山頭火、缶詰を食べる
山頭火の日記に缶詰に関する記述を見てみよう。
「いい酒だつた、罐詰もうまかつた、私が大分平らげた、そしてずいぶん酔うて、君を困らしたらしい」(昭和7年10月19日)
山頭火が困らせた「君」は句友であり酒友である樹明君だ。
その困らせぶりを山頭火はこう書いている。
「例の常習的変態デマをとばしたのだらう、とにかく、私は親友に対しては駄々ツ児だ」
そして罐詰を買ってきてくれたのも樹明君だった。
「お土産の鑵詰を下物にしてお土産の酒を飲んだ」(昭和8年3月25日)
この日、缶詰と酒をお土産にやって来たのは句友の伊東敬治。
「夕方、樹明君が御馳走を持つてきた、酒と鑵詰と、―たのしく飲んで、酔うて、寝てしまう。」(昭和8年7月18日)
この日、缶詰と酒をお土産にやって来たのは樹明君。
「夕食後、石油がないから、蚊帳の中に寝ころんでいると、やつと、だしぬけに、敬君来庵、酒も缶詰も来た、私一人が飲んで食べて、敬君は話し続けて…」
(昭和10年9月8日)
この日、缶詰と酒をお土産にやって来たのは日記にあるように伊東敬治。
「酒がもたらされた、鮭の罐詰も―そして私はいうぜんとして飲みはじめたのであるが、いつしかぼうぜんとして出かけた、Yさんからいつものやうに少し借りて、F、Y、N、M、Kと飲み歩いた、…とうとう駅のベンチで夜を明かしてしまつた」
(昭和10年10月3日)
この日の缶詰は珍しく山頭火が店で買い求めたもの。
「今日も酒なしか、―などと考へているところ、Kさん来訪、まだ酒があるから、樹明君を誘うて、もう一度(二度でも三度でも)忘年会を開かうといふ、大賛成で待ち受けていると、暮れないうちに、樹明君は魚の包みを、Kさんは罐詰を持つて来庵、それからおもしろおかしく飲んで解散した、めでたやめでたや、善哉々々!年も忘れたが、自分を忘れた、うれしいね、愉快だね」
(昭和11年12月28日)
「Kさんは罐詰を持つて来庵」とあるので、このKさんとは恐らく伊東敬治の事だろう。
友人たちがしばしば缶詰を土産に彼の庵にやって来ているところを見ると缶詰は山頭火の好物であったに違いなかろう。
それが何の缶詰であったかについては昭和10年10月3日の日記にだけ「鮭の罐詰」とある。しかもこの日の缶詰だけは山頭火が買い求めたもの。
このことからして私は山頭火が好きだったのは鮭の罐詰だと思いたい。
食品メーカーマルハニチロのホームページには「さけ缶」についてこうある。
『北洋の漁業開拓以来の「100年超えブランド」であり、日本の缶詰の歩みそのものです。1910年の生産開始からほとんど姿を変えず、原料と製法にこだわり続けてきました』
1910年は明治時代の終わり、山頭火が28歳になる年だ。
当時「さけ缶」は贅沢品であったが、このころ山頭火は現在の山口県防府市で、当時としては特権階級である納税義務を果たしていた種田酒造の経営者だった。さけ缶を口にするのは難しい事ではなかったはずだ。
しかし長男健が生まれたこの1910年(明治43年)から無軌道な酒が始まり、これは彼に一生ついて回る宿痾となっていく。
さて、このさけ缶を山頭火は酒の肴にしたわけだが、何か手を加えたのかどうか?
酒の肴について山頭火はこう言っている。
「酒の下物はちよつとしたものがよい、西洋料理などは、うますぎて酒の味を奪ふ、そして腹にもたれる」
これからすると中身を小皿にうつしたか、あるいは缶詰を開けただけでみんなでつついたのかもしれない。
私はサケ缶に限らず、魚の缶詰を食べる際には、中身を小鍋にあけ、十分に温めてから食べるとずっとうまくなると人から教えてもらい、以後忘れずにそうしている。
この秘伝を山頭火に耳打ちしたかった。