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第26話 8月18日 その7

 その夜、陽菜は疲れているはずなのに目が冴えて眠れなかった。

 暗い部屋に、壁時計の秒針の無機質な音だけが聞こえている。何度かベッド柵をつかんで寝る姿勢を変えてみたが同じだった。

 陽菜はついに寝るのを諦めて起き上がった。スマホの時計は1時を表示していた。

 陽菜は車椅子に乗り移り部屋を出た。

 陽菜に用意された部屋は一階で、リビングに近い。部屋を出たところで、リビングの明かりがついていることに気がついた。

 リビングに入ると、老眼鏡をかけた憲明がソファに座り書類に目を通していた。よほど忙しいのだろう。ローテーブルには書類の束がいくつも置かれていた。なんとか仕事をやり繰りして北海道に来たに違いない。

 何もここまで来てまで仕事しなくてもと思ったが、憲明の仕事姿を見るのは嫌いではなかった。

「パパ、仕事?」

 陽菜の声に明憲は顔をあげて老眼鏡を下げた。

「ああ。どうしてもやっておかないといけない仕事があってね。陽菜は寝られないのかい?」

「うん。目が冴えちゃって……」

「あんなことがあったんだ、無理もないよ」

「それもあるんだけど……」

 明憲は立ち上がると、キッチンの冷蔵庫を開けた。叔父夫婦からは冷蔵庫の物を自由に使っていいと言われている。

「ビールでいいか?」

 缶ビールを取り出して見せてくる。

「パパ!」

 芝居がかったように陽菜が怒る。

「ホットミルクがいい」

 明憲は残念そうにビールを冷蔵庫に戻す。おそらく半分本気で残念がっているだろう。憲明は無類の酒好きで、事あるごとに飲ませようとしてくる。おそらく、陽菜が20歳になった瞬間に飲ませようとするに違いない。

「泰造さんは大丈夫なのか?」

 牛乳の入ったマグカップを電子レンジに入れながら聞いてきた。

「過労だって。命には別状ないけど、何日間か入院が必要だって……」

「そうだろうな。家族二人で管理するには牧場は広すぎる。友梨佳さんも大変だろう」

「うん……」

 明憲は温まったミルクを陽菜の前に置いた。

「高柳牧師は?」

「ひと晩様子みて、問題なければ明日というか今日退院だって」

「そうか。大事なくてよかった」

 陽菜は差し出されたホットミルクを一口飲んだ。じんわりと体が温まる。

 憲明はソファに腰を下ろすと、再び書類の束に目を通し始めた。

「パパ。今何のお仕事しているの?」

「これか? 企業のM&A案件でね。合併先の企業の財務状況の精査だよ」

 M&Aと聞き、パパなら何か教えてくれるかもしれないと思った。

「ねえ。企業が買収を仕掛けられたときに、それを防ぐ手段ってあるの?」

「色々あるよ。有名な所だと、いわゆるホワイトナイトだね。自社に友好的な企業に自社を買収してもらうのさ。会社は消滅するけど、友好的な企業なら処遇について有利な対応が期待できるからね。ホワイトナイトの逆バージョンでパックマンディフェンスなんてのもある」

「ええ、何それ? ゲームみたい」

「買収を仕掛けてきた企業を逆に買収しようとする戦略だよ。実際にゲームから名前がつたんだよ。あとは自社株買いやレバレッジド・リキャピタライゼーション。それに……」

 憲明は書類をローテーブルに置いた。

「クラウンジュエルだね」

「クラウンジュエル?」

「買収を仕掛けてくる企業が狙っている資産を手放して、買収の魅力を低下させる戦略だよ」

 陽菜の頭にパッと光が差した。アルテミスリゾートが噂を吹聴してまで高辻牧場とイルネージュファームを接触させないようにしていたのはクラウンジュエルを防ぐためだ。

 イルネージュファームに高辻牧場を丸ごと買収する資金力はなくても、競走馬育成施設の建築に必要な土地を手に入れるだけの資金なら何とかなるかもしれない。もし、高辻牧場がグランピング施設にされるくらいなら、気心の知れた隣の牧場に売った方がマシだと市場価格より安い値段を提示したら丸ごと買い取られる。ホワイトナイトにイルネージュファームがなってしまう。

 例の噂話は高辻牧場とイルネージュファームを引き離すのにうってつけだったのだ。

 それなら高辻牧場とイルネージュファームの仲を取り持ち、グランピング施設が建築できなくなる程度の放牧地を譲れば高辻牧場は存続できる。高辻牧場は手に入る資金で新規事業の展開も期待できる。パズルのピースが次々とはまって行く感じがした。

「ひとつ言い忘れていたんだけどね」

 明らかにそわそわしている陽菜を諭すように憲明は落ち着いた口調で話す。

「ドラマや小説なら、敵対企業を撃退してめでたしめでたしだけど、現実はその後も続く。むしろその後の方が重要だろう。クラウンジュエルを食らった方はますます敵対してくるだろうから、将来的に事業を継続するうえでの障壁になりかねない」

 陽菜はアルテミスリゾートが本気を出して買収を仕掛けてくることを想像した。ひょっとしたらイルネージュファームごと買収を仕掛けてくるかもしれない。それだけの規模の企業なのだ。確かに敵に回すのは賢い選択とは思えない。

「かつて、近江商人に『三方よし』という言葉があった。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三方が満足している状態を指す言葉でね、

 売り手だけが儲けを得るのではなく、買い手にとっても満足があり、最終的には事業を通じて地域社会の発展に貢献するのが目指すべき商売の形であるという考え方だよ」

 遥さんも日高地方の馬産業や日本の競馬界全体のことを考えていた。私なんかとは視野が違う。しかも、たったひとりで巨大企業に真向から立ち向かっている。どうしたら、そんなに強くなれるのだろう。

「世の中の長く続いている企業は皆こうしたビジネスモデルを作ってるよ」

「わかった。ありがとう」

 陽菜はマグカップを持ち、部屋に引き返そうと車椅子を動かした。

「陽菜」

 憲明が書類を見ながら話した。

「頑張りなさい」

「うん」

 陽菜は車椅子を動かしてリビングから出た。様々なアイデアが頭に浮かび上がってくる。今晩はとても寝れそうにない。部屋に入ると胸を高鳴らせながらノートパソコンを開いた。


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