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第18話 8月15日 その3

「ルージュの様子どう?」

 馬房の外から陽菜が声をかけた。

「うーん。なんとも言えない。おじいちゃんにも診てもらおうか」

 厩舎に戻り、馬装を解いてからルージュメサイユを馬房に入れると、友梨佳は腹部に手をあてて腸の動きを確認していた。

「ちょっとおじいちゃん呼んでくる。陽菜は家で待っている?」

「私もここにいる。ルージュが気になるから」

「わかった。おじいちゃん呼んでくるから待っていて」

 友梨佳は馬房の柵をくぐり抜けると、小走りに厩舎から出て行った。

「大丈夫? いま来てくれるからね」

 陽菜が話しかけると、ルージュメサイユがいななきながら前脚を掻く仕草と腹部を気にするように首を後ろに曲げる仕草を頻回に始めた。

「どうしたの?」

 ルージュメサイユは大きくいななき、前脚を掻く仕草が激しくなった。

「どうしよう? 友梨佳……」

 陽菜が戸惑っていると、ルージュメサイユはついに倒れこみ苦しそうに悶えだした。

「友梨佳! ルージュが!」

 陽菜が叫ぶと、不穏を感じたスノーブルも大きくいななき始める。

 しかし、友梨佳たちが戻ってくる気配はない。そうしている間にもルージュメサイユは苦しそうに呼吸をしながら胴体をよじっている。その目には涙が浮かんでいる。

「友梨佳!」

 陽菜が再び叫ぶと、あたかも肉体が悲鳴を上げているかのようにひときわ大きくルージュメサイユがいなないた。

 次の瞬間、陽菜は車いすから降りると、這って馬房の中に入った。糞尿に汚れた藁が服や顔にまとわり付くのも気にせず、暴れる前脚に当たらないように遠回りにルージュメサイユに近づく。

 陽菜が腹部までたどり着くと、首を後ろに向けたルージュメサイユと目が合った。涙で濡れた目は陽菜に助けを求めているように見受けられた。

 陽菜は上半身をうつ伏せにルージュメサイユに預けると、藁を掴んで腹部のマッサージを始めた。

「友梨佳!」

 マッサージをしながら、陽菜は天井に響き渡る声で叫んだ。

 友梨佳が異変を察知したのは、泰造を連れて厩舎の入口に来た時だった。複数の馬のいななきの中にかすかに自分を呼ぶ陽菜の声が聞こえた気がした。

「陽菜? 大丈夫?」

 友梨佳が厩舎に入ると、首を上下に揺らしながらいななくスノーベルの馬房の向こうに、倒れた陽菜の車いすを見つけた。

「陽菜!」

 友梨佳が血相を変えてルージュメサイユの馬房に駆けつけると、糞尿で汚れた藁にまみれた陽菜が力の限り腹部を藁でマッサージしていた。

 友梨佳は慌てて馬房に入ると、陽菜を抱き起こして馬房の隅の壁に寄りかからせる様に座らせた。

「ごめん。獣医の先生がちょうど来てて。対応していたら遅くなった」

「ルージュが急に苦しみだして。ルージュが泣いているのを見たら居ても立ってもいられなくなって……。ごめん、私間違っていたかな……」

 陽菜の右手は藁を握ったまま震えている。

「ううん。間違ってないよ。ごめんね、心細かったよね」

 友梨佳は陽菜の両手を包むように握った。

「大久保先生。こっちです」

 泰造が獣医の大久保を連れてきた。大久保は黒の短髪でジーンズに白いシャツの上から白衣をまとっていた。歳は40代と聞いていたが、それよりも若い印象を受ける。

「ちょっとごめん。入るよ」

 大久保は診察カバンを持って馬房の中に入ろうとする。馬房は狭くないとはいえ、大人3人が入ると窮屈だ。

「今出ます。陽菜、ちょっとごめん」

 友梨佳は陽菜の両脇に手を通し、引きずるように陽菜を馬房の外に出すと、馬房の外壁に座らせる。

 大久保は陽菜の右手に握られている藁に気が付いた。

「お腹のマッサージをしてくれていたんだね。いい判断です」

 大久保は陽菜に微笑みかけると、馬房の中に入った。

 診察カバンから聴診器を取り出し、ルージュメサイユの腹部に聴診器をあてる。

「ここはいいから。陽菜さんを家に連れて、シャワーと着替えをさせてあげなさい」

 馬房の柵に手をかけながら、泰造が友梨佳に言った。

「わかった。陽菜、行こう」

 友梨佳が陽菜に声をかけると、陽菜は首を横に振った。

「最後までいさせて」

 友梨佳は泰造をちらっと見る。

 泰造は黙って頷いた。

「泰造さん。馬房の外に置いてあるポータブルエコーを取ってくれますか」

 大久保はルージュメサイユの腹部を触診しながら言った。

 ポータブルエコーの入ったカバンは友梨佳たちの側に置かれていた。友梨佳はカバンを取って馬房に入った。

「はい。先生」

 友梨佳がカバンを大久保に渡す。

「ああ、友梨佳さん。ありがとう」

 大久保はカバンを受け取ると、中からポータブルエコーを取り出す。

 陽菜は馬房の外から首を後に向けて中の様子を見た。ルージュメサイユが苦しそうに涙を流していた。

 陽菜は左手をルージュメサイユの頭に伸ばそうとするが届かない。それを見た泰造が陽菜を抱き抱え、ルージュメサイユの頭に手が届く所まで移動させた。

 陽菜はルージュメサイユの頭を優しく何度も撫でた。友梨佳も陽菜の側にしゃがみ、一緒に頭を撫でた。

「風気疝で間違いないでしょう。便が出辛いようなので下剤を追加しておきます。少し脱水気味なので補液の点滴と痛み止めをしておきましょう。腸は動いてるので、すぐに便が出ると思いますよ」

 泰造と友梨佳の力が抜け、表情が明るくなる。

「じゃあ、大丈夫なんですか?」

 陽菜がすがるように大久保を見る。

「大丈夫ですよ。便が肛門に栓をしているので、ガスが溜まって腸を拡張させているんです。それで痛みが出ているのですが、命に心配はありません」

「良かった……変位疝だったらって……」

 陽菜は急に脱力した。

 友梨佳が慌てて抱きかかえる。

「陽菜、大活躍だったね。もう、藁を離していいよ」

 陽菜の右手は藁を掴んだままだった。

「指がこわばって動かないの」

 友梨佳は微笑みながら指を一本ずつ開いてあげた。

 大久保が馬房から出てくるとふたりの様子を見ながらフッと表情を緩ませる。

「どうかしましたか?」

 大久保の表情に気づいた泰造が言った。

「いえ。以前に似たような光景を見たなと思って。その時は辛い結果でしたけどね」

「そうですか」

「あの、黙って来てしまって失礼だとは思ったのですが、何かありましたか?」

 気がつくと憲明と智美が馬房の側に立っていた。

 ふたりは汚れた藁にまみれた陽菜と倒れた車椅子、倒れ込んでいる馬を見ると顔色が変わる。

「これはいったい……。うちの娘に何が」

「友梨佳がわしを呼びに来ている間に馬が疝痛を起こしましてな。激しい腹痛を起こした馬を見かねて、自分が汚れるのも構わずマッサージをしてくれたんです。おかげで馬は大事に至りませんでした」

 しかし、と泰造は続ける。

「容態が急変するかもしれない馬の側に陽菜さんをひとりにしたのは私らの落ち度です。娘さんを危険な目にあわせて申し訳ありませんでした」

 泰造が深々と頭を下げる。

 遅れて友梨佳も立ち上がり、頭を下げた。

 陽菜はあわてて憲明のスボンを掴む。

「パパやめて。ふたりは悪くないの。私が判断したことなの。私は大丈夫だから」

「ふたりとも頭を上げてください。状況は分かりました。陽菜に怪我はない様ですし、馬も無事みたいでなによりです」

「そう言っていただけると。以後、気をつけますので」

 泰造が恐縮して話す。

「いえ、本当に大丈夫ですから。それより、馬の疝痛のケアに陽菜が役に立ったみたいで良かったです」

「ええ、それはもう大活躍です」

「陽菜さんには、友梨佳さんや泰造さんを待つ選択肢もあったはずです。しかし、馬の苦しむ様子を見てとっさにマッサージを行なった。なかなかできる判断ではありません」

 ルージュメサイユに鎮痛剤を打った大久保も馬房から出てきながら言った。

「でも、もう無茶なことはしないで。せっかく両足と体幹に筋肉が付いてきたのにケガなんてしたら……」

 智美が心配そうに話す。

「わかった、ごめんなさい」

「さあ陽菜。とにかくその格好をなんとかしよう」

 明憲が陽菜の髪の毛についた藁を取る。

「友梨佳、陽菜さんにシャワーと着替えを」

「わかった。陽菜、行こう」

 友梨佳は倒れていた車椅子をもとに戻す。

「うん」

 陽菜は上半身の力で車椅子に座る。お尻に手を触れると冷たくびっしょりした感触が手に広がる。

 うえぇ、気持ち悪い。陽菜は思わず顔をしかめた。

「陽菜、パンツまでいっちゃってるんじゃない? あたしのだけど、新品があるから履く?」

 サイズが合うかどうか分からないが、背に腹は代えられない。

「ありがとう。買って返すね」

「いいよ気にしないで。ブラはどうする?」

「友梨佳、優しさは時に人を傷つけるのよ」

 友梨佳はケラケラ笑っている。確信犯だ。

 陽菜はわざとむくれてみせた。


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