第28話 8月19日 その2
陽菜は病院の出口でタクシーを拾った。もしかしたら友梨佳が追いかけてきてくれるかもしれない。そんな淡い期待を込めて振り返ったが、友梨佳の姿は見えなかった。
「トシリベツ教会までお願いします」
陽菜が伝えると、タクシーは静かに病院を後にした。
秋が近いとはいえ、まだ彩りあふれる季節のはずなのに、車窓の景色がモノクロームに見える。
どこで間違ったのか。そればかり考えていた。黙ってイルネージュファームに行ったこと? 安易に横浜で暮らそうなんて言ったこと? 言い争いなんかしないで、一旦時間を置いた方がよかった?
様々な思いが、車窓の景色より速く頭を流れた。どれも当たりでどれも的外れの気がした。
もうこれで終わりかもしれない。そう思うと今まで影を潜めていた孤独感が、部屋に閉じこもっていた陽菜とクラスメイトから腫れ物に触る様に扱われていた陽菜を引き連れて忍び寄ってくる。
「Owner of a lonely heart……」
いつかの夜のように、窓の外を見ながらつぶやくと、舞別中央公園の看板が目に入った。
「すみません。ここで停めてください」
気がつくと陽菜は運転手に告げていた。
舞別中央公園の入口には誰もいなかった。七夕フェスタのときの喧騒が、実は幻覚だったのではないかと思うくらいに静寂に包まれていた。
遠くから聞こえるテニスラケットでボールを打つ音が、他に人がいることを教えてくれる。
陽菜は公園の広い通路をゆっくりと進んだ。キッチンカーが立ち並んでいた通路脇には花の植えられたプランターが所々に置かれていた。
途中、ランニングをしている人とも何人かすれ違ったが、馬術競技会場に着いた時には誰ともすれ違わなくなり、人の気配はなくなった。
木の葉がちらほら落ちている馬場を陽菜はぼんやりと眺めていた。
ほんの数日前にここで人生最良の体験をした。あの時の友梨佳の姿はいまでも陽菜の脳裏に焼き付いている。目を閉じれば三拍子の蹄の音が聞こえてくる。本格的なメイクも経験できた。
「楽しかったな……もう二度とないんだろうな」
陽菜の胸がぎゅっと締め付けられる感じがした。
一陣の風が吹き、馬場の奥の森の木々から鳥の群れが飛び立った。ヒルデガーデンが出店していた所だ。
そこで友梨佳は自分の過去をさらけ出した。それは凄絶ないじめと海に漂う小舟の様な孤独感だった。
「孤独……」
友梨佳は極度に孤独を怖がっていた。牧場と馬が彼女を救ってくれていた。牧場と馬が友梨佳自身だったと言っていい。
それがなくなるかもしれない恐怖と不安は陽菜も分かってたはずだ。
イルネージュファームに行こうと決めた時も、昨夜企画を作っていた時もそこに友梨佳の想いはなかった。
友梨佳のためと言いながら、友梨佳に寄り添えていなかった。あったのは、友梨佳のためにここまでやったんだという自分の思いや満足感のためだけだった。
「そっか……私、遥さんと小田川さんにちょっと褒められて、いい気になってたのかも」
いますぐ謝りたい。しかし、病院での友梨佳の顔を思い出すと心が苦しくなる。
「もう遅いよね……でも」
昨夜考えた企画は実行しよう。高柳牧師の協力を得られれば実現できる可能性はある。それが私にできる友梨佳への贖罪。それができたら私は横浜に帰ろう。
陽菜は涙をぬぐうと馬術競技会場を後にした。
昨日、傷害事件があったとは思えないほどトシリベツ教会はいつものように静かにたたずんでいた。
高柳牧師は今朝退院の予定だと聞いている。何事もなければ教会にいるはずだ。陽菜は扉の脇にあるインターホンを押そうとして、昨日の事を思い出す。
今日はもう大丈夫。陽菜は首を小さく振って、インターホンを押した。
『お待たせしました。どのようなご用件でしょうか』
やや間があったのち、聞き覚えのある穏やかな声が聞こえた。
「主取です。高柳牧師、少しお話しできますでしょうか?」
『ああ、主取さんでしたか。どうぞ、鍵は開いてますのでお入りください』
昨日、あんなことがあったにもかかわらず鍵をかけないのは聖職者としての矜持だろうか。陽菜はそう思いつつ扉をスライドさせた。
礼拝所は明るく、綺麗に整理整頓されていた。昨日は、椅子があちこちにひっくり返った状態で二人とも教会を後にした。今朝退院してから高柳牧師が片付けたのだろう。昨日の出来事が脳裏をよぎり、陽菜は少し緊張しながら礼拝所の中に入った。
すぐに奥の事務所から高柳が出てきた。半袖のシャツ姿で、左腕の包帯が痛々しい。高柳の姿を見て、ようやく陽菜はホッとした。
「主取さん、良くいらっしゃいました。教会に入るのに勇気が必要だったのでは?」
「はい。少しだけ。でももう大丈夫です。お怪我はもう大丈夫なのですか?」
「ええ。腕の方はかすり傷です。縫ってもいません」
高柳は左腕をさすりながら言った。
「ただ、顔の腫れはもう少しかかるみたいですので、礼拝はしばらくお休みですね。ひょっとこみたいな顔で話をしても皆さん集中できないでしょう」
高柳は赤黒くはれ上がった右の頬をさすりながら笑った。左の口角が切れているのだろうかガーゼをあてている。
陽菜は笑っていいものかどうか分からず、とりあえず愛想笑いをした。
笑い終えると、高柳は椅子を引き寄せて陽菜の正面に座った。
「それで、私の見舞いに来ただけではないのでしょう」
陽菜はしばらく無言のままうつむいていたが、意を決したかのように口を開いた。
「高柳牧師。私は罪をおかしてしまいました」
「ほう。それはどのような罪ですか?」
「親友の心を傷つけてしまいました。彼女は私にいろんなことを教えてくれたのに、私はそれに報いるどころか裏切るような行動をしてしまいました。彼女にとって牧場と馬は彼女そのもので、それが無くなることがどれだけ不安で怖いことか分かってあげられなかった……」
陽菜は小さな肩を震わせながら話した。
「私は彼女に寄り添うこともしないで、遥さんの本心を探るだの、高辻牧場を救うだのヒーロー気取りで行動して、結果彼女を深く傷つけてしまいました。取り返しがつかなくなってからようやくそのことに気づいたんです。私は本当に愚かです……」
強く握った両手に大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あなたは本当にその彼女の事が好きなのですね」
「はい。誰よりも大好きです。彼女のためにできることをしたかっただけなのに、私の行動が逆に彼女を傷つけてしまった。それが……それが辛いんです」
礼拝所に陽菜がすすり泣く声が響く。
「私……友梨佳の笑顔が大好きなんです。友梨佳の笑顔を見ると、私まで幸せな気持ちになる。私は彼女の笑顔を守りたいんです。だから高辻牧場が存続できるようにしたい。そして横浜に帰ります。もう二度と日高には来ないでしょう……思い出がありすぎるから」
「主取さん、実はあなたに隠していたことが……」
バン! と事務所の扉が開く音と駆け寄る足音が聞こえたかと思うと、陽菜の体に強い衝撃が加わった。耳をくすぐる白いロングヘア、絹のような白い肌、太陽のような匂い。上半身に伝わる重さが心地よい。数時間前に別れたばかりなのに数年ぶりに会ったかのような懐かしさだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! どれだけあたしのことを考えてくれてたか知ろうともしないで酷いこと言っちゃった! 陽菜の事が大好きなの、もう日高に来ないなんて言わないで!」
陽菜に抱きついたまま、友梨佳は泣きじゃくった。
「友梨佳、どうして!?」
「陽菜に謝りたくてタクシーできたの。来てくれて良かった。もう会えないんじゃないかと不安だった」
いままで何とか堰き止めていた感情が、ついに決壊した。
「違うの、私が悪いの! 友梨佳は悪くない! ごめんなさい! もう言わない! 一生、友梨佳と離ればなれなんて嫌だ!」
礼拝所にふたりの泣き声が響き渡る。高柳は二人の肩をポンと叩くと、静かに事務所に戻った。礼拝所の十字架だけが二人を黙って見守っていた。




