(ルーシュ視点)取り返しのつかない
キスをするとすぐに瞳をとろとろにしてしまって、それでいて大好きで大好きでしょうがないって表情をする。
そんな可愛いひとだった。
『……こんなことさせてしまってごめんな』
それなのに、唇を離して見えた表情は今まで見たどの表情とも違っていた。
心底申し訳なさそうに形だけの笑みを作って、僕を見てそう言った。
こんなことって、一体何を言っているのだろう。だって僕達は恋人同士で、婚約者で、キスとは愛を伝える行為だ。だから、キスをした。言葉じゃ上手く伝わらなかったから咄嗟に身体が動いてしまった。これで僕があなたのことを愛していると伝わると思った。
離れて、目を開けて、そうしたらアキさんは目を溶けさせてくれると思っていたんだ。だけど、それは大きな間違いで。
数秒前に見えた表情から何一つ変わっていない。唇を合わせた行為を消すかのように、アキさんが僕の唇に指を滑らせる。
キスをしたくてしたのに、『させてしまった』と言われた。この行為すらも僕が取り繕うためにやったと、このひとはそう信じて疑っていないことを理解する。
言葉も信じて貰えない、キスさえも受け取って貰えない。ただ聞き分けのない子どもを相手する時の困ったような笑みを浮かべる大好きなひとに、これ以上何もしたら良いのか思いつかなくて、気づくと部屋を追い出されていた。
とりあえず今日は休めと、また明日とアキさんに言われた。また明日があるのか。それであれば言いつけを守って休まなければ。
一歩、また一歩とふらふら廊下を歩きながら自室へと向かう。頭は痛いし、吐き気もする。どうしようもなく身体が冷たくて、すぐに優しくてあたたかい大好きなひとの元へ戻りたかった。でも戻ったところで、今はもう抱きしめても貰えない。
アキさんが考える『こんなこと』の中にきっと抱擁も入っているのだろう。どれだけ強く抱きしめても、いつもであれば負けないくらい力を込めて回してくれる腕の感触がなかった。キスどころか抱きしめるという行為も偽りであったと考えて、感じる必要もない罪悪感を彼は感じていたのだ。そうなると、夜に部屋を訪ねて身体を重ねた行為ももちろん、『こんなことをさせてしまった』に入っているのだろう。
「うっ……!」
途端に吐き気が込み上げてきて、シンと静まり返った廊下でえずく。あまりの酷さに頭がグラグラと揺れて、腹の中をぐちゃぐちゃに引っ掻き回されたかのような不快感が溜まる。
最低で、最悪だ。あんなに優しくて可愛いひとに、そんなことを思わせたのか。それを怒るでも詰るでも泣くでもなく、諦めたみたいな大人の顔にしてしまうくらい一人で考えさせて傷つけたのか。
心の中で自分に対して思いつく限りの罵詈雑言を投げかけながら、足だけなんとか前へと動かし続ける。部屋へようやく辿り着いた瞬間、壁を背にズルズルとその場で座り込んだ。
「最低だ」
ずっと自分に言い続けた言葉がポツリと口から溢れる。なんて最低で愚かな人間なんだろうか。
何が『自分が何かをしてしまったのであれば言って欲しい』なのだろうか。どうにかしてアキさんに笑ってもらいたくて数十分前の自分が言い放った言葉に自嘲する。どんな顔をしてのうのうと言ってるのか。
「アキさん」
呼びかけても返事をしてくれるひとはここにいない。『どうした?』と言って屈託なく笑ってくれていた姿が随分前のように思えた。
この国のため、僕らは異世界からアキさんを呼び寄せた。どの異世界から誰を呼ぶかといった指定はできない術だ。こちらは国がかかっている。何度も何度も話し合いを重ねて、王家で方針を決めて、そうしてようやく運命の日を迎えた。世界を捨てさせてしまっている以上こちらは強く出られないものの、もし願えるのであれば話ができるひとであって欲しいと祈る。
その祈りが我らの神へと通じたのだろうか。
『ご事情は分かりました。貴方達は異世界から人を呼ばなきゃいけない事情があって、それで俺を呼んだ。俺はそれに応じてここに今存在する。俺はこの世界のことを知らないので貴方達が生活を保証してくれる。それであっていますね?』
『あ、ああ』
『この後、落ち着いた場所でもっと詳細を教えてください。…っと、そうだ。とりあえず』
冷静に父様の話を聞いていた平凡なひとは、あたたかい笑顔を浮かべて名乗った。
『佐藤秋と言います』
こちらを責めることも、泣くこともない。ただ安心する笑顔を浮かべたそのひとを見て、彼よりもずっとずっと僕達が安心してしまった。
怖かったのだ、この大切な国が脅かされることが。大事な国民達の安寧が消え去ってしまうことが。自分達の対応によってはそれがあっという間に崩れることを理解していたため、まだ小さい末の弟達でさえ緊張から汗をびっしょりと流していた。その緊張が一気に吹き飛んでしまった。
ああ、よかった。もうこの国は大丈夫だ。きっとこの時全員そう思った。彼のその朗らかさにみんな救われたのだ。
その後、彼と話している時に自分はひどく楽観的なの性格なのだと告げられ、またカラカラと笑われた。だから初対面の時にああいった態度だったのだ、危なくないし敵意も感じない、みんな優しそうだし優しくしてくれたからそれであれば信じてみようと思ったのだと、そう言って笑う。アキさんは顔をくしゃくしゃにして笑う。目もすぐに瞑っちゃう。だからきっとアキさんがそうやって笑う度にその姿がどうにも眩しくて、僕が目を細めていたことにアキさんは気づいていない。
最初からずっと優しくてあたたかいひとだった。
僕達はアキさんが来る前に、これからこの世界にやってくるひとに対して誓った。世界を捨てさせてしまったからせめて我々ができる限りの願いを叶えるよう努めようと。せめてこの国に来て良かったと思ってもらえるように頑張ろうと、王族として決めたのだった。
この国に居てもらうためには、この国に居たい理由を作るべきだ。何度も話し合ってたくさんの『居たい理由』を連日検討した。彼をこの国に縛る手段にはいくつもの候補がある。
金品、食事、宝石に娯楽。踊り子に、市街で流行っている遊び。
だけど、優しくてあたたかい彼を見て、すぐに『一番使える手段』だと判断し、僕はアキさんに手を伸ばした。馬鹿な選択だった。それが何よりも優しいあのひとを傷つける選択だとこの時は愚かにも気づいていなかった。
今から考えれば、この時点で気持ちはなかったとしても、このひととであれば幸せになれると感じていたのだと思う。それにいずれ愛することもできるようになると、心のどこかで気づいていたのだろう。
だから、愛を伝えることも、抱きしめてキスをすることも、求められて身体を重ねることにも抵抗がなかった。この国を愛する王族としての務めだからしょうがないと自分に言い聞かせていたが、心の底から嫌悪感を感じたことなど最初から一度もなかった。
だから、遠征中に違和感を感じた。
いつも文字からもたくさんの愛を伝えてくれていたのに、それがなくなった。身体を気遣う内容は間違いなく愛情だろう。それでもいつもくれていたストレートな言葉がどこにもなくて、見逃している可能性があるかもと思い、何度も同じ手紙を見返しては次の手紙を待ち侘びた。
帰って来てからは、夜に部屋を訪ねられる頻度が減った。全くなくなったわけではない。だけど、どこか遠慮するように声をかけられては、ベッドの中で強請られることも減った。いつもたくさん甘えてキスも愛撫も強請っては素直に理性を溶かしてくれていたのに、そのどれもがなくなった。キスを送っても優しい顔で笑われるようになった。あれだけご飯が好きだと言ってたくさん目の前で食べてくれていたのに、マナーを教える先生のように少ししか食べなくなった。ぼーっと外を見ては、図書室に一人籠り勉強する時間が増えた。
そのどれもが不自然で、それでいてどこか壁を感じる。
笑ってくれているはずなのに、笑っていない。近くにいるはずなのに、遠く感じる。
何があったのだろうか。困っているのであれば力になりたい。悩み事があるのであれば一緒に考えたい。憂いを全て吹き飛ばして、また前みたいに笑って欲しい。
そう考える日が続いて、自分はアキさんを愛していたのだとようやく気がついた。
気がついてからはよりどうにかアキさんに笑って欲しくて必死だった。力になりたくて、幸せでいて欲しくて、色々調べてみたり周囲に話を聞いたりしてみた。だけど有力な情報も得られなければ、アキさんの態度も変わらない。
そして、とうとう本人に直接聞いてしまった。
「……アキさん」
結果は想像していたよりもずっとずっと酷いものだった。笑って欲しいと思っていた相手を傷つけていた。取り返しのつかない過ちを犯してしまっていた。
「ア、キさん……!」
優しくてあたたかいひとだった。そのひとに『しょうがない』と言わせて、彼の尊厳を踏み躙った。
名前を呼んでも応えてももらえなければ、その優しい体温も感じない。責めてももらえなかった。ただ優しく言葉をかけられ、慰められた。それはもう僕の言葉が何一つ届いてなくて、信用もしていないということを表している。
冷え切った部屋で一人、絨毯の上に蹲ってただただどうしようもない後悔に襲われた。