第20話 8月18日 その1
遥の運転する車でイルネージュファームに着いたのは14時をまわった頃だった。
『IlneigeFarm』と彫られた大きな木製の看板が掲げられたゲートをくぐると、事務所に向かう道の両脇に茶色の木製の柵で区切られた放牧地が広がり、多くのサラブレッドが所狭しと駆け回っていた。
やがて車は事務所と思われる木造2階建ての建物の前に停まった。
建物自体は年季を感じさせるが、しっかり手入れがされているためか古ぼけた印象は感じさせない。事務所の奥には真新しく高辻牧場のそれより一回りは大きい厩舎が建っていた。
陽菜は車から降りると、新冠川を挟んで広がる緩やかな丘を眺めた。こう見ると高辻牧場の敷地の広さが良く分かった。
あそこに友梨佳がいるんだ。友梨佳に黙ってイルネージュファームに来たことに胸が少し痛んだ。
遥からのLINEに気がついたのは、友梨佳の家を出て運転代行業者が運転する憲明の車の中だった。メッセージには、イルネージュファームを見に来ないかと書かれていた。もちろん単なる見学な訳が無い。きっと裏がある。
そう思い友梨佳に伝えるか陽菜は悩んだが、結局伝えなかった。
伝えたらきっとまた混乱するだろう。余計な心配はかけたくなかった。
『悪い噂』とやらについて聞くチャンスだ。真偽をはっきりとさせて友梨佳に伝えよう。そう考えてイルネージュファームへの訪問の話しを受けた。
「ようこそ。イルネージュファームへ」
「私、高辻牧場しか知らないんですけど、とても設備が整っている感じがします」
「ありがとう。案内しながら話すわね。こっちに来て」
遥は先導するように厩舎に向かって歩いた。
厩舎の天井は高く、採光用の窓が多くついているためとても明るい。風通しもよく、馬房に敷かれたウッドチップの香りが風に運ばれてくる。もちろん糞尿の匂いはほとんどしない。
馬房の数は高辻牧場の倍はあるだろう。馬房の柵から5頭ほどの馬が首を出していた。
「うちにいる繁殖牝馬は45頭。毎年35から40頭の仔馬が生まれるわ」
遥は1頭の馬の頭を撫でながら話した。
「藁を敷くんじゃないんですね」
「馬によっては藁を食べちゃう子がいてね、体重管理が難しくなることがあるのよ。それにウッドチップの方がいい匂いがするから、馬にとってリラックス効果があると私は思うの。汚れたウッドチップを交換するのは大変なんだけどね」
厩舎から出ると、放牧地の真ん中に一見すると温室のような大きな透明な三角屋根の建物が見えた。
「あれはシェルターよ。昼夜放牧中に吹雪とか嵐になった時に、あそこに馬が非難するの」
放牧地から多くのサラブレッドの親子がスタッフに曳かれてくる。その中に加耶がいて、陽菜を見つけると笑顔で手を振ってきた。足はだいぶ良くなったようで、陽菜もそれには安心して小さく手を振り返した。
「いま、スタッフは15人いるわ。4割が20代かしら。ほとんどが繁殖牝馬や仔馬の世話を担当してるけど、厳さんと小林君は初期馴致と言って、人を乗せるための初歩的な調教を担当しての。あそこにいるのがそうよ」
遥は今見学した厩舎のさらに奥に立っている厩舎に視線を向けた。厩舎の前で、仔馬にハミをくわえさせる訓練を施している小林の姿が見えた。
そのさらに遠くの牧草地ではトラクターが動いているのが見える。
ところ変われば牧場の風景が一変することに陽菜は驚きを覚えた。高辻牧場が牧歌的な雰囲気なのに対して、ここはまさにサラブレッドを、それも大きなレースで勝てるサラブレッドを生産するために必要な機能を集約させた『施設』だった。 陽菜が最初にこの牧場を訪れていたとしたら、遠くから一回馬を見てそれで終わっていただろう。
そうは言っても、清潔に保たれた場内のあちこちに花が植えられたり、厩舎の入り口に馬のキャラクターをかたどったカラフルな看板がかけられていたりするなど、明るく和やかな雰囲気も作られていた。実際、働いているスタッフの表情はどこか活き活きとしているように陽菜には見えた。
「さ、こっちへどうぞ」
遥は陽菜に声をかけると事務所に案内した。
事務所の玄関を開けると、スチール製のデスクが4つ向かい合わせに設置されていて、パソコンと小さな書類の束が置かれていた。その奥にはさらに扉があり、遥はそのドアを開けて陽菜を手招きした。
陽菜は事務室のデスクと壁の間をなんとかぶつからないようにして通り、遥のいる扉をくぐった。入った部屋には応接用のソファとデスクが一つ置かれていた。デスクの上には遥の小さい頃だろうか、白い仔馬と少女が顔を寄せた写真が置かれているのがチラリと見えた。壁には額に入れられた重賞レースの優勝レイがいくつもかけられていた。
「ここに来てもらっていい?」
遥は一人掛けのソファをひとつどかす。
「はい」
陽菜は言われた通りにソファが置いてあった場所に車椅子を移動させた。
「ごめんね。いまこんなのしかなくて」
遥はカフェラテ缶を陽菜の前に置き、自分はブラックの缶コーヒーを開けながら陽菜と向い合せに座った。
「うちの牧場見てどうだった?」
「そうですね。馬の事を第一に考えて、そのうえでどうしたら強く育つのかよく考えられていると思いました。それでいて、雰囲気は明るくて和やかで。スタッフの方も活き活きしている印象を受けました。ただ……」
「ただ?」
「馬の数に対して放牧地が少し手狭な印象もあります。馬の運動もそうですけど、なにより牧草が足りるのか心配です。素人の意見ですが……」
遥はにこりと笑って頷いた。
「陽菜さんにここに来てもらったのは、北海道の思い出作りのために見学してもらった……訳ではないのは、あなたなら分かるわよね」
陽菜は背筋を伸ばして身構えた。
「単刀直入に言うわね。陽菜さん、進路がまだ決まっていないなら、高校を卒業したらうちの牧場で働かない?」
「私が……ですか?」
この間の友梨佳の話しがあったので、高辻牧場の様子を聞かれたり、なにかの仲介役を頼まれたりするのかと考えていたが、まさか働いてほしいと言われるとは思わなかった。
陽菜は一瞬面食らった。
「でも、こんな足ですよ」
「あなたに牧場作業を頼むつもりはないわ。陽菜さんには私と一緒に牧場の運営をしてほしいの」
「それに牧場の経験はありませんけど……」
「知識は働きながら身につければいい。私があなたを評価したのは、この前のイベントで見せてくれた論理的思考力と事務処理能力よ。じつに見事だったわ。そして今もこの牧場の長所と課題を言い当てた。この業界ではとても貴重な能力よ」
遥はコーヒーを一口飲むと話を続けた。
「いまの馬産業は、大手牧場の寡占状態になっているの。もちろん大手の企業努力は評価しているし、見習うべきところも多い。でもどの業界でもそうだけど、寡占状態が続くとその業界は長期的にはやがて衰退していくわ。私はこの牧場をその大手に割って入るくらいの規模に成長させて、この寡占状態を変化させたい。そして、ゆくゆくはこの地に大きなトレーニング施設と厩舎を作る。人手不足に喘ぐ近隣の中小規模の牧場から、なるべく早く仔馬を預かることで負担を軽減させることができるわ。そうすることで、人手不足で牧場をたたむ所を少しでも減らして、馬産業を活気づけることができる。あなたとなら、それが実現できる。どう? 一緒に日本の競馬界を変えてみない?」
遥の勢いと競馬界そして馬産業への想いに、陽菜は完全に呑み込まれた。それ以上に、その道のプロから自分の能力を評価してもらえたことが、交通事故以来、自己評価を低くすることばかりだった陽菜にとって嬉しくてたまらず、いまにも舞い上がりそうだった。
しかし、これだけははっきりさせないといけない事があった。例の『悪い噂』についてだ。
「それを検討するにあたって、ひとつだけお聞きしたい事があります」
陽菜は努めて冷静に口を開いた。




