第22話 8月18日 その3
「そんなのは単なる噂よ」
遥は両手を肩まで上げ、バカバカしいと吐き捨てた。
「確かに私は宮内ファームを買った。でもそれは宮内さんから買ってほしいと頼まれたからよ」
遥は飲み終えた缶コーヒーをテーブルに力強く置いた。
「宮内ファームに馬の預託を持ちかけたのは、外資のベンチャー企業よ。インバウンド目当ての観光牧場を造るからって。嵌められたとわかった宮内さんが、他所の企業に買い取られるくらいならと私に持ちかけたから、それに応えた。もちろん正当な評価額でね」
「じゃあ、どうしてそんな噂が?」
「噂を流したのはベンチャー企業よ。牧場を買えなかった腹いせにね。どうせその後コロナ禍で観光需要なくなったんだから、感謝してほしいくらいだわ」
「そういう事だったんですね……」
陽菜はカフェラテ缶を両手でクルクルまわしながらつぶやいた。
良かった。遥さんは悪くなかった。陽菜は内心ホッとしていた。
「でも、そんな昔の噂をわざわざ持ち出してくるなんてね……」
遥は腕を組みながら、窓の外を見る。
「あの、どうかしましたか?」
「泰造さんと話をしていたのはきっとアルテミスリゾートの連中よ。連中、高辻牧場を買収しようとしているの。グランピング施設を造るためにね。グランピング施設なんて北海道中にあるのに馬鹿みたい」
やっぱり……。陽菜は背筋が冷えていくのを感じた。友梨佳の不安が的中してしまった。先日の友梨佳の泣き顔が脳裏に浮かぶ。が、ここで陽菜の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「あの、アルテミスリゾートが高辻牧場の買収を目論んでいることは分かりました。でも、どうして遥さんの昔の噂を持ち出す必要があるんでしょうか?」
「答えは簡単よ。私も高辻牧場に目を付けてるから」
陽菜は絶句して言葉が出なかった。
「勘違いしないでほしいんだけど、高辻牧場の買収を考えているわけじゃないの。あくまで協力関係を作りたいのよ」
「協力関係……ですか?」
「そう。高辻牧場に育成トレーニング施設を作ってもらって、私たちの馬を預かってもらう。もちろん預託料は支払う。なんなら休養馬も預けてもいい。そうすればそれなりの金額が定期的に高辻牧場に入る。私たちは生産から育成まで一貫して行うことでより『走る』馬を作ることができる。お互いにとって悪い話じゃないはずよ」
「それって……」
「そう。噂の構図そのまんま。泰造さんにうちとの取引をさせないようにするために昔の噂を利用してるのよ。当時はくだらない噂と思って放っておいたんだけど、今考えてみれば悪手だったわね」
ドアをノックして大岩が入ってきた。
「代表。調教師の先生がみえました」
「わかった。陽菜さん、今日は来てくれてありがとう。小林君に送るように言ってあるからそこで待ってて。就職のこと考えておいてね」
「はい。ありがとうございました」
陽菜が通りやすいように大岩が椅子や机を少しずつずらしながら先導してくれた。
「嬢ちゃんが来てくれるなら、ここをなんとかしねえとな」
大岩はもともと大きな口をさらに大きくして笑った。
事務所の外に出ると日差しはまだ強かったが、吹く風はカラッと乾いていて心地よい。事務所の脇に止めてあるミニバンに小林の姿はなかった。
「どこいっちまったんだ、あいつ」
小林! と、大岩が声を上げると、牧場の入り口の方から小林の返事が聞こえた。
「すみません。ちょっと道案内をしてて」
「観光客か?」
「観光客なんですかね? トシリベツ教会はどこかって聞かれて。30代後半くらいの男でしたけど、道を教えたら車で行っちゃいました」
小林と大岩が陽菜を見る。陽菜にも心当たりはなく、首を傾げた。
「ま、いいや。陽菜さん乗って」
小林は後部座席のスライドドアを開けた。
陽菜を乗せたミニバンがゆっくりと走り出す。窓の外を見ると大岩がずっと見送ってくれていた。
降ってわいたような話に頭の整理がつかない。
イルネージュファームの狙い、アルテミスリゾートの狙い、高辻牧場の存続。様々な思惑が複雑に絡み合っている。ゼロサムゲームでなはく、みんなが共存できるような仕組みはないものか。考えが出てきそうで出てこない。
それに分からないのはアルテミスリゾートがわざわざ噂を吹聴していることだ。資金力はあるんだから、単純な話ぐうの音も出ないくらいお金を積めばいいだけの話だ。
友梨佳はこの話どこまで知っているんだろう。陽菜は窓の外に流れる風景をみながらぼんやりと考えた。
小林がハンドルを握りながら、静かに陽菜の叔父の家に車を進めている。遥からの誘い、アルテミスリゾートによる買収計画、そして遥にまつわる噂。すべてが頭の中をぐるぐると駆け巡り、陽菜の胸は重苦しかった。
「友梨佳になんて言おう……」
陽菜は窓ガラスにかすかに映る自分の姿をみつめながら、声にならないつぶやきを漏らした。友梨佳への裏切りとも感じられる事実を抱えたまま、どうしても心が晴れなかった。
「陽菜さん。もうすぐ家につくよ」
小林がハンドルを握りながら静かに声をかけた。
「ありがとうございます。小林さん」
小林は家の前の路肩に車を止めると、トランクルームから電動車椅子をおろした。
陽菜は深く深呼吸をすると、車椅子に乗り換えた。ひんやりとした風が頬を撫で、陽菜は思わず肩をすくませた。
「冷えるだろ。もう夏も終わりだね。お盆を過ぎるとこっちは急に気温が下がってくるから」
「小林さんは寒くないんですか?」
小林は作業着の上半身の部分を腰で折り曲げ、上半身は白いTシャツ一枚の姿であった。
「さっきまで牧場作業してたし、それにもう慣れたよ。陽菜さんもすぐに慣れるさ」
電動車いすにスタッドレスタイヤとか寒冷地用のバッテリーってあるのかな? と頬を掻きながらつぶやく。
「あの、私の就職の話ってみなさんご存じなんですか?」
「厳さんと俺までだよ。加耶に言ったら大騒ぎになるだろ。女の子の中であいつが一番年下だからな」
打ち上げの時の加耶の様子を思い出して思わず苦笑いをする。
「陽菜さんの人生なんだから、俺らのことは気にしないでじっくり考えたらいい」
「小林さんはどうして九州からイルネージュファームに?」
「俺? 俺は高校卒業した後、地元の工務店に就職したんだけど親方とそりが合わなくて、すぐに辞めちまったんだ。そのことで親父とも大喧嘩してさ。出てけって言われたから、ああ出てってやるって、そのままバイクで家出さ。全国を単発のバイトしながら回って、金が無くなって青山牧場の放牧地の隅に忍び込んで野宿しているところを先代の代表に拾われたって訳。何の参考にもならねえだろ?」
そう言って小林は笑った。
「いえ。イルネージュファームがいい牧場だってことは分かりました」
「居心地が良いのはたしかだな。ほんの腰掛けのつもりが、気がついたら9年だもんな。ま、酒が強くないと大変だけどね」
陽菜は思わず吹き出す。
じゃあね。と小林は車に乗り込むと、Uターンさせ走り去っていった。エンジン音が聞こえなくなり、静寂が陽菜を包み込む。
家の前で立ち止まりながらも、家には帰りたくないという気持ちが沸き起こる。何かを打ち明けるべきか、それともこのまま黙っているべきか。その選択が彼女を苦しめていた。
「……トシリベツ教会に行こう」
陽菜は決心して、スマホを取り出してタクシー会社を検索する。高柳牧師なら、この苦しみをどうにか導いてくれるのではないか。そんな期待を抱きながら電話をかけた。




