27.竜の伝承
彼は母の言葉に頷くと、今日あったことをすべて話した。井戸の調査のこと。裏切りのこと。竜のような魔獣のこと。少女を洞窟で見つけたこと。そして、イェルドが最後に見た蛇のような獣について付け加えた。
「そういえば、あの時どうして、その……」
「……ああ。あれは恐らく、呪いに似たものだ。それも、この娘のよりもずっと強い。ああいうモノは人に憑くことがある。だから、意識を保ったままでいるよりはかえって気を失っていたほうがいいということだ。急に殴ったりしてすまなかった。急所は避けたつもりだ。痛むようなら――」
「ううん、それは大丈夫」
「まあひとまず、あの女の子が見つかって良かったわ。イェルドさん、今朝は珍しく血相を変えて飛び出していったから」
「…………そうか」
イェルドは俯き加減ではっきりしない答えを返す。少女はまたあの寝台で寝ているらしい。恐らく、呪いが体力を奪っているのだろう。卓についている四人の表情は重い。
そこで、今度はベケが口を開いた。
「そういえば、竜のようなものを見たと言ったか?」
「うん、あれは確かに竜だった」
「竜がまだこの辺りに存在していたことにも驚いたが……竜がオンディナを殺すことなどあるのか?」
「縄張り争いのようなものだろうか。竜もまた神獣と同程度の格を持っているからな」
イェルドはそう言うが、ベケはまだ納得がいかない様子で首を捻っている。
「竜はオンディナの呪いにやられていたというが、その程度のものなのか? 竜は王にも匹敵する力を持つと聞いたことがあるが……」
「それはものによる」
「それもそうか。しかし、まるでよく知っているかのような口振りだな、イェルド」
ベケは目を細めてイェルドを見た。イェルドは顔色一つ変えずに平然と答える。
「ただの推測だ」
「父さん、竜ってなんなの?」
「ああ……お前は知らないか。なら、少し長くなるが話しておこう。これはあまりにも有名な伝承だが――」
――――その昔、竜と呼ばれる魔獣がいた。彼らは魔獣の中で優れた力を持つ神獣――その中でもさらに抜きん出て強い力を持っていた。
その力は王には及ばないものの、他の多くの神獣を凌駕していた。しかし、彼らは他の神獣がするように縄張りを侵すようなことはほとんど無かった。性格は温厚なものが多く、己の安息を第一としていたため、数は少なかった。
「……そんな竜たちはある時、一頭の竜に連れられてこの世界を出ていった」
竜の身体は、その鱗や牙――どれもが高値で取引された。貴族の間では竜の装飾品を身に着けることが流行っていたのだ。
彼らは争いを望まなかった。だから、新しい世界を作ったのだ。竜のために世界を作った竜は、寿命をほとんど使い果たしてしまった。
最後に彼は、最も親しかった一人の人間の男と約束を結んだ。
ベケは、おとぎ話で最も有名な一節を暗誦してみせた。
「『私たちの世界と君たちの世界。二つの世界を繋ぐ扉を、君に託す。くれぐれも、竜の世界に人を入れないよう守ってくれ』そう言ってその竜は同胞を引き連れ、彼らのためだけの楽園に姿を消したそうだ」
男はその願いを快諾した。男が幼い頃に若く聡明なその竜に窮地を救われて以来、彼ら二人は良き友だった。
人間の知恵と竜の知恵、その二つを組み合わせてできた最高の魔法が竜のための世界だったのだ。
彼は扉の番人となり、今もその扉の鍵を守っているという。
しかし、竜の中にはついて行かないものもいた。彼らは群れを成すことはなく、人里離れた大自然の中に生きて、今も子孫を残しているという。
「あんなのが昔はもっとたくさんいたってことか……すごいな。想像もつかない」
「だが、何れにせよ竜は人とあまり関わりを持たなかった。故にその伝承にも怪しい部分はたくさんある」
「イェルドの言うとおりだ。追われ、狩られるのを厭ったとはいえ世界を創造するなんて突拍子もない…………まあいい。さあフィース、今日はもう寝ろ。明日の朝も早い。そろそろそのでかぶつのための剣にも取り掛からないとな」
フィースは素直に頷くと、少しふらふらした足取りで自分の寝室へと向かう。続いてイェルドも席を立とうとすると、ベケに呼び止められた。
「おい、イェルド。あの娘は大丈夫なのか?」
「今は静かに寝ている」
「そうではない。どうして一人であんな場所に向かったのか……身体も辛いだろうに、正気とは思えない」
「何にせよ、彼女の話を聞けない以上どうしようもないことだ」
ベケは一つため息をつくと、また言う。
「お前もだ、イェルド。どうしてそこまで執着するんだ? 正直に言うと、自分の子でもないのにそこまでして守ろうとする理由がわからない。お前たち二人は……酷く……いや、なんでもない」
イェルドは少し黙って、虚空を見つめた。
「…………俺にも分からない。どうしてこんなに……心が乱されるのか」
「考えても仕方ないのでしょう? なら、考えなくていいの!」
ホアナは明るい声で二人に呼びかけた。息が詰まりそうな部屋の空気が、少し緩んだ気がした。
「ね、あの子に名前をあげたら?」
「名だと? しかし、俺は親ではない…………ずっと連れて行くわけにもいかない」
そう、ずっと連れて行くわけにはいかない。声に出して言うと、何故か少し胸の奥が痛むような気がした。
「でも、大切に思っているんでしょう? なら、名前をあげたっていい」
「だが、そういうのは親が――」
ホアナは諭すように言う。
「親じゃなくたっていい。その子を大事に思っている人が、名前をつけるんだから」
「…………そういうものか」
イェルドは少しの間、黙っていた。黒油の暖かな光がゆらゆら揺れて、夜は更けていく。大人たちもそろそろ寝る頃だ。
「――分かった。少し考えてみよう」
◆
その日の夜のことだった。イェルドは今日も少女が寝る寝台の横の椅子に座ったままなんとなく寝付けずにいた。
「名前、か…………」
今も彼女は、穏やかな寝息を立てて寝ている。彼女にも当然ながら親はいるだろう。名前もあるはずだ。勝手に名前をつけるのはいかがなものだろうか。
不意に、イェルドは微かな物音を聞いた。
耳を澄ますと、静まり返った家の中で床を引っ掻くような音がする。ゆっくりと扉を開けると、そこには黄色い目が二つ、暗闇の中に光っていた。
「……どこから迷い込んだのやら」
それは、洞窟の中にいたはずの白い子熊のような魔獣だった。匂いを辿ってきたのだろうか。
イェルドに見つかったその魔獣は、蛇に睨まれた蛙のごとくぴたりと歩を止めた。
両手を体の前に構えるイェルド。一歩引いて、逃げの体勢をとる魔獣。
先に動いたのは、イェルドだった。ばっと手を出し、魔獣を捕らえようとするが、意外にもその手は空を切った。
後退って逃げるかのように見えた魔獣は、そのまま前に進み、イェルドの股下を潜り抜けて転がるように部屋の中に入ってしまった。思ったより素早い。
「…………おい、すぐにそいつから離れろ」
見ると、白い魔獣は少女の眠る寝台に近づいていくところだった。止める間もなく、それは寝台に飛び乗って薄い布団の中に潜り込んでいく。
「何をするつもりだ!」
「んん……」
イェルドの声か、魔獣が潜り込んだためか、少女は目を開けた。上半身を起こして左手の甲で眠い目を擦っている。
一方、白い獣は少女を襲うわけでもなく、むしろ彼女の後ろに隠れて縮こまっている。
「ぁ……」
少女は白い獣を見ると、辛うじて聞き取れるくらいの、とても小さな掠れた声を発した。
イェルドは気が気でなかった。小さいとはいえ魔獣だ。しかも彼女は弱っているのだ。どんなに無害そうに見えても、魔獣は子どもにとって脅威だ。
しかし、どうやら心配は必要なかった。少女は左手をそっと伸ばし、魔獣の毛に触れた。続いて、震える右手をゆっくり伸ばし、両手で魔獣の背を撫でている。
もう大丈夫だよ、とでも言うかのような穏やかな表情だ。
「そうか、あの時――」
気のせいではなかったようだ。洞窟の中で、岩の間に挟まった少女をあの気の狂った竜から守っていたのだろう。それで、彼女はこの獣を味方だと思っているのかもしれない。
しかし、魔獣を幼い子の傍に置いておくわけにはいかない。
「おい、そいつを渡せ」
素直に渡すだろうと思った。しかし、少女は手を止めて困ったような顔をする。
「聞こえないのか。渡せ」
イェルドは少し強い声で言う。
魔獣は危険なのだ。彼女は知らないかもしれないが、知性を持つ魔獣は騙し討ちのようなこともする。
それまで顔を見ようとしなかった少女が、ゆっくりと顔を上げた。睨むわけでも泣くわけでもなく、ただイェルドの顔を真っ直ぐに見つめる赤い目。
「……仕方ない」
イェルドは少女に近づくと、白い子熊のような魔獣の首根っこを掴んで持ち上げた。子どもとはいえ、牙と爪は鋭い。少女の細い首など容易に噛み千切れるだろう。
イェルドは首を掴んだまま窓に近づき、小さな魔獣を外に放り投げようとして、動きを止めた。
間違いない。確かに足音がする。今度は外からだ。
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来週は本当に投稿できるか怪しいです。できなかったらごめんなさい。




