場だけではできないことも、三者が力を合わせれば、可能性は広がると思います。また、舞別町としてもこの地域に観光客が滞在できる施設ができることについて非常に興味を持っているとのことです。町として財政を含めた支援を前向きに検討していただけると回答をいただいています」

 陽菜は観光課に勤めている雅治を通して、事業提携について町の見解をあらかじめ聞いていた。

「ほお。舞別町からも協力を得られるとはね」

 自治体の協力という言葉が効いたのか、柴田は何度も頷いた。

「この提携は、それぞれの事業が独立しながらも共存していく、新しい形の協力関係です。成功すれば、地域全体の未来を支えることになるでしょう。しかし、全てがうまくいくとは限りません。それでも、皆さんが手を取り合えば必ず地域の発展に貢献できるものと考えます。どうか前向きにご検討いただけると幸いです」

 陽菜はプレゼンを締めくくった。とりあえず発表が終わり、ホッとひと息ついた。

「どうかね。何か質問は?」

 柴田はアルテミスリゾート側の出席者に意見を求めた。

「では、私から……」

 と、富樫が手を挙げた。

 富樫からは計画案の根拠や具体的な数字について質問があったが、それも高柳の想定内であり、陽菜は準備した資料をもとに卒なく回答した。

 ふと、友梨佳を見ると、両手を膝の上で握り締め、目をぎゅっと閉じてうつむいていた。

 柴田は他に手が挙がらないことを確認すると、

「では、最後に私からよろしいですかな」と、穏やかだが威厳も感じさせる口調で発見した。部屋の空気が一瞬張り詰める。

「主取さん。あなたはなぜこの提案、つまりは高辻牧場を存続させる提案をなさったのですか?」

「それは……日高の馬産業や観光業の活性化につなげる……」

「それは先程聞きました」

 柴田はぴしゃりと陽菜の発言を遮った。

「馬産業や観光業の活性化。確かに素晴らしいが、別にあなたじゃなくてもいい。あなたは、誤解を恐れずに言えば部外者です。高辻牧場や馬産業がどうなろうと関係ないはずです。なぜここまで肩入れを?」

 友梨佳はいまにも泣きそうな顔をしながら、両手をさらに強く握り締めた。

 陽菜は頭をフル回転させるが、柴田の求める回答が見つからない。背中に冷たいものが走る。

「主取さん。あなたの正直な気持ちをお話しなさい。友梨佳さんと出会った時から今までのことを。大丈夫。さあ、深呼吸をして」

 高柳はいつもの穏やかな声と表情でささやいた。

 陽菜はうなずくと、目を閉じて大きく深呼吸をした。

 目を開けると、遥が「頑張って」と無言で口を動き出した。

 友梨佳は涙目で陽菜を見ている。

 陽菜は友梨佳を見て、フッと微笑んでから口を開いた。

「それは、大切な親友との約束だからです」

「ほう。親友」

 富樫は両手を机の上で軽く組んだ。

「私は中学3年の時に事故に遭い、下半身の自由を失いました。看護師になりたいという夢が絶たれ、目標を失った私はずっと真っ暗なトンネルを彷徨っていました」

 会議に参加している全員が陽菜の発言を集中して聞いていた。

「そんな時、偶然訪れた高辻牧場でひとりの女の子と出会いました。彼女は太陽のような暖かさで私を包み、太陽のような光で私の進むべき道を照らしてくれました」

 友梨佳が少しだけ驚いた様子で陽菜を見た。

「でも、彼女は過去のいじめが原因で心に深い傷を負っていました。私は言いました。あなたが幸せになることが、最大の復讐だと。私はそのための手伝いなら喜んですると約束しました。彼女の幸せは高辻牧場を昔のようにたくさんの人が訪れるにぎやかな牧場にすることでした。だから、私は高辻牧場が存続するために動きました。彼女が私に光を与えてくれたように、私は彼女に生きる希望を与えたいんです。それがこの事業提携の提案をした理由です」

 柴田は上体をあげて腕を組み、うーんと唸った。

「実に個人的な理由ですね。しかも青臭いことをおっしゃる。……ですが、得てしてビジネスというものは個人的な理由だったり、青臭い想いから始まるものです。そうですよね高柳先生」

「おっしゃるとおりです」

 高柳はうやうやしく頭を下げる。

「主取さん。あなたの高辻牧場やご友人を想うお気持ちが良く分かりました。あなたが企画した提案ならきっと上手くいくでしょう。この提案を早速本社の重役会にあげましょう。本事業の窓口やリーガル関係は高柳先生でよろしいですかな」

「はい。結構です」

 陽菜と友梨佳の表情がパッと明るくなる。

「それでは、本日はこれで。今後ともよろしくお願いいたします」

「ありがとうございます!」

 陽菜と友梨佳が声をそろえ、高柳をはさんで目を合わせて笑顔で笑いあった。

 柴田は、うんうんと頷きながら会議室を出た。

「主取さん。素晴らしいプレゼンでした。うちの若手にも聞かせたいくらいだ」

 富樫が陽菜に声をかけた。

「きっと良い仕事ができるでしょう。一緒に頑張りましょう」

「でも、まだ重役会があるんですよね」

「企画運営については柴田に一任されています。まず問題ありません。それに柴田があの質問をするときはほぼ決まりなんです。柴田は一緒に仕事をする者の人となりを重視するんです。企業間の提携とはいえ、最後は人と人ですから」

「そのとおりです」

 高柳が相槌を打つ。

「それと青山さん。今度仕事の打ち合わせがてら食事でも行きませんか」

「ええ。ぜひお願いします」

 遥と富樫は握手をしながら話した。今度はちゃんと目も笑っている。

「会議が始まる前はバチバチだったよね?」

 友梨佳が陽菜にささやく。

「彼らに個人的な恨みがある訳ではないですからね。昨日まで殴り合いの喧嘩をしていても、お互いに利益があると分かれば次の日には肩を組む。企業人とはそういうものです」

「えー。あたし絶対無理」

 顔をしかめる友梨佳を見て、陽菜は苦笑いをする。

「富樫さんちょっと向こうでよろしいですか」

 高柳が会議室を出ようとしていた富樫に近寄った。

 会議室から少し離れた場所にくると高柳はおもむろに言った。

「富樫さんがお優しい方で良かったです」

「優しい? 私がですか」

「ええ。私でしたら宮内さんにお金でも握らせてイルネージュファームに不利な証言をさせます。そのうえで友梨佳さんの就職とスノーベルはそのまま繋養する条件を出せば決まりだったでしょう。でもなさらなかった」

「弊社はコンプライアンスの遵守を絶対のモットーにしています。私個人としてもです」

「なるほど。やはりお優しい方だ。これなら安心して仕事ができそうだ」

 高柳は握手を求め、富樫もそれに応じた。握手の後、立ち去ろうとして「ああそうでした」と高柳は振り返った。

「シマエナガの限定ぬいぐるみの再販が決まったらしいですよ。娘さんも喜ぶでしょう」

 高柳はニコッと笑い、富樫の肩をポンと叩いた。

「タコウナギ先生! お昼にしようよ。陽菜がお腹すいたって!」

「ちょっと! 友梨佳が最初に言ったんでしょ!」

 笑いながらじゃれあうふたりをみて高柳が呟いた。

「良い笑顔でしょう。あの笑顔を守ることが、私が神から与えられた使命であり、贖罪です」

「では」と高柳は陽菜たちのところに合流した。

「噂の弁護士はどんな感じかと思いましたが、意外と普通でしたね」

 中村が富樫に歩み寄って富樫を見た。富樫の両手は震え、額には汗が吹き出していた。

「富樫さん?」

「俺は娘がいることを話していない。ましてや娘が今夢中になっているものなんて……」

 中村の表情も一気にこわばる。

 アルテミスリゾートが業務提携を反故にするようなことがあればどうなるか。高柳からの警告であり、富樫もそれを敏感に感じ取った。

 叩いて埃の出ない人間などいないし、それは企業も同様だ。アルテミスリゾートが裏切るような真似をすれば、富樫個人どころか会社そのものが吹き飛びかねない。

「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」

 富樫は高柳の背負ってきた業の大きさを垣間見た気がした。


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