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第31話 8月26日 その1

 陽菜は机に鏡を置くと、小田川からもらったメイクブラシのセットを広げた。ヘアバンドで前髪を上げると、化粧水でスキンケアをする。ベースメイクをしたあと、小田川から教わった通りにメイクを重ねていく。

 今まで生きてきた中でこんなにも相手に与える印象を考えながらメイクをしたことはなかった。メイクが徐々に仕上がってくると、自然と気持ちが引き締まってくる。

「女にとってメイクは武器」

 小田川が言っていた言葉の意味が少しだけわかったような気がした。

 陽菜は最後にリップを塗り置けると、叔母の真由美から借りたスーツに着替えた。

 これから陽菜はアルテミスリゾートホテルの会議室で、同社の東日本統括経営本部長や経営企画部の面々に対してプレゼンテーションを行う。陽菜が父のヒントを頼りに作成した、高辻牧場、イルネージュファーム、アルテミスリゾートの三社による事業提携の企画案だ。

 ここまで来るのに、アルテミスリゾート側からの様々な妨害工作により計画が何度も頓挫しかける……ということはなく、高柳か打診をかけると富樫はあっさりとこの事業提携案に興味を持ち、経営本部長に話を上げた。

 アルテミスリゾートからすれば、高辻牧場とイルネージュファーム間での疑念が解消し、高辻牧場の放牧地をイルネージュファームに売却する話、いわゆるクラウンジュエルを持ち掛けられた段階で詰んでいた。グランピング施設等を建設できるだけの土地の無くなったら高辻牧場を買収する意義はない。

 富樫が悔やんでいるとすれば、泰造が倒れたという情報がアルテミスリゾートに入らなかったことだろう。情報があれば、いち早く泰造とコンタクトをとり、イルネージュファームとの接触を避けることができた。小さい地方の町の情報網は光回線より早い。それにもかかわらず情報が入らなかったということは、アルテミスリゾートは舞別町において所詮『よそ者』でしかないことを如実に現わしている。

 全国でリゾート開発を行っているアルテミスリゾートは、地元の賛同がなければリゾート開発は成り立たないことを、身をもって知っている。三社による事業提携は、アルテミスリゾートがこの地で事業を展開するうえで有利に働く可能性を秘めている。富樫はそれを一瞬で理解したのだと高柳は話していた。

 そして、8月26日なら統括本部長が日高のアルテミスリゾートファームに来るとのことだったので、その日の午前に会議が設定された。

 陽菜は最初、高柳がプレゼンをするのだと思っていたが、「こういうのは企画者本人がプレゼンした方が、企画意図や熱意が伝わる」と言われ、陽菜がプレゼンをすることになった。もともと陽菜の資質を買っている遥は勿論賛成だった。友梨佳だけが死地に送られる友を見るような目で陽菜を見た。トシリベツ教会で何度も作成した資料の修正やプレゼンの練習をしている所に顔を出しては、「役立たずな馬鹿でごめん」と涙目で謝ってくるので陽菜は若干辟易したが、それだけ忍びないのだろう。

「気にすることなんかないのに」

 友梨佳は七夕フェスタで自分の役割を全うして見せた。友梨佳がいてくれるからここまで頑張れた。次は自分の番だ。陽菜はスーツのジャケットに袖を通した。鏡の前に迷える子羊はもう映っていなかった。


 高柳の運転する車でアルテミスリゾートに着いたのは会議の始まる20分前だった。日本で有数のリゾートホテルらしく、エントランスは北海道の自然をイメージしたウッド調の造りで、間接照明で柔らかな空間を演出していた。観光で来たのなら非常に落ち着く空間だろうが、今の陽菜にはそんなことを感じる余裕はなかった。流石の友梨佳も今日ばかりは神妙な面持ちをしている。

 高柳が受付に慣れた様子で声をかける。スリーピースのスーツに弁護士バッジを付けた高柳の姿はまさしく敏腕弁護士そのもので、頼りがいの塊だった。その姿を見ているだけで、陽菜の心は大分落ち着くことができた。担当の女性が裏から表れて陽菜達3人を会場まで案内した。泰造は心臓に異常があるとのことで入院が長引き、会議には出られなかった。

 会議室の前ではすでに遥が待っていた。パンツスタイルのスーツ姿が新鮮だった。

「良い顔をしてるわね」

「私がですか?」

 許されるなら今すぐ逃げ出したいくらいに緊張している陽菜には意味が分からなかった。

「緊張感を持った良い顔よ。緊張に飲み込まれたらダメだけど、あなたの顔は違う。しっかり準備してきたのが分かるわ。大丈夫、何かあったら私や高柳先生がフォローするから。自信持って行ってらっしゃい」

 遥は陽菜の両肩を叩いた。

「ありがとうございます」

 自分が失敗してもフォローしてくれる人がいる。そう思うだけでずいぶん心が楽になる。

「加耶がね、プレゼンが終わったら飲みに行こうって。お店も押さえちゃってるわよ」

「ぜひ、お願いします」

 身の危険を若干感じながらも笑顔で答えた後、陽菜は肘で友梨佳をつついた。

「あの……遥さんのこと疑ってごめんなさい」

 友梨佳はもじもじしながら謝った。

 宮内の居所と連絡先を高柳が調べ上げて、泰造が倒れたことを伝えた。昨日、高柳から連絡を受けた宮内が泰造の見舞いに来た。そこで宮内ファームの売却の真相について説明され、遥の言う通りだったことが分かった。

 宮内をイルネージュファームで雇い入れるつもりで遥はいたが、宮内も60歳を超えていたし、牧場の仕事への情熱も無くなっていたため、息子のいる東京に引越したとの事だった。

「いいのよ。分かってもらえれば」

 遥は友梨佳の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「そろそろ入りましょうか。パワポの動作確認もしておきましょう。あ、よろしければ神に祈りを……」

 高柳が振り返った先では、友梨佳が陽菜を正面から抱きしめていた。

「あたし何もできないけど、ずっと祈ってるから。何に祈ればいいか分からないけど、とにかく祈ってるから」

「大丈夫。友梨佳がいてくれるだけで、私は頑張れるよ」

 陽菜も友梨佳の背中に腕をまわした。

「必要なかったみたいですね。主取さんのために祈りを捧げたかったのですが」

 首をすくませながら高柳は言った。

「先生。百合に挟まろうとする男は処刑されても文句は言えないらしいですよ。加耶が言ってました」

「百合? 挟まる?」

 高柳は首を傾げながら会議室に入って行った。


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