第24話 8月18日 その5
陽菜が110番通報をしようとした瞬間、着信音が礼拝所の静寂を切り裂いた。
「……!」
陽菜は慌てて音を消そうとしたが間に合わない。
「誰だ!」
飯沼が事務所から駆け出し、陽菜の前に立ち塞がった。陽菜は恐怖で動くことも、声を出すこともできなかった。手から力が抜け、スマホを床に落とした。
「主取さん! どうして……」
遅れて高柳が事務所から出てくると、飯沼は陽菜の後に回り込んでナイフを高柳に突き出した。
「動くんじゃない」
「彼女は関係ない。復讐するなら私だけで充分でしょう」
高柳は両手を大きく広げて訴えた。広げた左腕から血が流れ出る。
「お前には、俺と同じ苦しみを味わわせてやる。大事にしているものを奪われる苦しみを」
そう言っている飯沼の声とナイフを突き出した腕が震えていることに陽菜は気がついた。
この人も怖いんだ。さっきまでの話を聞くに、心根は悪い人じゃない。そう気がついた陽菜の心は急速に冷静さを取り戻した。
話が通じるかもしれない。陽菜は思い切って口を開いた。
「あなたのお父様が亡くなったのは、悲しすぎる出来事だったことは分かります。でも、そのナイフを振り下ろしたら、同じ痛みが他の誰かに連鎖していく。それであなたの心は救われるのですか?」
「……」
飯沼は黙ったまま、震えるナイフを高柳に向けていたが、その目は揺らいでいた。
「でも……俺にはもう、何も残っていない」
「それでも、あなたのお父様は、あなたに新たな人生を歩いてほしいと思っていたのではないでしょか。お母様はあなたに復讐させるのを望まれていたのでしょうか」
「黙れ。お前みたいなガキに何が分かる」
「家族を失った悲しみを理解できるとは言えません。でも、全ての希望が絶たれる苦しみなら分かります。15歳でこの身体になったとき、それを味わい尽くしました」
陽菜の強い言葉に男の表情が揺らぎ、ナイフを握る手の力が緩んだ。
「陽菜、なんで出てくれないの……」
友梨佳はすがるような気持ちでスマホを耳元にあてていた。梨佳は必死に涙をこらえていたが、心の中では恐怖が膨れ上がるばかりだった。
「う、うん……」
しばらくして、泰造の目が薄っすらと開いた。焦点は定まらず、掠れた声で呟いた。
「……友梨佳か?」
泰造は上体を起こそうとするが、力なく再び仰向けに倒れる。
「おじいちゃん!」
友梨佳の顔がほころぶが、すぐに涙が溢れた。
「よかった……意識が戻った!」
泰造は弱々しく微笑もうとしたが、痛みで顔をしかめた。
「大げさに……騒ぎすぎだ……早くスノーベルを馬房に……」
「こんなときまで何言ってるの!」
友梨佳は声を震わせながら言い返した。
「倒れるまで無理をするから、こうなるのよ!」
泰造は小さな声で、「すまん」と呟いた。
友梨佳はその言葉に、胸が詰まるような思いを抱いた。
泰造は、弱々しいながらも友梨佳の手を握ろうと手を伸ばした。震える手が友梨佳の手に触れると、力はほとんどなかったが、その行為には強い思いが込められていた。
ほどなく遠くからサイレンの音が聞こえ、友梨佳はホッとしながらも不安を拭えなかった。
「もう少し、もう少しだけ頑張って……!」
泰造の目が再び閉じられ、握っていた手から力が抜けていく。友梨佳は再び名前を呼びながら、泰造の頬に手を添えた。
「おじいちゃん、お願い、目を開けて!」
救急車が到着し、救急隊員が駆け寄った。
救急隊員は、泰造をストレッチャーに乗せる。
「患者さんは呼吸をしていますが、意識がありません。すぐに搬送します!」
泰造を乗せたストレッチャーが救急車に運ばれた。
友梨佳はその後ろを追いながら、「絶対に助かって……!」と涙をこぼし続けた。
遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
飯沼は反射的に礼拝所の入口を振り返る。その瞬間を見逃さず、陽菜は車椅子を思い切りバックさせた。
飯沼がよろけたところに、高柳が体当たりをする。
ドサッ! と男が仰向けに倒れ、その拍子にナイフが手から離れた。ナイフは高い音をたてながら教会の入口まで転がっていった。
陽菜はその隙にスマホを拾い上げ、110番通報をした。
「……俺は……俺はどうすればいいんだ……」
飯沼は仰向けに倒れたまま、力なくつぶやいた。
高柳は男の足元に進み、その場に両ひざをついた。
「私を恨みなさい……君の父を死に追いやったのは、間違いなくこの私です」
「お前は何を……」
飯沼は目を見開き、立ち上がる。
「私は君の家族を奪った……君の怒りも憎しみも、すべて私に向けるべきです。だが、ほかの人や君自身を傷つけてはいけません。それは君の父が望んだことではないはずです」
高柳の声は静かだったが、その言葉には深い懺悔と覚悟が込められていた。
「お前……」飯沼の目には涙が浮かび、拳を握りしめた。「お前のせいで……全部壊れたんだ!」
飯沼は激高し、拳を振り上げた。
陽菜は目を見開き、声を出そうとしたが、高柳の顔には恐れる素振りはなかった。それどころか、彼はその拳を受け入れるかのようにじっと目を閉じていた。
飯沼の拳が高柳の頬に当たる音が礼拝所に響く。高柳の体が揺らぎ、唇から血が滲んだ。それでも彼は目を開けず、静かに言葉を続けた。
「それでいい……君の怒りを解き放ちなさい……私がそれを受け止める」
もう一度拳が振り下ろされ、高柳は再び地面に倒れそうになったが、それでも倒れることなく膝立ちを続けた。
飯沼は三度目の拳を振り上げたが、その手は途中で止まった。震える手を見つめ、そして崩れ落ちるように高柳の前に座り込んだ。飯沼は嗚咽を上げ、あふれる涙が頬を伝っていた。
高柳は目を開け、静かに言った。
「私は君の父を奪った……その罪は消えません。だが、それ以上に君を苦しめることを私は望みません。君が未来に進むために、この怒りをここに置いていきなさい」
飯沼は体を支えるように床に手をつき、肩を震わせて泣き続けた。
遠くからパトカーのけたたましいサイレンが近づいてくるのが聞こえてきた。
飯沼が後ろ手に手錠をかけられ、二人の警察官に脇を固められた状態で立ち上がるとそのまま連行された。
教会の扉を出るとき、飯沼が一瞬振り返ったように見えた。
車の扉が閉まる音とサイレンの音が聞こえ、やがて遠ざかって行った。
「私は牧師になる前、東京で企業買収や合併を専門とする弁護士をしていました。とにかくクライアントの求める結果を出すことにこだわっていましてね。法律に抵触しない範囲であれば、かなり強引なことをしていました」
高柳は救急隊員から左腕の手当てを受けながら、そばに寄り添う陽菜に静かに語った。
「ある企業から工場を買収したいと依頼がありました。企業の準備した買収予算と実際の買収額の差額の5%を成功報酬として支払うと言ってきました。5%とはいえ途方もない金額です。私は俄然やる気になりましたよ。私は一計を案じました。企業の担当者にこう言ったんです。『その工場に大口の取引を持ち掛けなさい。そして、その工場が取引を当てにして、身の丈以上の設備投資をしたところで取引を中止するんです。経営が立ち行かなくなったところで買収を持ち掛ければよろしい』と」
「それ、イルネージュファームが宮内牧場に仕掛けたって噂になったやり方と同じです」
「ええ。私が広めたようなものです。もちろん青山さんがこのようなことをするとは思っていません。とにかく、この計画は上手く行き、私は巨額の報酬を手にしました。しかし、工場買収のあおりを受けて倒産した会社があったんです」
「さっきの男性のお父様が経営していた会社……」
「その通りです。彼の父親……紘一さんと私は旧知の仲でした。司法浪人中で、お金のなかった私によく食事をごちそうしてくれました。私にタコウナギのあだ名をつけたのも紘一さんです。紘一さんは取引先が事業拡大するからと、自分の会社も大幅な設備投資をしたんです。その結果は言うまでもないですね。紘一さんの奥様から電話があり、彼の会社に駆け付けると、事務所で首を括った紘一さんの姿がありました。そしてその姿をまだ幼かった直宏君も見てしまったんです。彼の泣き叫ぶ声は今も耳に残って離れません」
陽菜は高柳の両手を握りながら、じっと彼の言葉に耳を傾けた。
「その後、一家は離散。弟と妹は親戚に引き取られ、直宏君だけが母親に引き取られたそうです。紘一さんがせめて一言相談をしていてくれたらという思いもありましたが、すべては自分の蒔いた種です。愚かな私は、恩人を死に追いやって初めて自分のしてきたことに気が付きました。その後、私は教会に救いを求め牧師になりました。今までの行ないを償い、祈るために」
左腕の処置を終えた救急隊員に「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。高柳牧師も直宏さんもきっと許されます」
「エゼキエル書33章11節ですね。私もその言葉に救われました。そうですね、祈りましょう」
陽菜と高柳は両手を胸の前に組み、頭を垂れた。
「陽菜!」
両親が警察から連絡を受け駆けつけてきた。
「大丈夫? 怪我はない?」
智美が陽菜を抱きしめる。
「私は大丈夫だよ。高柳牧師が守ってくれたから」
「高柳先生。なんとお礼を申し上げたらよいか」
憲明が頭を下げる。
「いえ。私のせいでお嬢様を危険な目にあわせてしまいました。お許しください」
「お取り込み中申し訳ありません」
女性の刑事が声をかけた。陽菜に配慮して女性刑事をつけたのだろう。
「高柳さんには、これから病院で治療と検査を受けていただきます。主取さんには申し訳ないけど事情聴取にご協力いただけますか? もちろん日を改めても構いません」
「後日にしたら?」
智美が心配そうにのぞき込む。
「いえ。今からで大丈夫です。でも、その前にひとりだけ友達に電話をかけさせてください」




