第25話 8月18日 その6
病院の個室の明るい蛍光灯の光が、泰造の顔を照らしていた。彼は点滴を受けながらベッドに横たわっていたが、意識ははっきりと戻っていた。
医師の診断によれば、過労が原因で倒れたとのことだった。すぐに治療を受けたおかげで大事には至らなかったが、数日間の入院が必要だと告げられた。
病室の中、友梨佳は椅子に座って黙り込んでいた。彼女の目には疲れと心配の色が浮かんでいたが、何よりも心に重くのしかかっていたのは、自分がもっと早く泰造の体調に気を配るべきだったという後悔の念だった。
「おじいちゃん……本当に無理しすぎだよ」
友梨佳は静かに声をかけた。
「まだまだ、このくらいじゃ倒れるほどじゃないと思っていたんだがな」
泰造は苦笑いを浮かべながらつぶやいた。
しかし、その言葉にいつもの強気な響きはなく、彼自身も自分の体が限界に来ていたことを痛感しているようだった。
泰造はしばらく黙って天井を見上げた。そして、ため息をついてから、静かに「すまんな……」とつぶやいた。
「わしも出来ることなら牧場を続けたい。良樹が大事にしてきた牧場だし、ダービー馬を作るというのがわしと良樹の望みだったからな。そしてなにより、お前を救ってくれた牧場だ。だが、わしはこんな身体だ。いつまでまともに働けるか分からん。お前ひとりじゃあ牧場を切り盛りするのは無理だ」
「別にずっと、あたしひとりって決まった訳じゃ……」
友梨佳の頭に陽菜の姿が浮かび、急に恥ずかしくなり口ごもった。
「そうだな。だが、お前が将来婿をとるにしても牧場を継がせるのは忍びない」
「……?」
「お前も分かっているだろう。今は馬産業で食っていくのは厳しい。この10年くらいで2〜3割の牧場が廃業した。うちだって仔馬が1頭でも売れ残ったり、死んじまったりしたらたちまち大赤字だ。お前を路頭に迷わせでもしたら、あの世で良樹と香織さんに合わせる顔がない」
「……」
友梨佳はうつむいたまま黙っている。重苦しい沈黙が病室に流れる。
「牧場を売却したらそれなりにまとまった金が入る。昼間に話があったように、アルテミスリゾートに就職するも良し、高校に入り直して何なら大学に行くも良し。とにかくお前に今より安定した生活をさせてやれる。そう思って向こうからの話しを受けた。もちろんこれはわしの勝手な思いだ。今じゃなくていい。友梨佳の思いを聞かせてくれ」
「あたしは……」
牧場を続けたい。と、即答は出来なかった。
愛着のある牧場と大好きな馬から離れた生活は想像ができない。それに今いる馬はどうなる? 繁殖牝馬は引き取り手がいるかもしれないが、スノーベルは? 運が良ければ乗馬クラブで引き取ってもらえるかもしれないが、引き取り手がなかった場合の行き先はひとつしかない。想像しただけで耐えられない。それに、陽菜に話したように昔みたく人が多く集まる賑やかな牧場にしたいという思いもある。
しかし、それを実現させるための具体的な計画があるのかと言われればそうではない。
自分ひとりで牧場を切り盛りできる自信はない。牧場が立ち行かなくなった場合、学歴がなく、これといったスキルもない友梨佳は社会に出た時につぶしがきかない。泰造の言うことは理に適っている。
「わかんないよ……」
呟く友梨佳の目から涙があふれ、膝に乗せた手の甲にこぼれ落ちた。
静まり返った部屋に、遠くから近づいてくるサイレンの音だけがかすかに聞こえる。
そんな中、明るいポップソングが突然流れ始めた。友梨佳のスマホだ。重圧に押し潰されそうだった空間が、一瞬で緩む。
「もしもし陽菜!」
自分でも驚くほどの明るい声が出た。返ってきたのは、聞き覚えのある高く透き通った声だった。心の奥底に広がる安堵感は、言葉では表せなかった。
「うん、大丈夫。あのね、おじいちゃんがさっき倒れて舞別総合病院に運ばれたの。……命に別状はないの。過労だって。でも何日か入院だって。牧場は……うん、何とかなると思う……」
泰造は小さく息をつくと目を閉じた。
「え、どういう事!」
友梨佳の叫び声で泰造は驚いて目を開けた。
「タコウナギが⁈ 陽菜は大丈夫なの? ……良かったぁ。うん、うん、分かった。え、遥さん……」
友梨佳の表情がフッと暗くなり、泰造をちらっと見る。
「ううん、呼ばないで。今はあの人を信用できないの……」
心配そうに泰造が上半身を起こした。
「ほんとに大丈夫だから、お願い。うん、じゃあね。陽菜も無理しないで。おやすみ」
友梨佳はスマホの通話を切った。
「何かあったのか?」
泰造が待ちきれないかのように聞いてきた。
「トシリベツ教会でタコウナギ牧師が襲われたって。陽菜もそこに居合わせたんだって」
「……!」
泰造は思わず身を乗り出し、点滴のチューブが引っ張られる。
「ふたりとも大丈夫だったのか?」
「陽菜は無事。タコウナギ牧師が左腕を斬られて、顔を殴られたって。救急車で運ばれたらしいよ。犯人もその場で捕まったって」
「そうかい。うちのすぐ近くでそんな事になってたなんてなあ。わしがこんなんじゃなければ、すぐに駆けつけられたのによ」
泰造は悔しそうに握りこぶしで自分の腿を叩いた。
「陽菜さんも怖かったろうに……。わしはいいから、陽菜さんの所に行ったらどうだ」
もちろん、すぐにでも陽菜のもとに駆けつけたい。しかし、友梨佳はその気持ちを必死に押さえていた。いまは泰造の側にいなくては。
「今はパパとママが一緒についてるって。これから事情聴取で警察に行くって」
「そうかい」
泰造はベッドに仰向けになった。心なしか少し息が荒い気がした。
「遥の話しは?」
「牧場が大変だろうから、遥さんに手伝ってもらったらって。でも断った。いま借りを作ったら後で何を言われるか分からないから」
「友梨佳……」
「牧場はあたしが何とかするから大丈夫。おじいちゃんは休んでて」
友梨佳は泰造の布団をかけなおすと、「売店で何か買ってくるね」と言って病室を出た。
病室を出てすぐ脇の壁に友梨佳は寄りかかった。不安で胸が押しつぶされそうになる。
陽菜ならこんな時どんなお祈りをするんだろう。両手を胸の前で組むが言葉が見つからない。
「神様、どうか助けてください」
泰造の事かそれとも高辻牧場の行く末か、ともかく友梨佳は誰もいない廊下で、目を閉じてただひたすら祈った。
警察の事情聴取は陽菜が思っていた以上に細かく状況を聞かれ、全て終わったときには21時をまわっていた。泰造の見舞いに行きたかったが、面会時間はとうに過ぎていた。
高辻牧場に行って、友梨佳の様子を見に行こうかとも思ったが、明日の牧場の作業もあるだろうし、そもそも自分自身が疲れ果ててしまっている。両親も許さないだろう。
明日、病院に行こう。と、思い今日は両親と帰ることにした。
両親が陽菜の北海道滞在を切り上げ、自分達と一緒に横浜に帰ることを提案したが、陽菜は断った。全てが中途半端な状況で帰る訳にはいかなかった。
陽菜は友梨佳の様子がとにかく気がかりだった。あの広い牧場の作業をひとりでやるのは大変すぎる。遥に応援を頼んだらと提案したが、あんなに拒否されるとは思わなかった。アルテミスリゾートの人から遥の噂について聞いたのだろうか。
「どうしたらいい?」
誰かに相談したかったが、その相手は1人しか思い浮かばなかった。
「友梨佳が知ったら怒るかな……」
そう思いながらも、気がついた時には遥に電話をかけていた。




