第27話 8月19日 その1
病室のドアが軽くノックされる。
「陽菜?」
泰造の枕元でウトウトと寝ていた友梨佳が顔をあげると遥の姿があった。遥は柔らかな笑みを浮かべながら室内に入る。
「こんにちは。泰造さんの容態を聞いて、お見舞いに伺いました」
泰造は意外そうな顔をしつつも、微かに微笑んだ。
「ああ、遥か。よく来てくれたな。」
遥は一礼し、友梨佳に視線を向ける。
「友梨佳ちゃんもいるのね。二人に直接お話しできる機会があってよかった。」
友梨佳は警戒を隠さず、少し身を引いた。
「なんでここに……まさか陽菜が」
遥はその態度に気づきつつも、穏やかな声を保ちながら答える。
「陽菜さんは関係ないわ。陽菜さんからは高柳牧師の様子を見に行ってほしいと頼まれただけ。ここへは自分の意思で来たの。泰造さんにはずっとお世話になっていたから」
友梨佳は黙って様子を伺っていた。遥は再び友梨佳に視線を向ける。
遥は話題を変えるように、そっと言った。
「実は先日、陽菜さんがうちの牧場を訪ねてくれたの」
その言葉に友梨佳の目が鋭くなった。
「陽菜が……イルネージュファームに? どうして?」
遥は表情を変えず、正直に話し始めた。
「彼女がこの前のイベントで見せた企画運営能力はなかなかのものよ。それに牧場経営についても興味がありそうだったから経営の現実やうちのビジョンを見せて、もし興味があればうちで経験を積む選択肢もあると伝えたの」
「経験を積む? 就職を誘ったってこと?」
友梨佳の声が少し強くなる。
遥は即座に否定した。
「無理に誘ってはないわ。彼女は何も決めていないし、私も無理に何かを押し付けるつもりはないから」
友梨佳は眉をひそめたまま黙り込んだ。その沈黙に気づき、遥は静かに続けた。
「友梨佳ちゃん。私のことであまり良くない噂を聞いているわね」
友梨佳は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに口を開いた。
「イルネージュファームがほかの牧場を強引に買収したとか、高辻牧場も狙っているとか」
遥は軽くため息をつき、真剣な目で友梨佳を見つめた。
「宮内牧場の件なら誤解。高辻牧場を強引に買収しようとも考えてないわ。あくまで協力関係を築きたいだけよ。日高ひいては日本の競馬界のためにね」
友梨佳は疑いの目を向けたままだった。
「本当に?」
遥は苦笑いをして頷いた。
「ずいぶん嫌われちゃったわね。信じるかどうかはあなた次第よ。ただ、陽菜さんにも私の話を直接聞いてみて。私が隠し事をするような人間ではないと分かるはずよ」
遥は少し微笑んで言った。
「陽菜さんも友梨佳さんも、お互いのことをとても大切に思っているわね。でも、こういう話は隠しておくと誤解が大きくなるから。私のようにね。だから、あえて伝えた」
友梨佳はその言葉に複雑な表情を浮かべた。
「それから泰造さん。牧場をどうするか決断する前に、私ともお話しする機会を作っていただけませんか? 一方の話だけで決められてしまうのはフェアじゃないわ」
「ああ。わかった」
「ありがとうございます。これ以上お邪魔するのは控えます。それでは、どうかお大事に」
遥が会釈をして去った後、友梨佳はベッドに座る泰造を見てつぶやいた。
「おじいちゃん、信じられると思う?」
泰造は静かに答える。
「お前が疑う理由があるなら、自分で確かめるんだ。陽菜を信じられないのか、それとも遥を信じられないのか……。」
その言葉が、友梨佳の心に重く響いた。
遥が去った後、友梨佳はしばらく無言のまま立ち尽くしていた。しかし、胸の中に渦巻く不安と怒りに耐えきれず、泰造に「少し外に出てくる」とだけ告げ、病室を後にした。
廊下を歩きながら、遥の言葉が頭の中で反芻される。
「陽菜はなぜ何も言わなかったの? 私を信じてないの? 遥に相談するくらいなら、最初に私に言うべきだったのに」
病院の正面玄関に着くころには、友梨佳の心の中で陽菜への不信感と疑念が膨れ上がっていた。正面玄関わきのベンチにひとり黙って腰掛けている友梨佳の前を、多くの患者とその家族が通り過ぎて行く。そこに病院の送迎バスが止まった。乗客が全員降りた後、運転手がバスのステップに金属製のスロープを取り付けた。すると、運転手が支えながら陽菜の乗った車椅子が後ろ向きにスロープを降りた。
友梨佳は陽菜が降りてきたことに気づくと、ゆっくりと立ち上がった。その顔にいつもの笑顔はなかった。
陽菜は運転手にお礼を言うと、正面玄関に車椅子を進ませた。
「……陽菜」
声を掛けられて、陽菜は友梨佳に気づいた。
「友梨佳、遅くなってごめん。昨夜遅くまで資料を作ってて……」
そう言いながら、陽菜は車椅子の背もたれに掛けたバッグからA4サイズの書類の入ったクリアファイルを取り出した。
「友梨佳聞いて、昨日パパと話して……」
「遥さんの牧場に行ったんだって?」
刺すような口調で友梨佳は言った。
陽菜は驚き、少し言葉を詰まらせた。
「あ……それは……うん。でも、何で知ってるの?」
「遥さんが教えてくれたの。何で私に言わなかったの? あの人、うちの牧場を乗っ取ろうと企んでるかもしれないことを陽菜も知っていたはずでしょ」
陽菜は戸惑いながらも弁解する。
「別に隠していたわけじゃないよ。ただ、まだ何も決まってないし、余計な心配をかけたくなかったから……」
「余計な心配? そんなの言い訳じゃない! 就職の話まで出たって聞いた。あんな牧場に就職しようなんて、何を考えているの!」
陽菜は焦りながらも冷静に言い返そうとする。
「違うよ! 遥さんが就職の話を持ちかけてくれたのは事実だけど、それはただ選択肢として教えてくれただけで、私がお願いしたわけじゃない!」
「私にとって牧場はすべてなのに、ここがなくなったら、私の人生は終わりなんだよ! なのに、陽菜は遥に会いに行って、何も話してくれない。これって、私を信じてないってことでしょ? 横浜で一緒に暮らすって話は何だったの? あたしの事が面倒くさいから適当に言っただけ?」
陽菜の胸に刺さるような言葉だったが、彼女も譲らない。
「そんなことない! でも、牧場を守れるなら、それが一番いいって思ったの! だから、遥さんの本心を探ろうとしただけよ!」
しかし、友梨佳は感情を抑えられず、さらに声を荒げた。
「じゃあ何で黙ってたの!? 本当に守りたいなら、最初に私に相談するべきだった! あんたは結局、私を信じてないんだよ!」
「違う!」陽菜の声が震える。「私はただ……」
友梨佳は陽菜の言葉を遮るように叫ぶ。
「もういい! 陽菜が何を考えてたかなんてどうでもいい! 結局、陽菜はあたしのことなんてどうでもよかったんだよ!」
その言葉が陽菜の胸に深く突き刺さった。陽菜は目を見開き、言葉を失う。涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、静かに問いかけた。
「……友梨佳、本当にそう思ってるの?」
友梨佳は答えられないまま、ただ目を逸らした。その沈黙が、陽菜の心にとどめを刺す。
「分かった……。友梨佳に信じてもらえないなら、もう何を言っても無駄だよね……。」
陽菜は肩を震わせながらつぶやいた。涙が陽菜の頬を伝い、声も小さく震える。膝の上に置いていたクリアファイルが地面に落ちる。
「あの……どうかなさいましたか?」
受付にいた看護師が何事かとふたりに声をかけた。
「ごめんね……邪魔してばかりで。」
そう言うと、陽菜は振り返り、病院の出口への車椅子を進ませた。その背中は小さく見え、悲しみに満ちていた。友梨佳はその場に立ち尽くし、去っていく陽菜の背中を見つめた。手を伸ばそうとしたが、言葉が出てこない。胸の中には「言いすぎた」という後悔と、「陽菜が本当に遥を頼っているのか」という疑念が渦巻いていた。
「これ、お連れ様が落とされたみたいですけど……」
クリアファイルを渡そうとする看護師に目もくれず、友梨佳は病院の中へとふらふらと入って行った。
友梨佳はそのまま泰造の病室に戻る気にはなれず、病院の中庭にあるベンチに座った。面会中の患者の談笑が今の遥には遠くに感じられる。
心の中で陽菜との言い争いが何度も蘇る。
「結局、陽菜は私のことなんてどうでもいいんだよ!」
自分が放ったその言葉が、何度も胸に突き刺さる。
友梨佳はベンチの上に膝を抱え込むようにして、ぽつりと呟いた。
「私、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう……。」
陽菜の悲しげな顔が思い浮かぶ。彼女が涙をこぼしながら去っていく姿が、心から離れない。
「陽菜は私を助けたいと思ってたのに……私は陽菜を信じてなかった。信じてないのは、私のほうだった……」
友梨佳の胸に後悔が押し寄せる。陽菜が自分のために何かしようと必死に動いていたのに、それを一切理解しようとせず、疑い、怒りをぶつけたことに気づき始めた。
「遥さんに会いに行ったのも、私を助けたかったから……きっとそうだよね……」
友梨佳は両ひざを強く抱き寄せ、顔をうずめた。
「ここにいたのか。ずいぶん探したぞ」
泰造が病衣にカーディガンを羽織った姿でベンチの側に立っていた。その右手にはクリアファイルを持っていた。
友梨佳がゆっくりと顔を上げる。泰造がいつもとは違う鋭い目つきで彼女を見つめているのに気づいた。
「友梨佳、お前、陽菜さんになんか言ったのか?」
友梨佳は言葉を詰まらせた。泰造の問いに正直に答えるのが怖かったが、嘘をつくこともできなかった。
「……陽菜にひどいことを言っちゃった。遥さんのことがあって、陽菜が私を裏切ったって思って……。」
泰造は深いため息をつき、クリアファイルを手渡した。
友梨佳が書類を開くと、数ページにわたりびっしりと企画案が書かれていた。
「看護師さんが持ってきてくれた。寝ずに必死に考えてくれんたんだろう。うちと遥の牧場とアルテミスリゾートがどうあるべきかしっかり書かれている。陽菜さんはお前のために動いてたんだ。お前が守りたい牧場を一緒に守るために、あの子なりに考えて行動してた。それを見ようともせず、言葉だけで判断してどうする?」
友梨佳は泰造の言葉に息を呑んだ。陽菜が遥に会いに行った理由を考えようともせず、感情に任せて非難した自分の行動が浮き彫りになる。
ポタっ、ポタっとクリアファイルに涙が落ちた。
陽菜の存在がどれだけ自分にとって大切だったのかを、失って初めて痛感していた
「陽菜がいなくなったら……私はどうすればいいの……。」
友梨佳は震える声で呟く。陽菜がいつもそばにいて、自分を支え、励ましてくれていたこと。それを当たり前のように思い、何も返してこなかった自分を責めた。
「私、陽菜にちゃんと感謝も伝えてないのに……」
後悔とともに、陽菜の優しい笑顔や一生懸命な姿が次々と思い出される。
「どうして、あんな言い方しかできなかったんだろう……。陽菜はきっと、私のために一生懸命考えてくれてたのに……」
彼女は顔を両手で覆いながら、静かに泣き続けた。
泰造は隣に座ると、友梨佳の頭を撫でた。
「友梨佳、陽菜さんに謝ってこい。お前は頭が悪いんだから、口で説明しようとするな。誠心誠意謝ってこい。そうすれば陽菜さんには必ず伝わる。それでも許してくれなかったら、じいちゃんも一緒に謝ってやる」
幼子を諭すように優しい口調で泰造は話した。
「まだ間に合うかな?」
友梨佳の顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「大丈夫だ。行ってこい」
「うん。行ってくる」
立ち上がる友梨佳に泰造は声を掛ける。
「金は持ってるのか?」
「バス代くらいなら持ってるよ」
泰造はカーディガンのポケットから一万円札を出した。
「こういうのは早い方が良い。タクシーで行きなさい。居場所はわかっているんだろ?」
「うん。わかってるよ」
友梨佳は一万円札を受け取ると、小走りで病院の玄関に向かった。




