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第19話 8月15日 その4

 アルゼンチン共和国杯では大損させたみたいで申し訳なかったですな」

「私はジャズが好きなもので、オータムリーヴスの名前を見つけた時に、『これは』と思ったんですが、人気薄でしたしまさか来るとは……」

「ちょっとパパ」

「あ、これは失礼しました。人気薄などと……」

 憲明が恐縮する。

 この日の高辻家の食卓は盆と正月がいっぺんに来たかのように賑やかだった。最初はお酒を固辞していた憲明であったが、『運転代行を呼べばいい』という泰造の言葉に陥落し、智美を交えて大酒宴となっていた。

 料理やお酒をもっぱら友梨佳が運び、憲明や智美のグラスが空くとすかさずお酌に回った。両親が友梨佳を『よく気が付く娘さん』とほめると、普段より1オクターブは高い声で「これくらい当然です」と慎み深く答えていた。

 多分、最初の挨拶での失態を挽回しようとしているのだろう。陽菜が座って何か食べるように促しても大人たちの相手に余念がない。しかし、かれこれ2時間は経過し、お腹の虫もそろそろ暴動を起こすころだろう。

 ボロがでなきゃいいけど。ぶかぶかのスウェットを着た陽菜はひやひやしながらコーラを飲んだ。

「いやいや。実際人気薄でしたからな。倅がこだわりを持って配合した馬でした。晩成型の長距離血統は今どきは流行らないのですが、その当時の肌馬やつけられる種馬を考え抜いた結果、春の天皇賞を狙える馬を作ろうとしたんです。もし、馬が生きていればそれも夢ではなかったでしょうが……。生き物相手の商売ですから、そう計算通りにはいきません」

「大変なお仕事ですのね」

 智美が相槌を打つ。

「結局馬が好きだからってことと、いつかダービーのような大きいレースを勝つっていう夢があるからできるんです。とはいえ、この辺りもだいぶ生産牧場が減りましたがね」

「やはり個人経営の小規模な牧場がこの先生き延びていくには資本と人材の集約が必要ではないでしょうか。日高には多くの土地と馬産業のノウハウを持った人が大勢いますから、上手く効率化できれば大手の牧場にも対抗可能でしょう。あとは販路を国内だけではなくアジアをはじめとした海外に……」

「ちょっとあなた」

「ちょっとパパ」

 陽菜と智美が同時に憲明の言葉をさえぎった。

「いや、失礼。この仕事をしているとつい。いわゆる仕事病ですね」

「なに。それだけ仕事に打ち込んでいる証拠です。さ、もう一杯」

 泰造が憲明に日本酒をすすめようとすると、「あたしが」と友梨佳が立とうとした。

 陽菜が友梨佳を手で制すると、

「ねえ。私、友梨佳の部屋を見てみたい。友梨佳いいでしょ?」

「う、うん。いいけど」

「ご飯はもういいの?」

 智美が聞くと、

「友梨佳の部屋で食べるから持って行ってもいい?」

 ここでようやく友梨佳は陽菜の意図に気が付いた。

「そう! 陽菜に見せたいものがあるの! 行こう、今すぐ行こう!」

 泰造の返事を待たず、友梨佳は陽菜の車椅子を押してダイニングから出た。玄関の正面にある2階へと続く階段には自動昇降機が取り付けられていた。友梨佳の祖母が2階に上がるときに使っていたものだ。陽菜が自動昇降機の椅子に移り安全ベルトを締めると、

「手元のレバーを行きたい方向に倒すと進むから」と友梨佳が説明した。

 言われた通りレバーを倒すと、ゆっくりと登り始める。遊園地のアトラクションのようだと陽菜は思わず笑みを浮かべる。2階につくと、友梨佳が車椅子をもって上がってきた。

「ほんとはエレベーターを付けたかったんだけど、家がボロすぎて付けられなかったんだ」

 友梨佳が持ってきた車椅子に陽菜が移ると、友梨佳は車椅子を押して自分の部屋に案内した。

 車いすがギリギリ通れる幅のドアを抜けると、大きな馬のぬいぐるみが置かれたシングルベッドが目に入ってきた。ベッドの脇には丸いローテーブルと、その下には大きなハートの柄が入ったラグカーペットが敷かれていた。全体的にきちんとした印象の部屋だったが、クローゼットの扉の隙間から服がいくつかはみ出していた。陽菜もそれに気が付いていたが、今日のところは突っ込まないでおくことにした。

「陽菜。ベッドに座っていいよ」

 陽菜は促されるままベッドに移り、腰を掛けた。車いすはあくまでも移動のための物なので長時間座っていると腰やお尻に負担がかかる。スプリングの利いたベッドに腰掛けられるのは正直有難い。

「ちょっと待っててね」と友梨佳は車椅子をたたむと食事を取りに1階に駆け下りていった。

「この部屋、友梨佳の匂いがする」そう思いながら陽菜は部屋を見渡した。

 壁には沢山の写真が飾られていた。両親と一緒に写る小さい頃の写真。馬にまたがる小学生くらいの写真。制服姿で陽菜の知らない友達と札幌テレビ塔の前はしゃいでいる中学生の写真。しかし、高校以降の友梨佳の姿はどこにもなかった。陽菜は胸の奥がチクリと痛んだ。

「陽菜ありがとう! お腹減って死にそうだったの!」

 友梨佳が両手にザンギやら刺身やら料理を山盛りにした皿を持って戻ってきた。

「無理しているのバレバレだもん。気にしなくて良いって言ったのに」

「したっけさ、ブラがズレた女みたいな印象持たれたら嫌じゃない?」

 友梨佳が皿をローテーブルに置いて、陽菜の隣に座った。

「気持ちは分かるけど、友梨佳らしくないよ」

 陽菜がじっと友梨佳を見つめて言った。車椅子が無い分、いつもより距離が近い。陽菜の息遣いや体温が伝わってきそうになる。

 友梨佳は頬が上気し、視線を合わせられなくなった。

「う、うん。もう無理しない。さあ、食べよ! お腹減った!」

 友梨佳はザンギを勢い良く詰め込むと、むせ込んでザンギの衣が鼻から飛び出した。

「ちょっと! 汚い!」

 陽菜は呆れながら笑って友梨佳の背中を擦った。やっぱり友梨佳はこれくらいでないと。陽菜は背中を擦りながら思った。


「そういえば、ルージュが発作起こした時、変位疝じゃなくて良かったって言ったでしょ? お腹のマッサージもしていたし。どうして知っていたの?」

 持ってきた料理をほぼ片付けて、さらに陽菜の両親が手土産に持ってきたケーキも平らげた友梨佳がコーラを飲みながら尋ねた。

 友梨佳の食べっぷりは相変わらず見ていて清々しいくらいだ。

「勉強したから。馬が好きって言う割には、馬のこと知らないなって思って」

「陽菜偉いね」

「全然偉くないよ。ゆくゆくは、この牧場を沢山の人が集まる牧場にしたいって、将来の目標をちゃんと持っている友梨佳の方がずっと偉いよ」

 牧場と聞いて友梨佳は午前中に泰造と黒のジャケットの男性の会話を思い出した。

「あのさ、遥さんってどう思う?」

「芯が通った大人の女性って感じかな。どうして?」

「えっと……今日の午前中に来客があって……」

 友梨佳がうつむき加減になりながら、ぽつりぽつりと話しだした。

「その人がおじいちゃんに言ったの。イルネージュファームから連絡があったら教えてほしい。彼女には気を付けろ。彼女には悪い噂があるって。彼女って遥さんの事だよね。ねえ、何が起きているんだろう? この牧場なくならないよね?」

 一旦話し出すと、堰をきったように友梨佳は話した。

「友梨佳、落ち着いて。そのお客さんって知っている人?」

 友梨佳は首を横に振った。

「馬主さんでも、調教師の先生でもなさそうだった。おじいちゃんはそのうち紹介するって言っていたけど」

『東京は友梨佳みたいな者でも、上手くやって行けるものかね?』

 以前に泰造が車の中で陽菜に尋ねた言葉を思い出す。陽菜は胸の奥がざわめくのを感じた。しかし、不確定なことが多すぎて何も判断が付かない。

「大丈夫だよ、友梨佳。大丈夫。遥さんのこともきっと何かの間違いだよ」

 そう言って、友梨佳の両手を握ることくらいしか陽菜にはできなかった。

 次の瞬間、友梨佳は陽菜の首に手をまわして抱き着いてきた。

 陽菜は体感が弱いので友梨佳を受け止めることができず、友梨佳ごと仰向けに倒れた。

「ちょっと友梨佳。重いよ」

「……」

 友梨佳は何も言わず、陽菜を抱きしめる腕に力を込めた。

「友梨佳?」

「この牧場がなくなっちゃったら、あたし、どうしていいのか分からない。この髪の色と弱視でバイトだって満足にできないのに……。陽菜もいなくなっちゃうし……。おじいちゃんにいつまでも頼る訳にいかないし……。あたしこの先どうなっちゃうの、怖いよ」

 陽菜の顔の横から友梨佳のすすり泣く声が聞こえた。

 陽菜は友梨佳の頭を優しく包み込んだ。

「落ち着いて。まだ何も決まってないよ。大丈夫だよ。牧場はなくならないよ」

 友梨佳はまだ肩を震わせて泣いている。高校で酷いいじめにあった友梨佳が何とか立ち直ることができたのは、慣れ親しんだ牧場と大好きな馬に囲まれて過ごすことができたからだ。いじめの傷跡が完全に癒えていない友梨佳からその二つが無くなるということは、友梨佳のアイデンティティが失われるのと同義だ。

 交通事故で下半身の自由とあるはずだった未来を奪われた経験のある陽菜には、その不安感と恐怖は痛いほどわかる。

「もし、もしもだよ。万が一この牧場を続けられないってことになったら……」

 陽菜はこの先を口にしようか一瞬躊躇した。できるかどうかも分からない、気休めに過ぎない約束を安易にするべきじゃないと思った。しかし、耳元で恐怖と不安に震えながら泣いている親友を目の前にして言わずにいられなかった。

「一緒に横浜で暮らそう」

 友梨佳はガバっと上体を起こし、涙で濡れた目で陽菜を見た。

「ほんと?」

 陽菜は頷く。

「学校だって、弱視の人が働ける職場も髪色髪型自由の職場だってたくさんあるし、なんなら乗馬クラブだって神奈川にはたくさんあるよ」

 友梨佳の目にみるみる生気が戻る。

「ありがとう、陽菜! うれしい!」

 友梨佳がさっきより強く陽菜を抱きしめた。

「ちょっ、ホントに苦しいから」

 陽菜は友梨佳の背中を叩いた。

「ほんとに横浜に行ってもいいの?」

「いいよ。だって友達でしょ」

「……」

 友梨佳は黙って上体を起こした。が、顔をうつむけたままで表情は陽菜からは見えなかった。

「友梨佳?」

「そうだよね。あたしと陽菜の仲だもんね」

 そう言って友梨佳はアハハと笑った。

 陽菜には訳が分からなかったが、とりあえず笑顔が出たことにホッとした。

 友梨佳と横浜で暮らすことが嫌なわけではない。友梨佳も喜んでいる。おそらく泰造もそれを望むだろう。嘘はついていない。なのに陽菜の胸の奥に何かがつっかえている気がする。

「友梨佳、そろそろお帰りになるぞ……」

 まだ友梨佳が陽菜に覆いかぶさっているところに泰造が部屋の扉を開けた。

「友梨佳、お前何やってんだ?」

「あらあら、咲いてるわね」

 酒で顔を真っ赤にした智美が楽しそうに言った。

「え、違う。いや、咲いてるの意味は分からないけど、とにかく違うから」

 仰向けの状態で顔を真っ赤にして慌てている陽菜に覆いかぶさったまま、友梨佳はケラケラと笑っていた。

 賑やかさが戻った友梨佳の部屋のローテーブルに置いた陽菜のスマートフォンに、遥からLINEの着信があったことに陽菜は気が付かなかった。


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