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第16話 8月15日 その1

 その日、友梨佳は朝から忙しかった。朝から泰造に来客があり、厩舎作業を友梨佳ひとりでやらなくてはならなかった。しかも、数日前から疝痛を起こしているルージュメサイユという繁殖牝馬がいるため、そのケアも必要だった。

 午後からは陽菜が両親を連れてくることになっていた。グズグズしている暇はなかった。

 それにしてもこのサングラスは着け心地がいい。サングラスをかけているのを忘れるくらいだ。と、友梨佳は思った。

 友梨佳はエキシビジョンでかけていたOAKLEYのサングラスを遥からもらっていた。さすがの友梨佳も最初は辞退したが、出演料代わりだからと言われ手に持たされたのだ。

 寝藁の交換作業を片付けたあとに、疝痛を起こしている馬の馬房に入った。

 獣医の診立てでは便秘による疝痛とのことだった。確かに小さく硬い糞が寝藁に落ちていた。ただ量が少ない。便秘が長引いているのも気になる。まだ長引くようならもう一度獣医に診てもらった方がいいかもと、馬の腹部をマッサージしながら友梨佳は思った。

 便秘による疝痛ケアには腸管を刺激させるための軽い運動が有効とされている。通常なら引き運動を行うが、今日は陽菜が来たらスノーと一緒に歩かせよう。

「久しぶりに一緒に歩こうか、ルージュ」

 友梨佳はルージュメサイユの首を叩きながら話した。


 友梨佳は、水を入れるため厩舎の出入り口の脇にある水道に飼い葉桶を持って来た。

 家の玄関脇に、黒い乗用車がまだ停まっている。朝に来たお客さんの車だ。かれこれ1時間半はいる。車のフロントグリルにLのマークが付いていた。車には疎い友梨佳でも、その雰囲気で高級車だということはすぐにわかった。

 来客者とは遥が厩舎に向かうときにすれ違った。見覚えのない40代位の男性二人だった。ひとりはネクタイに既製品とは違う身体にフィットしたネイビーのスーツを着ていた。

 もうひとりは短髪にあごひげをたくわえ、白のTシャツと黒のジャケットにパンツスタイルだった。泰造と話している様子から、あごひげの男の方が立場が上なのだろう。

 男性二人には見覚えはないが、この車には見覚えがある。陽菜を初めて家に連れて行く途中ですれ違った車だ。

 泰造は自分の馬を売るのは昔から付き合いのある人と決まっているので、馬主なら友梨佳にも大体分かる。

 調教師の先生かな? 友梨佳は思ったが、多分違う。

 長年馬に関わってきたホースマンなら、立ち居振る舞いで分かる。それに訪ねてきてから一度も馬を見に来ないのもありえない。

「新しい馬主さん候補が挨拶にでもきたのかな?」

 そう呟きながら飼い葉桶を洗っているところに、玄関から男性2人と泰造が出てきた。

「それでは、今日のところはこれで」

 黒のジャケットの男性が泰造に落ち着いた口調で話していた。

 友梨佳が様子を見ていると、向こうも友梨佳の視線に気づく。

 男性が微笑んで会釈をする。友梨佳もつられてペコリと会釈をした。

 スーツの男性が車の後部座席を開けると、ジャケットの男性が車に乗りこむ。

「あ、高辻さん。イルネージュファームから何か連絡があったら、すぐ私にお知らせください。くれぐれも彼女にはお気を付けを。何やら悪い噂もあるようですから」

 ジャケットの男が話すと、車は静かに走り出した。

 車を見送る泰造の横に友梨佳が来る。

「おじいちゃん。今の人たち誰? 馬主さんとも調教師の先生とも違う感じだけど」

「じいちゃんに付き合いがあるのは馬主と調教師だけじゃねえんだ。いずれ友梨佳に紹介するから心配するな」

「え、あたしお見合いはしないよ」

「バカ言うでねえ」

 泰造は友梨佳の頭を小突いた。

「それより、ルージュの様子はどうだ」

「うん。疝痛の状態に変わりはないんだけど、やっぱり糞が小さくて硬いまま。ちょっと便秘が長引いてるから、早めに獣医に見せた方がいいかも」

「そうか……」

 泰造はあごに手を当てて考える。

「大久保先生が大学から戻ってきてるって話だ。あとで診てもらえるか聞いてみよう」

 大久保とはこのあたり一帯の牧場を診ている獣医である。若いが腕がたつと評判で、泰造も大久保の診察を信頼している。今年から帯広畜産大学の獣医学部で非常勤講師をしているが、今は夏休みで日高に戻ってきていた。

 大久保先生が診てくれるなら大丈夫。しかし、友梨佳には別の事で気になることがあった。

 イルネージュファームから何か言われたらって? 彼女には気をつけろって? 悪い噂って何? 彼女って多分遥さんのことだよね。この前もおじいちゃんは何か隠している様子だった。それにもうひとつ、さっきから泰造は肩で息をしていた。

「ねえ、おじいちゃん」

 泰造は黙って振り返る。

「……体調は大丈夫? さっきから肩で息をしてるけど」

「心配するな。少し疲れてるだけだ」

「そう……それならいいけど」

 友梨佳はそれ以上聞けなかった。おそらく聞いてもはぐらかされるだけだろう。あたしの知らないところで何かが起きている? 馬たちとお別れになったりしないよね。まさかこの牧場がなくなったりしないよね。おじいちゃん大丈夫だよね。暗い考えばかりが頭に浮かぶ。

 こんな時、陽菜ならどうするだろう。陽菜なら良い知恵をくれるかな。と、頭のなかがグルグル回る。

「友梨佳、早くしねえと陽菜さんたちが来ちまうぞ」

 泰造はいつの間にか厩舎に向かって歩いていた。友梨佳は黙ってその後を追いかけた。


「素晴らしい牧場ですね。こんな見事な光景、日本じゃないみたいです」

「本当に。ここでお弁当を広げたいくらいです」

「いやあ、広いだけが取り柄の零細牧場です」

 泰造の家の前で陽菜の父親の明憲と母親の智美が泰造と放牧地を眺めながら話していた。

 陽菜は両親の様子からこの牧場に少なくともネガティブな印象は抱いていないようでほっとしていた。陽菜が乗馬をやりたいと電話をしたときに難色を示していたので、高辻牧場に悪い印象を持っているのではないかと心配していたからだ。

 しかし、高辻牧場に来る前に陽菜の主治医と両親と一緒に面会したときに、主治医から両足の筋力や体幹が非常に強化されていること、乗馬の効果が非常に高いこと、当院でもリハビリの一つとして可能であれば取り入れてもいいくらいだということを聞かされていたこともあり、ふたりとも悪い印象どころか陽菜のために乗馬をさせてもらっていることに感謝しているくらいであった。

「友梨佳さんにも本当に感謝しているんです。横浜にいたときはお友達の話なんてしなかったのに、北海道に来てから急にお友達ができたって、それはもう嬉しそうに毎晩連絡をよこすようになって」

「毎日なんてしてない」 

 陽菜は恥ずかしそうに智美のスカートのすそを引っ張る。

「そうね。定期連絡と言った方がいいかしらね」

「知らない」

 陽菜はそっぽを向く。

 ははっ、と陽菜を除く3人が笑う。

「こっちに来て娘の姿を見て本当に驚いたんです。うつむき加減でとても小さかった子が、明るくとても大きく見えて……。陽菜を変えていただけたのは友梨佳さんや高辻さんのおかげです。なんと感謝申し上げたらいいか……」

 目頭をハンカチで押さえながら涙声で智美は泰造に頭を下げる。明憲も続いて頭を下げた。

 両親の姿を見て今までどれだけ両親に心配をかけてきたのか思い知った。これ以上両親に心配をかけてはいけないという決意とともに、将来の具体的なビジョンが持てず両親の期待に答えられるのだろうかという不安が陽菜の心臓を締め付けるかのように重くのしかかった。

「いやいや、どうか頭を上げてください。私は何もしておりません。友梨佳と馬が変えたんです。いや、変えたというのは違いますな。友梨佳と馬が本来の陽菜さんの姿を取り戻させたんでしょう」

「本来の私、ですか」

「はい。友梨佳と話しているときの陽菜さん、馬に乗っているときの陽菜さんはとても良い表情をしていましたよ。この間の七夕フェスタでも大活躍されたそうじゃないですか。わしは陽菜さんほど心優しく聡明な女性に会ったことはありません。この先もきっとどんな困難も乗り越えられるでしょう」

 泰造の言葉に陽菜は心が暖かくなるのを感じた。

 北海道に来てから友梨佳はずっと私のそばにいてくれた。友梨佳が太陽のように私を照らし続けてくれた。だから私は変われた。ううん、本来の自分を取り戻させてくれた。友梨佳に会いたい。友梨佳はどこ?

 陽菜は辺りを見回すが、友梨佳の姿は見えなかった。

「そういわれてみれば、小学生の頃は本当に明るくて何でもよくおしゃべりする子でした。私たちの方も忘れていたんですね……」

 明憲が陽菜を見ながらしみじみと話した。

「取り戻したといえば、私の方も陽菜さんに感謝しなくてはいけません。お聞きになっているかどうかわかりませんが、友梨佳も高校の時分にいろいろありまして……。ずっとどこか寂しげだったんですが、陽菜さんと会ってから急に昔のように明るくなりましてな。今では落ち込んでいた時が少し懐かしいくらいです」

 泰造は自分の言った冗談に自分で笑った。

「陽菜さんと友梨佳はよほど馬が合うのでしょう。私も陽菜さんには感謝してもしきれません」

 陽菜は恥ずかしそうにうつむく。

「そういえば当の友梨佳はどこさ行った。わかったって返事したっきり一向に出てきやしない。不束な孫で申し訳ねえです」

 泰造が申し訳なさそうに頭を下げた。


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