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第30話 8月19日 その4

「失礼します」

 高柳は持ち前の穏やかな笑顔でドアをノックし病室を訪れた。

 病室の中には、ベッドに横たわる泰造の姿があった。彼の顔は少しやつれていたが、気丈な表情を保とうとしているのが伝わった。

「おう、高柳先生か」

 泰造がゆっくりと起き上がり、うっすらと笑みを浮かべた。

「まさか退院当日に来てくれるとは思わなかったよ」

「いやいや、泰造さんが心配でね。少しお話でもと思って。検査にいらしたみたいだったので、病棟のデイルームで待っていました」

 高柳は優しい口調で答え、ベッドの横にある椅子に腰を下ろした。

 病室の窓からは午後の日差しが柔らかく差し込み、風に揺れる木々の影が揺らめいていた。二人の間にはしばらくの沈黙が続いたが、それは重苦しいものではなく、心地よい静けさだった。高柳は、ゆっくりと息を吸い込み、泰造がどのような思いを抱えているのかを感じ取ろうとしていた。

「こんなところに寝ていると、どうにも体がなまっちまうな」

 泰造が苦笑しながら言った。

「牧場のことが気になって仕方ない。友梨佳に任せているが、あいつだけじゃ荷が大きすぎる」

 高柳は頷きながら、静かに泰造の言葉を聞いていた。彼も牧場の現状や、泰造がどれほどの負担を抱えてきたかを知っていた。そして、牧場への思いがどれほど強いかも理解していた。

「泰造さん。牧場は、あなたの家族と人生そのものですね」

 牧師が静かに言葉を発すると、泰造は軽く頷いた。

「そうだな……あの牧場は、わしの人生そのものだ。家族と一緒に作り上げたものだからな。あの牧場を守ることが、わしの息子……そして友梨佳の未来を守ることだと思っていた」

 泰造は少しずつ語り始めた。彼の声には、長年の重圧と戦ってきた男の誇りと、同時に家族への深い愛情が滲んでいた。

「死んだ息子の夢でもあるんだ。あいつは、俺の跡を継いで牧場をもっと大きくしようと張り切っていた。いつかダービーを獲るってな……」

 泰造の声には、深い悲しみが込められていた。息子の死後、彼はその悲しみを牧場に注ぐことで紛らわせ、懸命に働いてきた。それは、亡き息子の夢を引き継ぐためでもあり、友梨佳の未来のためでもあった。

「でも、正直なところ、もう潮時かもしれん……」

 泰造は天井を見つめながら、静かに言った。

「主取さんが書かれた企画書はご覧になりましたか? 私も拝見させていただきましたが、なかなか良くできています。高辻牧場が持続的に存続可能だと思いますが」

「ああ。見させてもらった。あれが実現できれば、うちの存続だけでなく、この地域の活性化にも役立つかもしれん。だが……」

 泰造が天井の明かりを見つめて言った。

「アルテミスリゾートが高校生を相手にするとも思えん」

 高柳牧師は深く息を吸い込み、泰造の目を見据えた。

「泰造さん、そのことについてなのですが。もしよろしければ、私に仲介役をやらせていただけないでしょうか。つまり泰造さんの代理人をやらせていただきたいのです」

 泰造は驚いたように目を見開いた。

「先生が?」

「私は弁護士として、かつて多くの人を傷つけてきた過去があります。ですが今は自分にできる限りのことをして、誰かの支えになりたいと思っています。泰造さん、あなたがこれまで築いてきた牧場を守るため、友梨佳さんのため、私もお手伝いさせてください」

 牧師の言葉は誠実で、心の底から泰造を支えたいという強い思いが感じられた。泰造はしばらくの間、言葉を失い、深い考えにふけっていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「……何か過去があるんだろうと初めて会った時から思っていたが、まさか弁護士先生だったとは思わなかった。そうですか。先生がそこまで言ってくれるなら、頼むしかないな。老い先短いが、先生への報酬は一生かかっても払う」

 泰造は静かに答えた。

「それには及びません。もう友梨佳さんと主取さんからいただきました」

「……?」

 訝しむ泰造に、高柳は立ち上がって右腕を病室の入口に向かって広げた。

 泰造がベッドから降りると、高柳が先導する形で病室を出て病棟のデイルームに来た。

 デイルームの手前で高柳が自分の口の前に人差し指を立て、続いてホールの奥を指さした。

 そこには、陽菜と友梨佳が隣り合って座り、互いの頭を寄り添わせて眠っている姿があった。

「ラーメンをご馳走していただくのを条件にしたのです。病院に来る前にラーメン屋に寄りましてね、友梨佳さんがデカ盛りチャレンジに挑戦して見事4人前のラーメンを20分で完食しました。いやあ実に壮観でした。お店に写真が飾られたので、今度ご覧になったらいい。得意げな顔の友梨佳さんと少し引いている主取さんの表情の対比がなかなかの傑作です」

 高柳は笑顔で話すが、泰造は「はあ……」と複雑な表情をしている。

「その賞金で全員分のラーメンと餃子代を払って、残りは教会に寄付をして頂けました。神のご加護があることでしょう」

「ですが、そんなことで……」

 高柳は陽菜と友梨佳の寝顔を慈しむような眼差しで見ながら言った。

「良い寝顔でしょう。よほど疲れていたのでしょうね。あの表情を守れるなら牧師冥利に尽きます。ラーメン代でも多いくらいです。それに……」

 高柳は泰造の方に向き直し、ニコッと笑った。

「この案件が上手くいけば、高辻牧場から顧問弁護士の依頼を頂けるかもしれません」

「抜け目ないですな。では、顧問料は応相談ということで」

「結構です。では、そろそろ起こしましょうか」

 暖かな夕陽が差し込むデイルームに、高柳と泰造が並んで入って行った。


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