8.亜竜
神獣の領域から離脱し、しばらく進んだ頃。
あたりはだんだんと白み始め、山の向こうが明るくなっているのが分かる。既に日の出の刻である。
隊列は平静を取り戻し、順調に進んでいた。ティンバーとリドはその経験をもって窮地を乗り越えたようだった。この二人でなければ殿は務まらなかっただろう。
ところで、イェルドはふとあのエルフの女のことを思い出していた。
「ティンバー、聞きたいことが」
「どうぞ」
ティンバーは前を向いたまま答える。
「あのナルフィーネという者のことだが――」
「おう、彼女に興味があるのか?」
リドが興味津々といった様子で振り向く。イェルドは顔色一つ変えずに続けた。
「ああ、彼女は随分あの町で信頼されているようだったが何か理由が?」
「なんだ、そういう話かあー」
リドはがっかりして前に向き直る。イェルドは彼が何に落胆したのか分からずティンバーに目をやった。ティンバーは呆れたように言う。
「彼は他人の色恋沙汰に目がないんですよ」
「だって、イェルドは谷で彼女に助けてもらったらしいじゃあないか」
「ああ、だがそれだけだ。俺はそんなことに現を抜かしている暇はない」
「つまんねえやつだなあー」
「それで、彼女に人望がある理由、でしたか」
ティンバーはいい加減話を進めようと、話を元に戻した。リドは興味をなくして再び前を向いた。
「彼女は白紋騎士の中で唯一話が通じる上に、親切だということで有名なんです」
「まるで他の白紋騎士は話が通じないとでも言うかのようだ」
「……白紋騎士はサヴィル王の駒で、奴隷と同じようなものだと聞きます。命令を受ければどれほどにも冷酷になれる。それは彼女も他の白紋騎士と変わりません」
彼なりに思うところがあるのか、少し沈んだ口調である。彼は相変わらず前を向いたままだ。リドは重い空気を振り払うように明るい声で言う。
「それに強いしな!」
「白紋騎士ですからね」
二人は揃って彼女の強さを認めているらしい。
白紋騎士といえばサヴィルの兵の頂点であり、全ての騎士たちの憧れの的であるとも聞く。
「戦ったことがあるのか?」
「あるぜぇー、二人ともな」
「強いですよ、彼女は。私達が束になってかかっても敵わないでしょうね。聞くところによると、白紋騎士団では二番目に強いとか」
白紋騎士のことはよく知らないが、知っているもののほうが少ないと聞く。サヴィルの最高戦力だということは確かだ。
「それは相当だな」
そう言いつつ、イェルドは彼女に対する二人の評価には納得していた。当然だとさえ思った。
彼女と戦うとなれば面倒なことになるだろう。
「彼女は弓使いか?」
「ええ、そうです」
「剣――いや、刀だったか……はティンバーより一、二段上って程度だが、ナルフィーネの弓はとんでもねぇぞー」
(なるほど、恐らくは魔弓使いか)
ティンバーはゆったりとした調子で言う。
「彼女は顔こそ隠していますが、善人であることは明らかです」
道はだんだんと険しく、狭くなっていく。馬車が辛うじて通れる程度の粗悪な道だが、無理もない。道を整えるには莫大な資金が必要なのだ。
「善人、か」
イェルドは一歩一歩を確実に踏みつつ歩いた。先日教わった通り、足元の確認は怠らないようにする。
「新参者の傭兵を手助けしてくれるし、森に迷い込んだ子どもたちを助け出したことだってある。斯く言う私も一度助けられたことがあるんです」
「おっ、その話は聞いたことがねえなあ。詳しく教えてくれよー」
「リドも聞いたことがないとは。是非聞かせてもらいたいものだ」
「わかりましたよ」
ティンバー仕方ないですね、とどこか自慢げになり、ひと呼吸おいて話し始めた。
「あれは、五年ほど前のことでしょうか。私がまだ駆け出しの傭兵だった頃のことです。自慢ではありませんが、私は幼い頃から剣術が得意でした。それで中途半端な腕を過信して森に入ったんです」
「ありがちだな」
「言わないでください! 今になっても恥ずかしいんですから!」
リドは毎度毎度ティンバーには容赦がない。これも二人の仲の良さの現れだろう。
「…………それで、私は運の悪いことに亜竜に出くわしてしまったのです」
「そりゃあ……運が悪すぎだな」
「粗末な鎧は亜竜の爪で傷だらけになり、奴が吐く弱い炎の吐息でも焦げに焦げてしまいました。私が惨めにも地に倒れ、まさにその凶爪が私の頭を引き裂こうとしたその時…………!」
「愛しい彼女が現れたと」
リドがすかさず余計なことを言う。
「そうそう――いや違いますよ! 私は断じて彼女にそのような邪な気持ちを持ってはいません!」
「どうだかなぁ」
「……まあ、とにかくナルフィーネさんが現れて、その刀の一撃をもってまずは亜竜の爪を断ち切りました」
「それで?」
「私が驚いたのは、彼女の刀術の技量です。相手の攻撃を躱したと思えば、次の瞬間には亜竜の鱗に浅くない傷がついている。剣術には真似できない芸当です」
「ふむ。なるほどな」
刀というものを、イェルドも幾度かは目にしたことがある。剣身は剣に比べかなり細く、あれで鎧を断ち切ったり剣と打ち合ったりするのは不可能だろう。
それは亜竜の鱗も然り。おそらく、彼女の技術というのはその身体の動かし方と剣を振る際の力の入れ方。その双方を以てして織り成されるものだろう。
「ともかく、そういうわけで私は彼女に出会ったのです。尊敬の念こそあれ、そのような感情は――」
「おい、また何か来るぞ」
リドは突然緊張に表情を強張らせて言った。隊列はその一声に即座に静止し、皆が警戒態勢に入る。
リドは空の一点を見つめていた。
そして、皆が同時にそのおぞましい咆哮を聞いた。噂をすれば、だ。
「備えろ、亜竜だ!」
リドが叫び、雲間から角度をつけて亜竜が現れる。
竜にしては細い身体。鈍い灰色の体表。鋭い爪。
振りかざす凶爪は、馬車の一つに狙いを定めている。
誰かが矢を射るよりも前に、亜竜はその馬車に到った。木製の横板はばきばきと音を立てながらいとも容易く突き破られる。
中から奴隷たちの喚きが聞こえる。
亜竜が飛び上がったとき、その爪に小さな何かを掴んでいた。
「誰か、弓を! 魔術でもいい!」
「シオ、あいつは……あの奴隷はどうする。巻き込まれるぞ」
「構わん、たとえ――」
「駄目だ」
低い声に強い力を乗せて叫んだのは、イェルドだった。
「では、どうしろと! このままでは隊商全員が危険な目に遭う!」
「イェルド殿、指示に従ってください」
「――それは出来ない」
イェルドはもう一度亜竜の足に囚われた人影を見る。
それは、あの奴隷だった。赤い目に、金の髪。
イェルドは亜竜の爪が小さな少女の肌に食い込むのを見るのも耐えられなかった。彼は自分が異常だと分かっていた。こんなこと、普段なら絶対にしないだろう。
しかし、心のそこから烈しい衝動が襲ってくる。早く彼女を救え、と。
「イェルド、お前何を――」
彼は咄嗟に借りた剣をとり、力を込め、狙いをつけて投げた。腕が唸り、剣が飛ぶ。
剣は極めて精確に亜竜の眉間を貫いた。
「なっ……」
「当たった⁉」
亜竜は苦痛の声を上げると同時に衝撃で少女を取り落とす。
それを見るやいなや、イェルドは崖面に突き出ている木に向かって跳躍した。落下してくる少女を空中で捕まえると、そのまま木に向かって落ち、うまく引っかかった。
「クソ。なぜそうまでして…………っ」
イェルドは悪態をつきつつ咄嗟に身をよじると、牙と牙がかち合う不快な音がイェルドの耳元で聞こえる。亜竜は致命傷を受けながらもこの小さな少女に追いすがってきたのだった。
木々の間から突き出ている亜竜の額から無理矢理剣を引き抜く。
左腕に少女を抱え、右腕に剣を持って、脚で辛うじて木の上での姿勢を保っている。木は細く、枝に立つことができない。今のイェルドは単に運良く引っかかっているだけだ。選択を誤ればすぐに谷底へ真っ逆さまだ。
イェルドはもう一度、渾身の力をもって亜竜の鼻面に剣を突き立てる。そして何倍もの体重をもつ亜竜を自分の方に引き寄せ、腹筋を使って脚を上げ、亜竜の胴の横面を蹴った。
怪力とも呼ぶべきその蹴りによって亜竜はなす術なく落下していく。
それを見届ける暇もなく、イェルドは崖面に飛びついた。亜竜を蹴って飛んだ勢いのまま崖の岩の隙間を狙って剣を叩きつけるように差し込む。
剣はがりがりと音を立てて斜面を削る。少し滑り落ちたところで、剣が斜面の突起にかかって止まった。
「イェルドー! 無事かー!」
「――ああ」
イェルドは短く答え、足場を確認する。脚をしっかりと固定させ、右手に持つ剣を納めた。
次に、胴に巻いてあった縄を緩め、少女の身体を自分の背中に慎重に巻きつけていく。
「……よし」
しっかりと身体を固定すると、一歩一歩確実に、危なげ無く登り始めた。
しばらくして、ようやくもとの山道に戻ることができた。
「案外危なっかしいなーお前。でも嫌いじゃないぜー」
リドは意外にもイェルドの行いを責めるようなことはなかった。しかし、ティンバーは違った。
「イェルド殿。護衛の任務に関してはシオ殿から何か言われるでしょう。しかし、それ以前に問題があります」
イェルドは黙って聞くことにした。非があるのは間違いなく彼である。そして今回の隊商の傭兵長はティンバーだから、注意するのは彼の役目だ。
「あなたが身勝手な判断で隊商とあなた自身を危険に晒したことです。この際あなたが自身の力量を偽っていたことは不問に付すとして、昨日の神獣との戦いもそうですがあなたは自分の身の危険を顧みない節があります」
「それはたしかに、俺もそう思うぜ。イェルド、そんなやり方じゃ、いつか自分の身を滅ぼすことになる」
「まあ、あなたと知り合って数日しか経っていないわけですので。何か私たちの知らない事情もあるのでしょうが」
イェルドは一通り聞き終えると、深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ない。この通りだ。このようなことは二度としない」
「まあ、終わったことをとやかく言わないのが傭兵の取り柄ですから。結果として誰も失わずに済んだ。今はそれでいいでしょう」
「……温情、感謝する」
ティンバーは鎧の下からにこりと笑みを返した。しかし、ティンバーは再び厳しい声音でイェルドに問うた。
「それで、単刀直入に聞きますがなぜその奴隷を助けたのですか?」
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