19.黒い根
いつの間にか、吹雪になっていた。
走り始めてからどれくらいが経っただろうか。
初めは怖くて、このイェルドという男の人の背中にしがみついているので精一杯だったけれど、慣れてくると景色を見ることができるようになった。そのころには街を出た時には遠くに見えていた険しい山々に差し掛かっていた。だんだんと瞼が落ちて眠くなってきて、腰帯を掴む手にも力が入らなくなってきた。馬の揺れはゆりかごのように少女を眠りへと誘っていった。
急に揺れが激しくなって、彼女は目を覚ました。
寒い。とても寒い。氷のつぶてが頬を打ち付けてくる。
少女はたまらず顔をイェルドの背中にうずめた。
「––––––」
イェルドが何か呟いた。すると、何か細い筋が厚い雲のかかる天へと昇ってゆくように見えた。
直後、嵐が強さを増した。雲がぐるぐる回って、これでもかというほどに雪を吐き出している。うねりにうねって風を呼び、嵐はますます激しくなる、
突然、馬がぐらりと大きく揺れて横っ飛びに跳んだ。次の瞬間、イェルドがぐいと身を捩ると同時に、息が詰まったような声にならない声を漏らした。
「––おい、起きているなら……しっかり頭を、隠しておけ」
苦し気な声が聞こえる。言われたとおりに頭をしっかりと頭巾の中に隠し、イェルドの腰帯にしがみつく。手がかじかんで感覚がなくなりそうになる。赤くなっているだろう手に目をやった時、少女は気づいた。
イェルドの脇腹に、深々と矢が突き刺さっている。彼の着物には黒い血が滲んでいた。
にもかかわらず、彼は馬を止めない。むしろ、今までよりも早く走らせているようにすら感じる。
途端に少女は怖くなった。彼が死んでしまったら、自分はどうなるのだろうか。今度こそ鉱山で働く奴隷になってしまうのだろうか。いや、こんなところで死んだら、自分は放り出されて凍え死ぬだけだろう。
不安で、怖くて仕方なかった。けれど、大丈夫なのかと声をかけようにも声が出ない。
ただ彼の背にしがみつき、顔をうずめて体温があることを確かめることしかできなかった。
またしばらくして、今度はやっと馬の歩みを緩めた。嵐もいくらか弱くなった。
イェルドは丁度いい洞穴を見つけ、そこを野営地とすることにしたらしい。少女はもう疲れ切っていた。身体は芯から冷え切っていたし、慣れない乗馬のせいであちこち痛かった。
さっきまで険しい表情だったイェルドは、少女を胸に抱くと少し優しい表情になったように見えた。冷たくなった身体を包み込むように、太い腕が少女を抱える。彼女は意識が朧げになって、夢見心地だった。顔をイェルドの胸にうずめると、温かくて心地よく、それになんだか落ち着くような心臓の音がした。二重にも、三重響くような、優しくて力強い音だ。
「腹は減ったか?」
低い声が頭上から降ってきて、思わずびくりと身体を震わせた。お腹が空いたか、と聞かれたことを一瞬忘れかけたが急いで、けれども小さく頷く。
すると、彼は「食えるか?」と聞きながら小さくて黒い塊を差し出した。
ひとまず口に含んで噛んでみようとするが、硬すぎて全く歯が立たない。咥えて手で引きちぎろうにも硬すぎる。
すると、横からぬっと伸びてきた手がその食べ物らしきものを奪い取ってしまった。どういうつもりなのか分からないが、顔を見るのも怖い少女はそのまま俯いていた。
今度はさっきよりも小さい塊が差し出された。食べやすいように小さくしてくれたのだろうか。
もう一度口に含んで転がしていると、塊が柔らかくなって、なんともいえない美味しさと香ばしさが鼻を突き抜けてくる。噛んでみると、細かくして飲み込むことができた。
もう少し食べたいな、と思わず上を見上げると、イェルドとばっちり目が合った。彼女は慌ててさっと目をそらしたが、ちゃんと次の食べ物の欠片を与えてくれた。
次の日も、二人は早朝から馬に乗って次の街を目指した。
三回、日の出と日没を見た。四度目の日の出のあとしばらくして、遠くのほうに尖塔が見えた。
「ああ、ディリ・ノクサルナだな」
イェルドが呟く。
ディリ・ノクサルナはノクサルナ王国の王都である。山間の台地に建てられた都で、地盤は固く自然の堀ともいうべき深い谷に囲まれている。外敵にはまず攻め込まれることはないだろうと言われている。
少女は空に何か大きなものが飛んでいるのを見つけた。
「ああ、あれは飛行船だな。飛行船が出来てからあの都は一層栄えているだろうな」
イェルドは不機嫌そうに言った。
彼は少し行ったところで谷に降りていくと、しばらくして戻ってきた。戻ってきた彼は、髪が薄灰色になり、顔が少し茶色くなっていた。髪はどうやったのか分からないが、顔は泥を塗ったのだろう。
二人は着ていたものの多くを脱いで粗末な格好を装った。
道を進むにつれ、だんだん人が多くなった。イェルドはわざとよろよろとした足取りで歩き、少女も赤い眼が目立つというので下を向いた。
少女は、だんだんと意識が遠のいていくのを感じていた。
イェルドが誰かと話している。
少女は、目の前がちかちかして頭がくらっとした。慌てて、近くにあったもの––イェルドの着物の裾を掴む。
今度は誰かが、顔を持ち上げて覗き込んでいる。緑色の、きれいな瞳で。
「––––––非常に、よくない」
何か話しているけれど、何も頭に入ってこない。
右腕が痛い。燃えるように、熱くなっていく。あの時と同じだ。あの雨の日と。
黒髪の女の人の後ろに、赤いものが見える。こちらを目掛けて飛んでくる。少女を殺すために、飛んでくる。
魔物が、三羽の鳥が、死ね、いなくなれと叫んでいる。
ああ、頭が痛い。熱い。痛い。熱い。右腕が、熱い。
気持ち悪い。
何かが這い上がってくるようだ。
何か、からだのまんなかにあるたいせつな何かを奪おうと手を伸ばしている。
守らなければ。これだけは、渡してはいけない。抗わなければならない。
イェルドに手を引かれ、門へと走った。目の前で赤い血が飛び散るのを見た。あれは、誰の。
自分の血ではない。自分のせいでもない。勝手にやってきた。殺そうとして。わたしを殺そうとして。
「気分が悪いのか?」
気分が悪いなんてものではない。今にも死にそうなくらいなのだから。
体がぐいと持ち上がり、イェルドの腕に抱かれると身体の力が自然と抜けた。そのおかげでさっきよりは辛くなくなった。
でも、まだ身体が熱い。熱い。必死に抵抗している。侵略に抵抗している。どんどん力が奪われていく。彼女の生命力さえも奪われ始めた。
少女の身体は、呪いに抗うために初めは魔力を使った。それが尽きると今度は命を削り出すのだった。
薄っすらと目を開く。堅牢そうな梁が見える。
腕から肩、胸へと心地よく温かいざらざらしたものが優しく撫でていく。
誰かが身体を撫でている。とても大きな手だ。強張っていた身体から力が抜けていく。いつの間にやらあの途方もなく不安で不快な感覚と痛みは消え去っていた。
少女の右手の指に太くごつごつした指が触れる。それに応えるべく彼女は指を動かそうとするが、なんだか痺れているような感じがしてうまく動かない。
少女の右腕、本当の肌が露わになっていく。
彼女の右腕には、今やびっしりと黒い呪いの根が這っていた。
お読みくださりありがとうございます。
短めですみません。
一応、次の第20部分で投稿を毎週末投稿に切り替えます。弾切れの関係です。あとリアルが忙しいです。
ブックマーク&評価してくださった方、ありがとうございます。本当にモチベになりますし、期待に応えようと思えます。
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