優しい王子様
ルーシュは優しかった。
「今忙しい?」
「アキさん。大丈夫だよ」
ノックをしてから覗くように顔だけ部屋にいれると、にっこりと微笑むルーシュと目が合う。微笑まれると最初はあまりの麗しさで思わず目を瞑ってしまっていたが、流石に数日もすると目を細める程度に留めることができるようになった。
「クッキーっていう食べ物作ったんだ。もし良かったら食べようぜ」
「アキさんの世界の食べ物? 嬉しいな」
「その代わりにもっとこの世界のこと教えてくれよ」
「もちろん。というより、そういうことはこっちからお願いしなきゃいけないくらいなんだけど」
『参ったな』と頭をかきながら、椅子から立ち上がりこちらへと歩いてくる。
ルーシュの執務室は十分な広さを持っており、先ほどまで座っていた執務用の椅子・机とは別に、入り口側に近い位置にテーブルセットが置いてある。厨房を借りて記憶を頼りに作ってみたクッキーはそれなりの味に仕上がったとは思う。それをテーブルに乗せて、併せて持ってきたティーセットで紅茶を入れた。
クッキーを持ってきたのはたまたま。普段は紅茶やコーヒーだけ手土産にしてルーシュの部屋へお邪魔する。そしてこの世界について教えてもらうことが、ここ数日の日課となっていた。
「えっ、人前でご飯食べるのって良くないのか」
「うーん、正確に言えば人前でたくさん食べるのはマナー違反って感じかな。会食時は少しだけ手をつけて残りは自室でっていうのがマナー。あまり大口を開けて人前で欲を満たすのは良くないよねってところから来ているらしい 」
「そうだったのか……。悪い、俺今まで勧められるがままに力いっぱい食べてた」
「あはは! 大丈夫だよ。あくまでこの国の中だけのマナーであって、他の国はそうでもないみたいだし。アキさんが異世界から来たのも理解してるから。だから僕らも勧めたんだよ」
この世界は知っている世界のようで、やっぱり全然知らない世界だ。
日用品や食べ物、季節や習慣等おおよそ自分が知っているものばかりであるが、微妙に常識が違うものも多くある。それは例えば今さっき知ったマナーであったり、よく知っている食材の食べ方、物の使い方、階級など多岐に及ぶ。生きる上で支障は起きないものの、この世界で生活し暮らしていくためには知っておいた方がいいことであった。
また、全く事前知識として持っていないこともある。それはこの世界の成り立ちや、歴史。魔法や文化等。これらは小さい子が勉強のために読む本を渡してもらい、少しずつ勉強し始めた。
それら全てをこの国の王子であるルーシュが自ら率先して俺に教えてくれている。
この世界にやってきた日、知らないことがたくさんあるため勉強をしたいと告げると、『執務の休憩時間でよければ僕が』とこの男はあっけらかんと引き受けた。王族であることは自己紹介から知っていたため、適当に人か本を寄越して欲しいという意図でお願いしたつもりであったが、まさか王子自らのご指導を受けることになるとは。
最初は失礼があってはいけないと緊張していたものの、その緊張はすぐに解けることとなる。
ルーシュは優しかった。数日ですぐにそれが分かった。
俺はきっとこの世界の常識に沿っていないであろう行動もたくさんしているだろうに、呆れることも怒ることもなく理知的に説明してくれる。知らない世界において、その優しさと穏やかな人柄は大変に助けになった。どれだけ歳を取っても、知らない人間達に囲まれること、知らない世界に飛び込むことはひどく不安になってしまう。その中で一人、絶対に味方になってくれるひとがいる。
その事実と、それを表すかのようなルーシュの態度に俺は随分と助けられた。
「でも行儀悪かったんだよな。今度から気をつける」
「いいよ、気にしないで。知識として教えただけ。僕はアキさんが美味しそうに食べる姿好きだよ」
目を逸らすこともなくさらりと告げられた言葉に胸がそわそわする。誤魔化しのために熱々の紅茶を啜り、思わず咽せてしまった。口の中を火傷させながら情けなくもゲホゲホと咽せる俺に慌てて駆け寄ってきて、ルーシュは懐から真っ白のシワ一つないハンカチを差し出す。
「大丈夫? ああ、紅茶が……」
そう言って、首を少しでも動かしたらピントがぼやけてしまうのではないかと思うくらいの近さで、俺の口端から垂れた紅茶を拭ってくれる。あまりに優しい。
少し伏せられたまつ毛は何かの間違いかと思うくらい長い。夕方にも差し掛かったというのに、近づいた身体からはふわりと清潔な良い匂いしかしない。
こちらは三十を過ぎた頃から必死で体臭に気を使うようになったというのに、この男はきっと汗をかいたとしてもいい匂いなのだろう。そう考えたところで、急に自分の体臭が心配になり離れようと身体をよじったが、不思議そうにしてハンカチを持った手で追いかけて来る。
「待ってね。火傷は大丈夫そう? 首とか」
ポンポンと肌と襟元を拭った後、心配そうに顔から首にかけて眺められる。
優しい。優しくて綺麗だ。
喉の奥から呻き声が出そうになるのを必死で堪えて、『大丈夫だ』と静止した。すると、ニコリとまた微笑まれて、手にハンカチを握らされる。
「良かった。一応部屋に戻ったら冷やしてくださいね」
「ン」
優しくて綺麗で、なんて可愛い生き物なんだ。
堪えた呻き声が一音だけ出てきてしまい、慌てて口を覆う。待ってて欲しい、今はこの通り小学生よりも使い物にならない男だが元々はそこそこの会社で中間管理職をやっていたんだ。物を覚えたその日には、執務机にたっぷり積まれている書類の処理に貢献ができるはずだ。
「俺、早くルーシュの力になれるように頑張るな……」
「へ?」
早くこの優しい生き物の力になりたくて決意する。ひっそりと呟いた言葉もルーシュの耳には届いていたようで、きょとんと目を丸くさせた後すぐに困ったように笑われる。
「困る」
「え? 元の世界ではそれなりに仕事もできたと思ってるから、何かしらは手伝えると思うんだけど」
「ただでさえ来てくれて感謝してるのに、その上更に力になってくれたりなんてした暁にはもう僕から返せるものなんて何もなくなってしまう。だから困るんだけど」
別にこの世界に呼ばれたことについて、恨んでいるわけでも怒っているわけでもない。元の世界で自分は死んでしまって、今たまたまここで生かされている。それが全てで責めるつもりもない。
だからこの人たちに何かを返して欲しいと思ったことがないというのを、伝えていたつもりが伝わっていなかったのだろうか。
そんな困った顔で笑わないで欲しい。こっちは全くもって気にしていないのだ。
そう伝わるように目の前にある綺麗な顔をそっと掴んで、揶揄うように眉毛を上げてみせる。
「じゃあ、そうなったらルーシュは俺のこと好きになっちゃうなあ」
ニターっと笑って十も年下の王子様にふざけて見せると、またぽかんとされた。そうだ、その調子で気にしないで欲しい。『何を言ってるんだか』と言って笑ってくれないかなあなんて考えていた。
だから『なんて冗談』と続けようと口を開こうとしたが、頬に添えた手に擦り寄られる。
「それは、アキさんのこともうとっくに好きだから困ったなあ」
「へっ」
「初めて目の前に現れた時から、この人が来てくれて良かったなあと思ってたんだ」
「えっと」
「なんて言うんだっけ。ああ、そうだ」
一目惚れだ。
そう言って真っ直ぐにアイスブルーの瞳で打ち抜かれて、一気に体温が上がる。
ルーシュはなんて言った今。思い浮かべていたどのリアクションとも違うじゃないか。
歳だけ重ねているため、色々返す言葉は思い浮かぶのにこういったことに慣れてなさすぎて適切な言葉が選択できない。ギギギと油をさしていない機械のようにぎこちない動きで、頬から手を離し両手を天にあげる。
「っと、ハハ。冗談がお上手で」
それなりに綱渡りをすることもあったし恋愛もしてきたが、生まれてこの方こんな綺麗な人間に迫られるような体験はしたことがない。どこまでが冗談でどこまでが本気なのか、この世界ではこの手のがオーソドックスな冗談なのか。何も分からず咄嗟に情けない返ししかできなかった。
その俺の腕を今度はルーシュが掴み返して、そっと自身の頬に引き戻す。思わずひゅっと喉が鳴る。
「昨日、この国の話をしたと思うけど」
確かに昨日は歴史の勉強をしていた。この国の成り立ちもこの国が大事にしているものも習った。
「ランディールは愛の国。愛を重んじて、何より大切にします。そのため、この国では身分も性別も種族も問わず生涯の伴侶とすることは珍しくない。そう教えましたよね?」
「は、はい」
「国民は元より、その国の王族である我々はもちろん愛を出し惜しみすることはしません」
掴みっぱなしになっている手に柔らかいキスを落とされる。そこまでされると流石にさっきまでのように『冗談』なんて返すことはできない。だって、冗談でもなんでもないのであろうと理解してしまったから。
「そ、そ。そっか」
「はい! 前向きに僕を検討してくださいね!」
「は、はい……」
あまりに初めての体験すぎてしどろもどろになりながら返事をすると、またいい笑顔で真っ直ぐに返される。適当に退出する旨を告げて、茹だった頭とポカポカしてきた身体でフラフラと部屋へと帰る。それからその日は寝るまでルーシュの顔が頭から離れなくて、夢にまで出てきてしまった。
この時点でもう俺はルーシュにどうしようもなく惹かれていたのだろう。それこそ俺もきっと一目惚れだったのだ。年齢も性別も気にならないくらい浮かれてしまって、ルーシュという男に心をさらわれてしまっていた。